マイmy巷話

マイMy巷話(かんわ)は「私にはそう見える!」ものを儘に書いているだけの話です。

世田谷・森厳寺川を源流から下ってみる(前編)

2024-09-29 | 街歩き・歴史散歩
今回も古地図を頼りに都会のなかで失われた川の痕跡と、そこにまつわる歴史のカケラを探検に出かけてみたいと思います。
ま、いつもながらの見慣れた町のぶらぶら散歩というわけです。。。


そして、今回の目指す川は世田谷の森厳寺川。



かつての村の中心地、下北沢本村に建立された樹齢400年の大銀杏が圧巻の森厳寺は、徳川家康の次男の位牌所として、葵の御紋をつけた大名らがたびたび法事に訪れたほどの格式を持ち、また江戸庶民にとってもお灸と富士講詣でで人気を博した場所だったようです。


そんな由緒正しい寺域へ向かうかのように、下北沢村の最北西の幾つかの谷間に端を発して、最後は本流の北澤川へと流れ出たのが、通称、森厳寺川。。

通称と言ってしまうのは、私も然り、地域の古い人に聞いても、そんな名前の川は知らないし、昔は臭くて浅い、ただのドブ川だったというはなしになるんですよね、、💧

とはいえ、モチベーションを上げつつ、まずはこちらの大正初めの古地図から森厳寺川の源流、支流を辿ってみます。

🔴川の源頭部は世田谷村内の大原と大山谷にかかったT字形の谷あたり

🔴世田谷村内の代田と大原の境にY字形の源頭を持つ、だいだらぼっち川を支流として、森厳寺のすぐ北で合流している

🔴世田谷村内の大山谷を上がった尾根に設置された玉川上水から取水した三田用水の水を取り込み、水車や灌漑に利用していた



本流のまえに、先ずは支流のだいだらぼっち川を戦後まもない地図で見てみます👀

因みに川の左岸に守山公園分譲地と書かれた場所は、大正の末に坂口安吾が森厳寺のとなりに開校した若林小学校の分校(現在代沢小学校)の代用教員になった際に、たびたび子どもらを連れて遊びにきた「原生林」だった場所。
当時は代田も原生林が広がる山あり、谷あり、田んぼありの土地だったんですねー。


一説には代田の地名は、この川を作ったY字形の谷間がダイダラボッチの歩いた足型🐾に似ていることに由来するのだとか。。

そして、ダイダラボッチの足の指先にあたる、川の源頭部がこのあたり(地図①)でして、地図を見ると当時の水路は南に緩く蛇行しながら続いていたようです。


だいだらぼっちの足のつま先をなぞるように通る、古い道の三叉路に、二体の庚申像を見つけました。

どちらの石仏もかなり古いもので、元禄6年の11月の発願と刻まれています。
三叉路で村境、、そして川の源頭。。
たしかに、庚申様を祀るにふさわしい場所だと思いました。


住宅街をだいだらぼっち川の暗渠に沿って南下していくと、新代田駅の東側踏切の線路下を潜る水路が開渠になっていました。(地図②)
しゃがんでみると川の水が今でもわずかに流れているのが、確認できましたっ👏


偶然にも線路近くでお話を伺ったお宅の方が、戦後に工場を営んでいたらしく、昭和三十年代後半はまだ玄関前を川が流れていたため、小さな掛橋を渡って出入りしていたそうでして、今でも、明大前駅あたりの線路に沿った水路は大雨で溢れることがあるとか。。

また線路周りの土地が、かつては大齋田さんのものだったとも教えて頂きました。
代田の古くからの地主で、現在環七沿いに齋田記念館を開館している齋田家を大齋田さんと呼ぶのも、この土地ならではの歴史の深さが、今だに続いていることを深く感じさせられますね。。


お次は森厳寺川を源頭部と三田用水の分水路を辿ってみます。。。🐌



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目黒区大橋の防火用水とハスの花

2024-08-14 | 街歩き・歴史散歩


以前、戦前に作られた、都会に残る防火用水のことを書きましたが、、



先日、通りかかるとそこには黄色い花が咲いていました。

それは蓮の花。
とってもきれいですね。。


戦前、この大橋から三軒茶屋に至るまでの国道沿いの家や商店は、建物疎開と呼ばれる国の強制的な破壊行為ですべて失われているのですが、そんな暗い時代をこの防火用水は立派に生きぬき、そればかりかお盆の時期に花をつけているなんて、ほぼ奇跡じゃないでしょうか。。


きっと誰かが守っているのでしょう。
散歩途中、ちょっと嬉しくなりました。

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世田谷三宿・陸軍用地とその営門及び通用門

2024-07-14 | 街歩き・歴史散歩
都会に越してきて、15年程が過ぎた、、と思う。
しかも、ちょっと歩けば周りはかつては軍都と呼ばれた土地だったりするので、これまでも面白そうな歴史のカケラを偶然に道端で見つけることもしばしばなのです。

で今回は、、👀


三宿の交差点から広がる陸軍用地に焦点を当てて、かつての軍人さんが出入りをしていた門の位置を特定してみることにしました。

実は以前にもこのあたりを以前のブログ→世田谷下馬・裏路地歴史散歩 - マイmy巷話で触れたことがあったのですが、広すぎる土地に三つの連隊と司令部が並びあっているだけあり、やみくもに歩けば歩くほど、はなしの収集がつかなくなったような記憶🌀があるため、今回は潔く、かつ効率よく回ることで納得したいな、、と笑

そんなわけで、戦前作製で戦後まもない昭和22年補修のこの地図に記載されている各連隊の営門や通用門の合計11箇所が果たして今はどんな風景になっているのか❓を確かめに出かけてみたいと思います🐾


まず①番は、野砲重砲兵旅団司令部があった敷地の営門あたりから。。👀

当時、終戦直前の爆撃で、司令部を含めた三宿の国道246号周辺はすっかり焼失したようですが、現在ここはスタイリッシュな賃貸マンションのエントランスになっていたのでした。


②番めは三宿中学校の門。
ここにはかつては近衛野砲兵連隊の通用門がありましたが、時を経ていまは子どもらの学舎の門へと生まれ変わっているようですね。。


続く③番は、現在世田谷区の学校給食の調理場施設の門になっていますが、ここには近衛野砲兵連隊の営門があったようです。

側道へのアプローチがやけに広く取られているのも、実はここが野砲兵連隊の正門だったからなんですね❗️

そして、近くの住民の方から聞いたはなしでは、この先の政府宿舎の場所には、戦後しばらくの時期まで砲台が幾つか放置されたままだったとか。。
今ではなかなか貴重な記憶ですね。


そして、④番め。
三宿通りから三軒茶屋方向へと真っ直ぐに続くこの道路は、駒澤練兵場から一番距離が離れていた野砲第一連隊までを繋ぐショートカット道かと思われます。


曲がりくねった昔からの道が多い池尻、三宿近辺で、意図的に真っ直ぐ続く道には、実はそんな理由があったのですねっ。


そして、⑤番めのこちらには、かつての野戦重砲兵第8連隊の営門がありました。
現在、斜めに削られた敷地の一部が公園になっていますが、その奥の店舗あたりに正門は設置されたようです。

この連隊は、重砲の牽引や兵員移動の全てを馬や人力に頼らず、牽引車や自動車、オートバイを使ったことから、当時は画期的な機動部隊だったとか。。


そして、三宿通りから右折して路地を入ったこちらにも、当時は野戦重砲兵第8連隊の通用門はあったようです。(⑥番)


続く道のカーブには陸軍用地と刻まれた標石が今もふたつ並んでいるのは、ここが野砲第1連隊の通用門だったからのようですね(⑦番)


片方の標石は、ちょうど道路の角にあるため、なんども車に轢かれたのか❓文字がかなり摩耗していて、痛々しげにテープで手当てがされています。


また、野戦重砲兵第8連隊と野砲第1連隊の敷地境界にも、埋もれた標石を見つけました。


続く道路をかつての陸軍用地に沿って西へと回り込めば、野砲第1連隊の営門があった広い交差点が見えてきました。(⑨⑩番)

ここは懐かしい風情の銭湯♨️の建つ、ちょっと不思議な形状の交差点だったりするのですが、やっぱり、そーいう理由があったからなんですね。。納得っ❗️


道端に鉄線がわずかに残るコンクリート支柱が一本だけ残っていますが、これはおそらく境界柵の跡かと思われます。

因みに現在、ここは政府の宿舎。。
実はどうってこともないようなこういう遺物って、割と公共施設や官舎にそのまま放置されていたりするんですよね。。


いよいよ最後の11番目。
商店が並んだ一角に野砲第1連隊の通用門はあったようです。

どうやら、三宿から賑やかな三軒茶屋の商店街までをかつての陸軍用地に沿って、いつのまにか回ってきたようですね。。


こうして、100年近く前にたくさんの軍人さんが出入りしていた4施設、計11箇所の門の跡地を回ってみましたが、さすがに具体的な痕跡はなかったものの、その後に計画された道路の形状や残された境界標石から、納得する場所もあったのは確か。

ひとまず今回はここまで。
お疲れ様でしたー。。。🐌

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目黒・帝国大学農学部の水路を探しにいく

2024-06-09 | 街歩き・歴史散歩
井の頭線池ノ上駅の線路沿いに、今なお残る100年前の帝国大学農学部の境界標石の配置が、2つの水路を挟んだ帝大農場の敷地の形状と深く関係していたことをひとり納得したのが前回の歴史散歩だったのでした🐾
ブログ記事➡︎世田谷・池ノ上駅の帝大境界標石と旧会計監査院官舎 - マイmy巷話


そんなふたつの水路の帝大農場側のほうは、三田用水の分水路と違って、いまではめったに入り込めない場所になっているのです。


というのも、池の上側の帝大標石から井の頭線の線路を越え、木々に囲まれるその場所は、今では国家の第一線で活躍する技術者が集まる東大の研究所になっているからなんですね❗️

そんななか、オープンキャンパス開催のお知らせを、たまたま街の掲示板で知りまして、早速予約をしてみました。



出かけるまえにGoogle地図を見てみます👀

南東側の敷地と建物が、帝大農場の水路があったと思われる場所に沿って、不自然な配置に置かれています。
これはなんだか期待感がもてそうだ。。


それらの建物をキャンパスマップで確認すると、インターナショナルロッジとCOMAハウスあたりでしょうか。。
もし、水路や暗渠があるとすれば、その間あたりになるのかな❓


とにかく、そこを目指して出かけてみましょう🐾


当日はとても晴れた週末になりました☀️
正門を入って、入場チェックを済ませてから、いよいよ探索ははじまりますっ📷


いつもは正門の外からのぞき見ている13号館は昭和初期の航空研究所時代から残る貴重な建築物のようです。

くわしくは省略しますが、戦時中に帝大農学部は本郷に移転をしていて、ここは国の航空技術を研究する場に変わっていたのです。

そして、いまではこの建物がキャンパスのランドマークになるのかな。。


また、15号館も戦災を免れて、長い歴史を背負った昭和初期の建物❗️


おそらく帝大の農場時代から残っているのは、紅葉の頃には我が家から美しく見えている、このメタセコイアの並木だけかもしれません。。


と、めったに入り込めない場所✨に、目をキョロキョロ、足をウロウロさせながらも進んでいきまして、いよいよ敷地外れまで辿り着きました。


左手がお目当てのインターナショナルロッジのようです👀

確かに地図で見たように、フェンスがゆるくカーブをしていますが、ロッジの敷地内の駐輪場や通路に暗渠の跡は見当たりません。

この水路の用途が農場用水路、もしくは周辺への水害対策用に掘られた排水路かもしれないだけに、暗渠にしておく必要もなく、埋めてしまったようですね、、。


COMAハウスから回り込み、キャンパスの最奥部まで来ましたが、やはりここにも水路のあとは見当たりませんでした。。

すぐ先には井の頭線の架線も見えています。
かつての水路は、先程のフェンス沿いから未舗装のこの場所を抜けて、線路向こうの帝大標石のある場所へと続いていたはず❗️
とすると、、まぁるい形をしたこのクスノキが線路向こうからいつも眺めている木々になるのか。。🤔



こうして、帝大農学部の水路が跡形なく失われていたのは、ちょっと残念でしたが、普段はめったに入れない場所で、貴重な建築や木々を見学することができたのは、このあたりをよく散歩するワタシとしては立派なお土産になったようです。

まぁ、100年以上前の小さな水路探しを目的に、国の最先端✨な場所にノコノコ出かけてくるヒトはまず、いないでしょうけどっ笑

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世田谷・池ノ上駅の帝大境界標石と旧会計監査院官舎

2024-06-01 | 街歩き・歴史散歩
貝が不精中💤のため、今回もぶらぶら歩きの途中に道端で見つけた石のはなしをしたいと思います。。。🐌


ここは井の頭線 池ノ上駅から渋谷側へと線路沿いに続く道の曲がり角。。。

この場所には、ずいぶん前から使われなくなった会計監査院の官舎群が未だに残っているのですが、その一角の草むらで気になる石を、またもや見つけてしまいました。


フェンスに挟まれて見えにくいものの、「帝大」とクセのある書体で刻まれている、なかなか立派な花崗岩の境界標石のようです。。👀


おまけにそのすぐ背後にも別の帝大標石が立っていました。

書体は花崗岩の標石と似ていますが、こっちは細長いコンクリート製で、外観はなんだか鉄道と関わりがありそうな雰囲気ですね。


で、他にもないか🕵️❓❓
と、線路沿いの坂道を池ノ上駅側へと辿っていけば、その先にも、コンクリート製の帝大標石がアタマだけ出ていました。


さらに坂を下るともうひとつを発見しました👀

やはり、これらの標石が井の頭線との境界に設置されているのは確かなようですが、こうたくさん並べられると、なんだか帝大ブランドで縄張りを誇示しているかのように見えてきますね。。


ちなみに現在の東大の敷地境界は、線路向こうの、あの森のあたりから。

とすると、、🤔
むかしの帝大の敷地は線路を跨いで、こちら側にも拡がっていたとしか考えられません。


でも調べたくとも、そこは今じゃジャングルのような官舎跡で、立ち入り禁止なんですよね…💧


ひとまず、ここまでを地図に落としてみると、帝大標石とこの官舎跡の土地の境がぴったり当てはまっているのは間違いなさそうです。
おまけに、官舎跡地の形状もそこだけが飛び出たような、なんだか不思議なかたちをしていますね。。

以前に渋谷の住宅地で見つけた古い帝大標石が、かつての帝大農学部の正門跡地と三田用水路の境にあったことをブログ記事➡︎渋谷 帝国大学農学部と境界標石 - マイmy巷話 に書いたことがあるのですが、今回も興味を覚えて、標石と土地のつながりをちょっと調べてみたくなりました。



まずは大正期初めの帝大農学部の敷地図で、この場所を確かめてみることにします👀

当時、まわりは広い畑のようですが、旧官舎の敷地部分はこの頃から不自然に突出していることがわかりました。
つまり、この形状が発生したのは、それ以前からのようですね。


続けて大正5年の古地図を見て、やっとヒントを見つけました💡

どうやら、ここは、ふたつの水路の出合いらしく、三角橋から北澤川まで引かれた三田用水の分水路と、帝国大学農学部の農場からの水路に挟まれた三角地帯のようです。

ちなみに三田用水とは玉川用水の分水路で、そこから更に遠くの地域の灌漑用途に造られたのが、この分水路。
おそらく江戸時代から使われていたのではないでしょうか。。

また、もう一方の帝大農場からの水路は、山手台地上に広がる農場の斜面を低地へと流していることから、なにか人為的な感じがします。
当時、南東側に下がった場所に練兵場があったことから、水害対策で明治期以降に造られた排水溝なのかもしれません。

で、、そんなこんなのいきさつから、帝大がこの尖った土地を管理を兼ねて所有するなりゆきになったんじゃないか、、と思い至ったわけなのです💡


そんなことを踏まえて、標石が並んだ線路を再度眺めると、、👀
お馴染みの駅前のきつい坂道は、三田用水の分水路(暗渠)を基点にV字に伸びた谷に見えてきました❗️

春には線路沿いを菜の花が咲く、そこそこに有名なこの駅の高い築堤は、じつは、この谷を埋めるために造られたものだったんですね。。


最後に戦後間もない昭和21年の地図でおさらいをしてみると、、👀
確かに井の頭線は、標石の部分で帝大農場の尖った土地を分断しているかのような配線なんですね❗️

ただし、井の頭線が開通した昭和8年にはすでに帝大農学部は本郷に移転計画が進行していたため、終戦間際は農場だけが残っていたようです。

ちなみに新しい本郷のキャンパスは昭和20年に戦災で全焼して、その4年が過ぎて新制の東京大学が発足したらしいので、鉄道開通で設置をされた帝大時代の境界標石の役割は、実はほんのわずかな期間のみだったんですね。。


ついでに線路向こうの駒場側にも回って、三田用水分水路(暗渠)沿いを続く、東大の境界を歩いてみたところ、境界標と刻まれた、長細い石の柱が六基並んでいました。


石の質から戦後のもののようですが、集中して立っているのは、もしかすると戦後のどさくさに、勝手に入って、畑にするヒトがいたのかもしれませんねっ。


こうして、今回も、100年近くを置き去りにされた道端の石と謎のかたちの土地のつながりには、やっぱり水路が絡んでいたことをひとり結論づけて、仕事から帰途についたわけなのです笑

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世田谷・世田谷代田の戦災痕を辿ってみる (後編)

2024-05-05 | 街歩き・歴史散歩


世田谷代田駅周辺の戦災焼失区域を朱色で表した昭和20年の地図を見ています。

前回は、世田谷代田駅から南斜面に位置する円乗院や住宅地の戦災痕を取り上げてみましたが、今回は駅の北側部分で朱色が広がる箇所に焦点を当てて、終戦間際に壊滅的な被害に遭った井の頭線を復旧させるべく新設した幻の線路跡を探してみたいと思います🐾

しかし、不思議ですよね。。🤔
今でも都会の喧騒から上手に外れている代田の丘の小さな住宅地や駅周辺に、当時何故たくさんの爆弾が落とされたのでしょうか。
しかも、すぐ隣には、二つの私鉄が交差する下北沢駅があるのに、地図の朱色範囲を見る限りは被害がずいぶんと少なく見える。。
当時、代田の町には標的となるような人物、もしくは対象物があったのでしょうか❓❓


さて。こちらは世田谷代田駅に新しく併設された舗道です👀

駅前の案内板の説明を読むと、舗道の明るいレンガタイルのデザインは、戦災で失われた井の頭線車両を補給するために、この駅から新代田駅までを突貫工事で繋いだ臨時線路をイメージしているそうです。
実際、連絡線はこの柵の向こう側に敷設されたようですが、実は世田谷代田駅って、小田急線のなかで唯一戦災に遭っている駅舎なんだとか。。

しかし、当時は同じ小田急系列だった井の頭線の方が、被害がより深刻だったようでして、昭和20年5月末の大空襲でほとんどの車両が壊滅的な被害を受けたために、急遽に他社から戦災応急復旧車を導入せざるを得なくなり、連絡線の必要が生じたわけなんですね。

そんな史実を、このタイルのデザインは伝えていたなんて、しょっちゅう、ここを歩くが知りませんでした💧


お次の写真は世田谷代田駅裏手の住宅地から。。。🚃

かつての連絡線跡は、現在更地になっているこのあたりを抜けていたようですが、さすがに当時の面影は皆無ですね。

どうやら、連絡線は焼失した個人の敷地内に造られたようですが、戦後しばらく経った昭和28年に元の住民らから土地返還の訴えが起こり、いよいよ廃線になったのだとか。。

つまり、この路線は戦時下の強制発動で人の土地に敷設されていたために、戦後、再び平和とともに土地を取り戻した人々らがそこに新たな暮らしを築きあげれば、必然的にその痕跡すべてが埋没してしまうわけですよね。。

これでは、痕跡など見つからないわけだっ💧


と、そんななか👀
土が剥き出しの或るお宅の奥に面白そうなものを捉えました。
これはガンタ積みの壁のようですね。。


かつての線路はここを通っていた可能性が高いため、このガレキは戦災痕、、もしかすると1ヶ月で完成したといわれている突貫工事ならではの線路敷設の道床に混じっていたものかもしれませんね❗️

注)たまたま大家さんからお話を聞くことができたのですが、ここは土の中にもこうした石が埋まってるよ、、とのことでした。写真は許可を得て撮っています。


その先。見えない線路はこの敷地の壁のすぐ内側を真っ直ぐに続いていたようだぞ🚃


井の頭線の新代田駅近くなると、線路は道に沿ったカタチにゆるくカーブしながら続きます。


向こうに井の頭線の電車が見えてきましたが、おそらくこのあたりから連絡線は井の頭線と合流していたようです。

それは、外壁が斜めにプランニングされたアパートの敷地に沿って、少し土地が盛られている奥の建物側を連絡線が走っていた、、と想定するとわかりやすいですね❗️


こうして、80年前にこの連絡路線を使って、戦災で応急処置された車両や他社からの応援車両が、当時瀕死の状態だった井の頭線へとどんどん送り込まれていったわけですねっ。

ところで、、この駅が周りよりも低く見えるのは、ここが谷間だったからだと、今回地図を見て気づきました👀

戦災焼失図ではこの駅舎あたりは朱色、、ということは、世田谷代田駅同様に、ここも戦火に遭っているようなので、谷間の駅ではかなりの火の勢いだったかもしれませんね。


そう気づくと、、👀
駅ホームに今も残されている安山岩らしき石垣がやけに赤いのは、そんな時代の死線をかいくぐった証だったりするのかな、、と最後はふと思ってしまったのでした。


因みに当時の両駅名は、世田谷代田が世田谷中原駅で、新代田は代田二丁目駅だったことを加えておきます。


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世田谷・世田谷代田の戦災痕を辿ってみる (前編)

2024-05-03 | 街歩き・歴史散歩
実はウチの敷地も80年近く前の戦争の最中に焼けた、、らしい。

どうやら、近くに陸軍施設があったために巻き添えを食ったらしいのですが、戦争もいよいよ終盤を迎えると、そういった理由あっての爆撃のような名分も薄れてきて、無差別、、つまり結果が個の気まぐれのようなカタチをとることもあったようです。。



というのも、最近仕事でたびたび歩く機会のある、世田谷代田の台地の下に建つこちらのお寺にたまたま立ち寄ったときのこと。

本堂手前の黒い立木がなんだか異様だな、、と近寄ってみると、終戦の年に当たる5月末の山の手を中心とした大空襲で被災した高野槙の大木が炭化した姿だと分かりました。

当時、このあたりは静かで慎ましい住宅地のはずが、何故狙われたのでしょうか。。



そんな不運な木を見ているうちに、改めて、戦争を知るのは、ものがたりばかりでなく、こうしたものいわぬ遺物をみる方がやけに説得力があったりするんだな、、🤔と思い始めたのです。

で、この近くにはまだまだ探せば、何かあるんじゃないか❓と。。


早速、この高野槙の残る円乗寺の東側の門を出て、見回してみると、いかにも昭和の造りらしきコンクリートの外壁を見つけました👀

見れば見るほど隣のお寺の黒焦げの高野槙とともに、激しい戦火をくぐりぬけた風情が漂っていますよね。。


近寄ってみると、足元には炭化した木が残っていますが、もしやこれは電柱の焼け跡でしょうか。。
おまけに背後のコンクリート壁にも、この木の跡が生々しく残されていますよね‼️


これに気をよくして、その後も時間の許す限り、辺りを見て周ってみたところ、同空襲で焼失した萩原朔太郎旧宅の近くで、唯一、黒ずんで破損したコンクリート壁に気づいたくらいしか見当たりませんでした。

にしても、戦争の痕らしきものが、今なお住宅街に残っているのは、やはり、世田谷代田駅周辺が、山の手の開発から逸れた穴場の場所だからかもしれませんね。

というわけで、古地図片手にもうちょっと探してみようと思います。。

次回に続く。。。

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世田谷・池尻偕行社住宅と陸軍境界標石

2024-04-06 | 街歩き・歴史散歩
戦前、三宿、池尻、そして目黒区大橋あたりが軍都と呼ばれていた頃から町の片隅に残された遺物を今回もご紹介したいと思います。


地元の図書館で借りた昭和22年の池尻周辺の古地図を眺めていると、旧騎兵第一大隊の西側斜面に張り付くような三列並んだ建物群に、すり減ったインクで偕行社住宅と書かれているのを偶然見つけました👀

同じく将校クラスが住んだ駒場の偕行社住宅には、2.26事件に因んだ松見坂の日蓮像のエピソードとあわせた歴史散策で、以前に出かけたことがありました。


改めて、戦後2年が過ぎて発行されたこの地図からは、周囲の軍施設の記載一切が消えてしまっても、池尻の偕行社住宅の名称が残っているのは、未だ軍人関係者が住んでいたからでしょうか。。。



そんなわけで、池尻偕行社住宅のあった場所に着きました🐾

騎兵第一大隊のあった方向に道はやや急勾配に上がっています。
細い路地は当時のままのようですね。


池尻偕行社住宅は、駒場と比べると、ずいぶん小規模だったようでして、すぐに行き止まりになりました。

見上げたマンションのあたりが騎兵第一大隊のあった高台(騎兵山)になりますが、この擁壁に沿って、陸軍用地の境界は設けられていたようです。

そんな視界の左端の消火器横に気になるモノを発見しましたっ👀


傾いて立ってますが、これはたしかに石ですよね。。


しかも、陸軍の境界標石ですね‼️


確かにアタマに点もついてますっ。
こんな路地奥の、しかも電柱陰で隠れん坊してるかのように、立ってる姿になんだか笑っちゃいましたっ。


地図で見ると標石はちょうどこの位置になるようです。
改めて、騎兵第一大隊と偕行社住宅の境界に建っていることがわかりますね❗️



そんな標石の横から奥へと階段が伸びています。
なんだか立ち寄る人も疎らな雰囲気が、見るから伝わってきますが、かつての軍用地の境界でもあるわけだし、立ち入り禁止でもなさそうなので、上がってみることにしました。


突き当たりからトリとシカがこっちを見てますが、残念ですがワタシはキミらとは遊びませんからねっー💧

長い時を経て、現在ここは小さな児童公園になっているようです。


、、と、なんだか新旧含めた孤独なものらの寄せ集めを、この池尻偕行社住宅跡地で見ることができまして、今回も近場でなかなか充実した小発見❗️がありましたね。

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世田谷・駒沢練兵場の排水溝を辿ってみる

2024-03-25 | 街歩き・歴史散歩

先日は、池尻稲荷神社脇の旧陸軍駒沢練兵場の排水溝跡を覗くつもりが、たまたま見つけた鳥居脇の不思議な水準点標石→別記事のほうに食指が動いてしまったため、今回は仕切り直してみることに。
なので、マイマイ🐌はまたまたお休み。すみません。


こちらは大正初期の古地図👀

広大な駒沢練兵場では、大陸への侵略を想定して馬や牽引車に引かせて斜面を駆け上がる厳しい訓練を連日行っていたそうですが、その敷地の水はけの悪さを改善するために造られたのが、今回の排水溝なんですね。

で、排水溝のあった箇所を地図で見るとたしかに土塁記号が練兵場から神社横手まではっきりと描かれています。

また、等高線に注目すると土塁記号のあたりはゆるい谷間になっていて、目黒川まで凹型地形が続いているようです。

つまり、川が源頭から下流へと流れるように、自然の地形を利用して作られた排水溝から、練兵場の窪地に集まった雨水を流していたというわけですね❗️

池尻稲荷神社の湧水が「枯れずの井戸」と呼ばれたのも納得です。。

ただし、大正時代の流路は、練兵場から現在の国道246号を超えると、一面が田んぼのなか(現在の目黒区大橋あたり)に続いているため、灌漑用水として利用されていたのかもしれません。


時代は下がって、昭和2年の地図👀

戦時下の地図改描で軍事施設表記が地図からどんどん消されていくなか、排水溝はやけにはっきりと描かれていますねー❗️


別の地図で見てみると、国道から北側部分は田んぼや畑は失われて、建物が密集しています。

排水溝は目黒川南側の工場敷地に沿った箇所のみが青く描かれているようです。

そこに上の地図を描き出せば、練兵場の土塁から目黒川までを辿っていけそうですね❗️


🐾

🐾


まずははじまりから。
旧練兵場内の土嚢記号の突端あたりに来てみました。

周囲がやけに広くなっていますが、かつてはここに集まった水を目黒川へと溝を通して流していたわけですね。。


周りを見ると集水枡がいくつも並んでいるので、この地下は今も水のトンネル銀座かと思われます。


で、そこから土塁記号に沿って、裏路地の暗渠を歩いていきます。
100年前のここは、多くの若い兵隊さんらの使役で掘らせたのでしょうか。。


路地を抜ければまもなく池尻稲荷神社。


そして神社脇の暗渠にまで、やって来ました。

今までよりも水路の側壁が上がって、造りも立派になっていますが、ここはむかし大雨が降ると怖いくらいの濁流が練兵場から押し寄せてきて、国道の向こうまで溢れかえったそうですよ💦


排水路には、コンクリート橋もしっかり架かっていたようですね👀

察するに、、なんだかんだと治水工事にかかった金額は、神社の氏子ばかりか練兵場にもしっかり負担してもらったんじゃないかな🤔

そんな暗渠に沿った銀杏は、傍らの石碑によれば、昭和3年に在郷軍人の手で植えたものだとか。

出征祈願に武運長久、、数えきれない人らが一心に願い、その手をあわせた思い出ばなしがここにはあるんでしょうね。。


はなしは戻って、排水溝の暗渠は国道側の鳥居手前で大きく右へとカーブして、隣接するマンションの敷地へと抜けているようです。


ちょうどこの裏が神社の枯れずの井戸になりますが、ここから見下ろす暗渠は、井戸からの排水口と古びたコンクリート蓋がアクセントになり、なかなか良い雰囲気だったりします。


その先、暗渠は神社横のこちらの建物の外側通路になっているようです。

厚いコンクリートの蓋上には、古い石積みが残されていました。


246号の池尻交差点を渡って、神社を振り返ってみます👀

排水溝は神社脇からとなりの古畑病院経由で国道下を抜けて、目黒側へと続いているようです。


国道を渡った先を斜めに入った路傍で、僅かに水路の側壁らしきものを見つけることができました👀
当時、この横には世田谷警察署があったようですね。


いまでは狭い路地を住宅が所狭しと並んでいますが、この崩れた石のかたまりも側壁の跡でしょうか。。


昭和初年の地図を参照に、この二又では左をしっかり選びます❗️


世田谷の裏路地であるあるですが、この不自然な道の曲がり具合に水路の名残が感じられます。

ちょっと注目したいのは、、下水道のマンホールに合わせて、気を利かせた縁石のカーブが、いじらしく見えますが、それでも蓋開かないような気がするのはワタシだけかな笑


暗渠の路地裏から、いよいよ地図にも描かれていた工場敷地に沿った一直線の水路跡を辿れば、目黒川はもうまもなく❗️


そして、無事に目黒川緑道に合流しました❗️


こうして、古地図を参照に100年前に造られた駒沢練兵場の排水溝は、今でも足下の見えない場所に存在していることがわかりました。

また、標高のある練兵場からうまく地形を利用しながら、目黒川までを排水溝は最短距離で造られていたことも判明したし。。💡

どんなに些細なものでも、歴史の遺構があるかぎり、そこに理由のないものなんて絶対ありえないっ❗️ということをまたもや再認識した、スーパーへの買い物ついでのちょっとした旅路でした笑

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世田谷・池尻稲荷神社の謎の水準点標石

2024-03-03 | 街歩き・歴史散歩
今回も都会の裏路地でふと見つけた不思議な石のはなしをしたいと思います。
再び、マイマイ🐌ネタはお休み。すみません。。


こちらは、渋谷から続いた国道246号沿いに鎮座する池尻稲荷神社👀

ここ、目の前の大きな国道とその上を走る首都高速の喧しさと威圧感からか?、日頃からついつい足早に通り過ぎてしまいがちだったのですが、、



先日、前を通りかかった際、この裏手に戦前あった駒沢練兵場の排水路が、今も神社脇に暗渠として残ることを思い出しまして、鳥居の横から経路に入った矢先、標石らしきものを見つけたのです。


大きな記念碑の裏側に横たわっている石は、1m近くはありそうな立派な花崗岩で出来ています。
おまけによく見れば、BM No-12とも刻まれていますね👀


一旦神社の敷地に入って、見えにくい記念碑の隙間から標石の表側を観察してみると、家紋らしき彫刻が入り、おまけに石のあたまには丸い出っ張りもありますね。。これは⁉️


ますます興味が沸いてきたので、境内をざっと眺めてみると、すぐにこの家紋らしきものは、神社の社紋だとわかりました。


BMの刻み文字。。
上部には球分体。。
そして、国道沿いの神社に社紋入りの立派な花崗岩の標石。。

このヒントから、これは昔の、おそらく戦前に作られた水準点標石じゃないか⁉️と思い始めました。

水準点とは明治維新後に海外から導入された技術を用いて、国土の高さを測るために各地に設置された基準点のことでして、当初は標石ではなく、内務省の管理下で国道沿いの既存の不朽物に几号を彫ったものを基準にしたそうです。例えば、神社の鳥居や石造りの構造物などなど。。いま見つけたらマニアなら堪らないレアものでしょうね。

その後、国土の測量は陸軍下の陸地測量部に移り、戦後は国土地理院へと続いているんですねー。
つまり、戦前の日本国土のデータは軍が全てを掌握していたってわけか。。🤔


そんな現在の国土地理院の地図を見ると、神社に水準点の記載はなく、一番近くの水準点は、神社から500メートルは先。
もしかして、以前はここに水準点が設置されていたものの、なんらかの事情で移されて、廃点になったのでしょうか❓❓

結局、地理院の測量担当の方に伺ってみたところ、池尻稲荷神社に該当する水準点の資料は見つかりませんという返事をいただきました。
やはり、水準点ではないようです。。


ではどうしてこんな立派な神社の社紋入りの水準点標石もしくは、似たものがつくられて、またその後、記念碑裏に隠されてしまったのでしょうか。。❓

もしかして、この記念碑になにかヒントはないか🤔❓と裏面をなんとか読んでみたところ、鎮座300年祝賀事業として、昭和38年9月に神社を改修、造営した際の記念碑だとまでは、わかりましたが、水準点のことはさっぱり分からず💧💧

最後は、神社の方に伺ってみることにしたのですが、やはり当時を知る氏子の方々は皆いなくなってしまったため、何故作られたかはわからないそうです。
それでも、唯一わかっているのは、昭和38年に、翌年のオリンピック開催に向けた高速道路建設のための国道拡幅工事で神社の敷地が今の場所までセットバックされた際に、あの石も移されて、いまのように記念碑裏手に置かれてしまったのだとか。。


いやー謎ですよね。
謎ではあるが、この土地がかつては駒沢練兵場をはじめ陸軍施設が集まる、軍人が住む町だったこと、その町の鎮守が池尻稲荷神社だったこと、そして、土地の測量を管理、設置したのが陸軍の管轄部署だったという因子から、ある日あるとき、あの標石がひょこりと誕生したのかもしれません。

それが、戦後の東京オリンピックを期に誰もが夢中になった新しい街づくりの陰で、ひっそりと失われて、また忘れ去られてしまったたくさんの旧いモノらの仲間入りを図らずもしてしまった、、、

最後はそんなプロットがふとアタマを過ぎってしまいましたが、まぁ今回も見慣れた町でふと見つけた石から、楽しい妄想を膨らませてしまいました笑

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