マイmy巷話

マイMy巷話(かんわ)は「私にはそう見える!」ものを儘に書いているだけの話です。

鶴見川源流の谷戸を歩いてみる(後編)

2024-11-26 | 街歩き・歴史散歩
前回に続き、鶴見川源流を求めて、谷戸の森を彷徨っています。。。🐌



野中谷戸の径路(地図①〜④)を、南多摩尾根幹線道路の唐木田配水所がある鶴見川流域最高点まで登ってきたのが前回のはなし。。

そして、今回は展望台のある給水塔から、森へと再び降りて、田中谷戸周辺の源流探しに向かってみたいと思います。


因みにこちらは150年ほど前の江戸から明治へと移った頃の周辺地図ですが、上の地理院地図と比べてみても、今回歩いた2つの谷戸群周辺の等高線だけが、ほとんど変わっていないのは、びっくりですよね。。

それだけで、この鶴見川源流の森を守り続ける方々のチカラの強さが窺えるような気がしました。



給水塔から急な斜面を降りて、再び谷戸を目指します。



ここは源流の森の奥の奥。。
クヌギもかなりの貫禄があります。

頭上からはキレイな野鳥の声が聞こえていますが、モノマネ上手なガビチョウでしょうっ。



少し登り返して、平坦な場所に出ました。(地図⑤)

どうやら2つの谷戸群に挟まれた尾根に乗ったようです。
またここは鶴見川源流の分水界にも当たる場所。
歩きやすさからも、ずっと昔からの里道だったりするのかもしれません。



しばらく、下草に覆われた作業道を行くと、暗い植林の森の先には再び案内板が見えてきました。(地図⑥)


ここが田中谷戸。。。
なんだか先程の野中谷戸とは様相、、いや林相がずいぶん違うようですが、この谷戸から奥へは草木に阻まれているため、谷を詰めることは無理なようです。


周囲は、じめじめとした湿地帯ですが、下手に踏み込む気にはなれないような雰囲気がここにはあります。



ついつい足早に下りてきてしまいましたが💧、その先の畑のある場所から、田中谷戸を振り返ってみました(地図⑦)



山から里におりてきました。(地図⑧)


麓の道路脇の鶴見川源流の泉(地図⑨)とその広場を通りかかります👀

親切な説明板も、年月のせいで判読がしにくくなっていますが、どうやら、この池は谷戸から流れ落ちて溜まったものでも、まったくの天然の湧き水でもなさそうな気がしました。

ま、都会の暗渠もそうだが、この川も見た目よりは、なんだかいろいろな事情がありそうです。。



せっかくなので、泉の広場の脇道を上がった谷戸のなかの小さな池まで足を伸ばしてみました。
この溜池は畑で利用しているようですね(地図⑩)



小さな谷戸の径路で見つけた「道水界」標石。

こーいう標石は初めて見ましたが、ちょうどこの先で、先程歩いた分水界尾根にぶつかることから、ここが人里の道と山からの水との結界だと伝えているようですね❗️



今日は源流を探して、あの峰々をがっつり歩きました。。。

もし源流を探しながらのひとり歩きをするならば、地理院地図かGPSで地形を読みながらあるく方が、何かと良いかもしれません。参考までに。



帰りは小山田バス停から町田駅行きのバスを利用。

「小山田」には以前から一度は来て見てみたいと思っていましたが、すれ違うヒトも全く皆無な野路山路の侘び具合には、ホント想像以上に驚かされた鶴見川源流歩きになりました。

帰りのバスの本数もかなり少なく、所要時間も町田駅まで30分はかかりますので、冬場のひとり歩きはお気をつけ下さいね。

しかしここは東京都町田市ですよ、、、すごいっ❗️



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鶴見川源流の谷戸を歩いてみる(前編)

2024-11-24 | 街歩き・歴史散歩
きっかけは、以前山歩きの大先輩と町田市の大泉寺周辺の谷戸を回った道すがら、このずっと先に鶴見川の源流がありますよ、、と話していたのを先日ふと思い出したから。

近頃は都会の暗渠での源流探しが続いていたし、、町田の森ならサルはいるかもだけど、クマは流石にいないだろうし。。🤔

というわけで、今回は少し足を伸ばしたフィールドワークに出てみることにしたのです。



まずは、鶴見川源流周辺の地理院地図でコースを確認👀

場所は東京都町田市上小山田町に当たるようですが、なんだか蜘蛛の巣🕸️のように入り組んだ等高線をみるだけで、ちょっと心配になってきますよね💧

で、改めて今回の源流域を大雑把に捉えると、楓🍁のカタチのような複雑な等高線を持った2つの谷を端にして、その間にはこれまた複雑な線状の尾根が分水界の役割を果たしているように見えます。

そこで便宜上、この入り組んだ谷戸が集まる2つの谷を、野中谷戸群と田中谷戸群と呼ぶことにして、まずは野中谷戸から入り、源流を探してみたいと思います。



スタートまでのアクセスは、京王堀之内駅から見附橋循環バスに乗り、別所小学校を下車。
しばらくは多摩のニュータウンらしい、誰もいない💧立派な都道155号線を下っていきます。



そして、10分ほど歩いた都道155号線がこれ👆


ツッコミどころ満載のこの道路に敢えて心を無にして笑、小さな案内標に従って、まずは多摩丘陵の尾根沿いの散策路(よこやまの道)へと入って、これから目指す谷戸を上から眺めてみることにします。



どうやら、この先に谷戸を見下ろすビューポイントがあるらしい。。(地図①)



ここが鶴見川源流に広がる谷戸の森。。

人影どころか音もない、深い緑のなか、これから無事に辿れるのでしょうか❓



再び都道に戻ります



楽しい❗️都道の景色を満喫した先に、いかにも谷戸らしい「この先行き止まり」の看板が右手に見えてきました。

ここで都道とお別れすれば、いよいよ鶴見川源流探しの始まりになりますっ🐾(地図 START 



径路沿いのお宅の庭先に佇む、大きな道祖神が谷戸の景色にとても似合っていますね❗️

どうやら、都道155号線は遥か昔からの往還の上に作られていて、このあたりの集落もすでに江戸時代にはあったようです。



この野中谷戸がとっても明るく広く見えるのは、日々、人の手が入っているからでしょう。。


径路沿いを流れる清水の行く先は、40キロ彼方の東京湾。。。🛳️



実は谷戸って、こんな風にじめじめとした沼地そのもの。
そこに人の手が入ってはじめて、小川や沼が出来て、田んぼや畑のある風景になるのです。

だから、谷戸は人が手を差し伸べないとただの荒地へといつでも還ってしまうんですねー。



使われていないトイレを分岐に、ここでは左折。(地図②)

ちなみにまっすぐに町田市の回遊路の標識に沿って進むと、先程のよこやまの道の尾根へと続いているようです。



谷戸の径路はちゃんとある👀



小さな流れに合わせた小さな橋もありました❗️



水生植物や生き物の観察も暖かくなったら楽しめそうですね。。


頭上に聳える木はどうやらクヌギのようです。

径路を少し外れた場所には、地元の小学生らが植えたクヌギの苗木もありましたが、クヌギってホントにデリケートな木なので、ちょっとした山でも最近は枯れ木が目立つ。
だから、山の健康を測るバロメーターだったりするんですよね。



これはホウノキの実、、かな❓
ホウノキは陽の当たる谷沿いの山で見かけますが、標高の低い谷戸でも高い木はしっかり育つんですねっ。


たまに出てくる標識 (地図③)は経験からあまりあてにしないほうが良かったりも、、❓


んなこと言ってるそばから、標識にあった唐木田の給水塔まで、どうやら尾根を上り詰めてしまったようです💧



せっかくなので、よこやまの道の展望台(地図④)から、野中谷戸を見下ろして小休止をすることに。。🍵



すぐ先の山王塚の説明標柱では、この場所が鶴見川流域最高度168m三角点だということを知りました。

ここが川の源頭だということならば、ルートミスもあながち間違いではなかったようです。



お次は、源頭を下った先の分水界を越えて、お隣の田中谷戸へと鶴見川の源流探しは続きます。。。🐌


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世田谷・森巌寺川を源流から下ってみる(後編)

2024-10-01 | 街歩き・歴史散歩
引き続き、都会のなかで失われた川のあとを古地図を見ながらのご近所散歩🐾

失われた、、とはいえ、その流路は現在は下水道として生まれ変わり、わたしらの生活に欠かせない存在としてあり続けるわけですから、決して終わったわけではないんですよね。。


森巌寺川の本流を明治から大正にかけての古地図で、改めて確認しましょう👀

当時、この川の源頭部にあたる、下北沢北側の村はずれは大山谷といかにも水が湧きそうな字名がついて、T字の谷になっているようです。


そんなT字谷の片側(地図①)周辺のすっかり整地をされた住宅街の玉砂利のなかに、四角い石が幾つか並んで顔を出しているのを見つけました。
これは水路の柵跡かな❓


もう一方の谷には、いかにも等高線に沿って整備された、さんかく公園が作られています。
ちなみにここの水路は赤い看板の矢印とは逆方向に向かっていたようです。


2箇所の源頭部からの流れは、いまは暗渠に姿を変えて、現在の北沢中学校の校庭を通って、井の頭通りを渡った先の旧池ノ上小学校に沿った経路から(地図②)、下北沢駅方向へと続いていくのです。。


さて、お次は京王線笹塚駅南側に残る、玉川上水の取水口から供給された三田用水が、森巌寺川の分水口までどのように続いていたのか❓を見ていきたいと思います👀

ブログでも何度か取り上げている三田用水ですが、この取水口から高輪台に至るまでを幾つかの分水口が設けられていて、流域の灌漑、動力水車、工業用に利用されたそうです。

そして、森巌寺川への分水口は、実は玉川上水取水口から数えて一番最初。。
つまり、供給源から真っ先に安定した水量を確保できるわけですが、もしかすると、下北沢本村の森巌寺が徳川家ゆかりのお寺だったことと関係があるのかもしれませんね❗️


現在の三田用水は、森巌寺川と同様に、道路下を下水道として利用している箇所もあるようですが、ほとんどが民有地となり、今ではわからなくなっています。

敢えて目を凝らしてみるなら、裏路地に入って、かつては古い民家の合間を流れていた水路をイメージしてみるのも、面白いかもしれません。

下北沢駅からずいぶん離れた、この北沢5丁目の商店街には、昭和の懐かしい雰囲気がまだまだ残っているようでした。。


商店街の交差点には下水道マークのついた標石が幾つか埋まっていますが、ここは三田用水に架けられた橋のあとですね。


埋もれた三田用水路を追いかけて、井の頭通りまで出てきましたが、山谷橋のあったこのあたりが、森巌寺川への分水口(地図③ 三田用水 山下分水)。

井の頭通りはかつて水道道路と呼ばれていただけあり、なんだか土手のような風情が漂っていますが、道路脇のヤブのなかに、うっかり見落としがちな接道が下へと続いているのを見つけました。
おそらくここから森厳寺川への分水路は続いているのでしょう。入ってみます。


案の定、階段を降りただけで、5箇所もヤブ蚊の餌食になりました…💧

草のなかにマンホールが幾つか顔を出しているので、この下は下水道のようですね。

因みに昭和のはじめ、ここには釣堀池があったようですが、三田用水も時代が下がると庶民のレジャーとして使われていたようですな。。


細く続いた暗渠の経路がいったん途切れるあたり(地図④)に来ましたが、このあたりに明治の頃は、三田用水を利用した水車が回っていたようですが、農業用に使われたものかと思われます。


近くの庭先には、護岸、もしくは小屋基礎で使われたような大谷石が幾つか積まれています。
これも水車小屋のなごりでしょうか。。

また、戦後まもなくの地図には、牧場の文字があるので、そこでも用水は利用をされていたのかもしれません。


そして、この先を三田用水からの分水路は森厳寺川へと続いていくのです🌊🌊


再び、森巌寺川へと戻ってきました👀

下水道という名の暗渠のもとに、道路ポールと建物の間に川は続いているようですが、(地図⑤)ここの幅員の広さは、橋、もしくは三田用水からの水路が合流した場所だからでしょうか。。


この先の暗渠は安心して追うことができるので、あっさりと下北沢駅近くまでやって来ました🐾

住宅地のこの一角だけ、暗渠の上が緑地になっています(地図⑥)が、ちょうど木立で憩んでいた方のはなしでは、「昭和の30年代まで水あったけど、川じゃないよ、ただのドブだよ❗️」との感想をいただきましたっ笑


駅の手前では、ますます土地が下がっているのがよくわかる谷底写真が上手に撮れました👏


おそらく、戦前から戦後の下北沢駅のまわりは、狭いところを側溝(ドブ)がずいぶんと巡っていたのでしょう。
森巌寺川の暗渠沿いに建つ、アパートの奥も、階段を上がれば小さな水路があったはずです。


そんな水路は下北沢駅の再開発エリアのちょうど手前で、森巌寺川と合流していたようです(地図⑦)

ここは古地図で見ると、土手(築堤)に橋が掛かっていたようですが、現在は橋の代わりに高低差を埋めるための新しい舗装路が造られています。


狭い暗渠を抜け出すように、階段を上がると、目の前には下北沢の駅からつながる新しい名所にいきなり出てきました👀

この先の暗渠は、淡島の森巌寺までを緑道沿いに続いているわけですが、そこはあまりに見慣れた生活道なので💧、今回の消えた川探しはここで一旦おしまいにしたいと思います。

因みに今日の歩きは12000歩ほどでした。お疲れ様です。。。🐌

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世田谷・森厳寺川を源流から下ってみる(前編)

2024-09-29 | 街歩き・歴史散歩
今回も古地図を頼りに都会のなかで失われた川の痕跡と、そこにまつわる歴史のカケラを探検に出かけてみたいと思います。
ま、いつもながらの見慣れた町のぶらぶら散歩というわけです。。。

そして、今回の目指す川は世田谷の森厳寺川。


かつての村の中心地、下北沢本村に建立された樹齢400年の大銀杏が圧巻の森厳寺は、徳川家康の次男の位牌所として、葵の御紋をつけた大名らがたびたび法事に訪れたほどの格式を持ち、また江戸庶民にとってもお灸と富士講詣でで人気を博した場所だったようです。


そんな由緒正しい寺域へ向かうかのように、下北沢村の最北西の幾つかの谷間に端を発して、最後は本流の北澤川へと流れ出たのが、通称、森厳寺川。

通称と言ってしまうのは、私も然り、地域の古い人に聞いても、そんな名前の川は知らないし、昔は臭くて浅い、ただのドブ川だったというはなしになるんですよね、、💧

とはいえ、モチベーションを上げつつ、この大正初めの古地図を参照にして、3つの視点から森厳寺川の源流、支流を辿ってみることにします。

🔴川の源頭部は世田谷村内の大原と大山谷にかかったT字形の谷あたり

🔴世田谷村内の代田と大原の境にY字形の源頭を持つ、だいだらぼっち川を支流として、森厳寺のすぐ北で合流している

🔴世田谷村内の大山谷を上がった尾根に設置された玉川上水から取水した三田用水の水を取り込み、水車や灌漑に利用していた



本流のまえに、先ずは支流のだいだらぼっち川を戦後まもない地図で見てみます👀

因みに川の左岸に守山公園分譲地と書かれた場所は、大正の末に坂口安吾が森厳寺のとなりに開校した若林小学校の分校(現在代沢小学校)の代用教員になった際に、たびたび子どもらを連れて遊びにきた「原生林」だった場所。
当時は代田も原生林が広がる山あり、谷あり、田んぼありの土地だったんですねー。


一説には代田の地名は、この川を作ったY字形の谷間がダイダラボッチの歩いた足型🐾に似ていることに由来するのだとか。

そんなダイダラボッチの足の指先にあたる、川の源頭部がこのあたり(地図①)でして、地図を見ると当時の水路は南に緩く蛇行しながら続いていたようです。


また、だいだらぼっちの足のつま先をなぞるように通る道の三叉路では、二体の庚申像を見つけました。
ここは、おそらく昔からの古道なのでしょう。

どちらの石仏もかなり古く、元禄6年の11月の発願と刻まれています。

三叉路で村境、、そして川の源頭。。
たしかに、庚申様を祀るのにふさわしい場所だと思いました。


源頭から、だいだらぼっち川を暗渠に沿って南下していくと、新代田駅の東側踏切の線路下を潜る水路が開渠になっていますねっ(地図②)


偶然にも線路近くでお話を伺ったお宅の方が、戦後に工場を営んでいたらしく、昭和三十年代後半はまだ玄関前を川が流れていたため、小さな掛橋を渡って出入りしていたそうです。
そして、今でも、明大前駅あたりの線路に沿った水路は大雨で溢れることがあるのだとか。。

ほかには線路周りの土地が、かつては大齋田さんのものだったとも教えて頂きました。
代田の古くからの地主で、現在環七沿いに齋田記念館を開館している齋田家を大齋田さんと呼ぶのも、この土地ならではの歴史の深さが、今だに続いていることを深く感じさせられますね。。


お次は森厳寺川と三田用水の分水路を辿ってみます。。。🐌



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目黒区大橋の防火用水とハスの花

2024-08-14 | 街歩き・歴史散歩


以前、戦前に作られた、都会に残る防火用水のことを書きましたが、、



先日、通りかかるとそこには黄色い花が咲いていました。

それは蓮の花。
とってもきれいですね。。


戦前、この大橋から三軒茶屋に至るまでの国道246号線沿いの家や商店は、建物疎開と呼ばれる国の強制的な破壊行為ですべて失われているのですが、そんな暗い時代をこの防火用水は立派に生きぬき、そればかりかお盆の時期に花をつけているなんて、ほぼ奇跡じゃないでしょうか。。


きっと誰かが守っているのでしょう。
散歩途中、ちょっと嬉しくなりました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世田谷三宿・陸軍用地とその営門及び通用門

2024-07-14 | 街歩き・歴史散歩
都会に越してきて、15年程が過ぎた、、と思う。

しかも、ちょっと歩けば周りはかつては軍都と呼ばれた土地だったりするので、これまでも面白そうな歴史のカケラを偶然に道端で見つけることもしばしばなのです。
で今回は、、👀


三宿の交差点から広がる陸軍用地に焦点を当てて、かつての軍人さんが出入りをしていた門の位置を特定してみることにしました。

実は以前にもこのあたりの史跡について、ブログ→世田谷下馬・裏路地歴史散歩 - マイmy巷話で触れたことがあったのですが、広すぎる土地に三つの連隊と司令部が並びあっているだけあり、やみくもに歩けば歩くほど、はなしの収集がつかなくなったような記憶🌀があるため、今回は潔く、かつ効率よく回ることで納得したいな、、というわけなのです。

そんなわけで、戦前作製で戦後まもない昭和22年補修のこの地図に記載されている各連隊の営門や通用門の合計11箇所が果たして今はどんな風景になっているのか❓を確かめに出かけてみたいと思います🐾


まず①番は、野砲重砲兵旅団司令部があった敷地の営門あたりから。。👀

当時、終戦直前の爆撃で、司令部を含めた三宿の国道246号周辺はすっかり焼失したようですが、現在ここはスタイリッシュな賃貸マンションのエントランスになっていました。


②番めは三宿中学校の門。
ここにはかつては近衛野砲兵連隊の通用門がありましたが、時を経ていまは子どもらの学舎の門へと生まれ変わっているようですね。。


続く③番は、現在世田谷区の学校給食の調理場施設の門になっていますが、ここには近衛野砲兵連隊の営門があったようです。

側道へのアプローチがやけに広く取られているのも、実はここが野砲兵連隊の正門だったからなんですね❗️

そして、近くの住民の方から聞いたはなしでは、この先の政府宿舎の場所には、戦後しばらくの時期まで砲台が幾つか放置されたままだったとか。。
今ではなかなか貴重な記憶ですね。


そして、④番め。
三宿通りから三軒茶屋方向へと真っ直ぐに続くこの道路は、駒澤練兵場から一番距離が離れていた野砲第一連隊までを繋ぐショートカット道かと思われます。


曲がりくねった昔からの道が多い池尻、三宿近辺で、意図的に真っ直ぐ続く道には、実はそんな理由があったのですねっ。


そして、⑤番めのこちらには、かつての野戦重砲兵第8連隊の営門がありました。
現在、斜めに削られた敷地の一部が公園になっていますが、その奥の店舗あたりに正門は設置されたようです。

この連隊は、重砲の牽引や兵員移動の全てを馬や人力に頼らず、牽引車や自動車、オートバイを使ったことから、当時は画期的な機動部隊だったとか。。


そして、三宿通りから右折して路地を入ったこちらにも、野戦重砲兵第8連隊の通用門があったようですが(⑥番)、道路の真ん中に聳え立つ、あの大きなケヤキの木ぐらいが、貴重な生き証人なのかもしれません。


緩いカーブの続く箇所には陸軍用地と刻まれた標石が今もふたつ並んでいます。
そして、ここが野砲第1連隊の通用門だったようですね(⑦番)


片方の標石は、ちょうど道路の角に当たるため、なんども車に轢かれたようでして、痛々しげにテープで手当てがされています。


その先、野戦重砲兵第8連隊と野砲第1連隊の敷地境界では、埋もれた標石を見つけました。


古地図を見ながら、陸軍用地に沿って西へと回り込んだ先に、かつては野砲第1連隊の営門があった広い交差点が見えてきました。(⑨⑩番)

実はここ、仕事でたびたび通るたびに懐かしい風情の銭湯♨️の建つ、ちょっと不思議な形状の交差点だな、、と気にはなっていたのですが、やはり、そーいう理由があったからなんですね。。納得っ。


すぐ先には、境界柵らしきコンクリート支柱が一本だけ何故か取り残されていました。

因みに現在、ここは政府の宿舎なんですが、実はこういう廃物って、割と公共施設や官舎にそのまま放置されていたりするんですよね。。


いよいよ最後の11番目まで来ましたが、商店街のこの一角に野砲第1連隊の通用門はあったはず❗️


どうやら、三宿から賑やかな三軒茶屋の商店街までをかつての陸軍用地に沿って、いつのまにか回ってきたようですね。。
目的のある散歩の場合、やはり時間が経つのが早いな。。。


こうして、100年近く前にたくさんの軍人さんが出入りしていた4施設、計11箇所の門の跡地を回ってみましたが、さすがに具体的な痕跡はなかったものの、その後に計画された道路の形状や残された境界標石から、納得する場所もあったのは確か。

ひとまず今回はここまで。
お疲れ様でしたー。。。🐌

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目黒・帝国大学農学部の水路を探しにいく

2024-06-09 | 街歩き・歴史散歩
井の頭線池ノ上駅の線路沿いに、今なお残る100年前の帝国大学農学部の境界標石の配置が、2つの水路を挟んだ帝大農場の敷地の形状と深く関係していたことをひとり納得したのが前回の歴史散歩だったのでした🐾
ブログ記事➡︎世田谷・池ノ上駅の帝大境界標石と旧会計監査院官舎 - マイmy巷話


そんなふたつの水路の帝大農場側のほうは、三田用水の分水路と違って、いまではめったに入り込めない場所になっているのです。


というのも、池の上側の帝大標石から井の頭線の線路を越え、木々に囲まれるその場所は、今では国家の第一線で活躍する技術者が集まる東大の研究所になっているからなんですね❗️

そんななか、オープンキャンパス開催のお知らせを、たまたま街の掲示板で知りまして、早速予約をしてみました。



出かけるまえにGoogle地図を見てみます👀

南東側の敷地と建物が、帝大農場の水路があったと思われる場所に沿って、不自然な配置に置かれています。
これはなんだか期待感がもてそうだ。。


それらの建物をキャンパスマップで確認すると、インターナショナルロッジとCOMAハウスあたりでしょうか。。
もし、水路や暗渠があるとすれば、その間あたりになるのかな❓


とにかく、そこを目指して出かけてみましょう🐾


当日はとても晴れた週末になりました☀️
正門を入って、入場チェックを済ませてから、いよいよ探索ははじまりますっ📷


いつもは正門の外からのぞき見ている13号館は昭和初期の航空研究所時代から残る貴重な建築物のようです。

くわしくは省略しますが、戦時中に帝大農学部は本郷に移転をしていて、ここは国の航空技術を研究する場に変わっていたのです。

そして、いまではこの建物がキャンパスのランドマークになるのかな。。


また、15号館も戦災を免れて、長い歴史を背負った昭和初期の建物❗️


おそらく帝大の農場時代から残っているのは、紅葉の頃には我が家から美しく見えている、このメタセコイアの並木だけかもしれません。。


と、めったに入り込めない場所✨に、目をキョロキョロ、足をウロウロさせながらも進んでいきまして、いよいよ敷地外れまで辿り着きました。


左手がお目当てのインターナショナルロッジのようです👀

確かに地図で見たように、フェンスがゆるくカーブをしていますが、ロッジの敷地内の駐輪場や通路に暗渠の跡は見当たりません。

この水路の用途が農場用水路、もしくは周辺への水害対策用に掘られた排水路かもしれないだけに、暗渠にしておく必要もなく、埋めてしまったようですね、、。


COMAハウスから回り込み、キャンパスの最奥部まで来ましたが、やはりここにも水路のあとは見当たりませんでした。。

すぐ先には井の頭線の架線も見えています。
かつての水路は、先程のフェンス沿いから未舗装のこの場所を抜けて、線路向こうの帝大標石のある場所へと続いていたはず❗️
とすると、、まぁるい形をしたこのクスノキが線路向こうからいつも眺めている木々になるのか。。🤔



こうして、帝大農学部の水路が跡形なく失われていたのは、ちょっと残念でしたが、普段はめったに入れない場所で、貴重な建築や木々を見学することができたのは、このあたりをよく散歩するワタシとしては立派なお土産になったようです。

まぁ、100年以上前の小さな水路探しを目的に、国の最先端✨な場所にノコノコ出かけてくるヒトはまず、いないでしょうけどっ笑

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世田谷・池ノ上駅の帝大境界標石と旧会計監査院官舎

2024-06-01 | 街歩き・歴史散歩
貝が不精中💤のため、今回もぶらぶら歩きの途中に道端で見つけた石のはなしをしたいと思います。。。🐌


ここは井の頭線 池ノ上駅から渋谷側へと線路沿いに続く道の曲がり角。。。

この場所には、ずいぶん前から使われなくなった会計監査院の官舎群が未だに残っているのですが、その一角の草むらで気になる石を、またもや見つけてしまいました。


フェンスに挟まれて見えにくいものの、「帝大」とクセのある書体で刻まれている、なかなか立派な花崗岩の境界標石のようです。。👀


おまけにそのすぐ背後にも別の帝大標石が立っていました。

書体は花崗岩の標石と似ていますが、こっちは細長いコンクリート製で、外観はなんだか鉄道と関わりがありそうな雰囲気ですね。


で、他にもないか🕵️❓❓
と、線路沿いの坂道を池ノ上駅側へと辿っていけば、その先にも、コンクリート製の帝大標石がアタマだけ出ていました。


さらに坂を下るともうひとつを発見しました👀

やはり、これらの標石が井の頭線との境界に設置されているのは確かなようですが、こうたくさん並べられると、なんだか帝大ブランドで縄張りを誇示しているかのように見えてきますね。。


ちなみに現在の東大の敷地境界は、線路向こうの、あの森のあたりから。

とすると、、🤔
むかしの帝大の敷地は線路を跨いで、こちら側にも拡がっていたとしか考えられません。


でも調べたくとも、そこは今じゃジャングルのような官舎跡で、立ち入り禁止なんですよね…💧


ひとまず、ここまでを地図に落としてみると、帝大標石とこの官舎跡の土地の境がぴったり当てはまっているのは間違いなさそうです。
おまけに、官舎跡地の形状もそこだけが飛び出たような、なんだか不思議なかたちをしていますね。。

以前に渋谷の住宅地で見つけた古い帝大標石が、かつての帝大農学部の正門跡地と三田用水路の境にあったことをブログ記事➡︎渋谷 帝国大学農学部と境界標石 - マイmy巷話 に書いたことがあるのですが、今回も興味を覚えて、標石と土地のつながりをちょっと調べてみたくなりました。



まずは大正期初めの帝大農学部の敷地図で、この場所を確かめてみることにします👀

当時、まわりは広い畑のようですが、旧官舎の敷地部分はこの頃から不自然に突出していることがわかりました。
つまり、この形状が発生したのは、それ以前からのようですね。


続けて大正5年の古地図を見て、やっとヒントを見つけました💡

どうやら、ここは、ふたつの水路の出合いらしく、三角橋から北澤川まで引かれた三田用水の分水路と、帝国大学農学部の農場からの水路に挟まれた三角地帯のようです。

ちなみに三田用水とは玉川用水の分水路で、そこから更に遠くの地域の灌漑用途に造られたのが、この分水路。
おそらく江戸時代から使われていたのではないでしょうか。。

また、もう一方の帝大農場からの水路は、山手台地上に広がる農場の斜面を低地へと流していることから、なにか人為的な感じがします。
当時、南東側に下がった場所に練兵場があったことから、水害対策で明治期以降に造られた排水溝なのかもしれません。

で、、そんなこんなのいきさつから、帝大がこの尖った土地を管理を兼ねて所有するなりゆきになったんじゃないか、、と思い至ったわけなのです💡


そんなことを踏まえて、標石が並んだ線路を再度眺めると、、👀
お馴染みの駅前のきつい坂道は、三田用水の分水路(暗渠)を基点にV字に伸びた谷に見えてきました❗️

春には線路沿いを菜の花が咲く、そこそこに有名なこの駅の高い築堤は、じつは、この谷を埋めるために造られたものだったんですね。。


最後に戦後間もない昭和21年の地図でおさらいをしてみると、、👀
確かに井の頭線は、標石の部分で帝大農場の尖った土地を分断しているかのような配線なんですね❗️

ただし、井の頭線が開通した昭和8年にはすでに帝大農学部は本郷に移転計画が進行していたため、終戦間際は農場だけが残っていたようです。

ちなみに新しい本郷のキャンパスは昭和20年に戦災で全焼して、その4年が過ぎて新制の東京大学が発足したらしいので、鉄道開通で設置をされた帝大時代の境界標石の役割は、実はほんのわずかな期間のみだったんですね。。


ついでに線路向こうの駒場側にも回って、三田用水分水路(暗渠)沿いを続く、東大の境界を歩いてみたところ、境界標と刻まれた、長細い石の柱が六基並んでいました。


石の質から戦後のもののようですが、集中して立っているのは、もしかすると戦後のどさくさに、勝手に入って、畑にするヒトがいたのかもしれませんねっ。


こうして、今回も、100年近くを置き去りにされた道端の石と謎のかたちの土地のつながりには、やっぱり水路が絡んでいたことをひとり結論づけて、仕事から帰途についたわけなのです笑

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世田谷・世田谷代田の戦災痕を辿ってみる (後編)

2024-05-05 | 街歩き・歴史散歩


世田谷代田駅周辺の戦災焼失区域を朱色で表した昭和20年の地図を見ています。

前回は、世田谷代田駅から南斜面に位置する円乗院や住宅地の戦災痕を取り上げてみましたが、今回は駅の北側部分で朱色が広がる箇所に焦点を当てて、終戦間際に壊滅的な被害に遭った井の頭線を復旧させるべく新設した幻の線路跡を探してみたいと思います🐾

しかし、不思議ですよね。。🤔
今でも都会の喧騒から上手に外れている代田の丘の小さな住宅地や駅周辺に、当時何故たくさんの爆弾が落とされたのでしょうか。
しかも、すぐ隣には、二つの私鉄が交差する下北沢駅があるのに、地図の朱色範囲を見る限りは被害がずいぶんと少なく見える。。
当時、代田の町には標的となるような人物、もしくは対象物があったのでしょうか❓❓


さて。こちらは世田谷代田駅に新しく併設された舗道です👀

駅前の案内板の説明を読むと、舗道の明るいレンガタイルのデザインは、戦災で失われた井の頭線車両を補給するために、この駅から新代田駅までを突貫工事で繋いだ臨時線路をイメージしているそうです。
実際、連絡線はこの柵の向こう側に敷設されたようですが、実は世田谷代田駅って、小田急線のなかで唯一戦災に遭っている駅舎なんだとか。。

しかし、当時は同じ小田急系列だった井の頭線の方が、被害がより深刻だったようでして、昭和20年5月末の大空襲でほとんどの車両が壊滅的な被害を受けたために、急遽に他社から戦災応急復旧車を導入せざるを得なくなり、連絡線の必要が生じたわけなんですね。

そんな史実を、このタイルのデザインは伝えていたなんて、しょっちゅう、ここを歩くが知りませんでした💧


お次の写真は世田谷代田駅裏手の住宅地から。。。🚃

かつての連絡線跡は、現在更地になっているこのあたりを抜けていたようですが、さすがに当時の面影は皆無ですね。

どうやら、連絡線は焼失した個人の敷地内に造られたようですが、戦後しばらく経った昭和28年に元の住民らから土地返還の訴えが起こり、いよいよ廃線になったのだとか。。

つまり、この路線は戦時下の強制発動で人の土地に敷設されていたために、戦後、再び平和とともに土地を取り戻した人々らがそこに新たな暮らしを築きあげれば、必然的にその痕跡すべてが埋没してしまうわけですよね。。

これでは、痕跡など見つからないわけだっ💧


と、そんななか👀
土が剥き出しの或るお宅の奥に面白そうなものを捉えました。
これはガンタ積みの壁のようですね。。


かつての線路はここを通っていた可能性が高いため、このガレキは戦災痕、、もしかすると1ヶ月で完成したといわれている突貫工事ならではの線路敷設の道床に混じっていたものかもしれませんね❗️

注)たまたま大家さんからお話を聞くことができたのですが、ここは土の中にもこうした石が埋まってるよ、、とのことでした。写真は許可を得て撮っています。


その先。見えない線路はこの敷地の壁のすぐ内側を真っ直ぐに続いていたようだぞ🚃


井の頭線の新代田駅近くなると、線路は道に沿ったカタチにゆるくカーブしながら続きます。


向こうに井の頭線の電車が見えてきましたが、おそらくこのあたりから連絡線は井の頭線と合流していたようです。

それは、外壁が斜めにプランニングされたアパートの敷地に沿って、少し土地が盛られている奥の建物側を連絡線が走っていた、、と想定するとわかりやすいですね❗️


こうして、80年前にこの連絡路線を使って、戦災で応急処置された車両や他社からの応援車両が、当時瀕死の状態だった井の頭線へとどんどん送り込まれていったわけですねっ。

ところで、、この駅が周りよりも低く見えるのは、ここが谷間だったからだと、今回地図を見て気づきました👀

戦災焼失図ではこの駅舎あたりは朱色、、ということは、世田谷代田駅同様に、ここも戦火に遭っているようなので、谷間の駅ではかなりの火の勢いだったかもしれませんね。


そう気づくと、、👀
駅ホームに今も残されている安山岩らしき石垣がやけに赤いのは、そんな時代の死線をかいくぐった証だったりするのかな、、と最後はふと思ってしまったのでした。


因みに当時の両駅名は、世田谷代田が世田谷中原駅で、新代田は代田二丁目駅だったことを加えておきます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世田谷・世田谷代田の戦災痕を辿ってみる (前編)

2024-05-03 | 街歩き・歴史散歩
実はウチの敷地も80年近く前の戦争の最中に焼けた、、らしい。

どうやら、近くに陸軍施設があったために巻き添えを食ったらしいのですが、戦争もいよいよ終盤を迎えると、そういった理由あっての爆撃のような名分も薄れてきて、無差別、、つまり結果が個の気まぐれのようなカタチをとることもあったようです。。



というのも、最近仕事でたびたび歩く機会のある、世田谷代田の台地の下に建つこちらのお寺にたまたま立ち寄ったときのこと。

本堂手前の黒い立木がなんだか異様だな、、と近寄ってみると、終戦の年に当たる5月末の山の手を中心とした大空襲で被災した高野槙の大木が炭化した姿だと分かりました。

当時、このあたりは静かで慎ましい住宅地のはずが、何故狙われたのでしょうか。。



そんな不運な木を見ているうちに、改めて、戦争を知るのは、ものがたりばかりでなく、こうしたものいわぬ遺物をみる方がやけに説得力があったりするんだな、、🤔と思い始めたのです。

で、この近くにはまだまだ探せば、何かあるんじゃないか❓と。。


早速、この高野槙の残る円乗寺の東側の門を出て、見回してみると、いかにも昭和の造りらしきコンクリートの外壁を見つけました👀

見れば見るほど隣のお寺の黒焦げの高野槙とともに、激しい戦火をくぐりぬけた風情が漂っていますよね。。


近寄ってみると、足元には炭化した木が残っていますが、もしやこれは電柱の焼け跡でしょうか。。
おまけに背後のコンクリート壁にも、この木の跡が生々しく残されていますよね‼️


これに気をよくして、その後も時間の許す限り、辺りを見て周ってみたところ、同空襲で焼失した萩原朔太郎旧宅の近くで、唯一、黒ずんで破損したコンクリート壁に気づいたくらいしか見当たりませんでした。

にしても、戦争の痕らしきものが、今なお住宅街に残っているのは、やはり、世田谷代田駅周辺が、山の手の開発から逸れた穴場の場所だからかもしれませんね。

というわけで、古地図片手にもうちょっと探してみようと思います。。

次回に続く。。。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする