稲城市郷土資料室で見つけた平尾の江戸時代の古地図に今回歩いたルートなどをざっと描いてみました。
古地図とはいえ、丘陵地に深く入り込んだ谷戸の田んぼが麻生川へと続いていたのがよくわかります。
十三塚は平尾村南側の台地の境界上に塚とはっきりと記載もありますね!
遠望が効く南側の山に一列に並んだ13の塚の光景を思い浮かべると、、、🤔
当時の人にはかなり不気味に映ったのかも知れませんね。
多少の知識を得た郷土資料室をあとにして、人もまばらな平尾小通りを歩いていきます。 左に続く平尾団地のあたりは、古地図を見ると芝や畑が広がる箇所だったようですね。。
平尾外周通りに突きあたりました。 ここは左へと曲がります🐾
この外周道路はなんだか不思議な道路で、自然の地形がまるで土塁のように外敵を防いでいるように見えます。
古地図を見ると、どうやらここは隣村との境界だったことから、はるか昔には本当に要塞の役目を果たしていたのかもしれませんね。
しばらくすると、左手に入定塚と名づけられた公園が見えてきました。
が、ここはお目当ての塚ではありません。
その先右手のフェンスに囲まれた空き地がおそらく塚じゃないかな?
説明板がありました👀 薄くて読みづらいものの、確かにここが室町時代に僧侶が入定したと伝わる塚のようです。
敷地には入れないため、フェンス越しに周囲を見回すと、、
塚はもともとが10m四方と立派なものだったようですが、今では原っぱの奥に多少の盛り土が残るだけの姿になっているようです。
ここに発掘された貴重な供養の板碑を残して置けないのも分からなくはないが、多少は歴史の指標を表すものが建っていてもいいんじゃないかな…と物足りなさを感じてしまいました。
ま、ブツブツ言っても仕方がないので、無粋な金網に囲まれた原っぱにたくさんのツリガネニンジンが咲いていたので、鑑賞することにしましょう。。😌
お次は十三塚へ向かいます🐾
入定塚から続く外周道は直角に折れ曲がると、台地の際にあたる場所に着きます。
とは言っても、木々で覆われているので、ここが崖っぷちだとは全くわかりませんが、、
またもや、フェンスの中に薄過ぎて全く読めないものの、説明版が建っています👀 ここが十三塚か。。
十三の土饅頭、、と史料からイメージしていたものとはほど遠く、ただの雑木林でしか見えませんが、改めてみると十三塚が現存する、、と説明にはあっても、そのままの姿で現存しているとは書かれてはいないことに今更ながら実感しました。
でも、おざなりにでも塚のひとつくらいは整備して、遥々来た人に見せてほしいなとちょっと思ったりもしましたが、、。
これって私ばかりか、近くで畑仕事をしていた土地の方もおんなじ話をしていましたよー❗️
そんな立ち入り禁止の十三塚の森から、一部フェンスが途切れた箇所から尾根を下る小道を見つけました👀
傍らには古い年号が刻まれた墓地が並んでいるので、江戸時代には十三塚はこの墓地や経路ですでに分断されていたようです。
竹藪に囲まれた急坂を一気に下っていきます。
台地を降り、明るい平地に到達しました🐾
そして、ここから地名は平尾から五力田に変わります。
見上げると平尾の町は昔の山城のように見えていますが、高台の際にずらりと並ぶ十三塚は、むかしはどんな風に村人らの目に映っていたのでしょうね。。
帰りは平尾の南面に広がる尾根道を歩いてみることにしました🐾
この神社は源義経が奥州から駆けつける途中にこの地で一泊したという伝説があるようです。
関東のあちこちに鎌倉みちがあるように、義経頼朝伝説もそれに付随しているようです。
神社横には古道が伸びています。 で、自然と先に進んでいくことに。。
尾根上には、享保の年号が刻まれた石仏が建っています👀
道中、鎌倉室町伝説が続いていたため、なんだか江戸の石仏に新しさを感じてしまいますが、お供えものと赤いお花に地元の方の信仰の厚さを感じました😌
そんな、深い歴史を持った、緑豊かなお散歩コースは古沢緑地というらしいですよー。 (ありゃ😅看板には管理者以外立ち入らないで下さいって書いてあるけど大丈夫かなっ⁉️)