マイmy巷話

マイMy巷話(かんわ)は「私にはそう見える!」ものを儘に書いているだけの話です。

長崎・日見街道を歩いてみる その4

2019-01-27 | 街歩き・歴史散歩

 

改めて、地図で見てみることに。。

 

途中、道は崩壊して無くなっていたり、改良工事でどれがホントかわかりにくいところもありましたが、ざっと振り返れば、こんなものか。

 

で、街道最後の最大難所、最高高度276mの日見峠へと一気に上がっていきますよ〜。

 


 

 

日見の宿場から民家続きの道を歩いて、うねうねとした急坂を抜けた先が、国道34号線。

バス停名は「芒塚」。

ここ、風流な地名とは無縁の高速道路の大橋が、空を塞いでいましたっけ。

日見街道は、ここからしばらく国道沿いを歩くことになります。 

 

 

 

大正期に建造された、なんだかオーラ感のある日見隧道が見えてきました。

再び、長崎街道の案内板が左手を示しています。

「トンネル出口 西日注意!!」と書いてある…ビックリマーク2つ付きから察するに、日本の西のはずれの夕陽はかなりの西日に違いないぞ…

 

トンネル脇にはかつて、梨子の木茶屋と呼ばれる峠の茶屋があったらしく、なんでもここで江戸時代の日見地区では踏み絵を行なっていたとか。。。

箱根の関所が入り鉄砲に出女、と呼ばれるように、長崎への主要な出入り口であるこの日見峠では隠れキリシタンが厳しく検分されていたのかもしれません。

 

 


そんなこんなで、案内板の指す、小さな階段を上がっていくことに。

峠口の道には、街道らしく、松も植えられたりしています。

 

 

 


登って間もなく、石塔のある小さな公園らしきところにでました。

ここが、芒塚ね。ふむふむ。。。

 

あまり、興味がないためウンチクは割愛することに。あしからずっ。

 

 

 

 

いよいよ、街道らしい感が漂ってきました!

 

 


大正期に下のトンネルが出来た後に遠く忘れ去られた古道が、いまもこうして手入れをされて生き続けているのがすごいなっ。

 

 

 

ここには茶屋でも昔はあって、主要なお役人ばかりか、唐人や蘭人が一服なんてあったのかしらん?、、

なんて歩きながらいろんな事を思える場面が多いのも、ちょっと嬉しくなります。

 

 

  

さて、そろそろ峠かな、、、と感じるピークの手前には、意外にも人家が数件建っていました。

その横には、水が絶えることなく湧いています。なんとはなしに、暫く流れる水を眺めてみましょう。。

 

 

  

そんな前方、切通しのなかに直線道路がいきなり出てきたぞっ?

まさに山のピークのthe峠!

車も通れるほどの幅はあれど、通るはずがないこの場所になぜこんな立派な道路がっ?

目の前の看板を頼ると、どうやらこの道は明治15年に難所の峠を33m削って、馬車で通れるように建設された明治新道の跡でした。ここ、莫大な建設費を還すために、通行料を徴収した日本初の有料道路だったそうですよー。

つまり、それ以前の峠はこの33m上にあったってわけなのか、、すごい労力!まさに維新のパワーだなっ。

  

 

 

というわけで、明治新道を使えばあっという間に峠を抜けられるのですが、ここは右の旧道から丁寧に回るルートを当然選びます。

 

 

しかし、まっすぐの道って、、、今ではどこでも当たり前の姿ですが、むかしはかなり不自然なものだったんでしょうね〜。

私がほんのわずかでも、うねうねとしたかつての街道を歩いて来て、いきなりこのまっすぐが出て来るだけで、なんだか違和感があったくらいなんですから。。

 

 

 

迂回して旧街道を登ると関所跡の看板を発見します。

 

 

  

関所跡はみかんの実る、普通の畑になっています。

 関所は幕末から維新の数年間だけ、長崎への通行監視を強化するのに設けられたそうですが、明治新道建設で土地の形状はかなり変わってしまったようです。

 


 

その先、景色が一気に開けました👀

街道屈指の難所といわれた日見峠は、意外にもフツーに畑のある山の景色になっていました。

  

 

奥では、誰かの気配がしています。

石垣のうえの畑は、さながら天空の城のよう。とても立派な畑のようだ!

やはり、ここも関所の跡地だったりするのかな?

で、作業をしていた畑のご主人に伺うと、どうやらこの天空の畑は、ご主人の先代の手で築かれたもので、他にも峠の上に何軒か家があったのが、今ではとうとうあの向こうの家だけになってしまったのだとか。 

 

 

確かに一軒のお宅が向こうに見えています。。。。

なるほど。そうなのか、、、🤔

と感慨深く佇んでいると、峠に西日が差し始めていることに、気づいた。

そう😮まだここは山のなか。

早く、長崎の町へたどり着かなきゃ!

 

 

歩を進めて間もない、道の先に、

 

 

重々しい石の鳥居が建っています。

地震、石神神社と書いてあります👀

鳥居には、しめ縄やヒサカキと小笹らしき?葉も飾られていて、その風情からも古くからここで信仰されている神様だということが、わかりました。

 

 

石段を登ると、そこは峠を見渡せる絶好の場!

向かいに見える山は、茂木岳といって、どうやら三角点がてっぺんにあるようです。

 

 

神社の石段の先には大きな木があり、その下に石が祀られています。

地震を封じるために石を祀ることがある、、と、どこかで聞いた気がしますが、かつての国境に位置するこの峠に、姿形のある石仏ではなく、石の神様を祀ったのも、地震のような天災が自領に降りかからないようにという古来からの信仰によるものかもしれません。

 

 

お社を後にして、麓へと続く急な曲がりくねった路地で地元女性の方に声をかけられました。

その方が「今では日見街道は、後家街道って言われているのよ〜」と、おもしろく話されているのがなんだか印象的でした。。

 

 

 

再び、長崎街道の案内板が登場しました。

左に行くと、先ほどの切り通しの明治新道に戻ります。

もちろん、私は長崎の町へと前進あるのみ!

 


その先に日見峠の茶屋跡の碑が👀

どうやら、日見峠には4つの茶屋があったのだとか。。もし、いまあればすべての店で、私ならお茶をしたことだろうよ、、、😑

 

 

山を少し下っただけで人家がどんどん増えてきました。長崎は平地が少ないだけに、土地利用にはホント無駄がありません。


 

無駄がない、、とはいえ、これを使う日常はワタシには無理でしょう…😅

日見街道でもここが一番の難所だったというのが、よく分かりますね!

これ見て、登りじゃなくてホント良かったわ〜と心底思いました💧

 

 

この先、立派な石垣で整備された街道をどんどん下っています。

長崎の町もあと少し、、と、昔の人も歩いた皆が皆、きっと思ったに違いない場所でしょうね。


  

またもや、峠の茶屋跡が現れました👀

この藤棚の下で、ステキにひと休みなんて、喫茶の雰囲気作りは、今も昔も変わらないのね、、、😌

 

 

刻まれた石には、長崎新道と彫られています。

新しい道、、ということは峠の明治新道が開通した際に造られた記念の碑でしょう。

その横に並んだ常夜灯や石盥が、新道で不要になった江戸時代の遺物のように無造作に転がっています。

 

  

やっと日見隧道の反対口に出てきたようです😆

車で抜ければあっという間の日見峠越えも、こうして歩いてひと山越すと、ずいぶんといろんなことがありました。。。

  

お次はいよいよ長崎の町に到着です。

続く。。 

 

  

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長崎・日見街道を歩いてみる その3

2019-01-20 | 街歩き・歴史散歩
やっと、お隣の佐賀藩を越境して長崎入りを果たしたところから始まりますっ🐌



その前に、、
江戸時代の有名な測量サムライ!伊能忠敬の話から入ります。
衛星から地球全てが手に取るようにわかっちゃう今と違って、人の足で日本全国を測量して回った伊能忠敬ご一行は、ここ長崎の日見宿にも泊まっていたんですねー。

そんな、1813年9月15日の測量日記から、日見の村を辿ってみます🐾




《これより長崎街道を測る。字 腹切坂、右に馬頭観音。日見本村の人家、長崎街道駅日見宿。。》






《日見川の石橋 八間》
➡︎この橋は今はありません。







《本陣は馬駅の伝兵衛宅。御用取次の松尾五郎七、外に文蔵、日見村浦見番の野上勝右衛門と橋爪七左衛門出てくる。この夜は曇り晴れで、観測する》
➡︎本陣跡には説明板のみが建ってます。






現在の日見の宿場周辺。






町を少し回ってみましたが、日記にある石橋や継ぎ場の屋敷含めて古いものがほとんど見当たらず、歴史はあれど、かなりあっさりとした町です。








役所の駐車場脇をふと見ると、昭和の水害慰霊碑が建っています。
もしかすると、この宿場歴史の名残の多くが、自然の脅威により流されてしまったのかもしれません。








さて、伊能忠敬一行は、翌朝早くから宿を立ち、おそらく地元民の手も加わり、皆んなで測り始めたようです。

大勢のおじさんらが長い竹竿や紐やらを使って、真剣そのものの面持ちで、こうした道を測量していったのかと思うと、、、結構面白いぞ!







街道はとにかくとっても細い道。
途中には歯痛観音など長崎西国八十八ヶ所霊場のお堂や、石塔などもポツリポツリと建っていて、なかなか良い雰囲気が出てきました。









途中のお稲荷さんに、いまは登るひとも絶えた様子の朽ち果てた石階段を見つけて、慎重に上がってみました。








遠くには高速道路の立派な橋が見えています。
かつての街道は、いまやあの立派なコンクリート橋に姿を変えた、と言うならば、先の未来、あの橋は再び何に変わってしまうのだろう。。。






祠を降りた先には、川が流れています。






馬川は、その名のごとく馬を川に入れ清めながら、正面に見える山を越えてきた旅人も足を洗って一服したところだとか。

長崎は、複雑に入り組んだ山々に囲まれた町。
当時の旅人は、あの山を越えて初めて憧れの地、長崎を見ることができたのです。
入国さえドラマティック!
しかもそこには、西の箱根とも言われた、街道屈指の難所と称される日見峠があります。
ゴールを目指す私らにとっちゃ、最後の試練ってわけなのね、、、。


そんな日見峠。






すでに歩いてきた日見の切腹坂上から眺めると、向こうに連なる山々の左端。
あのストンと落ちた箇所辺りに当たるかな?

日見は漁場の町、つまり海抜ゼロなのです。そしてあの山が300mほどだから、確かにいままでゆる〜く歩いていた旅人には本当にツラいだろーよ。









めったによそ者の通らない日見街道では、携帯の地図アプリを見ながら、ぼーっと立ち止まっていると、「なにか用ですか?」と聞かれることもしばしば。
ネコくんまでもが、めちゃくちゃ警戒した眼でコッチを見ています。








道に勾配を感じられるようになってきた。








日見街道の難所も、あと少しっ( ̄Д ̄)ノ








続く。。。



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長崎・日見街道を歩いてみる その2

2019-01-17 | 街歩き・歴史散歩

吉田松陰
西郷隆盛
坂本龍馬
勝海舟、、、、

異国の街 長崎を目指して数多の歴史上の人物が踏みしめた長崎街道。
江戸から遠路はるばるやってきた私も、いよいよ長崎入りですよっ!(…のつもり)








佐賀藩と天領 長崎との国境に立つ領境石標。

矢上は、佐賀藩 諫早領の最後の宿場町。
当時の旅人が長崎に入るには、この地の番屋で役人から許可を得たうえで、飛脚を長崎に走らせて、正式な通行許可がふたたび飛脚から届けられて初めて許されるものでした。
まっ、少しでも胡乱な人物は、まず長崎に入れそうにないな…。







で、私はサクッと長崎入り。

本来の街道は、この先に続く山道を巻きながら、どんどん下って行くのですが、周囲は宅地整備や道の崩壊で失われているため、結局舗装された迂回路を使うことにします。








長崎街道の案内板が立つ迂回路は、かなりの急階段。









その高低差がよく分かる当時の資料が、この絵図。

迂回路のない時代、長崎最初の宿場だった日見宿へ向かう旅人は、この切腹坂と呼ばれた険しい山道を下っていったのですね〜。
しかも、絵図が残る、、、ということは、きっと風光明媚な名所だったのかな?

因みに、切腹坂の由来は、昔或るお侍が日見宿の身分の低い者に剣術で負けたため、その面目からこの地で切腹をしたからだとか。
そのお侍の墓と慰霊塔は、土地整備のため、坂の下の国道沿いに移されてはいるものの、今尚残っていました。









そんないわくありげな切腹坂は、現在国道の擁壁で覆われて、特定し難いものの、上の絵図に描かれた海に浮かぶ三味線島の位置から、おおよそこのあたりの高さかと思うわけ。









下の国道から見上げた切腹坂のあったあたり。











私の根拠なき感では、本当の切腹坂はこのガードレール道より少し下にあって、このあたりをピークに山腹を巻いていったのではないかと思うわけ。








というのも、辺りには怪しい石がゴロゴロ。







この先に続く石積みも街道の遺構に見えてくる…とはいえ、長崎には至る所にこんな石積み幾らでもあるにはあるのだが、、、。








ますます探検したい!この藪のなかに入って、埋もれた街道を発見したい!








が、気を取り直して眼下に見える長崎最初の宿場町 日見を目指して前へと足を進ませることにしました。






そう!わたしゃ、江戸から来た旅人だったのだよ( ̄Д ̄)ノ








続く。。。



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長崎・日見街道を歩いてみる

2019-01-14 | 街歩き・歴史散歩
今の世でさえ、日本を離れて遠く知らない国へ旅に行くとなれば、それなりに身構えるのは当然だと思う。

それが、バリバリの鎖国時代に、日本の西の果ての当時唯一外国人が住んでいた長崎まで旅に出る、、、となれば、果たしてむかしの人たちにとって、どのくらいリアリティのあることだったのだろう。
もしかして、今の世に合わせれば、月へ行く、、、くらいの感覚だったかもしれないな。



なぜそんな話を、、、といえば、つい先日所用で長崎まで出向いた折に、暇をみて長崎街道のほんの一部を歩いてきたのです。





まずは長崎街道とは?




北九州の小倉の駅近くにある常盤橋を始点に延々224km先の終点長崎まで続く、江戸期に整備された街道
のことらしい。



まぁ、当時、陸路から唯一外国人居留地だった長崎へと続く道となれば、なかなか重要なルートだったに違いない。
そんな、ステキな異国の地を目指した当時の庶民視線で、今回歩いてみようかと。。。

まっ、時間が限られていたため、街道のラストに当たる佐賀藩 諫早領の藩境から長崎入りして、市街地までの8キロほど。地図上、ほんのわずかの赤い矢印部分。

どうやら、この区間を地元の人は「日見街道」と呼んでいます。



では、歩いてみよー( ̄Д ̄)ノ





続く。。。
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