実は…。
昨日、雨の武蔵五日市駅から大岳山ハイキングへと向かうバスをワタシ一度、途中下車しているのです。
目的は、昨年廃校になった五日市の奥地に建つ、と或る小学校を訪れたかったからなんですね。
で、そのお話を少し…。
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上養沢行きのバスに乗りこみ「軍道」で下車。
そのすぐ先に見えるは…。
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あきる野市立小宮小学校。
ここは、明治政府による明治5年の学制発布からはじまり、昨年廃校に至るまで、138年間の長い歴史を持つ学校だった場所でして、現在は「小宮ふるさと体験学校」として使われています。
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また、校舎内は一般公開されていまして、入ったすぐ右手には旧小学校の歴史資料室もあり、思わずしばし資料を読みふけるワタシ。。。
一応、ただの登山者ですけどねっ。
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開校当時の名称は「日新学舎」。
(明治8年、日新学校と改称)
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そのころの日新学舎は、村を見下ろすこの高台に建つ、、
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こちらのお寺(明光院)のお堂を借りていたそうです。
まさに寺子屋ですね!
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その後児童数も増え、明治14年には新しい校舎が、現在の小学校隣のこの敷地に建てられたとか。
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その後児童数も増え、明治14年には新しい校舎が、現在の小学校隣のこの敷地に建てられたとか。
校舎は間口9間、奥行5間の藁葺き平屋でなかなか意匠も凝っていたそうですよ。
その3年前、まさに西南戦争のあった明治11年のこと…。
村にひとりの元会津藩士がやってきて、その青年が日新学校の教員になったそうです。
その人の名前は堀内瀧江。当時、27才。
う~ん。。。。🤔
そこまで聞いて、思い出すのはあの五日市憲法草案をつくった元仙台藩士、千葉卓三郎!
千葉も戊辰戦争の白河口の戦いで会津兵とともに新政府軍相手に戦っている経歴の持ち主でしたよね?
…つまり、戊辰戦争の敗者同士が遍歴の末にこの五日市を訪れて、学制発布後のほぼ同時期に教員をやっていたってわけなのです。
まっ、お互い面識があったかどうかはわかりませんけど。。。
そんな、日新学校の堀内先生ですが、どうやらかなり立派な方だったらしく、村民の人望も厚く、山あいのこの地で27年もの間、教員を続けていたんですって!
また、学校の前に店も構えていたらしく、屋号は「若松屋」。。。
。。。維新後の会津藩士の赴く先については、歴史を知っていらっしゃる方はご存じでしょうが、農商以外は城下を追われて多くが捕虜となり、下北半島の火山灰地、北海道開拓など厳しい土地へと移住させられ、辛酸の年月を過ごすことになるのです。
だからこそ、もう戻れない故郷を想う心を屋号にした堀内先生の心情は如何許りか…
(って、のめり込んでいるけど、ただの通りすがりの登山者なのよ…)
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しかも、その堀内先生の若松屋はなんと現在も店は営業していました。
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しかも、その堀内先生の若松屋はなんと現在も店は営業していました。
でも、、、表札を見ると堀内姓でありません。
…でしつこいが、ただの通りすがりの登山者ですが、ここまで知ったら、なんだかやたらと気になってしまいまして、「ごめん下さ~い」とお店番で奥の間にいらしたお婆さまに聞いてしまいました。
すると、その方いわく…。
「私の親が、堀内先生からここを買ったのです。先生はそのあと戸倉に移っていきました。でも、人は移っても若松屋の名前だけはいつまでも残して下さい…と先生から頼まれましてね…そのまま、使わせていただいているんですよ。」
(感動。。。)
ほんといいますとね、、、
「私の親が、堀内先生からここを買ったのです。先生はそのあと戸倉に移っていきました。でも、人は移っても若松屋の名前だけはいつまでも残して下さい…と先生から頼まれましてね…そのまま、使わせていただいているんですよ。」
(感動。。。)
ほんといいますとね、、、
ワタシの母方の家が会津で酒屋を営んでいまして、ご先祖さまは戊辰戦争の際にかなりの額を献金した記録も古文書に残っているのです。
だから、そんな歴史に興味があるのも祖父らの遠くて近い、昔のはなしを小さな頃からやたらと聞かされたせいもあるかと…。
……まっ、そんなこともあった昨日の奥多摩ハイキングなのでした。
ちなみに、「堀内先生」って呼び名はなんだかワタシには馴れ馴れしいとわかっちゃいるのですが、あの若松屋のお婆さまがしきりにそうおっしゃるので同じ呼び方にした次第。
今だにこのあきる野市乙津の地では、遥か130年前に会津からきた人の名が、消えることなく親しみを込めてそう呼ばれているのですね…。
だから、そんな歴史に興味があるのも祖父らの遠くて近い、昔のはなしを小さな頃からやたらと聞かされたせいもあるかと…。
……まっ、そんなこともあった昨日の奥多摩ハイキングなのでした。
ちなみに、「堀内先生」って呼び名はなんだかワタシには馴れ馴れしいとわかっちゃいるのですが、あの若松屋のお婆さまがしきりにそうおっしゃるので同じ呼び方にした次第。
今だにこのあきる野市乙津の地では、遥か130年前に会津からきた人の名が、消えることなく親しみを込めてそう呼ばれているのですね…。