今回も古地図を頼りに都会のなかで失われた川の痕跡と、そこにまつわる歴史のカケラを探検に出かけてみたいと思います。
ま、いつもながらの見慣れた町のぶらぶら散歩というわけです。。。
そして、今回の目指す川は世田谷の森厳寺川。
かつての村の中心地、下北沢本村に建立された樹齢400年の大銀杏が圧巻の森厳寺は、徳川家康の次男の位牌所として、葵の御紋をつけた大名らがたびたび法事に訪れたほどの格式を持ち、また江戸庶民にとってもお灸と富士講詣でで人気を博した場所だったようです。
そんな由緒正しい寺域へ向かうかのように、下北沢村の最北西の幾つかの谷間に端を発して、最後は本流の北澤川へと流れ出たのが、通称、森厳寺川。
通称と言ってしまうのは、私も然り、地域の古い人に聞いても、そんな名前の川は知らないし、昔は臭くて浅い、ただのドブ川だったというはなしになるんですよね、、💧
とはいえ、モチベーションを上げつつ、この大正初めの古地図を参照にして、3つの視点から森厳寺川の源流、支流を辿ってみることにします。
🔴川の源頭部は世田谷村内の大原と大山谷にかかったT字形の谷あたり
🔴世田谷村内の代田と大原の境にY字形の源頭を持つ、だいだらぼっち川を支流として、森厳寺のすぐ北で合流している
🔴世田谷村内の大山谷を上がった尾根に設置された玉川上水から取水した三田用水の水を取り込み、水車や灌漑に利用していた
本流のまえに、先ずは支流のだいだらぼっち川を戦後まもない地図で見てみます👀
因みに川の左岸に守山公園分譲地と書かれた場所は、大正の末に坂口安吾が森厳寺のとなりに開校した若林小学校の分校(現在代沢小学校)の代用教員になった際に、たびたび子どもらを連れて遊びにきた「原生林」だった場所。
当時は代田も原生林が広がる山あり、谷あり、田んぼありの土地だったんですねー。
一説には代田の地名は、この川を作ったY字形の谷間がダイダラボッチの歩いた足型🐾に似ていることに由来するのだとか。
そんなダイダラボッチの足の指先にあたる、川の源頭部がこのあたり(地図①)でして、地図を見ると当時の水路は南に緩く蛇行しながら続いていたようです。
また、だいだらぼっちの足のつま先をなぞるように通る道の三叉路では、二体の庚申像を見つけました。
ここは、おそらく昔からの古道なのでしょう。
どちらの石仏もかなり古く、元禄6年の11月の発願と刻まれています。
三叉路で村境、、そして川の源頭。。
たしかに、庚申様を祀るのにふさわしい場所だと思いました。
源頭から、だいだらぼっち川を暗渠に沿って南下していくと、新代田駅の東側踏切の線路下を潜る水路が開渠になっていますねっ(地図②)
偶然にも線路近くでお話を伺ったお宅の方が、戦後に工場を営んでいたらしく、昭和三十年代後半はまだ玄関前を川が流れていたため、小さな掛橋を渡って出入りしていたそうです。
そして、今でも、明大前駅あたりの線路に沿った水路は大雨で溢れることがあるのだとか。。
ほかには線路周りの土地が、かつては大齋田さんのものだったとも教えて頂きました。
代田の古くからの地主で、現在環七沿いに齋田記念館を開館している齋田家を大齋田さんと呼ぶのも、この土地ならではの歴史の深さが、今だに続いていることを深く感じさせられますね。。
お次は森厳寺川と三田用水の分水路を辿ってみます。。。🐌