いつものようにちょっと足を伸ばしてぶらぶらとお散歩をしています。。🐌
ここは渋谷の雑踏を抜けて、真っ直ぐに伸びた一本道。 そして、普段からわりと歩き慣れた道❗️、、のはずが、今更ながら道の傍に面白そうな石を見つけてしまいました👀
文字や石の具合からも、これはなかなか古い境界標石だと気がつきました。
どうやら、「帝國大、、學?」と書いてあるみたいです👀
確かにこの先には駒場東大キャンパスがあるので、特に驚くほどの発見ではありませんが、、
現在、あたりは普通の住宅街なんですよねー。 ということは、一体、いつの頃にこの標石は設置されたのか?がちょっと気になり始めました。
ま、毎度の歴史散歩オタクがアタマを擡げたわけですなっ😆
まずは標石に刻まれている「帝国大学」の名称の変遷をちょびっと調べてみると、、
明治10年に設立された東京大学からはじまって、同19年に帝国大学に改称されたのち、明治30年京都にも帝大が出来ると東京の大学は東京帝国大学に再び改称されて、戦後の学制改革まで内外9つの帝大が創立されたとか。。
なんだか、ごちゃごちゃし過ぎて、この標石は一体いつの帝国大学のためのものか❓さっぱりですね😅
ひとまず、駒場にあった明治30年の東京帝国大学に改称したころの農科大学(旧農学部)敷地部分図を見てみます。
敷地の北側に沿った三田用水の下流側の橋を渡った先に、当時の通用門はあったようですが、実はこの橋は徳川幕府の鷹場だった頃に将軍が渡った御成橋なのです。
そこを当時は大学の通用口として、使っていたってわけなのね…🤔
しかし、肝心の標石は、御成橋よりもまだまだ南側の場所。。ってことは敷地がのちに拡張したのでしょうか。
少し時代を進めて、大正8年に農科大学が東京帝国大学農学部に改正された頃の敷地部分図を見てみることにします👀
明治の地図と比べてみると、Gateと書かれた旧御成橋から南側に敷地が拡張されて、立派なFront Gate、つまり大学正門が完成していますね❗️
以前の正門は、敷地の北西側で現在の東大裏あたりにあったのですが、確かにこちらのほうが渋谷駅から一直線で通えるわけですから遥かに便利ですよね。。
そして、現在の地図と同定してみると、、👀
今も三田用水路跡の際に残る帝国大学境界標石が、大正8年頃の土地拡張で作られた正門(紫の線)の位置と確かに一致しているのがわかりました。
この路傍の石が見た目からも御影石の摩耗と刻字の擦り減り具合からして、古いものだは思ってましたが、大正時代の貴重な標石だったとはっ。
改めて、正門のあった場所を正面から眺めてみます👀
ここにあった❗️と分かってしまえば、住宅地のなかの二股路が、なんだか不思議な雰囲気を醸し出しているような気がしてきませんか❓
また次はどんな面白い歴史のカケラが道に落ちてるかな、、楽しみかなっ😊