マイmy巷話

マイMy巷話(かんわ)は「私にはそう見える!」ものを儘に書いているだけの話です。

かたつむりが不思議な動きをする

2022-01-31 | いきもの(かたつむり)

一斉に冬眠から目覚めたわが家の貝たち。。

食べ尽くされたニンジンが捨てられて、なんだか憐れを誘っていますが😅、、
今回はその上を通りすぎる一匹の貝に注目したい❗️


さっきから枝を上がっては下がり、、を繰り返す不審な動きをみせていますね。。


👀



突然、上を見上げて固まる貝。
なんだか一点を見つめていますが、あっちに何かあるのかな。。


えっ😮
やっぱりそっちなのっ❓
ワタシゃなんにも見えないぞっ💦


しかも、めちゃくちゃ大仰に見てますよっ😅
一体なにがキミだけに見えるんだっ笑


で、しばらくして。。


静かにこうべを垂れる貝。
どうやら本人のなかではなにか納得したようですな。。


で、Uターン🌀


そして、何事もなかったかのように下りる。。。🐌


一体なんだったのかな❓
なにかご神託でもあったかな笑


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行動は何故か一緒の かたつむり

2022-01-28 | いきもの(かたつむり)
かたつむりを観察していて、毎度おもしろいと思うこと。。



何故一斉に冬眠から目を覚ますのだろう…ホント不思議だ🤔



おまけに頼んでないのに一列に並んでいるし?
ここはワクチン会場じゃありませんよー😅




まっ、せっかく一列に並んでいるなら、キミらの好物でもあげましょうかっ笑
ひと月ぶりのうまうまはさぞ美味いだろーよ。



すかさず、先頭が美味しいものをキャッチした顔になりました。
が、ワタシとしては2番目に注目したいっ👀




どうやら、待ちきれない‼️という気持ちが全面に出てますなっ😆
そりゃ、ひと月も文字通りの意味で自分の殻に篭っていれば、お腹がぺこぺこ過ぎてそうなりますよねー。



とはいえ、決まった順番は遵守して下さいっ。
キミはあくまでも2番目なのよっ✌️




いただきまーす❗️の先頭と、




それを恨めし気に見る2番目くん。。
顔が近いぞっ。




どうですかー?
美味しいですかー?
美味しいですよねー?


と、間違いなく顔は語ってますなっ笑

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

動かない かたつむり

2022-01-23 | いきもの(かたつむり)
新年早々から石のはなしが続きましたが、貝はといえば如何せん動きがなさすぎて書こうにも書くことがありません…😅




動きがないというか、、貝の引きこもり?
とにかく姿が見えないわけ😓




一応生存の確認までに葉っぱを払うと、このケースに春まで居候予定のチビくんがまずは姿を見せました👀

まだまだ育ち盛りのチビくんは、親貝がただいま冬眠真っ最中でも、唯一食べ物を求めてときどき徘徊を繰り返しているようです。




で、別の葉っぱを剥がしてみると、、
6粒の小さな貝が団子化して身を潜めていますねー👀
これがネコなら、さぞ可愛いだろうよ。。





そんなわけで、引きこもりから出てくるのはまだ先の様子なのです。



引きこもりといえば、貝ぬしの職場はとうとう昨今の災禍でしばらく閉所になってしまいました。
皆さまもご自愛を。。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目黒・散歩途中に不思議な境界石を見つける その4

2022-01-21 | 街歩き・歴史散歩
散歩ついでに街角で見つけた石のはなしが思ったよりも長くなってしまいましたが、これでお仕舞いにしますね…🐌




目黒の住宅街で見つけた戦前に建てられた境界標石。。

「田中」と個人名が刻まれた石は立派な白ミカゲのようですが、なんだか見ればみるほどこの風情って近所のアレと似てるような…🤔




そうっ👆
アレとは池尻に残る駒沢練兵場の陸軍境界石。
道端に建ってるだけなのに、なんだかただモノじゃないオーラが似てる気がしませんか?


そんな田中さんの境界標石なのですが、一体どんな方だったんでしょうね。。


余計なお世話なんですが😅、、
ちょっと調べてみたくなりまして、地元の法務局で100年以上前の旧土地台帳からざっと辿ってみたところ、意外にもこの地番に当たる所有者には歴史のなかでその名を残す人物が何人もいるものの、残念ながら田中さんの名前は見当たりません。

そこで、大正11年に土地所有者だった実業家の望月軍四郎が山林を開墾した記述をヒントに、その後田中さんは移り住んだと仮定して、当時の住宅地図から探してみることにしました。
因みに昭和のはじめは関東大震災で罹災した人らが地盤の固い目黒や世田谷に移り住んだ時期にちょうど当たります。




そして、これが昭和10年の住宅図。

で、ありましたっ👀

🔴の2つの標石が建つ場所に「田中大太郎」さんのお名前を見つけました!
やはり田中さんは90年前のこの場所に確かに住んでいたんですねー。



再び余計なお世話なんですが😅、、
携帯片手にどんな方か?と調べたのですが、またもや名前が見当たらず。

90年前の地図に氏名が載るなら、社会的に地位のある方のはずなんですけどね🤔


そこで、この土地がいつ田中さんに文筆されたのか?を旧土地台帳から探ってみることにしたのです。
文筆とは今回法務局で学んだのですが、ある土地を登記上に分割する手続きを表す不動産用語。
語源はさておき、チョンマゲ時代からなんだかそのまま使われている言葉…ではないかと思われます。

昭和10年の地図で田中さんが住んでいたことはわかったので、それ以前に文筆した記録を土地の地番から調べて、新たな地番の台帳を見れば良いというわけですねっ👆
因みに地番というのも、番地とは違う不動産語でややこしいのですが…


そして、旧土地台帳の記録からわかったことをざっとまとめてみました📖

●大正10年からの所有者で実業家の望月軍四郎が昭和2年にこの土地を文筆して新たな地番が登記されている

●昭和3年に文筆された地番の土地所有権が田中◯に移転。

●昭和5年に開墾。山林から宅地へと変わり地価も大きく修正されている。


このことから、90年前に自分の土地に立派な境界標石を建てた方は、昭和10年の古地図に記載された田中大太郎さんではなく、その5年前に土地台帳に登記された「田中◯」さんではないかと思われます。
両者はおそらく親族だとは思いますが…。

敢えて名前を伏せたのは、調べると幾人かの同姓同名が存在するため、特定することができなかったからなのです。

それでもヒント💡として、

●昭和5年に目黒へ転居してくる以前の住所が渋谷駅前の渋谷警察署に隣接する住宅地で当時の庶民には手軽に住めない場所だということ。

●個人の標石とはいえ、材質やサイズまでも陸軍標石に似た作りだということ。
おまけに当時の世相を考えて、周りに忖度せず自宅に建てることができた意味。

●敷地が大通りに面して四周を囲まれた立派な屋敷構えだったと古地図からわかること。


…を踏まえて、そのなかのひとりに陸軍のトップ階級の名前があるため、その方かな⁉️と思ったりもしていますが🤔

🐾

🐾

結局、街で見つけた西郷標石や田中標石の人物を探し当てるまでには至りませんでしたが、この土地を深く調べるほど明治から続く時代の功労者の名前(詳しく書けませんでしたが浜口陽三のアトリエも!)が古い土地台帳に次々と現れては消えていくことを目の当たりにできて、なかなか貴重な体験だったと思っています。

100年以上前の色褪せた冊子がオタクな散歩好きに、地元の土地に埋もれた歴史の断片を今回こっそり教えてくれたのかもしれませんが笑

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目黒・散歩途中に不思議な境界石を見つける その3

2022-01-13 | 街歩き・歴史散歩
ワタシが今まで見た戦前の希少な標石といえば、山のなかでは宮内省御料局の宮標石、街中では陸軍の境界石あたりを挙げられますが、今回目黒の住宅地で見つけた個人名が刻まれている境界石はホントに初めて。。



しかも、「田中」「西郷」と違う名前がふたつも並んでいますっ。

石に土地の境を標すばかりか表札の役目まで担わせるとは、、🤔
やはり地位のある人物だったのでしょうか。




「田中」と刻まれた石から見てみます👀
池尻で見た陸軍の標石と同じような作りの立派な御影石で出来ています。

そして背後に見える小さな石が、、


これですっ👆
西郷から下の文字が埋もれていますが、「家」と読める気がしませんかっ👀



石のアタマには境界点を示す穴が開いているので、この西郷石も確かに境界石であることは間違いはなさそうです。



一方、田中さんの石にも、はっきりとした境界点があります。
実は田中さんのほうは、西側と東側の敷地の角にそれぞれ立派な境界石が残っているのですが、西側の石は見ての通りにすっかり埋もれています。

うむ。やはり調べてみようかな。。🤔



まずは今もこの土地が田中さんと西郷さんのものかどうか?を確かめてみることに。
だって、もしそうならこれ以上ツッコんではダメって気がしませんかっ💦




で、この土地の古い記録簿が登場っ👆

あとからお話しますが、100年以上も前のこの土地所有者は、現在検索をするとすぐに出てくるような歴史的に名を残す方々が記録簿に並んでいたのです。
(因みにその他の個人名は塗り潰しています)

これは旧土地台帳といいまして、明治の地租改正以降から戦後までの国の税金徴収目的で使われていたもの。
今も地元の法務局で誰でも見ることが出来るため調べることが出来たというわけなんですねー。

が、、肝心な田中と西郷の名前は見当たりません😯
ワタシの無責任な憶測としては、西郷従道が台帳に登場することを願っていたため、ちょっぴり残念。。

西郷従道とは西郷隆盛の弟でして、この方はかなりの兄想いだったらしく、身体を壊した兄の静養地として、明治初年頃にこの標石の建つ場所からそれほど離れていない目黒川沿いに広大な土地を購入しているのです。
のちにそこに本人が立派な屋敷を建てて、一帯は西郷山と呼ばれるまでになったのですが、当時の地租改正で税を払えなくなった周辺の農家から山林や農地の買い上げを頼まれた従道の所有地は最大14万坪にまで及んだとか。。
だから、この西郷石の建つ場所もその一部じゃないか⁉️
…と思ったわけなのでした😅

ただ、土地台帳が制度化されるのは明治20年過ぎてから。
もしそれ以前に西郷従道がこの土地を手放していたとしたら、記録は残ってないということになりますよね?
やはり真相は藪のなか。。
西郷標石のみが知るってことでしょうか🤔


しかし、台帳に残るこの土地の所有者らが意外な大物だったことが今回判りました。

まず台帳に最初に記録された所有者の深川亮蔵という方は、明治24年に古川源太郎に譲与していますが、調べてみるとどちらも旧佐賀藩の鍋島家の重臣だったのです👀

どうやら、鍋島家は海外渡航で不在が多かった若い殿様に代わって、元教育係でもあったこの方々の手に明治維新後の旧鍋島藩の全業務は委ねられたのだとか。。
具体的には、設立した第三十国立銀行の頭取に就任して旧佐賀藩の経済基盤を作り、佐賀や東京にたくさんの土地を購入して利を得たり、、
と外面的には全てはこの人らの名前で行われていたのです。
だから、台帳の登記名がお殿様じゃないってわけか…🤔




これは明治初年頃の古地図です👀

現在標石が建つ位置の下あたりに「茶」と記載がありますが、おそらく、旧土地台帳に記録された鍋島家の土地がこの茶畑かと思われます。

茶畑といえば、ここからほど近い渋谷の地に鍋島家は「松濤園」という広大な茶畑を作らせて、旧藩士に狭山茶を生産させた時期もあったため、この目黒の土地の茶の生産も松濤園と加えて、利を出していたのかもしれません。

のちに松濤園は分譲されて都内屈指の高級住宅地として地名だけが残っています。



…と、目黒のある土地を巡って明治維新の立役だった西郷家から鍋島家へ、、と散歩途中に見つけた石を端にはなしをずいぶん膨らませてしまいました。

が、その後もこの土地所有者の変遷はなかなか面白く、鍋島家から幾人かを経て、明治の横浜発展の礎を築いた実業家の小野光景、そして早稲田や慶応をはじめ日本の教育、研究施設に多額の寄贈をした実業家の望月軍四郎などが記録上に連なっていることが判りました。

やはりここはただの山林、、というよりもなんだか持っていたくなるような意味のある土地だったように思えてなりません🤔


次回はもうひとつの「田中」の石について調べてみたいと思います。



マイマイネタはしばらくお休み。すみません。。🐌
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目黒・散歩途中に不思議な境界石を見つける その2

2022-01-11 | 街歩き・歴史散歩
前回記事に続き、散歩途中に楽して見られる陸軍境界石がまだあったことを思い出しました。


それがこちら👆
世田谷区池尻の陸軍用地と刻まれた境界石は、墓地と隣接する専門学校の境で今もまるで現役のような存在を示しています。


御影石のアタマが十字に刻まれていますね…👀

十字の意味は敷地が四等分に分かれた場所だと示すため。
でも、ここはただの一本道だし。。🤔


で、大正時代の古地図を見ると、この池尻から246号線を東側に越えた一帯は陸軍の駒沢練兵場で、境界石は練兵場のちょうど北西の角の民有地と個人墓所の境に設置されていたようです。

当時、柵があったかは分かりませんが、広漠な場所だからこそ、ここには幾つもの標石を立てて(現在、他の標石は埋もれていて、上部だけ見ることができます)、当時は土地の区別を明確にしたかったのかもしれません。

…このように立派な御影石の「陸軍」標石だけでもなかなか珍しいものの、先日、目黒区の松見坂の住宅地の裏路地を散歩中に、個人名が刻まれた2つの境界標石が偶然並んでいることに気づいたのです。


まずは右手が以前見つけた「田中」と刻まれた立派な境界石で、左側の小さなものが今回見つけた石。

なんだか「西郷(家)」と読めるんですよね、、、。

しかし、昨今は個人情報やらなにやらあるため、慎重にやらなきゃいけません💧
ちょっと調べてみようかな…。



再び続く。。🐌

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

散歩途中に境界石を探してみる

2022-01-03 | 街歩き・歴史散歩
これまでぶらぶらと歩いては、世田谷や目黒に残る歴史のカケラを何度か探してきましたが、改めて思うのは、ワタシってなんだか訳もなく石が好きなんですよね。。


石といっても自然風化の奇岩を観るよりも、玄関を出れば至る所でお目にかかることのできるような境界標石みたいなものに惹かれるのですねー。

因みに写真の👆は、ウチの前の道路に埋まった境界石。おそらく砂利の入った雑なコンクリート作りは戦後あたりじゃないか、、と。

境界石って土地所有において、土地の境界を示す大切な設置標なのですが、おそらく、ほとんどのヒトはその存在にたいして気にも留めないでしょうね。
しかも、この境界標は石やプラスチックや金属じゃなくとも他のものでも構わないのだとか。。

それで思い出したむかし話をひとつ😲
会津の山奥で当時一人暮らしをしていた齢80を越えるワタシの祖母が、家の裏庭に立つ柿か栗?の木を勝手に邪魔だと切ってしまったことで、隣の家との間で訴訟にまで発展してしまい、祖母が敗訴したことがあるのです。
これは、切った木が隣の敷地との境界木だったことが裁判所で認められたからなんですねー。
そんなことなど全く知らなったおばあちゃんがなんだか可哀想なんですが、、。


やっぱり木が境界標じゃ不安だし、、💧
というわけで頑強な花崗岩で作られた標石もあるわけでして、これは、世田谷区代沢の陸軍獣医学校敷地跡に残る「陸軍省所(轄地)」と刻まれた境界石ですね❗️
ここには敷地のまわりに、合計3つも陸軍標石が残っているので、マニアには興味深い場所かもしれません。。


お次は、淡島通りを渡って世田谷区池尻へ。。👀
陸軍騎兵第一連隊跡地の石垣に沿って歩いています。

戦前は騎兵山と呼ばれた台地上にあった騎兵第一連隊の石垣は、昭和に入ってからの脆弱なコンクリートで作られた他の戦争遺構と比べて、花崗岩で造られた立派な城壁そのもの。
当時日清戦争に続いて、日露戦に突き進もうと国内気運が高潮するなかでの軍隊の威厳をこの積み上げられた御影石からも感じられますねー。


その下をよく見ると、、👀
崖下のゴミ捨て場の脇には、とっくに役目を終えた花崗岩の崩れた塊だけが放置されていました。


すぐ近くにあった池尻偕行社住宅との境界でも、電柱のうしろで隠れん坊している石を発見しました❗️

さすが、かつては軍の町だけあって、ちょっと探せば、道端には面白いものがいろいろありますな🤔


お次は淡島通りを目黒側へと移動してみたいと思います。
実は、個人の名前が刻まれた戦前の標石が、ふたつも仲良く並んでいる場所を、最近見つけちゃったのですっ😆


続く。。🐌
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お正月の かたつむり

2022-01-01 | いきもの(かたつむり)

外は寒いが、南側がぜんぶ開けているわが家は窓から冬日が入ってとても暖か。。。


今日はお正月🎍
さてさて、わが家の貝は新年早々なにしてるかな👀





おや😳
まさかの初風呂⁉️
粋な江戸っ子ですなっ。。


では今年もよろしくお願いします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする