コロナの外出制限が出るなかで、少しの散歩は大切なものです。そこにたったひとつのテーマを与えて、にわか探検気分を味わえるのが古道散歩!
で今回歩くのは、現在の環状7号線若林陸橋横の滝坂道商店街にタイムスリップしてみました👏
どうやら80年前のこの商店街は100件を超える賑わいをみせていたのだとか。。
そんな商店街を当時を知る人が描いた貴重な絵図と比べて、現在は果たして何件ほどの店が営んでいるのか❓を調べてみたいと思います。
ま、モノ好きがただ確かめているわけですな…😓
さて、滝坂道商店街の絵図(部分)がこちら👆
前回からの続きで、現在の環七を越えた先からみていきたいと思います。
(現存するお店には図上にピンクのマーカーを入れてみました)
因みに環状7号線は戦後の東京オリンピック開催年に完成しているためまだ存在せず、そこにはお店が並んでいますね👀
早速、環七を渡ってすぐ右手の「酒ヤ」は健在でした❗️
絵図には酒屋の角に乗合バスのバス停が描かれてますが、「世田谷役場前」でしょうか。。 戦前はこの近くに若林に世田谷区の役場はあったんですねー❗️
そんなバス停の道向かいを入った場所にかつては交番があって、その隣は尋常小学校の文字も見えていますね…👀
それがこの若林小学校、、の跡地になります。 学校は新たな都道が建設されるためにすぐ先の場所へ最近移転したばかり。。
このあたりって近ごろ、小学校の移転や合併が続いているのですが、結局が大人の事情で子どもが振り回されているわけですから、なんとも迷惑な地域のようですな😓
さて❗️場面は移って、お次を見ていくことにします👀
このあたりは見ればみるほど商店街の核心部だけあって、いろんなお店が並んでいて賑やかそうですねー😆
酒屋の先には「米ヤ」が健在👏👏 コシヒカリの看板がやけに嬉しいなっ笑
その先の「酒ヤ」さんも昭和の雰囲気をそのまま残しているようです。。
この絵図が貴重なのは、戦時中に焼失した範囲まで描いた方の記憶に基づいて残されているということ❗️
そんな、うぜんや酒店のまわりも当時ずいぶんと焼失しているようですね。。
因みにうぜんやを変換すると羽前と書くらしいので、近江屋や備前屋のように、いかにも歴史漂う屋号ですね❗️
実はこの商店街って、遥か昔に府中が関東の国府だったころから続く由緒ある道だったりもするのです。 かつては滝坂道とも呼ばれていました。
そんな歴史ある古道でやけにスタイリッシュな建物を見つけたのですが、たしか、、前に通った時はここは古い木造家屋だったような気がするぞ…🤔
やはりそうでしたっ❗️ 5年前に同じ場所からたまたま写した一枚が残っていましたっ😆
絵図にもあるように、ここには確かに「魚ヤ」と「クスリヤ」が建っていたことが判明しました。
なんだか時間って、、魔物よねっ💧
その先🐾 郵便局の隣には今も「菓子屋」が看板を掲げていました❗️
絵図を見ると、かつての郵便局は数軒手前にありまして、当時ここには演芸場や芝居小屋が建っていたようですね。そんなものまであるとは、すごいな。。。
むかしの商店街って、いまでいう高層化したコンプレックスタイプを平たく地面に並べただけだったんですねー❗️
「菓子ヤ」さんを見上げてみる。。
なんだかコカコーラの看板を見ていたら、小さい頃にコーラを車で配達するお兄さんがとっても素敵でキラキラ✨と眩しかったことを思い出しました。
お菓子屋さんの斜向かいの「電気ヤ」も健在でした。。 わけもなくホッとします😌
ここは昭和の時代は庶民の誰もが憧れるブランドだった日立を扱っているようですね。
…が、ここから先は住宅街に変わっていて、残念ながらお店を見つけることはできませんでした。
戦前は商店街外れに乗り合いバスの発着所があったようですが、、。
改めて、80年前に100件余りあった世田谷の滝坂道商店街は令和の現在、7件ほどのお店が営業を続けていることがわかりました。
絵図を見ながら歩いたからこそわかったことは、長い歳月の間、戦火で多くの家屋が失われたり、環状道路の建設で去っていったお店もたくさんあったという事実。
そんな事実もいつかどなたかが残した古い史料があったからこそ、深読みが出来たというものですよね!
今回も、古道あるきの違った意味での面白さがいっぱい❗️ご近所散歩ができました。