マイmy巷話

マイMy巷話(かんわ)は「私にはそう見える!」ものを儘に書いているだけの話です。

桜並木と安吾と小学校と

2016-03-28 | 街歩き・歴史散歩
はなしの続き🐌



もいちど、東京時層地図アプリで、明治初めの古地図を見てみます👀


赤矢印は、江戸から府中を結ぶ江戸時代以前からあった滝坂道。
緑矢印は、滝坂道から分岐した、森巌寺(淡島大明神)へと向かう道。

そんなふたつを前回、前々回は、ふらふらとお散歩してみました。


特に、森巌寺への道ですが、江戸から朝イチにお参りにきて、評判のお灸を据えてもらい、帰りは元来た道から、神泉谷の弘法湯に立ち寄りひと風呂。
そして、座敷で一杯。。。

そんな娯楽が大流行りをして、賑わったお寺の門前とともに往来のある道だったようですね!

また、明治初期の古地図を見ると、村道は森巌寺の先を、田んぼのなかの川のほとりに建つ一軒家へと繋がっているようです。

滝坂道からつながる古道の終点にはいったい何があったのでしょうか。。



早速行ってみると、そこには現在小学校が建っています👀


《学校の前にアワシマサマというお灸だかの有名な寺があり、学校の横に学用品やパンやアメダマを売る店が一軒ある外は四方はただ広茫かぎりもない田園で、もとよりその頃はバスもない。》

と、大正の末に周囲の風景を記述したのは、当時20歳でこの代沢小学校の代用教員となった坂口安吾なんですね❗️

ワタシの好きな「桜の森の満開の下」の作家が、かつてはこの小学校の代用教師をしていたなんて、ちょっと嬉しかったりします。。


調べてみると、代沢小学校は世田谷区で1番古い若林小学校の分校として、明治のおわりに開校したようです。

そこにやって来たのが坂口安吾だったんですね❗️
とはいえ、たったの一年で教員を辞めちゃったようですが、自分を安吾と称したのもこの頃だったとか。。。

それ以前、ここは村の子どもらが通う森巌寺の寺子屋(下北沢と代田の村の両地名を合わせて「代沢塾」と呼ばれた)があったそうでして、滝坂道から淡島さまへと続く道の終点にこの寺子屋が建っていたわけなのです。




小学校に建つ安吾の碑を見ています👀

「人間の尊さは自分を苦しめるところにある」


これは、放課後にひとりで居残っている自分に向かって話しかけたセリフで、安吾の自伝小説のなかの一節です。



そんな桜並木の安吾の碑を、飼い主さんと真剣な様子で立って見ている犬がいました笑


実は、この小学校は来年で建て替えになるのです。。
明治大正に渡って長い歴史を持つ小学校は近頃子どもがめっきり減ってしまったようでして、いよいよ隣地域の小学校と合併することになったからです。

その時、果たして、この安吾の碑は移ってしまうのでしょうか、、

いちファンとしてはやはり気になるところです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続3)滝坂道と淡島参り

2016-03-23 | 街歩き・歴史散歩
高校時代は川越で郷土クラブに所属していた私なのです。

川越の古い商家にいきなりお邪魔して、
むかし話を聞いてまわるのですが、
地元女子校の特権で、何処行ってもお茶やお菓子を振舞われまして、
そりゃあ、呑気な時間を田舎町で過ごしてました。
楽しかったな。。



∧( 'Θ' )∧


∧( 'Θ' )∧








場所は移ってここは世田谷。淡島通りの淡島交差点近く。


江戸がいわゆる「江戸」でなかったむかしむかしは、いまでいう、霞が関みたいな場所は、府中にありまして(説明 雑っ!)
滝坂道はそんな江戸と府中を結ぶ主要な道だったとか。

そんな滝坂道の一部で、246号の神泉交差点先から環七の若林陸橋までが、現在淡島通りと呼ばれています。



そして、うえの写真に戻ると、、、
周辺には淡島交差点や淡島交番などなど、その名に因んだ看板が、見られるものの、この淡島って地名は地図にないことに、最近気づいたわけなのですっ。




じゃ、淡島って、、、?
そんな疑問から始まった今回のお散歩なのです(`_´)ゞ







まずは、毎度の古地図アプリからっ( ̄Д ̄)ノ
明治初年の淡島あたりは、雑木林に畑に田んぼだったのね。。。
まんまの江戸時代!


滝坂道(地図中央の破線と実線で描かれた村道)は、
この淡島で、カーブして川を渡り、
南の方に進路を変えていくのだが、、、(緑矢印のほう)

そこから分かれていく村道(赤矢印のほう)もありますね!
しかも、まるでこっちが本道とばかりに、
しっかりまっすぐ地図に描かれているような?


なのによく見ると、
その先この村道ってどんどん先細りして曖昧になっていくんですね〜。
じゃあ、何のための道なのよ、、、。




(・◇・)?







ってなわけで、その不思議な分岐路に行ってみることに。
バス道路の淡島通りから一歩入ると、そこは一方通行で静かな道。
古地図ではしっかりと描かれていたが、かなり幅も狭いし。






前方に高木が並んでいるのが見える。
おまけに、幹の先には、数羽のオナガが!
オナガは世田谷区の鳥だし、何だか幸先よさそな予感。。。





そんな樹の下に、朱塗りの立派な門がある!

史跡の欠片もなかった、ただの路地が、まさかのオナガ効果で、
一気にヒストリーチャンネルにっ(=゜ω゜)ノ






大名家ならいざ知らず、赤門なんて凄いな。。。
ここは、かつての天領。
やっぱ、徳川家と関係あるお宅だったのかな〜?
屋根の彫り物も亀に龍とかなり凝ってるし。

古地図を見ると、ここには確かに大きな屋敷が描かれていますよ!







側にあった世田谷区の説明板を読んでみると、
どうやら名主の屋敷だったことが判明する。

残っているのはこのベンガラ門とほんの僅かな屋敷林の木のみらしいが、
それでも貴重な史跡ですっ。





近くには名主さんの子孫から譲られた区立公園もあったし。。。
やはり、これも公園の入り口が屋敷門なのね〜。





なるほど~(・◇・)
はっきりしっかりのこの道は、
むかしは名主ストリートだったってわけか。。。







その先、マンションのゴミ捨て場内にも、
屋敷林の名残らしきイチョウの木がニョッコリと立っていたな、、、。






そんなイチョウの前方には立派な神社が建ってます。
ここは地元、下北沢の鎮守様。
手前、石に掘られた名前の人も、ただの同姓同名なんかじゃありませんよ〜。






そして、その先。
まるでゴールのように、
あの門を目指してこの道があるかのように見えるではないか!







それはお寺だったのでした。
ちょうど、この日はお彼岸なのね。





門前に建つ常夜灯と並んだ江戸時代の石柱には、
「淡島大明神」という文字がしっかりと見えますぞ(=゚ω゚)ノ







調べるとやはり、淡島の地名は、この森厳寺に端を発しているようです。
このお寺のお灸に大層ご利益があることから、
江戸の名所となり、辺りに茶店や宿もできて、
遠くから、たくさんの人が押し寄せた、、、とか。

まっ、見たわけじゃないから、どんだけの人か知らんけど、
確かに古地図を見れば何となくは頷けるような~~( ̄。 ̄)





門前の石柱には、青山や祐天寺、目黒不動の文字が残ってます。
道に不慣れな参拝者が迷わないよう道しるべの役割、
今で言うウォークラリーみたいなものなのかな、、、?






境内の幼稚園の庭には、樹齢400年のイチョウの大樹が印象的!

このお寺はそもそも家康の次男のために建てられたらしいので、
その頃からずっと立っているということかな。





富士山、大山、そしてこの淡島明神。。。
庶民で賑わう先にも後にも道ありき。
古地図を見れば、より納得出来ました!




そんなわけで、滝坂道から分かれた道は、
現在でも淡島の名が残るほどのかつての江戸の名所、
淡島大明神へと続く立派な参拝道と、
立派な赤門を構える名主ロードだったのでした。







気まぐれ散歩は、また続く。。。のか?





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続2)滝坂道を歩いてみる

2016-03-14 | 街歩き・歴史散歩

気が向いたので、昨年の古道の続きを歩いてみた( ̄Д ̄)ノ






世田谷では、地域風景資産に指定されている滝坂道。。。


ざっと読めば、この道は、

古くは、府中を結ぶ政治的な意味合いの往還から、
江戸時代には、庶民の信仰の道として使われるようになり、、

その後、淡島通り周辺が陸軍省用地に様変わりをして、
軍用車だか軍用馬の往来がひっきりなしの時代に突入。

戦後は、環状線 山手通りとともに、
この辺りでは立派な道路!お世話になりますバス路線!


そんなこんなの歴史の背景があったのね。。。







で、今回の散歩のはじまりは、



淡島通り(滝坂道)の松見坂交差点から。。。






お久しぶりのこの明治末の古地図では、遠江橋と書かれているところが、それ!
川の流れるこの低地は、あたり一面田んぼだったのね…。



考えてみれば、ここって、
いままでのワタシのご近所歴史散歩でも、
都会の分水嶺 三田用水路跡やら、
駒場東大敷地内の湧水地を端にした空川暗渠歩きなどで、
たびたび歩いているのよね……(・◇・)

そして、松見坂は文字の如く、松のもと見渡す景色が、
江戸の名所図絵になるような場所だったらしいし、、、。

う~む。。。
やはり、歴史ってのは、場所まで同じ所を繰り返し、選んでしまうものなのか?






ともあれ、松見坂から古地図では緩く左カーブ。
淡島通りを離れて、本命の旧道へ入ります。一気に静かだなっ。





この丸いオブジェを見ていると、
当時の土地の形状が分かるような気がしてきた。

なるほど~~。
古地図ではわかりにくいが、
一旦道は下がってから、再び上がっているのか。






そして、この小さな交差点をピークにまた下がるのね。
たった100mほどの道でも、やたらと細かな起伏がある。
昔、荷車で通行するには、誰かに押してもらって、
なんとか通行していた、という話も納得!





ムムっ!
交差点から右を見ると、なにやらここは覚えがあるぞっ!?
地図を見ると、やはりこの道は三田用水路跡の小道じゃないですか!

かつては都会の分水嶺に沿って流れたこの用水路。
つまり、この小さな交差点がこの辺りの土地のピークにあたるというわけか…。






確かに、ここから道は下がって、広い山手通りに出た。
滝坂道は山手通りを突っ切った先へと続いているが、
尚、下がっているのがわかる。





旧道らしく、細くうねった道は、
同じ滝坂道を世田谷の豪徳寺に向けた風情に似ていました。






でも、やはりここは渋谷!おしゃれな店がいっぱ~い。
フクロウカフェまで、ありました!
30分1500円か。。。う~ん。。(⌒-⌒; )






この並び、明治の古地図では、かつて大きな建物が並んでいたのがわかる。
おそらく、花街と呼ばれていたころの料亭じゃないかな。
で、そんな跡地の一角が駐車場になっていて、、、。







その奥に古い石積みの一部を見つける。
古地図にも見えるこの塀。
裏手には昔の湯治場、弘法湯があり、敷地の外構らしいが、
その後、辺りは戦災にあったと聞いているため、果たして当時のままのものかどうか…。







回り込んで神泉駅前に出る。

そうそう!この駅、かつては神泉谷と呼ばれた細長い谷間をつなぐように、
作られたため、ホームの半分がトンネル内に、もう半分が外にといった、
おもしろいかたちをしています。
細い谷間はこの古地図の等高線を見ると少しはわかるかな?
で、当然谷間の駅は、出発すると踏切渡って、すぐにトンネルのなかへ。。。
次は渋谷駅だしっ!








そんな谷底にあった弘法湯。
いまでは、明治の初めに作られた入り口の弘法大師の石塔が残るだけ。

ここ、神泉谷から湧いた水に霊験があるとの謂れから、
江戸時代になると、富士山や大山詣、
滝坂道の先の淡島明神のお灸帰りの人らが多く立ち寄り、
繁盛したらしいですよ~。





明治になると、湯治場から歓楽場へと様相を変えて、
ますますフィーバー。
奥のマンションあたりに大きく構えた温泉料亭には、
近くの芸者置屋から、芸者さんらがお座敷に呼ばれたとか。。。
言ってみれば、オトナの街だった神泉谷。




料亭前のこの階段も芸者にあわせた蹴上げになっているらしい。




ふらふらと趣ありそな横道入れば、当時の料亭の黒塀なんかが、
残っているかもしれないが、なにせこのあたり、東京でも有数のラブホ街。
いまでもオトナの街は変わらないってわけ。
とてものんびりと写真など撮るわけにいかないのだよっ( ̄Д ̄)ノ

まっ、今回は滝坂道歩きのみにしましょうか。





道玄坂上交番の5差路に出る手前。
すでに空き家になった氷室店が、残っていた。








そして、道玄坂へ。
滝坂道はここで終わって、ここからはじまる。。。。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする