前回のはなし:
栗原勇大佐一家の住居は駒場804番地だと昭和11年8月号「改造」別冊付録には書かれています。
《駒場の栗原家のある道は淡島通りの松見坂より入り、人通りの少ない静かなところだった》
《道の片側は高い崖で、崖の上は偕行社住宅群だった》
さて、お次は栗原一家の崖上に建てられた偕行社目黒住宅あたりを歩いてみることにします🐾
それでも、なにか残ってないかっ❓❓と目を凝らしていると、、
再び栗原家の敷地周辺へと戻って来ました🐾
昭和の半ばまで松見坂交差点に立っていた日蓮上人石像を建てた人物が栗原安秀元陸軍中尉の父、栗原勇大佐で、2.26事件首謀者として銃殺刑に処せられた息子への慰霊を込めた石像か、、と思いきや、どうやら事件の5年前には、すでに松見坂に立てられていたようなのです。
今回は、そんな軍人一家のはなしを。。
栗原勇大佐一家の住居は駒場804番地だと昭和11年8月号「改造」別冊付録には書かれています。
当時の火災保険特殊地図を見ると、まさに日蓮像の建っていた松見坂交差点からすぐの場所❗️
で、、
地元の大橋図書館の郷土資料コーナーで参考になりそうな本を探してみたところ、うってつけの本を見つけたのでした。《「駒場の2.26事件」小池泰子》
そこでわかったことをざっとまとめてみると、、📖
栗原勇大佐一家9人は、大正12年に三重で退役した後、東京の駒場東大前駅近くの借家に転居してきたが、関東大震災で被災。
その後、退職金2万円を充てて、近くの土地を買い求め、奥さんの助言で自宅の周囲には4軒の貸家も建てている。
…と、自宅を新築したばかりか家賃収入まで見込むとは、栗原中尉のお母さんはかなりのしっかりものだったのね。。
そんな、栗原家の立地に関する描写を本から少し拾ってみます。
《駒場の栗原家のある道は淡島通りの松見坂より入り、人通りの少ない静かなところだった》
《安秀たちの新居の別棟は入口も別で道に面しており、謀議には最適な場所だった》
《駒場の栗原家は、2.26のアジトみたいな所でしたよね》
《道の片側は高い崖で、崖の上は偕行社住宅群だった》
偕行社目黒住宅とは陸軍の大尉クラス専用賃貸住居で、その東側の崖下に栗原家は建っていたことがわかりました。
大正期の古地図を見ると、松見坂の空川周辺は、一面が田んぼで描かれていますが、関東大震災で一気に都心から罹災者が移り住んだことから、今のような街の姿が誕生したようですね。
そんな栗原勇大佐は、2.26事件以前から周辺では名の知られたアクティビストだったようでして、自宅近くの松見坂の角に立派な日蓮上人像を建てたばかりか、一銭献金運動と称して全国を行脚したお金で軍用機を献納してみたり、またあるときは心頭する鎌倉の武将畠山重忠の霊堂建設に身を投じたり、、とノンストップで社会奉仕と愛国心に全身全霊を投じ続けた熱い人物だったようです。
やはり、そういう真っ直ぐなところが、良くも悪くも息子さんに似てしまったのでしょうか。。。
さて、お次は栗原一家の崖上に建てられた偕行社目黒住宅あたりを歩いてみることにします🐾
淡島通りの道向こうから住宅正面口を眺めていますが、当時はオレンジ色のレストランあたりに、偕行社の出張所(売店兼事務所)が建っていたようです。
正面口から入ります。
正面口から入ります。
かつての軍人の住居群は終戦間際の空襲で標的にあったらしく、全域が焼失していますが、こうした狭い通路に当時の空気が少しは感じられるかな。。
それでも、なにか残ってないかっ❓❓と目を凝らしていると、、
新築工事中のお宅の境にわずかな大谷石の外壁跡を見つけました。
当時の軍人住居は、この大谷石の門と生垣で囲まれていたらしいのです。。
正面口からすぐの場所がたまたま更地になっています。
古地図(目黒区火災保険特殊地図)と比べると、今の敷地境界線とそう変わらないことから、この場で大尉さんの家を想像してみると、、
大谷石の生垣から玄関をはいった平屋の間取りは4部屋プラス台所。
そして当時個人宅には珍しかった風呂まであって、女中さんまでいたらしい。。なかなか贅沢ですよね❗️
再び栗原家の敷地周辺へと戻って来ました🐾
当時敷地に隣接したこの場所にはタクシー会社があったらしく、ガンタ積みの外構に昭和の歴史を感じることができました。
現在、階段を下がったこの奥には隠れ家的な洒落たレストランがあるのですが、当時の青年将校らも人目を憚り、この裏路地から栗原中尉宅に集まっていたりして、、。
そして昭和11年2月26日。
この日帝都に起こった未曾有のクーデターを境に首謀者の家族となってしまった一家は、世間やマスコミの目に晒されながら、辛く耐えがたい試練の日々が始まったんですよね。。
同年7月の長男の処刑の際には、天皇に弓矢を引いた叛逆者と見做されたために、一切の葬儀や納骨さえ許されず、その後も一家は特高警察の監視下におかれながらも、空襲でとうとう家が全て焼失するまで、ここ松見坂に住んでいたそうです。
というわけで、松見坂地蔵堂でふと手にした目黒区郷土研究会の資料コピーをきっかけに、そのむかし愛国運動に熱心だった地方の軍人一家がこの土地に縁あってたまたま移り住み、立派な日蓮像を建てたこと、そしてその息子が小さな一家をアジトに未曾有の大事件の首謀者にまで名を連ねてしまったことを知ったわけなのです😳
いやー。たとえ近所でもボーっと歩いてちゃいけないことが、よくわかりますね。。