マイmy巷話

マイMy巷話(かんわ)は「私にはそう見える!」ものを儘に書いているだけの話です。

かたつむりの恋の相手は…

2021-06-24 | いきもの(かたつむり)


ケースを開けると一匹の貝のアタマから何やら出てるぞ😯





これは恋矢っ👀
しかも、まだ柔らかいことから、今さっき交尾をした様子だな。。






なかなか、大きな恋矢は、測ると3センチほどありました。
先端は鋭い鉤型🪝で、柄をよく見ると細かいギザギザがびっしり、、、

これってさ、、恋のキューピッド👼どころか、フツーは地獄の使者💀の持ち物だって💦
こんなの振り回されたら死ぬだろっ😅





そんな殺人的凶器の被害者(笑)は一体誰だったのか?
真っ先に浮かぶのは、日頃からくっついている小粒できれいな貝なんですが、ここ数日それが寝っぱなしなので、ふだんから割と相性のいいこのかたつむりに注目っ🔎

しかし、連日の暑さに近頃は、狂気的な恋よりももっぱらのんびり入浴三昧。。
今もアタマを水に入れてリラックス中でした。。こりゃ違うかな。





お次!現場直下のこいつだが、竹炭にアタマを隠して尻出し中、、👀
うーむ。なんかこいつも違う気がする。





残るはこいつ👆


他がみんな夏バテ中でダラダラのなか、しっかり起きているし!

おそらくこのかたつむりにちがいない笑


お疲れ様でしたー。


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目黒・松見坂地蔵から始まる歴史散歩④

2021-06-22 | 街歩き・歴史散歩
前回のはなし:
昭和の半ばまで松見坂交差点に立っていた日蓮上人石像は、栗原安秀元陸軍中尉の父、栗原勇大佐の建立でして、
2.26事件首謀者として銃殺刑に処せられた息子への慰霊を込めた石像か、、と思いきや、どうやらこの石像は事件の5年前には、すでに松見坂に立てられていたようなのです。
今回は、そんな軍人一家のはなしを。。


栗原勇大佐一家の住居は駒場804番地だと昭和11年8月号「改造」別冊付録には書かれています。
当時の火災保険特殊地図を見ると、まさに日蓮像が建っていた松見坂交差点からすぐの場所だったことが分かりました👀

で、地元の大橋図書館の郷土資料コーナーで参考になりそうな本を探してみたところ、うってつけの本を見つけたのですっ《駒場の2.26事件」小池泰子》



そこでわかったことをざっとまとめてみると、、📖

栗原勇大佐一家9人は、大正12年に三重で退役した後、東京の駒場東大前駅近くの借家に転居してきたが、関東大震災で被災。
その後、退職金2万円を充てて、近くの土地を買い求め、奥さんの助言で自宅の周囲には4軒の貸家も建てている。

…と、自宅を新築したばかりか家賃収入まで見込むとは、栗原中尉のお母さんはかなりのしっかりものだったようですね🤔
そんな、栗原家の立地に関する描写を本から少し拾ってみます。



《駒場の栗原家のある道は淡島通りの松見坂より入り、人通りの少ない静かなところだった》



《安秀たちの新居の別棟は入口も別で道に面しており、謀議には最適な場所だった》

《駒場の栗原家は、2.26のアジトみたいな所でしたよね》



《道の片側は高い崖で、崖の上は偕行社住宅群だった》

偕行社目黒住宅とは陸軍の大尉クラス専用賃貸住居。
どうやらその東側の崖下に栗原家は建っていたようです。

大正期の古地図を見ると、松見坂の空川周辺は一面に田んぼが広がる長閑な土地だったようですが、関東大震災で一気に都心から罹災者が移り住み、また軍人用の住居が建てられた結果、今のような住宅街が誕生したようですね。


そんな栗原勇大佐は、2.26事件以前から周辺では名の知られたアクティビストだったらしく、自分の住む地域に立派な日蓮上人像を建てたばかりか、一銭献金運動と称して全国を行脚したお金で軍用機を献納してみたり、またあるときは心頭する鎌倉の武将畠山重忠の霊堂建設に身を投じたり、、とノンストップで社会奉仕と愛国心に全身全霊を投じ続けた熱い人物だったようです😳



さて、お次は栗原一家の崖上に建てられた偕行社目黒住宅あたりを歩いてみることにします🐾

淡島通りの道向こうから住宅正面口を眺めていますが、当時はオレンジ色のレストランあたりに、偕行社の出張所(売店兼事務所)が建っていたようです。


正面口から入ります👀

かつての軍人の住居群は終戦間際の空襲で標的にあったらしく、全域が焼失していますが、こうした狭い通路に当時の空気が少しは感じられるかな。。


それでも、なにか残ってないかっ❓❓と目を凝らしていると、、
新築工事中のお宅の境にわずかな大谷石の外壁跡を見つけました。

当時の軍人住居は、この大谷石の門と生垣で囲まれていたらしいのです。。

正面口からすぐの場所がたまたま更地になっています👀

古地図(目黒区火災保険特殊地図)と比べると、今の敷地境界線とそう変わらないことから、この場で大尉さんの家を想像してみると、、🤔

大谷石の生垣から玄関をはいった平屋の間取りは4部屋プラス台所。
そして当時個人宅には珍しかった風呂まであって、女中さんまでいたらしい。。なかなか贅沢ですよね❗️


再び栗原家の敷地周辺へと戻って来ました🐾

当時敷地に隣接したこの場所にはタクシー会社があったらしく、ガンタ積みの外構に昭和の歴史を感じることができました。

現在、階段を下がったこの奥には隠れ家的な洒落たレストランがあるのですが、当時の青年将校らも人目を憚り、この裏路地から栗原中尉宅に集まっていたりして、、。


そして昭和11年2月26日。

この日帝都に起こった未曾有のクーデターを境に首謀者の家族となってしまった一家は、世間やマスコミの目に晒されながら、辛く耐えがたい試練の日々が始まったんですよね。。

同年7月の長男の処刑の際には、天皇に弓矢を引いた叛逆者と見做されたために、一切の葬儀や納骨さえ許されず、その後も一家は特高警察の監視下におかれながらも、空襲でとうとう家が全て焼失するまで、ここ松見坂に住んでいたそうです。


というわけで、松見坂地蔵堂でふと手にした目黒区郷土研究会の資料コピーをきっかけに、そのむかし愛国運動に熱心だった地方の軍人一家がこの土地に縁あってたまたま移り住み、立派な日蓮像を建てたこと、そしてその息子が小さな一家をアジトに未曾有の大事件の首謀者にまで名を連ねてしまったことを知ったわけなのです😳


いやー。たとえ近所でもボーっと歩いてちゃいけないことが、よくわかりますね。。

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目黒・松見坂地蔵から始まる歴史散歩③

2021-06-18 | 街歩き・歴史散歩
前回までのはなし:

昭和のはじめに目黒区の松見坂地蔵の近くに建っていた日蓮上人石像の行方を地元の図書館で調べたところ、昭和48年に都の道路工事で危うく地中深くに埋められかけたのを、近くのお寺のご助力で東京郊外に移転したことまで判明しました。



そして、こちらが松見坂の日蓮上人像なんですね👀

《此のたび渋谷道場に程近き松見坂の御祖師様が道路拡幅のため移転することとなり、その昔、松谷行浄上人の世話人たりし縁を以て日本山に御祭りさして頂くことになりました。是は六百五十遠忌に建立された立正安国の等身大石像であります》


…と、目黒区郷土研究会誌の記録通りに等身大の日蓮像は、いまも稲城市の日本山妙法寺の境内に安置されていたのでした。

なんだか、散歩途中にたまたま手にした紙一枚をきっかけに、遥々松見坂からここまで尋ねてきちゃうのも、我ながらすごいな💧、、と思ってますが

立地としても、読売ランドの緑が目の前に広がった、日本庭園さながらの明るく広い境内は、排気ガスだらけの松見坂交差点よりも遥かに霊験新たかに見えますよね。。


台座含めて3メートル半くらいはありそうですが、これが松見坂の町に建っていたわけですから、確かに町での存在感はありそうですね❗️

そんな日蓮像の傍には建立寄付者が刻まれた板碑も移されているので、詳しく見てみることにします。


読みづらい板には、建立年の昭和6年7月30日の横にまずは「庚申堂」と堂守の名が刻まれていますが、昭和6年の建立当初の日蓮像は、松見坂から淡島通りを西へ少し登った先の庚申堂境内に安置された事情から、その名が刻まれているようです。

鬼子母神を祀っていた、、と言われる松見坂の庚申堂は、鷹狩りの頃から徳川家との謂れがあるほどの由緒をもちながら、戦時下の道路改良工事で忽然と消えてしまって、今では窺い知るものはそこに残っていないようですね。。


引き続き、板碑に刻まれた世話人の名前を拾っていきます。

「飯田」さんや「平岩」さんや「辰野」さん等の地元の名士や駒場周辺の地主とともに、松濤に広い土地を所有した鍋島家の名もあることから、どうやら寄付金は当時ずいぶんと寄せられたようですね🤔

また、画像中央の「松谷磐」さんは、先程の抜粋記事のなかで石像移転の世話人として出てきた松谷行浄上人にあたります。
実はこの方は軍職にも就いていて、当時は松見坂から程近い、駒場の陸軍将校用の「偕行社目黒住宅」に住んでいたようです。

そして、最後に日蓮像の発起人で建設委員長の「栗原勇」さんも陸軍大佐。

この方は佐賀藩医師の家柄で大正12年に三重県で軍を退役のあと、妻、息子、娘らの大家族で目黒区駒場へと転居してきたのだとか。。
きっかけは隣接する松濤に居を構える元藩主の鍋島家との縁のようです。
たしかに石像寄付者には鍋島家の名がありましたよね…🤔


と、かなり長くなりましたが、そろそろ松見坂の日蓮上人像のいわれをネタバレしますが、この栗原勇大佐が、2.26事件首謀者で銃殺刑に処せられた栗原安秀元陸軍中尉のお父さんなんですね❗️

「栗原死すとも維新は死せず」

と、処刑される間際に憤怒の情を抑えようとせず、目を見開いたまま29歳で絶命したと、伝説が残る陸軍中尉は、事件勃発のその日まで、松見坂の両親宅の敷地隣に結婚2年目の23歳の奥さんとふたりで住んでいて、事件前日もいつものように、何も知らない若い奥さんに見送られて雪の松見坂から出かけていったんですって。
切ないな。。


お次は、栗原中尉宅と陸軍将校用「偕行社目黒住宅」のはなしに移ります。。🐌

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目黒・松見坂地蔵からはじまる歴史散歩②

2021-06-15 | 街歩き・歴史散歩
前回のはなし:
松見坂のお地蔵さんのお堂に置かれた郷土史のコピーで、昔地蔵堂のあたりに日蓮上人の石像が建っていたことを知りました。
時代は昭和のはじめ頃。。
どうやら、地元ではなかなか目立っていたらしいが、一体どのあたりに建っていたのでしょうか…🤔


早速、目黒区の図書館から借りてきた昭和10年3月作製、火災保険特殊地図の上目黒8丁目から、探してみることにしました。


淡島通りが東西に走り、新遠江橋の下には南北に空川が流れていますね。。👀
右はじが現在の松見坂交差点ですが、まだこの頃は環状線が南北に通じてなかったようです。


松見坂地蔵は、淡島通りから新遠江橋西側の階段を降りていき、旧道(滝坂道)に掛かった遠江橋ほとりの卍マークでしょう。

そして、お地蔵さんから北側に視線を動かして、鳥居の上のモニュメントを表す丸い○マークが日蓮上人像ではないかな、、と。

なんだか、割とあっさり解っちゃいましたが💧💧
確かにここなら、日蓮像が地域でも目立つ場所だったというのも納得ですよね❗️


ひとまず、古地図では納得したので、
お次は実際現地で確かめてみることにします🐾

松見坂交差点周辺は、昭和半ばの道路改修で大きく変わっているようですが、この松見坂地蔵堂と空川(暗渠)は変わらないままなので、古地図と見比べた結果、日蓮上人像があったのは、、、🤔


地蔵堂から坂を少し上がった自販機手前の歩道あたりではないかな、、と。

ま、そういうことにしておきましょう。


地蔵堂の脇には、空川に架かっていた遠江橋の親柱が、長い歴史の役目を終えて仲良く並んでいました。

目黒の郷土史コピーには、明治32年と享保11年の石柱があると書かれていますが、享保の方は年月を経て、もとの石の塊に戻ってしまったようです。


地蔵堂を裏手にまわり、空川跡もついでに眺めてみます👀

奥の階段あたりが旧遠江橋になりますが、明治の頃は煉瓦造の太鼓橋だったとか。。

因みに橋の名は、この地を所有していた宇和島伊達家藩主が代々名乗った遠江守(とおとうのかみ)からつけられたそうですが、石柱に刻まれた享保11年に在位していた将軍吉宗が駒場への鷹狩りの際に、空川の石橋普請を伊達家が幕府から命じられた経緯があったのかもしれませんね。
オリンピック然り、いつの時代もVIPのもてなしには周りがなにかと迷惑を被るものです💧


次回は、松見坂から消えてしまった日蓮像を探しに少し遠出します🐾
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目黒・松見坂地蔵からはじまる歴史散歩

2021-06-14 | 街歩き・歴史散歩

渋谷から道玄坂上を越えて、神泉交差点を少し入った先が、むかしは淡島さん(森厳寺)への参拝道だった謂れから、名付けられた淡島通り。。


そして、淡島通りからすぐの下り坂を降りて、見えてくるのが、今回のおはなしの舞台となる松見坂交差点の地蔵堂なのです。

実は先日の散歩の途中、松見坂地蔵堂のなかに目黒区郷土研究会誌のコピー資料が置かれていることに偶然気づきました。

しかも、コピーの持ち帰りは自由。。

そして、なんとはなしに読み始めると、歴史散歩好きには思ってもいないような展開に繋がりそうな気がしてきたので、今回少し掘り下げてみたくなりました。


《この(松見)地蔵の目じるしは日蓮上人の石像である》
《日蓮上人の石像を見上げた時、帰宅した安堵感を思い出す》

と、コピー最初のくだりには、松見坂交差点の地蔵堂のそばには昭和のはじめ頃に日蓮上人の石像が建っていた記録が書かれています。

しかも、地元の方にはお地蔵さんよりもその日蓮さんの石像のほうがかなりインパクトがあったことが伺われるのですが、いま、まわりを見回してもそんな像は見当たりません。。



気になったついでに、すぐ近くの大橋図書館へと行ってみると、格好の資料がありました❗️

こちらは昭和10年の目黒区火災保険特殊地図といって、時期が日蓮上人像の立っていた頃と重なるようです。
調べて見ましょう。。👀


のんびり続く。。🐌


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かたつむりの怪

2021-06-06 | いきもの(かたつむり)
猫などはあんまり長生きを過ぎると、ヒトのように二本足で歩き、言葉を話すなどの怪異を為すことがあるという。。



🕯


🕯





ある日のこと。貝を飼う主人がいつものようにエサをあげようと、蓋を開けたところ、、





蓋に張り付いていた一匹の貝の口から、何かが出ていることに気がついた。






よく見ると、それは紙縒りのように見えた。
なんと!貝は食べた新聞紙を口のなかで細長く縒っていたのである。



ありゃまー((((;゚Д゚)))))))
…とたまげる貝ぬし。

すると、






気配に気づいた貝は、《見たな〜👹》と貝ぬしをジロリ!








そして、何事もなかったかのように、その場を後にしたのであった…💧






注)フィクションです笑


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かたつむりと新聞紙 その2

2021-06-05 | いきもの(かたつむり)


実はかたつむりにとって、新聞紙は栄養の宝庫らしいのです。
で、今日もずいぶん食べられてるぞ🙄


まわりに4匹の貝が居眠り中…💤

そんなわけで、誰がこんなにたくさん食べたのかを、ズバリ!私が当てましょう🕵️‍♂️

犯人は、、



いちばん上のほうで寝ている、、、



キミだー‼️

一体どうやったら、そんな上手に食って出したもんをアタマに積み上げられるのよ⁉️無駄に器用だわー笑


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だらける かたつむり

2021-06-03 | いきもの(かたつむり)
蒸し暑くなるとダルいし眠い…😑





貝もなんだか、だらけ気味のようだ。




こっちの貝もひっくり返ったまま、こんな調子だし…👀







朝からずーっと風呂のなか。。
どうやら、本日はダラダラ日和だそうです笑




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