マイmy巷話

マイMy巷話(かんわ)は「私にはそう見える!」ものを儘に書いているだけの話です。

かたつむりの初頭瘤 その2

2024-05-20 | いきもの(かたつむり)
成長が遅すぎたちびっこ貝が近ごろやっとオトナになりまして、初めての頭瘤をアタマに確認したのが昨日の朝。。。



そして今日。
ケースの蓋を開ければ、ヤツがいたっ❗️


うむ。。昨日よりキミのアタマの冠👑のカタチが違ってるような気がするが、、🤔


昨日のキミ。。


そして今日👀
やっぱり違うよねっ⁉️



絶対、立派になってるよねっ笑

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かたつむりの初頭瘤

2024-05-19 | いきもの(かたつむり)


兄弟貝と比べて、約1年ほどの成長差でオトナになった貝がフタの裏で憩んでいる。。。👀



で、アタマには小さな瘤が出てますねー❗️

やっとキミも頭瘤を上手に出せるまでに大きくなったのね、、🥹

「とうりゅう」はオトナになったかたつむりだけが持つ不思議な王冠のようなもの👑
つまり、これをアタマに乗せて、じっとしている時の貝の心理は、まさに王様がまわりの臣下をかしずかせて、目には見えない威厳を無駄に振り撒いているようなものなのです。


そんな神聖な✨ものだからこそ、そう易々とはアタマから出てはこない。
いや、一生出すことを神から許されない不遇なのもいれば、まずははじまりはこのように小さな冠で、短い生涯ながら数々の徳を積んだ先に立派なもの👑を得るに至る貝もいるのです(どっかの宗教談話かっ笑)


で、こちらは孵化してから4年ほど経つ先達貝。。👀

確かに出す頭瘤も立派だが、好物のニンジン、うまうまに挟まれてのセンターポジションは、素晴らしい‼️
さすが長老👏ですなっ笑


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荒天の日のかたつむりの過ごし方

2024-05-13 | いきもの(かたつむり)


最近すっかり大きくなったチビっ子貝が、今日はやけにひっそりしている。。👀



おまけに、いつもなら真っ先にやってくるはずの、うまうまにも見向きもしない。


外はまさに土砂降り🌀🌀🌀
やはり、キミらもこーいう天気はキライなのかな❓


で、よく見ると、、👀
竹炭に潜っていつもの定位置で寝ている年寄り貝に、ぴったりとくっついていますねーっ。

うむむ。周りにはキミを相手にしてくれそうな若い衆がいるのに、若輩の身で長老貝の寝所に潜り込むとは、なかなか図太いヤツだのう。。。🤔



そして、夕方、貝ぬしが戻ってきても、ずーっとこのまんま。。
かたつむりは雨が好き、、のはずが、どの貝もひたすら動かず、今日という日を終えるつもりのようですな。


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かたつむりの成長の違いに感心する

2024-05-08 | いきもの(かたつむり)


ゴロゴロ貝を俯瞰している貝ぬし。。。👀

もはや皆どれも大きさは変わらないように見える。

それは、、みんな大人の貝だからっ😆


去年まで成長するのをすっかり忘れていた一番小さいチビくんも、最近の爆食でいよいよオトナの仲間入りをしたらしいっ笑

殻口の反り返りは、成長期はひとまず終了の証なのです。
ま、食にあまりに貪欲な個体はここから先も大きくなることもあるが、、😅



そんなチビくんの成長を改めて見てみると、冬眠💤から起きて数日👀


その5日後👀


そして、10日後。
めでたくオトナの仲間入りをした今ですね👏👏

そんなわけで、同じ兄弟貝と比べると、半年は遅い成長のチビくんだったのでした。
もしヒトに例えると、、かたつむりの寿命はだいたい3年前後なので、15歳まで小さな子どものままだったことになるので、親ならホント心配しちゃいますよね。。

ま、どんな生き物にもみんな違いがあるということですな。

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世田谷・世田谷代田の戦災痕を辿ってみる (後編)

2024-05-05 | 街歩き・歴史散歩


世田谷代田駅周辺の戦災焼失区域を朱色で表した昭和20年の地図を見ています。

前回は、世田谷代田駅から南斜面に位置する円乗院や住宅地の戦災痕を取り上げてみましたが、今回は駅の北側部分で朱色が広がる箇所に焦点を当てて、終戦間際に壊滅的な被害に遭った井の頭線を復旧させるべく新設した幻の線路跡を探してみたいと思います🐾

しかし、不思議ですよね。。🤔
今でも都会の喧騒から上手に外れている代田の丘の小さな住宅地や駅周辺に、当時何故たくさんの爆弾が落とされたのでしょうか。
しかも、すぐ隣には、二つの私鉄が交差する下北沢駅があるのに、地図の朱色範囲を見る限りは被害がずいぶんと少なく見える。。
当時、代田の町には標的となるような人物、もしくは対象物があったのでしょうか❓❓


さて。こちらは世田谷代田駅に新しく併設された舗道です👀

駅前の案内板の説明を読むと、舗道の明るいレンガタイルのデザインは、戦災で失われた井の頭線車両を補給するために、この駅から新代田駅までを突貫工事で繋いだ臨時線路をイメージしているそうです。
実際、連絡線はこの柵の向こう側に敷設されたようですが、実は世田谷代田駅って、小田急線のなかで唯一戦災に遭っている駅舎なんだとか。。

しかし、当時は同じ小田急系列だった井の頭線の方が、被害がより深刻だったようでして、昭和20年5月末の大空襲でほとんどの車両が壊滅的な被害を受けたために、急遽に他社から戦災応急復旧車を導入せざるを得なくなり、連絡線の必要が生じたわけなんですね。

そんな史実を、このタイルのデザインは伝えていたなんて、しょっちゅう、ここを歩くが知りませんでした💧


お次の写真は世田谷代田駅裏手の住宅地から。。。🚃

かつての連絡線跡は、現在更地になっているこのあたりを抜けていたようですが、さすがに当時の面影は皆無ですね。

どうやら、連絡線は焼失した個人の敷地内に造られたようですが、戦後しばらく経った昭和28年に元の住民らから土地返還の訴えが起こり、いよいよ廃線になったのだとか。。

つまり、この路線は戦時下の強制発動で人の土地に敷設されていたために、戦後、再び平和とともに土地を取り戻した人々らがそこに新たな暮らしを築きあげれば、必然的にその痕跡すべてが埋没してしまうわけですよね。。

これでは、痕跡など見つからないわけだっ💧


と、そんななか👀
土が剥き出しの或るお宅の奥に面白そうなものを捉えました。
これはガンタ積みの壁のようですね。。


かつての線路はここを通っていた可能性が高いため、このガレキは戦災痕、、もしかすると1ヶ月で完成したといわれている突貫工事ならではの線路敷設の道床に混じっていたものかもしれませんね❗️

注)たまたま大家さんからお話を聞くことができたのですが、ここは土の中にもこうした石が埋まってるよ、、とのことでした。写真は許可を得て撮っています。


その先。見えない線路はこの敷地の壁のすぐ内側を真っ直ぐに続いていたようだぞ🚃


井の頭線の新代田駅近くなると、線路は道に沿ったカタチにゆるくカーブしながら続きます。


向こうに井の頭線の電車が見えてきましたが、おそらくこのあたりから連絡線は井の頭線と合流していたようです。

それは、外壁が斜めにプランニングされたアパートの敷地に沿って、少し土地が盛られている奥の建物側を連絡線が走っていた、、と想定するとわかりやすいですね❗️


こうして、80年前にこの連絡路線を使って、戦災で応急処置された車両や他社からの応援車両が、当時瀕死の状態だった井の頭線へとどんどん送り込まれていったわけですねっ。

ところで、、この駅が周りよりも低く見えるのは、ここが谷間だったからだと、今回地図を見て気づきました👀

戦災焼失図ではこの駅舎あたりは朱色、、ということは、世田谷代田駅同様に、ここも戦火に遭っているようなので、谷間の駅ではかなりの火の勢いだったかもしれませんね。


そう気づくと、、👀
駅ホームに今も残されている安山岩らしき石垣がやけに赤いのは、そんな時代の死線をかいくぐった証だったりするのかな、、と最後はふと思ってしまったのでした。


因みに当時の両駅名は、世田谷代田が世田谷中原駅で、新代田は代田二丁目駅だったことを加えておきます。


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世田谷・世田谷代田の戦災痕を辿ってみる (前編)

2024-05-03 | 街歩き・歴史散歩
実はウチの敷地も80年近く前の戦争の最中に焼けた、、らしい。

どうやら、近くに陸軍施設があったために巻き添えを食ったらしいのですが、戦争もいよいよ終盤を迎えると、そういった理由あっての爆撃のような名分も薄れてきて、無差別、、つまり結果が個の気まぐれのようなカタチをとることもあったようです。。



というのも、最近仕事でたびたび歩く機会のある、世田谷代田の台地の下に建つこちらのお寺にたまたま立ち寄ったときのこと。

本堂手前の黒い立木がなんだか異様だな、、と近寄ってみると、終戦の年に当たる5月末の山の手を中心とした大空襲で被災した高野槙の大木が炭化した姿だと分かりました。

当時、このあたりは静かで慎ましい住宅地のはずが、何故狙われたのでしょうか。。



そんな不運な木を見ているうちに、改めて、戦争を知るのは、ものがたりばかりでなく、こうしたものいわぬ遺物をみる方がやけに説得力があったりするんだな、、🤔と思い始めたのです。

で、この近くにはまだまだ探せば、何かあるんじゃないか❓と。。


早速、この高野槙の残る円乗寺の東側の門を出て、見回してみると、いかにも昭和の造りらしきコンクリートの外壁を見つけました👀

見れば見るほど隣のお寺の黒焦げの高野槙とともに、激しい戦火をくぐりぬけた風情が漂っていますよね。。


近寄ってみると、足元には炭化した木が残っていますが、もしやこれは電柱の焼け跡でしょうか。。
おまけに背後のコンクリート壁にも、この木の跡が生々しく残されていますよね‼️


これに気をよくして、その後も時間の許す限り、辺りを見て周ってみたところ、同空襲で焼失した萩原朔太郎旧宅の近くで、唯一、黒ずんで破損したコンクリート壁に気づいたくらいしか見当たりませんでした。

にしても、戦争の痕らしきものが、今なお住宅街に残っているのは、やはり、世田谷代田駅周辺が、山の手の開発から逸れた穴場の場所だからかもしれませんね。

というわけで、古地図片手にもうちょっと探してみようと思います。。

次回に続く。。。

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