2014年8月3日-3
H.P. ブラヴァツキー『秘密教義』第二巻 第3部 付録 第I節
秘密教義 第二巻 第3部
付録 第I節
H.P.ブラヴァツキー
麻名隆志 訳
Secret Doctrine は1888年に出版されて近代オカルティズムの古典となっているが,現在なお汲みつくされていない泉である。近年,人類の祖先を巡る問題に新しい材料が加えられた。ひとつはアフリカで発掘されたアウストラロピテクス類であり,もうひとつは分子進化学による類人猿とヒトとの分岐年代の推定結果である。どちらも専門技術的問題があるが,結論としては古代の叡智,occult science(密教科学,秘教科学,神秘科学)の教えに近づいてきているのではなかろうか。
原書としてはTheosophy Company のファクシミリ版を用い,Theosophical Publishing House のZirkoff 編の3巻本も参照した。
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秘密教義
第二巻。――第3部。
付録。
科学と秘密教義を対照させる。
「この地獄界の知識――
そう;友よ,そは何ぞ? 偽なるや,真なるや?
偽なるもの,をいかな死すべき者が知りたいのか?
真なるもの,をいかな死すべき者がかつて知ったというのか?」
目次
ページ
第I節.古代人類学か,現代人類学か? ‥‥‥‥‥645
―――
第II節.人類祖先が科学によって提出さる ‥‥‥‥656
プラスティドゥーレ魂,そして意識的神経細胞 ‥670
―――
第III節.ヒトの化石遺骨と類人猿 ‥‥‥‥‥‥‥‥675
西洋の進化論:ヒトと類人猿の比較解剖学 ‥‥‥680
ダーウィニズムとヒトの古さ:類人猿と彼らの
祖先 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥685
―――
第IV節.地質紀の長さ,根人種周期,そしてヒト
の古さについて ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥690
それらについての現代科学の推察 ‥‥‥‥‥‥‥694
惑星の連鎖期とその複数性について ‥‥‥‥‥‥699
秘教的地質年代学 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥709
―――
第V節.有機体の進化――創造的諸中心 ‥‥‥‥‥731
哺乳類の起源と進化 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥734
ヨーロッパの旧石器人種たち ‥‥‥‥‥‥‥‥‥738
―――
第VI節.巨人,文明,そして水没した諸大陸を歴
史にたどる ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥742
―――
第VII節.いくつかの水没した大陸の存在に関する
科学的,地質学的証明 ‥‥‥‥‥‥‥‥778
*****************************************
第二巻への付録
第1節
古代人類学か現代人類学か?
人の起源についての問いが,偏見がなく正直で熱心な科学者に対して,真剣に発せられると,その答えはつねに「われわれにはわからない」である。ド・カトルファージュ(de Quatrefages)は,不可知論的態度において,そのような人類学者の一人である。
これは,他の科学者が公平でもなく正直でもないとうわけではなく,われわれの所見が思慮あるものとはときとして疑わしい場合と同様である。しかし,ヨーロッパの科学者の75%が進化論者だと推定される。現代思想のこれらの代表たちが全て,諸事実についての目にあまる虚説を張る罪を犯しているのだろうか? 誰もこうは言わない――が,大変例外的な場合がいくつかある。しかしながら,科学者たちは,反僧侶的熱狂によって,またダーウィニズムに代わる学説(「特殊創造説」をのぞいて)のどれにも絶望することによって,無意識のうちに,弾力性が不十分な仮説を「押しつける」ことにおいて不誠実である。その仮説は,今や課せられている過酷な緊張を憤る。同じ課題上の不誠実さは,しかしながら,聖職者社会でも大手を振っている。テンプル主教は,彼の「宗教と科学」において,ダーウィニズムの徹底的な支持者として打って出た。牧師たるこの著者は,物質を(その「最初の刻印」を受けた後),全ての宇宙的現象を助けを受けないで展開するもの[evolver ]と見なすことをできるかぎりやっている。この見解は,「世界の果て」に仮説的な神を設定する点で,ヘッケルの見解と違っているだけである。その神は諸力の相互作用から全く超然として立っているのだ。このような形而上学的実在[entity]は,カントのものと同じく,神学的神ではない。テンプル主教が唯物論的[物質主義的]科学と休戦したのは,われわれの考えでは,無分別である――それが聖書の宇宙創造説を全く拒否することになるという事実を別にしても。われわれの「学識ある」時代の唯物論に対して奴隷根性を発揮するのを前にして,われわれオカルティストはほほえむだけである。しかし,このような神学的怠け者が仕えていると称する主君たち,キリスト,そして一般にキリスト教徒への忠誠についてはどうなのか?
しかしながら,当面,この牧師に挑戦する気はなく,目下の仕事は唯物論的科学だけに関するものである。われわれの問いに対する後者の答えは,その最良の代表者にあっては,「われわれにはわからない」である。もっとも,大多数の人は,全科学は先祖伝来の財宝であって,全てのことを知っているがごとく振るまう。
というのは,実際,この否定的返答によっては,科学者の大多数はこの問いについて思索するのを妨げられなかったわけで,各人は,他の全てを除いて受け入れられた自分自身の特別な理論を持とうと努めている。こうして,1748年のMailletから1870年のヘッケルに至るまで,人類の起源についての理論が,その発明者の個性と同じ数ほどにも異なっている。ビュッフォン,Bory de Saint-Vincent,ラマルク,E.ジェフロワ・サンチレール,Gaudry,Naudin,ウォレス,ダーウィン,オーウェン,ヘッケル,Fillippi,フォークト,ハックスリィ,アガシー,など,各々は起源についての多かれ少なかれ科学的な仮説を展開した。ド・カトルファージュはそれらを2つの主要なグループにまとめている。1つは急速な変成[transmutation,今のevolutionと同様の意味]に,他は非常に漸進的な変成に固執する。前者は,新しい型(人間)は全く異なった生物から生まれることに賛成し,後者は累進的な派生による人間の進化[evolution]を教える。
まことに不思議なことに,これら権威者の最も科学的なるものから,人間の起源という主題に関する全ての理論の最も非科学的なるものが今まで発してきたのだ。これは,非常に明白なことで,人間が類人猿様の哺乳類の子孫であるという現今の教えが,土くれからのアダムとアダムの肋骨からのイブの形成ほどには敬意をもって遇されないだろう時が急速に近づいている。というのは――
「明らかに,とりわけダーウィニズムの最も基本的な諸原理に従えば,ある有機体は,発生がそれ自身に対して逆の順序になっているような他の有機体の子孫ではありえない。よって,これらの諸原理と一致して,人間は,何であろうといかなるタイプの類人猿の子孫でもないとしか考えられない。」*
* ド・カトルファージュ「人類」, p.111。人と類人猿の頭脳のそれぞれの発達が述べられている。「類人猿では,側頭葉楕円体の[temporo-spheroidal]襞は,中頭葉を形成しているが,前頭葉を形成する前部の襞よりも以前に出現し完成する。人では前頭葉の襞は,反対に,最初に出現するものであって,中頭葉の襞は後に形成される。」(同上)
類人猿説に対するLucaeの議論は,人と類人猿における頭骨の軸をつくっている骨の屈曲の違いに基づいており,それはシュミット(「由来の学説とダーウィニズム」,p. 290)によって,公平に論じられている。彼は,「類人猿は成長するにつれ,ますます獣的になるが,人はますます人間らしくなる」と認め,実際,先へ進むにあたってしばしためらっているようにみえる。たとえば,「頭骨の軸のこの屈曲は,したがって,類人猿とは反対で,人の形質としていっそう強調されよう。ある部類の特殊な特徴はそれから引き出すのはほとんどできない。由来の学説についてはとりわけそうであって,この事情は決して決定的ではないように思える」。 著者は明らかに,この議論に少なからず気をもんでいる。彼は,それが,現在の類人猿が人類の先祖であるどんな可能性をもひっくりかえすと断言する。しかし,それはまた,人と類人猿が共通の――もっとも,今までのところ完全に理論的な――祖先をもっていたというぎりぎりの可能性をも否定しないであろうか。
「自然選択」自体でさえ,日に日にますますおびやかされている。ダーウィン陣営の脱落者は多く,かつては最も熱狂的な信奉者であった者が,新しい諸発見のために,ゆっくりとしかし着実に新規まき直ししようと準備している。1886年10月の「王立顕微鏡学会誌」には,次のような記事が読める:――
「生理的選択。――G.J.ロマネス氏は,自然選択を,適応的構造の起源のための理論であるとみなすにはいくつかの困難があることを発見している。彼はそれに代わって生理的選択,あるいは最適者の分離,と称するものを提案する。彼の意見は,生活条件における小さな変化に対する生殖系の極度の感受性にもとづいており,野生種においては多少とも不妊へと向かう変異がひんぱんに起こっているにちがいないと考えている。もし変異がこのようであるなら,生殖系は,親の型ではある程度の不妊性を示す一方,変異型の限界内で多産でありつづける。変異は,交雑によってだめにはならないし,不妊性によってなくなってしまうことにもならないだろう。この種類の変異が起きれば,生理的障壁によって種は二つの部分に分けられるにちがいない。‥‥著者は結局,互いの不妊性を,種の分化の結果の一つではなく,その原因であると認めている。」*
* これに加えられた編集部の論評は,アテニウム[ロンドンの文芸評論誌]――(3069号,1886年8月21日, pp. 242-3)誌上で「F. J. B.」氏は,自然観察者(ナチュラリスト)は長い間「形態的」と「生理的」種があると認めてきたと指摘している,というものである。前者は人の心にその起源があり,後者は,類縁個体グループの外的器官と同様に内的器官に影響を与えるに十分な一連の変化に起源がある。形態的種の「生理的選択」とは混乱した考えであり,生理的種の生理的選択なんてのは「冗長な用語」である。
上述のことが,ダーウィン説を補足するものであり,それから導かれるものであることを示す試みがある。これは,せいぜい不体裁な試みである。公衆がまもなく信じさせられるだろうことは,チャールズ・ディクソンの「自然選択なしの進化」もまたダーウィニズム――著者がそうであるときっと主張するように,拡張されたダーウィニズムであるということだ。
しかし,それは,一個の人間の身体を3片にあるいはいろいろな部分に分割し,そうして各部分はかつてあった如く同一の人間である,ただ拡張されただけだ,と主張するようなものだ。けれども著者は79ページで述べている:――「明瞭に理解してほしいのは,先のページの一語たりとも,ダーウィンの自然選択説に反対して書かれていないということである。私がなした全てはある現象を説明する試みである。ダーウィンの仕事を研究すればするほど,彼の仮説の真実性をますます確信することになる。」(!!)
そして,この前の48ページで彼が言及しているのは:――「ダーウィンが彼の仮説を支持するものとしてずらりと挙げた諸事実の圧倒的なこと。それは,あらゆる難点と異議にもかかわらず,自然選択説を進展させ勝ち誇らせる」。
これはしかしながら,この学識ある著者がこの説を「誇らかに」打ち負かすのを妨げたりはしない。そして,彼の仕事を「自然選択なしの進化」とおおっぴらに呼ぶことさえ,あるいは多言を要すれば,ダーウィンの基本的考えをみじんに打ち砕くことを,妨げはしない。
自然選択自体については,この上ない認識が,ダーウィニズムの結論を暗黙に受け入れる今日の多くの思索家の間に広まっている。それは,たとえば,「自然選択」が種を生じさせる[originate]力を持っていると考えるような,レトリックの工夫にすぎない。「自然選択」には実体がない。しかし,有機体の間で適者の生存と不適者の除去が,生存への努力においてもたらされる様式を記述する便利な文句ではある。有機体の全てのグループは,生計手段を越えて繁殖する傾向がある。生活のためのたえざる争い――環境条件に加えて「食物を十分に取るためと食べられることから逃げるための努力」――は,不可避的に不適者をたえまなく取り除く。どの種属のエリートもこうしてえり分けられ,種を繁殖させ,それらの有機的特徴を子孫に伝える。全ての有益な変異はこうして永続し,漸進的改良が達せられる。しかし,自然選択は,筆者の卑見では,「力としての選択」とは,実際は全くの作り話である。とりわけ,種の起源の説明として用いられる場合はそうである。それは単に,「有益な変異」が生み出されたときに定型化される仕方を表わす代表的用語にすぎない。ひとりでには,「それ」は何も生み出さないし,「それ」に対して与えられる仕上げられていない材料に作用するだけである。問題になっている本当の問いとは,何の原因が――他の二次的諸原因と一緒になって――有機体自身において「変異」を生み出すか,である。これらの二次的原因の多くは,単に物理的,気候的,食餌的などなどのものである。まことに結構。しかし,有機体の進化の二次的側面を越えて,より深遠なる原理がさがし求められねばならない。唯物論者の「自然発生的変異」と「偶然的分岐」は,「物質,力,必然性」の世界では自己矛盾的用語である。準知性的刺激の監督的存在は別として,型の単なる変異性は,例えば人体の驚くべき複雑さと驚異を説明するには無力である。ダーウィニストの機械的理論の不十分さは,全く否定的思索家の中でもフォン・ハルトマン博士によって,十分に暴露された。盲目の未分化の細胞が,ヘッケルが書いたように,「自ずと器官へ配列する」などと書くのは,読者の知性を侮辱するものだ。動物の種の起源についての秘教的解答は他所で与えられる。
性選択,自然選択,気候,隔離,などなどの旗のもとにまとめられた,分化についてのこれら全く二次的な原因は,西洋の進化論者を誤らせ,肉体的発展の出発点として役立つ「祖先型」が「どこから」というのが何であろうと,本当の説明は与えていない。真実は,現代科学に知られている分化的「原因」は,動物の元始の根原型がアストラル界から物質化[physicalization]した後で作用しはじめるにすぎない。ダーウィニズムは,進化とはその中間点で出会うにすぎない。すなわち,アストラル的進化が,通常の物質的諸力(これを,われわれの現代の五官によって知る)の活動に席を譲ったとき,である。しかし,ここにおいてさえ,ダーウィンの説は,最近なされた「拡張」した形でも,この場合の諸事実にうまく対処するには不適当である。種における生理的変異に潜んでいるもの――それに対しては他の全ての法則は従属的で二次的なものである――は,物質にゆきわたっている半意識的[sub-conscious]知性存在であり,究極的には神とディヤン・チョーハンの[Dhyan-Chohanic]英知の反映[REFLECTION]に帰すことができる。*
* ネーゲリの「完全になるうること[perfectibility]の原理」,フォン・ベアの「目的に向かう努力」,Braunの「自然の進化史における内的刺激としての神の息吹き」,オーウェン教授の「完全になるうることへの傾向」などは全て,神とディヤン・チョーハンの想念に恵まれた,普遍的な導きのフォーハット[FOHAT]の暗黙の表明である。
まんざら似てなくもない結論に,Ed. フォン・ハルトマンのような著名な思索家はたどりついた。彼は,手助けされない自然選択の効能に絶望して,進化は無意識(オカルティズムの宇宙ロゴス)によって知的に導かれていると考える。しかし,後者はフォーハット,あるいはディヤン・チョーハンのエネルギーを通して単に間接的に働き,それは偉大なる悲観論者が描くような直接的な仕方ではない。
科学者の間でのこのような相異,互いのそしてしばしばの自己矛盾によって,本書の筆者は他の教え,より古い教えを――未来の科学的評価のための仮説としてだけであろうとも――明るみに出すように勇気づけられた。現代科学についてはどのみちあまり知らないけれども,この古代の開拓地の卑しき記録者にとってさえも明白なのは,上述の科学的虚偽と欠陥である。これら全てについて,二つの教えを平行線上に置くために,触れようと決めたのだった。
今までのところ,「秘密教義」は全く,形而上学に関わってきた。今や地上に降りた。そして,物質科学と実地の人類学の領域,あるいは唯物論的自然観察者が自分たちの正当な領域だと主張する領域内に適所を得る。彼らは,ずうずうしくも更に,魂の働きがより高度にそしてより完全であるほど,動物学者と生理学者だけによる分析と説明にますます従うと主張している(ヘッケル「細胞の魂と魂の細胞」について)。この驚くべき主張はある人のものであって,彼は,彼の猿人由来説を証明するために,人の祖先の中にキツネザル科[Lemuridae ]を含めるのをためらわなかった。キツネザル科は,脱落膜が脱落しない[indeciduate]哺乳類である原猿亜目[Procimiae]の[分類]階級にまで,彼によって昇進させられた。原猿亜目には,彼はまことに間違って,脱落膜と盤状胎盤があるとしている。*
* 下記参照。第II節「人類の祖先が科学によって提示さる」における,ド・カトルファージュによるヘッケルに対する暴露。
これについて,ヘッケルは,ド・カトルファージュによってきびしくとがめられ,彼自身の同僚の唯物論者たちと不可知論者,彼に優らずとも同程度には偉大な権威者たち,すなわち,ウィルヒョウとドュ・ボア・レーモンによって批判されたのだった。*
* ドュ・ボア・レーモンは厳密に言えば不可知論者であって,唯物論者ではない。彼は唯物論的教養――それは,精神現象は単に分子運動の産物だと断言する――に対して最も激しく抗議した。脳の構造に関する最も正確な生理学的知識がもたらすものは「運動中の物質以外の何物でもない」と彼は主張する。そして,「さらに進まなければならない,そして心的原理の全く不可解な性質,それは単なる物質的原因の所産であると考えるのは不可能である,を認めざるをえない」。
このような反対にもかかわらず,ヘッケルの無思慮な理論は,今日まで,科学的で論理的だと言う人がいる。人の意識,魂,霊の不可解な性質は,今や,活発な原生生物[Protista]の原形質分子の機能の単なる進歩であり,人の心と「社会的本能」の文明に向かっての漸進的進化と成長は,蟻,蜂,そして他の生物の文化のなかにその起源をさかのぼらせねばならない。古代の叡智の教義を偏見なく聞こうという機会は実際ほとんど残されていない。教養のある俗人が教えられるのは,「下級動物の社会的本能は,近ごろ,明らかに,諸モラル,人間のモラルさえの起源であると考えられるようになった」(!),そしてわれわれの神聖なる意識,魂,知力,そして霊感はゼリー状のBathybiusの「単一の細胞魂の低級段階から進歩してきた」(ヘッケルの「進化の現在位置」注を見よ)のだ,と。そして彼はそれを信じているようである。このような人々に対して、オカルティズムの形而上学は、最も壮大なオーケストラと声楽のオラトリオが中国人に対して生み出すような効果、つまり、神経にさわる音といった効果を生み出すにちがいない。
しかしながら、「天使たち」、最初の3つの前動物的人類種,そして第4人種の没落についての秘教的教えは、ヘッケル流の「プラスティドゥーレ的[plastidula ,plastidule はヘッケルの想定した生命担荷体,生命的原子]」,あるいは無機的な「原生生物の分子魂」よりも低い水準の作り事で自己妄想であるだろうか? 上述のアメーバの魂からの人間の霊的性質の進化と,大洋の軟泥の中の原形質体的住者からの人間の物質体[肉体]の主張されているところの発展の間には,深い裂け目があって,それは知的能力を存分に持っていても誰にも容易には橋渡しできないだろう。物質体の進化は,現代科学が教えるように,論争の決着がついていない一課題である。同じ方向での霊的そしてモラルの発展は,粗野な唯物論の気狂いじみた夢である。
[つづく。p. 650,下から3行目まで]
***********************************
第II節より抄訳
[p. 671, 25行目~p. 672, 4 行目]
後者(オカルティズム)が教えるのは,――(a) われわれの(プラーナ)生命素因[life-principle]の生命原子は,人が死ぬとき全く失われるのでは決してない。生命素因(独立の,永久の,意識的要因)が最高に注入されている原子は,一部は遺伝により父から子へ伝えられ,一部はもう一度団結させられてモナドの全ての新しい生まれ変わりにおける新しい身体に生命を与える素因となる。なぜなら(b) , 個体の魂がずっと同一であるように,諸下級素因(身体,そのアストラル体,あるいは生命複体,など)の原子も同一である。それらは,ひと続きの種々の身体,などなどにおける同一個体に対して親和性とカルマの法則によって引き出されるのである。
(1986年7月2日発行『暗燦 第4号』,p. 50-61)
H.P. ブラヴァツキー『秘密教義』第二巻 第3部 付録 第I節
秘密教義 第二巻 第3部
付録 第I節
H.P.ブラヴァツキー
麻名隆志 訳
Secret Doctrine は1888年に出版されて近代オカルティズムの古典となっているが,現在なお汲みつくされていない泉である。近年,人類の祖先を巡る問題に新しい材料が加えられた。ひとつはアフリカで発掘されたアウストラロピテクス類であり,もうひとつは分子進化学による類人猿とヒトとの分岐年代の推定結果である。どちらも専門技術的問題があるが,結論としては古代の叡智,occult science(密教科学,秘教科学,神秘科学)の教えに近づいてきているのではなかろうか。
原書としてはTheosophy Company のファクシミリ版を用い,Theosophical Publishing House のZirkoff 編の3巻本も参照した。
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秘密教義
第二巻。――第3部。
付録。
科学と秘密教義を対照させる。
「この地獄界の知識――
そう;友よ,そは何ぞ? 偽なるや,真なるや?
偽なるもの,をいかな死すべき者が知りたいのか?
真なるもの,をいかな死すべき者がかつて知ったというのか?」
目次
ページ
第I節.古代人類学か,現代人類学か? ‥‥‥‥‥645
―――
第II節.人類祖先が科学によって提出さる ‥‥‥‥656
プラスティドゥーレ魂,そして意識的神経細胞 ‥670
―――
第III節.ヒトの化石遺骨と類人猿 ‥‥‥‥‥‥‥‥675
西洋の進化論:ヒトと類人猿の比較解剖学 ‥‥‥680
ダーウィニズムとヒトの古さ:類人猿と彼らの
祖先 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥685
―――
第IV節.地質紀の長さ,根人種周期,そしてヒト
の古さについて ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥690
それらについての現代科学の推察 ‥‥‥‥‥‥‥694
惑星の連鎖期とその複数性について ‥‥‥‥‥‥699
秘教的地質年代学 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥709
―――
第V節.有機体の進化――創造的諸中心 ‥‥‥‥‥731
哺乳類の起源と進化 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥734
ヨーロッパの旧石器人種たち ‥‥‥‥‥‥‥‥‥738
―――
第VI節.巨人,文明,そして水没した諸大陸を歴
史にたどる ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥742
―――
第VII節.いくつかの水没した大陸の存在に関する
科学的,地質学的証明 ‥‥‥‥‥‥‥‥778
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第二巻への付録
第1節
古代人類学か現代人類学か?
人の起源についての問いが,偏見がなく正直で熱心な科学者に対して,真剣に発せられると,その答えはつねに「われわれにはわからない」である。ド・カトルファージュ(de Quatrefages)は,不可知論的態度において,そのような人類学者の一人である。
これは,他の科学者が公平でもなく正直でもないとうわけではなく,われわれの所見が思慮あるものとはときとして疑わしい場合と同様である。しかし,ヨーロッパの科学者の75%が進化論者だと推定される。現代思想のこれらの代表たちが全て,諸事実についての目にあまる虚説を張る罪を犯しているのだろうか? 誰もこうは言わない――が,大変例外的な場合がいくつかある。しかしながら,科学者たちは,反僧侶的熱狂によって,またダーウィニズムに代わる学説(「特殊創造説」をのぞいて)のどれにも絶望することによって,無意識のうちに,弾力性が不十分な仮説を「押しつける」ことにおいて不誠実である。その仮説は,今や課せられている過酷な緊張を憤る。同じ課題上の不誠実さは,しかしながら,聖職者社会でも大手を振っている。テンプル主教は,彼の「宗教と科学」において,ダーウィニズムの徹底的な支持者として打って出た。牧師たるこの著者は,物質を(その「最初の刻印」を受けた後),全ての宇宙的現象を助けを受けないで展開するもの[evolver ]と見なすことをできるかぎりやっている。この見解は,「世界の果て」に仮説的な神を設定する点で,ヘッケルの見解と違っているだけである。その神は諸力の相互作用から全く超然として立っているのだ。このような形而上学的実在[entity]は,カントのものと同じく,神学的神ではない。テンプル主教が唯物論的[物質主義的]科学と休戦したのは,われわれの考えでは,無分別である――それが聖書の宇宙創造説を全く拒否することになるという事実を別にしても。われわれの「学識ある」時代の唯物論に対して奴隷根性を発揮するのを前にして,われわれオカルティストはほほえむだけである。しかし,このような神学的怠け者が仕えていると称する主君たち,キリスト,そして一般にキリスト教徒への忠誠についてはどうなのか?
しかしながら,当面,この牧師に挑戦する気はなく,目下の仕事は唯物論的科学だけに関するものである。われわれの問いに対する後者の答えは,その最良の代表者にあっては,「われわれにはわからない」である。もっとも,大多数の人は,全科学は先祖伝来の財宝であって,全てのことを知っているがごとく振るまう。
というのは,実際,この否定的返答によっては,科学者の大多数はこの問いについて思索するのを妨げられなかったわけで,各人は,他の全てを除いて受け入れられた自分自身の特別な理論を持とうと努めている。こうして,1748年のMailletから1870年のヘッケルに至るまで,人類の起源についての理論が,その発明者の個性と同じ数ほどにも異なっている。ビュッフォン,Bory de Saint-Vincent,ラマルク,E.ジェフロワ・サンチレール,Gaudry,Naudin,ウォレス,ダーウィン,オーウェン,ヘッケル,Fillippi,フォークト,ハックスリィ,アガシー,など,各々は起源についての多かれ少なかれ科学的な仮説を展開した。ド・カトルファージュはそれらを2つの主要なグループにまとめている。1つは急速な変成[transmutation,今のevolutionと同様の意味]に,他は非常に漸進的な変成に固執する。前者は,新しい型(人間)は全く異なった生物から生まれることに賛成し,後者は累進的な派生による人間の進化[evolution]を教える。
まことに不思議なことに,これら権威者の最も科学的なるものから,人間の起源という主題に関する全ての理論の最も非科学的なるものが今まで発してきたのだ。これは,非常に明白なことで,人間が類人猿様の哺乳類の子孫であるという現今の教えが,土くれからのアダムとアダムの肋骨からのイブの形成ほどには敬意をもって遇されないだろう時が急速に近づいている。というのは――
「明らかに,とりわけダーウィニズムの最も基本的な諸原理に従えば,ある有機体は,発生がそれ自身に対して逆の順序になっているような他の有機体の子孫ではありえない。よって,これらの諸原理と一致して,人間は,何であろうといかなるタイプの類人猿の子孫でもないとしか考えられない。」*
* ド・カトルファージュ「人類」, p.111。人と類人猿の頭脳のそれぞれの発達が述べられている。「類人猿では,側頭葉楕円体の[temporo-spheroidal]襞は,中頭葉を形成しているが,前頭葉を形成する前部の襞よりも以前に出現し完成する。人では前頭葉の襞は,反対に,最初に出現するものであって,中頭葉の襞は後に形成される。」(同上)
類人猿説に対するLucaeの議論は,人と類人猿における頭骨の軸をつくっている骨の屈曲の違いに基づいており,それはシュミット(「由来の学説とダーウィニズム」,p. 290)によって,公平に論じられている。彼は,「類人猿は成長するにつれ,ますます獣的になるが,人はますます人間らしくなる」と認め,実際,先へ進むにあたってしばしためらっているようにみえる。たとえば,「頭骨の軸のこの屈曲は,したがって,類人猿とは反対で,人の形質としていっそう強調されよう。ある部類の特殊な特徴はそれから引き出すのはほとんどできない。由来の学説についてはとりわけそうであって,この事情は決して決定的ではないように思える」。 著者は明らかに,この議論に少なからず気をもんでいる。彼は,それが,現在の類人猿が人類の先祖であるどんな可能性をもひっくりかえすと断言する。しかし,それはまた,人と類人猿が共通の――もっとも,今までのところ完全に理論的な――祖先をもっていたというぎりぎりの可能性をも否定しないであろうか。
「自然選択」自体でさえ,日に日にますますおびやかされている。ダーウィン陣営の脱落者は多く,かつては最も熱狂的な信奉者であった者が,新しい諸発見のために,ゆっくりとしかし着実に新規まき直ししようと準備している。1886年10月の「王立顕微鏡学会誌」には,次のような記事が読める:――
「生理的選択。――G.J.ロマネス氏は,自然選択を,適応的構造の起源のための理論であるとみなすにはいくつかの困難があることを発見している。彼はそれに代わって生理的選択,あるいは最適者の分離,と称するものを提案する。彼の意見は,生活条件における小さな変化に対する生殖系の極度の感受性にもとづいており,野生種においては多少とも不妊へと向かう変異がひんぱんに起こっているにちがいないと考えている。もし変異がこのようであるなら,生殖系は,親の型ではある程度の不妊性を示す一方,変異型の限界内で多産でありつづける。変異は,交雑によってだめにはならないし,不妊性によってなくなってしまうことにもならないだろう。この種類の変異が起きれば,生理的障壁によって種は二つの部分に分けられるにちがいない。‥‥著者は結局,互いの不妊性を,種の分化の結果の一つではなく,その原因であると認めている。」*
* これに加えられた編集部の論評は,アテニウム[ロンドンの文芸評論誌]――(3069号,1886年8月21日, pp. 242-3)誌上で「F. J. B.」氏は,自然観察者(ナチュラリスト)は長い間「形態的」と「生理的」種があると認めてきたと指摘している,というものである。前者は人の心にその起源があり,後者は,類縁個体グループの外的器官と同様に内的器官に影響を与えるに十分な一連の変化に起源がある。形態的種の「生理的選択」とは混乱した考えであり,生理的種の生理的選択なんてのは「冗長な用語」である。
上述のことが,ダーウィン説を補足するものであり,それから導かれるものであることを示す試みがある。これは,せいぜい不体裁な試みである。公衆がまもなく信じさせられるだろうことは,チャールズ・ディクソンの「自然選択なしの進化」もまたダーウィニズム――著者がそうであるときっと主張するように,拡張されたダーウィニズムであるということだ。
しかし,それは,一個の人間の身体を3片にあるいはいろいろな部分に分割し,そうして各部分はかつてあった如く同一の人間である,ただ拡張されただけだ,と主張するようなものだ。けれども著者は79ページで述べている:――「明瞭に理解してほしいのは,先のページの一語たりとも,ダーウィンの自然選択説に反対して書かれていないということである。私がなした全てはある現象を説明する試みである。ダーウィンの仕事を研究すればするほど,彼の仮説の真実性をますます確信することになる。」(!!)
そして,この前の48ページで彼が言及しているのは:――「ダーウィンが彼の仮説を支持するものとしてずらりと挙げた諸事実の圧倒的なこと。それは,あらゆる難点と異議にもかかわらず,自然選択説を進展させ勝ち誇らせる」。
これはしかしながら,この学識ある著者がこの説を「誇らかに」打ち負かすのを妨げたりはしない。そして,彼の仕事を「自然選択なしの進化」とおおっぴらに呼ぶことさえ,あるいは多言を要すれば,ダーウィンの基本的考えをみじんに打ち砕くことを,妨げはしない。
自然選択自体については,この上ない認識が,ダーウィニズムの結論を暗黙に受け入れる今日の多くの思索家の間に広まっている。それは,たとえば,「自然選択」が種を生じさせる[originate]力を持っていると考えるような,レトリックの工夫にすぎない。「自然選択」には実体がない。しかし,有機体の間で適者の生存と不適者の除去が,生存への努力においてもたらされる様式を記述する便利な文句ではある。有機体の全てのグループは,生計手段を越えて繁殖する傾向がある。生活のためのたえざる争い――環境条件に加えて「食物を十分に取るためと食べられることから逃げるための努力」――は,不可避的に不適者をたえまなく取り除く。どの種属のエリートもこうしてえり分けられ,種を繁殖させ,それらの有機的特徴を子孫に伝える。全ての有益な変異はこうして永続し,漸進的改良が達せられる。しかし,自然選択は,筆者の卑見では,「力としての選択」とは,実際は全くの作り話である。とりわけ,種の起源の説明として用いられる場合はそうである。それは単に,「有益な変異」が生み出されたときに定型化される仕方を表わす代表的用語にすぎない。ひとりでには,「それ」は何も生み出さないし,「それ」に対して与えられる仕上げられていない材料に作用するだけである。問題になっている本当の問いとは,何の原因が――他の二次的諸原因と一緒になって――有機体自身において「変異」を生み出すか,である。これらの二次的原因の多くは,単に物理的,気候的,食餌的などなどのものである。まことに結構。しかし,有機体の進化の二次的側面を越えて,より深遠なる原理がさがし求められねばならない。唯物論者の「自然発生的変異」と「偶然的分岐」は,「物質,力,必然性」の世界では自己矛盾的用語である。準知性的刺激の監督的存在は別として,型の単なる変異性は,例えば人体の驚くべき複雑さと驚異を説明するには無力である。ダーウィニストの機械的理論の不十分さは,全く否定的思索家の中でもフォン・ハルトマン博士によって,十分に暴露された。盲目の未分化の細胞が,ヘッケルが書いたように,「自ずと器官へ配列する」などと書くのは,読者の知性を侮辱するものだ。動物の種の起源についての秘教的解答は他所で与えられる。
性選択,自然選択,気候,隔離,などなどの旗のもとにまとめられた,分化についてのこれら全く二次的な原因は,西洋の進化論者を誤らせ,肉体的発展の出発点として役立つ「祖先型」が「どこから」というのが何であろうと,本当の説明は与えていない。真実は,現代科学に知られている分化的「原因」は,動物の元始の根原型がアストラル界から物質化[physicalization]した後で作用しはじめるにすぎない。ダーウィニズムは,進化とはその中間点で出会うにすぎない。すなわち,アストラル的進化が,通常の物質的諸力(これを,われわれの現代の五官によって知る)の活動に席を譲ったとき,である。しかし,ここにおいてさえ,ダーウィンの説は,最近なされた「拡張」した形でも,この場合の諸事実にうまく対処するには不適当である。種における生理的変異に潜んでいるもの――それに対しては他の全ての法則は従属的で二次的なものである――は,物質にゆきわたっている半意識的[sub-conscious]知性存在であり,究極的には神とディヤン・チョーハンの[Dhyan-Chohanic]英知の反映[REFLECTION]に帰すことができる。*
* ネーゲリの「完全になるうること[perfectibility]の原理」,フォン・ベアの「目的に向かう努力」,Braunの「自然の進化史における内的刺激としての神の息吹き」,オーウェン教授の「完全になるうることへの傾向」などは全て,神とディヤン・チョーハンの想念に恵まれた,普遍的な導きのフォーハット[FOHAT]の暗黙の表明である。
まんざら似てなくもない結論に,Ed. フォン・ハルトマンのような著名な思索家はたどりついた。彼は,手助けされない自然選択の効能に絶望して,進化は無意識(オカルティズムの宇宙ロゴス)によって知的に導かれていると考える。しかし,後者はフォーハット,あるいはディヤン・チョーハンのエネルギーを通して単に間接的に働き,それは偉大なる悲観論者が描くような直接的な仕方ではない。
科学者の間でのこのような相異,互いのそしてしばしばの自己矛盾によって,本書の筆者は他の教え,より古い教えを――未来の科学的評価のための仮説としてだけであろうとも――明るみに出すように勇気づけられた。現代科学についてはどのみちあまり知らないけれども,この古代の開拓地の卑しき記録者にとってさえも明白なのは,上述の科学的虚偽と欠陥である。これら全てについて,二つの教えを平行線上に置くために,触れようと決めたのだった。
今までのところ,「秘密教義」は全く,形而上学に関わってきた。今や地上に降りた。そして,物質科学と実地の人類学の領域,あるいは唯物論的自然観察者が自分たちの正当な領域だと主張する領域内に適所を得る。彼らは,ずうずうしくも更に,魂の働きがより高度にそしてより完全であるほど,動物学者と生理学者だけによる分析と説明にますます従うと主張している(ヘッケル「細胞の魂と魂の細胞」について)。この驚くべき主張はある人のものであって,彼は,彼の猿人由来説を証明するために,人の祖先の中にキツネザル科[Lemuridae ]を含めるのをためらわなかった。キツネザル科は,脱落膜が脱落しない[indeciduate]哺乳類である原猿亜目[Procimiae]の[分類]階級にまで,彼によって昇進させられた。原猿亜目には,彼はまことに間違って,脱落膜と盤状胎盤があるとしている。*
* 下記参照。第II節「人類の祖先が科学によって提示さる」における,ド・カトルファージュによるヘッケルに対する暴露。
これについて,ヘッケルは,ド・カトルファージュによってきびしくとがめられ,彼自身の同僚の唯物論者たちと不可知論者,彼に優らずとも同程度には偉大な権威者たち,すなわち,ウィルヒョウとドュ・ボア・レーモンによって批判されたのだった。*
* ドュ・ボア・レーモンは厳密に言えば不可知論者であって,唯物論者ではない。彼は唯物論的教養――それは,精神現象は単に分子運動の産物だと断言する――に対して最も激しく抗議した。脳の構造に関する最も正確な生理学的知識がもたらすものは「運動中の物質以外の何物でもない」と彼は主張する。そして,「さらに進まなければならない,そして心的原理の全く不可解な性質,それは単なる物質的原因の所産であると考えるのは不可能である,を認めざるをえない」。
このような反対にもかかわらず,ヘッケルの無思慮な理論は,今日まで,科学的で論理的だと言う人がいる。人の意識,魂,霊の不可解な性質は,今や,活発な原生生物[Protista]の原形質分子の機能の単なる進歩であり,人の心と「社会的本能」の文明に向かっての漸進的進化と成長は,蟻,蜂,そして他の生物の文化のなかにその起源をさかのぼらせねばならない。古代の叡智の教義を偏見なく聞こうという機会は実際ほとんど残されていない。教養のある俗人が教えられるのは,「下級動物の社会的本能は,近ごろ,明らかに,諸モラル,人間のモラルさえの起源であると考えられるようになった」(!),そしてわれわれの神聖なる意識,魂,知力,そして霊感はゼリー状のBathybiusの「単一の細胞魂の低級段階から進歩してきた」(ヘッケルの「進化の現在位置」注を見よ)のだ,と。そして彼はそれを信じているようである。このような人々に対して、オカルティズムの形而上学は、最も壮大なオーケストラと声楽のオラトリオが中国人に対して生み出すような効果、つまり、神経にさわる音といった効果を生み出すにちがいない。
しかしながら、「天使たち」、最初の3つの前動物的人類種,そして第4人種の没落についての秘教的教えは、ヘッケル流の「プラスティドゥーレ的[plastidula ,plastidule はヘッケルの想定した生命担荷体,生命的原子]」,あるいは無機的な「原生生物の分子魂」よりも低い水準の作り事で自己妄想であるだろうか? 上述のアメーバの魂からの人間の霊的性質の進化と,大洋の軟泥の中の原形質体的住者からの人間の物質体[肉体]の主張されているところの発展の間には,深い裂け目があって,それは知的能力を存分に持っていても誰にも容易には橋渡しできないだろう。物質体の進化は,現代科学が教えるように,論争の決着がついていない一課題である。同じ方向での霊的そしてモラルの発展は,粗野な唯物論の気狂いじみた夢である。
[つづく。p. 650,下から3行目まで]
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第II節より抄訳
[p. 671, 25行目~p. 672, 4 行目]
後者(オカルティズム)が教えるのは,――(a) われわれの(プラーナ)生命素因[life-principle]の生命原子は,人が死ぬとき全く失われるのでは決してない。生命素因(独立の,永久の,意識的要因)が最高に注入されている原子は,一部は遺伝により父から子へ伝えられ,一部はもう一度団結させられてモナドの全ての新しい生まれ変わりにおける新しい身体に生命を与える素因となる。なぜなら(b) , 個体の魂がずっと同一であるように,諸下級素因(身体,そのアストラル体,あるいは生命複体,など)の原子も同一である。それらは,ひと続きの種々の身体,などなどにおける同一個体に対して親和性とカルマの法則によって引き出されるのである。
(1986年7月2日発行『暗燦 第4号』,p. 50-61)