生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

面色とフォンタナ/フォンタナ作品の美[草稿]

2014年08月08日 18時30分53秒 | 美術/絵画
2014年8月8日-4
面色とフォンタナ/フォンタナ作品の美[草稿]



フォンタナの切り裂き作品は、美しい。
フォンタナの穴作品は、美しくない。
フォンタナの引っ掻き筋作品は、美しくない。

物が存在せず、空間の隙間が存在している、という状態の提示。

めくれ具合が自然である。
切り裂きも、自然的である。

切り裂きに覗く黒は面色か?

  「金属板やキャンヴァスに、刃物で切りつけたような、そしてあるときは、機関銃で連続的にうち抜いたようなフォンタナの穴は、〔略〕その黒い穴は、まさに開口色であって、絵具で塗られた黒とは異なっている面色であり、測色をする人がよく使う〈穴色〉である。」
(川添泰宏 1996/2: 63頁)。


  「フォンタナはキャンヴァスに完全な開口色(穴色)による〈面色(平面色)〉をつくった。
そして、面色的様相はダヴィッド・カッツがいうように、物体につきあたるような表面色ではなく、空の色のように柔らかく、いわば大気のように突き通すことのできるような柔らかさをもっている。」
(川添泰宏 1996/2: 75頁)。

木村重信.1967/3/25.現代絵画の解剖[SD選書 14].230pp.鹿島研究所出版会.[650円][B20120605、500円*][Rh20130828][229頁でフォンタナ作品に言及。]

滝口修造(解説).1964/10/30.フォンタナ[現代美術 25].93pp.みすず書房.[滝口修造「フォンタナの洞窟」.月報:1-3.][500円][[B20140629、3,400+257=3,657円amz]

===
篠原資明.2013/4/30.差異の王国――美学講義――.1+3+133pp.晃洋書房.[1,500円+税][B20140628、1,620円]

「型破りな芸術〔の〕〔略〕わかりやすい例として、ルーチョ・フォンタナ〔略〕による「空間概念-期待」シリーズが挙げられるでしょう。キャンバスを切り裂いたこのシリーズは、〔略〕絵とはキャンバスの表面上に描かれるものだという通念からの離反が、ここには明らかに見いだされるのです。」
(篠原資明 2013/4: 93)。

「切り口のひとつひとつが、期待を表わします。何への期待でしょうか。おそらくは画面を突き抜けた向こうへの期待でしょう。フォンタナは、画面上に構築される絵画空間にかえるに、切り口をとおしてうかがわれる画面の向こうの空間をもってしようとしたのです。」(篠原資明 2013/4: 93)。

「フォンタナの「空間概念-期待」シリーズであれば、そのほとんどのキャンヴァスがモノクロームの平塗りになっています。白なら白が、緑なら緑が単一彩色でむらなく塗られているわけですね。だからこそ、切り裂かれた跡もくっきりと際だって見えることになります。」
(篠原資明 2013/4: 94-95)。

「フォートリエに代表されるアンフォルメル絵画に対して、「空間概念-期待」シリーズは、そのすっきりとしたモノクロームの色面を対峙させたのです。」
(篠原資明 2013/4: 95)。

===


===
[×]クルターマン,ウード. 1987(神林恒道・太田喬夫訳 1993.10).芸術論の歴史.xix+324+xxxxv pp.勁草書房.[260-261頁にはフォンタナ作品への言及は無い]

[×]多木浩二・藤枝晃雄(監修)/尾崎信一郎・塩谷純・高島直之・林洋子・古田亮・松本透・山梨絵美子(編).2007/9/10.日本近現代美術史事典.32+655pp.東京書籍.[9,500+税=10,260円][B20140401、消費税という名の文化抑圧の税率が8%になった日、東京藝術大学売店にて][索引の「フォンタナ」で挙げられている「103, 278, 286, 292」は、103頁だけが正しい。残余の各頁には「フォンタネージ」があるのみ。「フォンタネージ」としては、「286,292」が抜けている。][→針生一郎1979『戦後美術盛衰史』でフォンタナに言及]

□ 文献 □
[か]
川添泰宏.1996.色彩の基礎 芸術と科学.美術出版社.
[本体価格3,500円+税][B20140709、600+257=857円amz][Rh20140713]

[こ]
小町谷朝生.1987/9/30.色彩のアルケオロジー.iii+280pp.勁草書房.[定価2,200円][B20140712、351+257=608円amz][こまちや あさお]

[と]
*東野芳明.1962/1.ルチオ・フォンタナ.みずゑ (1962/1): ??-??.[とうのよしあき]

[ふ]
布施英利.2013/12/20.色彩がわかれば絵画がわかる.220pp.光文社[新書].[900円+税][B20140628、972円]


[み]
峯村敏明(監修/著).1992.ルーチョ・フォンターナ展――切り裂かれた空間. 167pp.読売新聞社.[B20140714、500+300=800円]

[む]
村田純一.2002/11/28.色彩の哲学[双書 現代の哲学].viii+267+6pp.岩波書店.[本体2,900円+税][B20140712、351+257=608円amz]

[よ]
吉川あゆみ.2009/12/1.高校教科書×美術館(高等学校 美術/工芸) <No.006>「空間概念 期待」 ルチオ・フォンタナ作 高校美術教科書「美・創造へ1」P25掲載 大原美術館蔵.http://www.nichibun-g.co.jp/column/education/k-bi-museum/k-bi-museum006/[受信:2014年6月28日。][「赤く塗り込めたキャンヴァスに、軽やかな曲線をえがく三筋の切れ目」/大原美術館蔵]

色彩と音響

2014年08月08日 17時38分17秒 | 秘教/オカルト科学
2014年8月8日-2
色彩と音響

 アリス ベイリーの『秘教瞑想〔秘的瞑想〕への手紙』が、
http://www.bailey.it/testi-inglese/Letters-on-Occult-Meditation.pdf
から入手できる。


 「 手紙VII 色彩と音響の〔色と音の〕使用

1920年8月27日

 法則を破るものは法則によって滅び、法則を守るものは法則によって生かされる。このことに疑問の余地は無い。秘学の真の研究は、現象の理由と方法の研究である。それは、諸結果が達成される方法を見出すことであり、また、諸々の出来事の支配的法則を発見するためには、出来事と状況の綿密な分析を必要とする。」
(2014年8月8日試訳)。
 
 
 「ロゴスがこの太陽系のための偉大な宇宙的言葉を発したとき、三条の主要な色彩が発し出て、ほとんど同時に別の四条の流れにもなりつつ、そうして顕現を可能にする七条の色彩がわれわれに与えられた。これらの色彩は、次の通りである。すなわち、

1. 青 Blue。
2. 藍 Indigo。
3. 緑 Green。
4. 黄 Yellow。
5. 橙 Orange。
6. 赤 Red。
7. 菫〔赤紫〕 Violet。

〔略〕

 これら七条の色彩はロゴス的瞑想の産物であった。ロゴスが瞑想し、熟考し、心的に宿し、理想的世界を形成し、それを思考物質で組み立てた。そうして、われわれの客観宇宙は、深い青または藍を総合的な基調色としつつ七色で輝いて、存在へと閃いた。したがって色彩について一定のことが措定できる。

 1. 色彩は、客観的な瞑想に関係があり、したがって形態に関係がある。

 2. 色彩は瞑想の成就で発せられる音響の結果である。

 3. これら七つの色彩とそれらの賢明な把握に、ロゴスが行ない建設するのと同様に行なう人間の資質 capacity が横たわっている。

 4. 色彩は、様々な乗り物に、またそれらの乗り物が機能する界に、一定の影響を与える。秘学徒によって、どの色彩がどの界に適用出来るかが、したがってまたどの色彩がその界のための基本的な色合い〔色相 hue〕であるのかが知られるとき、彼は小宇宙の成長についての基礎的な秘密を把握する。そして彼は、ロゴスが自らの客観的太陽系を建設するのに用いたのと同一の法則によって、自らの顕現体を建設できるのである。これは、光線瞑想が、賢明な学徒についには明かすであろう秘密なのである。」
(2014年8月8日試訳)。


ブラヴァツキー『秘密教義 第一巻 宇宙発生論』 第三部 付録 第1節 (2)

2014年08月08日 15時07分49秒 | 秘教/オカルト科学
2014年8月8日-1
ブラヴァツキー『秘密教義 第一巻 宇宙発生論』 第三部 付録 第1節 (2)
"The_Secret_Doctrine_Vol_1COSMOGENESIS"(pdf), p.440-
〔六巻本の〕"secretdoctrineVol.II"(pdf), p.199-


付録 ADDENDA
秘学〔オカルティズム、隠秘学〕と科学について ON OCCULTISM AND SCIENCE
第1節 SECTION 1
これらの付録をつけた理由 REASONS FOR THESE ADDENDA

〔第1節続き〕

  On the other hand, whatever the writer may do, she will never be able to satisfy both Truth and Science.
一方、筆者のすることが何であれ、真理と科学の両方を満足させることは決してないだろう。

To offer the reader a systematic and uninterrupted version of the Archaic Stanzas is impossible.
体系的で途切れない版の古代のスタンザを読者に提供することは、不可能である。

A gap of 43 verses or Slokas has to be left between the 7th (already given) and the 51st, which is the subject of Book II., though the latter are made to run from 1 et seq. for easier reading and reference.
43の詩節またはスローカが、(すでに与えられた)7番目と51番目の間に残されなければならなかった。それは、第二巻の主題であり、読みやすく参照しやすいように、第1節以降として番号づけられている。

The appearance of man on Earth alone occupies as many stanzas, which describe minutely his primal evolution from the human Dhyan Chohans; the state of the globe at that time, etc., etc.
地球上での人の出現だけで数多くのスタンザを占めている。そこには、人的ディヤーニ チョーハンたちからの人の初期の進化が、またその時の地球の状態などなどが、詳細に述べられている。

A great number of names referring to chemical substances and other compounds, which have now ceased to combine together, and are therefore unknown to the later offshoots of our Fifth Race, occupy a considerable space.
化学物質や他の化合物を指すきわめて多くの名称が、かなりの紙幅を占めている。もっとも、今では結合を止めており、したがって、われわれ第五人種の後の子孫たちには不明である。

As they are simply untranslateable, and would remain in every case inexplicable, they are omitted, along with those which cannot be made public.
それらは単に翻訳不可能であるので、またあるゆる場合に説明不可能のままであろうから、それらは省略される。

Nevertheless, even the little that is given will irritate any follower and defender of dogmatic materialistic Science who happens to read this.
それにもかかわらず、たまたまこれを読むことになる教条的で唯物論的な科学の追随者と擁護者は、与えられたほんの少しでも読めば、苛立ってしまうだろう。

  Before proceeding to other Stanzas, it is proposed, therefore, to defend those already given.
したがって、他のスタンザに進む前に、すでに与えられたスタンザを擁護するつもりである。

They are not in perfect accord or harmony with modern Science -- this we all know.
それらは、現代科学とは完全に一致または調和してはいない。そのことは、承知している。

Had they been, however, as much in agreement with the views of modern knowledge as a lecture by Sir W. Thomson, they would have been rejected all the same.
それらは、W. トムスン卿による講演のような現代知識の諸見解と、多くが合致するけれども、やはり拒絶されてしまうだろう。

For they teach belief in conscious Powers and Spiritual Entities; in terrestrial, semi-intelligent, and highly intellectual Forces on other planes*; and in Beings that dwell around us in spheres imperceptible, whether through telescope or microscope.
というのは、意識の諸力と霊的存在者たち〔の存在〕への、他の界への地球の半知性的な、そして大変知的な諸力〔の存在〕への、そして望遠鏡でも顕微鏡でも知覚できないがわれわれの周りの天球たちに住む存在たちへの確信を教えるからである。

   * Their intellection, of course, being of quite a different nature to any we can conceive of on Earth.
   彼らの思考過程は、当然ながら、われわれが地球上で考え得るようないかなるものとも極めて異なっている本性のものである

Hence the necessity of examining the beliefs of materialistic Science: of comparing its views about the "Elements" with the opinions of the ancients, and of analysing the physical Forces as they exist in modern perception before the Occultists admit themselves to be in the wrong.
よって、秘学徒が自分たちを間違っていると認める前には、唯物論的科学の信念を検討する必要、〈元素たち Elements 〉についての唯物論的科学の見解と古代の意見を比較することの必要、そして現代の知覚において存在するような物理的諸力を分析する必要、がある。

We shall touch upon the constitution of the Sun and planets, and the occult characteristics of what are called Devas and Genii, and are now termed by Science, Force, or "modes of motion," and see whether esoteric belief is defensible or not (Vide infra, "Gods, Monads, and Atoms)".
われわれは、太陽と諸惑星の組織立てと、そしてデーヴァ〔神々、天使たち〕と精霊たち Devas and Genii と呼ばれ今では科学によって力または〈運動の様式〉と名づけられたものの隠れた特徴について扱うだろう。そして秘教的信念が擁護できるものなのかどうかを見ることにしよう(下記の〈神々、モナドたち、原子たち〉を見よ)。


Notwithstanding the efforts made to the contrary, an unprejudiced mind will discover under Newton's "agent, material or immaterial" (of his third letter to Bentley), the agent which causes gravity, and, in his personal working God, one finds just as much of the metaphysical devas and genii, as in Kepler's angelus rector conducting each planet, and the species immateriata by which the celestial bodies were carried along in their courses, according to that astronomer.
反対方向への努力がなされても、偏見の無い心は、ニュートンの(Bentleyへの第三書簡の)〈物質的または非物質的作用者〉のところで、重力を引き起こす作用者を発見するだろう。また、ニュートンの個人的な働いている神において、おのおのの惑星を運営するケプラーの言う支配者と同様に、形而上学的デーヴァと精霊たちを、そしてまたこの天文学者によれば天体がその進路に沿って運ばれる非物質的種 the species immateriata を見つけるのである。

[[Vol. 1, Page] 479 DUAL NATURE OF THE SUN.]


秘密教義第二巻第3部付録第V節

2014年08月07日 16時38分22秒 | 秘教/オカルト科学

   秘密教義 第二巻 第3部 
       付録 第V節 

              H.P.ブラヴァツキー
              麻名隆志 訳



         第V節
                       [p.731]
     有機体の進化と創造的諸中心

 宇宙の進化,でなければ自然の全王国における種の漸進的発展は,一定不変の諸法則によって働くと主張される。これは認められており,法則は現代科学においてよりも秘教科学においてはるかに厳密に施行される。しかし,われわれは次のようにも教えられる。それは同様に,「より不完全なものからより完全なものへ,より単純なものからより複雑なものへ,ひとつひとつは微小であるが,要求される方向へたえまなく累積していくような,止むことなき変化によって,発展はなされる」という一法則である,と。比較的巨大な種が生じるのは,極度に小さなものからである。
 秘教科学はそれに同意する。しかし,この法則は初源の創造[Primary Creation]として知られているものにだけ適用されるとつけ加える。それは,原初的諸原子からの,そしてそれらの最初の分化においては前原初的原子[pre-primordial ATOM]からの諸世界の進化である。また,空間と時間における周期的進化の時期の間,この法則は制限され,下級王国でだけ働く。それは,最初の地質的期間[複数]に,単純から複雑へと,第三環[Round]の残存物[relics]から生き残っている未開発の材料に対してそのように働く。残存物は地球の活動が始まる時に客観的実在へと投射される。
 科学と同様,秘教哲学は意匠[design]あるいは「特殊創造」を認めない。「奇蹟的」なものに対するいかなる主張も拒絶するし,自然の一定かつ不変の諸法則のほかに何も受け入れない。しかし,それは周期的法則,力(あるいは霊)と質料の二重の流れを教える。そして質料は,存在の中立的中心[neutral centre]から発して,その周期的前進と止むことなき変形において発展する。諸時代を通じて全脊椎動物が発展したもとの「原始的胚種」[primitive germ]は,植物と動物が展開[evolve]したもとである原始的胚種とは異なっている。働きかけられるべき質料が発見されるときの条件によって働き具合が決定されるような副次的諸法則があるが,
科学――特に生理学と人類学――はそれについてほとんど気づいていないようである。科学の信奉者はかの「原始的胚種」について語り,「意匠」と「意匠する者」が,すばらしい構造の肋骨と特に手を持った人間の場合に,もしも存在するならば,「非常にはるか昔に置かれ,そして(意匠)は,実際,原始的胚種に含まれているにちがいない」し,そこから全脊椎動物のみならず,「おそらく全生命,動物と植物がゆっくりと発展してきたのだ」(「現代科学と現代思想」の94ページ)ということが,疑問の余地なく示されていると言い張るのだ。
 これは「原始的胚種」については本当であると同じ程度に,かの「胚種」が人間よりも「非常にはるか昔に遡る」だけだというのは嘘である。というのは,それは,われわれの太陽系の起源でさえからも,測られぬほどかつ考えられぬほど遠い(空間においてでなく,時間において)ところにあるからだ。ヒンズー哲学が大変正確に教えているように,「Aniyamsam Aniyasam」は,偽りの観念を通してのみ知ることができる。それは,一なるものから生じ,各々は七からなる一形態に生じた「多」であり,生きている霊的胚種あるいは諸力の諸中心であり,まず初源の衝撃[PRIMARY IMPULSE]を創ってからそれから,進化と漸進的緩慢的発展の法則にその衝撃を与えたのである。
 教えをこのわれわれの地球に厳密に限れば,次のことが示されよう。すなわち,最初の人間のエーテル形態は七つのディヤン・チョーハンの力の中心によって七層にまず投射されたのと同じように,植物と動物の形態の軍勢のあらゆる始祖[ROOT]あるいは親種に対して創造的力[power]の諸中心がある。このことは,再びいうが,「特殊創造」ではないし,普遍的法則によって働く一般的「基礎計画[ground-plan]」におけるものを除けば,いかなる「意匠」もない。しかし,確かに「意匠する者[designers]」は存在する。もっとも,これらは,語の絶対的な意味では,全能でもなければ全知でもない。それらは単に建設者[Builders]あるいは石工であって,(われわれの界では)ついぞ知られることなき親方石工[Master Mason]――一つなる生命であり法則であるもの,によって与えられる衝撃のもとに働いている。この天体に属しながら,それらは他のいかなるものにも働く手あるいは可能性を,少なくても現顕現期[Manvantara]では持っていない。諸周期において厳密に幾何学的かつ数学的尺度の進行に対して働くということは,絶滅した動物種が存分に示している。また,それらが,(副次的動物の子孫の)下級生命の細部における意匠によって活動するということは,博物学が十分に証拠立てている。新種の創造においては,ネコ属の大きな変異――オオヤマネコ,トラ,ネコ,など――におけるがごとく,ときには親種族から非常にかけ離れたりするが,新環境下で必要とされようと無用となろうと,種に対して付属物を加えたり奪ったりして新しい進化を方向づけるのは「意匠する者」である。こうして,大小にかかわらずあらゆる動物と植物を自然が養っていると言うとき,それは正しい。というのは,総計された自然を形成するのは,自然のそれら地球の霊達であるからだ。自然は,ときたまその意匠に失敗するとしても,盲目であるとは考えられないし,失敗を責められることもない。性質と属性の分化した一つの総計に属するので,それは,単に制限され不完全なものだからである。
 霊の物質への旅(それに比例して霊は隠される)――両者は一つなのだが――と次いで,能動的であるのと受動的であるのとが交替して,霊への逆上昇と物質の征服が続く,霊の永遠の螺旋的巡行,という進化的諸周期のようなものがなかったなら,動物学と地質学の諸発見をいかに説明するのであろうか? 権威ある科学の言明にもとづけば,軟体動物から大海竜へ,最小の陸虫から再び第三紀の巨大動物へと動物生命を辿ることができることはどうなのか? そして後者どもがかつて妨げられたことが,これら全ての種が減少し衰え小さくなったという事実によって示されていることは,どうなのか? より不完全なものからより完全なものへ,そしてより単純なものからより複雑なものへと働く外見上の発達過程が,偉大な宇宙的過程における単に二次的な性質の非常に不完全な一般化であるのでなく,本当に普遍的法則であるのならば,そしてもし主張されるような諸周期がないのならば,中生代の動植物は新石器時代最後のものと席を交換すべきであった。首長竜と魚竜こそが現在の海と川の爬虫類から発達していると見つけるべきものであって,小型化した現代の類似物に席を譲ったのではない。さらに言えば,旧友である良き気性の象こそがノアの洪水以前の化石先祖であっただろう。また鮮新世のマンモスこそが珍獣動物園にいたであろう。メガロニックスmegalonyx [貧歯目重歩上科に属する北アメリカ更新世のウシ大の化石哺乳類]と巨大なオオナマケモノmegatherium [重歩上科に属する南アメリカ中新世~更新世と北アメリカ更新世の体長6mの化石哺乳類]がナマケモノの代わりに南アメリカの森にいただろう。その森には石炭期の巨大シダがコケと現在の木――それは小木であって,カリフォルニアの巨木でさえ,過去の地質時代の巨大木にくらべれば小木である――の席を占めていただろう。第三紀と中生代のmegasthenian[MegasthenaはDanaの分類における哺乳綱の第二目。最大で最強の哺乳類を含む]の世界の生物たちは現時代のmicrosthenian [Microsthena はDanaの分類における哺乳綱の一目。最小で最弱の哺乳類を含む]の動植物よりも複雑で完全であったに違いないとは確かなのだろうか? 例えば,ドリオピテクスは現代のゴリラやギボンよりも,より発達した知能に対して,解剖学的により完全でより適していることが見出されている。それなら,これはどうなのか? これら巨大な陸棲と海棲の竜[dragon,恐竜?]の全ての,また空飛ぶ巨大な爬虫類の構造が,蛇,亀,鰐,そして鯨――要するに,われわれが知っている全ての動物――の解剖学的構造よりもはるかに発達し複雑であることはなかったと,信じるべきなのか?
 しかしながら,議論のために,進化のこれら全ての周期,人種,七つの形態と秘教的教えの全内容が,妄想と落し穴以上のものではない認めよう。科学に同意し,人間と彼の乗り物が,オカルティストが主張するように,閉じ込められた「霊」と殻あるいは身体――徐々に改良され今や完成した機械装置である――である代わりに,単により発達した動物であり,その最初の形態は,トビトカゲ[flying dragon,トンボ?]とブヨ,鯨とアメーバ,鰐と蛙,など,などとこの地球上で同一の原始的胚種から現われたと言おう。この場合,人間は他の全ての哺乳類と全く同じ発達と同じ成長過程ょ通って来たに違いないのか? もし人間が一個の動物であって,それ以上のものではなく,獣から出た,大変知力の発達したものであるなら,人間は彼と同種類の巨大な哺乳動物,彼の時代の巨大人類[meganthropos;ところで1941年にはジャワの前期更新世層からMeganthropus palaeojavanicusという化石人類が発見された]であったと認められるべきであり,少なくとも,そうであったという特権が与えられるべきである。このことがまさに,秘教科学が,はじめの三つの環において起こったこととして示すものであり,この点,他のたいていのことと同様,秘教科学は現代科学よりも論理的で首尾一貫しているのである。それは,人間の身体を獣の創造と同じ所に分類し,最初から最後まで動物進化の道上にあると断言する。一方,科学は人間を,未知の祖先から生まれた親のない孤児,「特殊化していない骨格」のままにしているのが実際なのだ! そしてこの誤りは,周期のに関する教義を頑なに拒否するところから来ている。
                
              ―――――

            A.
                       [p.734]
   哺乳綱の起源と進化:科学と秘教的系統発生学。

 すでに行なった西洋進化論の批判において,人間の起源の問題についてほとんど専念して取り扱ったので,種の分化に関するオカルティストの立場を定めることは悪くないだろう。人間以前の[pre-human ]動植物はスタンザへの注釈においてすでに一般的に扱った。そして,現代生物学の推論の多く,すなわち爬虫類からの鳥類の派生,「自然選択」の部分的正しさ,そして一般的に変形説[transformation theory]の正しさが認められた。今や片づけるべく残っているのは,最初の哺乳類相の起源の謎である。ド・カトルファージュ氏は,それが第二時代のHomo primigeniusと同時代であると証明しようとそんなにめざましくも努力している。
 「種の起源」に関係した幾分錯綜した問題――より特別には化石あるいは現存の哺乳類の多様なグループの問題――は,略図の助けでより明解になるだろう。西洋の生物学者* が信じている「生物進化の諸要因」がどの程度まで事実と合致して適切だと考えられるかが,こうして明らかになるだろう。
  * ダーウィン説はあまりにも無理を強いられてきておりハックスリィでさえそれが「狂信」へと時々退廃するのをかつて非難せざるをえなかった。一仮説の価値を無意識的に誇張する思索家の良い例をオスカー・シュミットは挙げている。彼は認める(「由来の学説とダーウィニズム」,p.158),「自然選択」 は「種形成の解答が他の自然条件において見出されるように,ある場合には……不十分であり,他の場合には……不必要である」。彼はまた認める,「中間段階が欠けている。このことは胎盤の無いものから胎盤の有る哺乳類への直接的移行を確信を持って推論する権利を与えるだろう」(p.271)と;また,「われわれは哺乳類の起源に対する憶測と推論についてもっぱら言及しているのだ」(p.268) と;そして「仮説的系統」の考案者たちの,とりわけヘッケルの度重なる失敗を。にもかかわらず彼は 194ページで「自然選択に基づいた由来の学説によって得られたものは,有機体が「血縁的な存在」であるという結びつきに関する「知識」である」と承認する。知識とは上に引用した承認事項と照らすと,それでは,単に推測と理論の同義語であるのだろうか?
 エーテル-スピリチュアル的,アストラル的,物質的進化の間の境界を定める線が引かれなければならない。おそらく,ダーウィン説信奉者が第二過程の可能性を考えようとしたまい遊ばしたのならば,「哺乳類の起源に対する憶測と推論について言及しているのだ」(O.シュミット教授の「由来の学説とダーウィニズム」,p.268 ) という事実をもはや嘆かなくてすんだであったろう!! 現在のところ,卵生の脊椎動物と哺乳綱の生殖系の間にある認められている隔たりは,進化論者とともに,全ての現存する有機体を一つの血統的連続線に結びつけようと望んでいる思索家にとって絶望的な難問となっている。
 例えば,有蹄類の場合をとりあげよう。「これほど豊富な化石資料は他の部門では見られない」と言われている。この方向で大変な進展がなされてきたので,いくつかの例では,現代と始新世の有蹄類との間の中間的絆が発掘されてきた。著名な例は,現在の一指の馬が古第三紀の三指のアンキテリウムAnchitherium[ユーラシア・北アメリカ中新世のウマ科動物]から派生したという完全な証拠の場合である。西洋生物学と東洋の教義の間の比較のもととなるこの基準は,したがって,これ以上の良いものにはできないだろう。ここで用いられた系統図は,一般に科学者の見解を具体化しているように,Rutimeyer の徹底的な研究に基づくシュミットのものである。そのおおよその正確さについては――進化論の見地からは――これ以上望むところはほとんどない:――

          有蹄類。

I .
           

 進化の中間地点。科学は行き詰まりに到る。「これらの二つの科がどの祖先[root]にさかのぼるのかは不明である」(シュミット)。


  /   オカルティズムによる「祖先[ROOT]」。
  │アノプロテリウム科   パレオテリウム科
  │     \     / 
  │      \   /
  │       \ /
II.│ 哺乳類界(動物)の七つの原始の物質-アスト
  │ラル的かつ両性的祖先型の一つ。これらは初期の
  │レムリア人種と――科学のいう「知られざる祖先」
  \と同時代のものである。


 Iは西洋進化論者によって探求された領域を表わすもので,そこには気候的影響,「自然選択」,そして有機体を分化させる他の全ての物質的原因が存在する。生物学と古生物学はここに活動分野を見出し,種の分離に対して,ダーウィンやスペンサーや他の者が示したように,大いに寄与している多くの物質的作用を研究している。しかし,この領域でさえ,ディヤン・チョーハンの知恵の半意識的[sub-conscious ]働きは全ての「完全へ向かう止むことなき奮闘」の根本をなしている。その影響は,ド・カトルファージュが「環境 milieux」と名づけ,スペンサーが「環境 Environment」と名づけた純粋に物質的な[material]諸原因によって非常に修正されるけれども。
 「進化の中間地点」とはアストラル的原型[prototypes]が次第に物質的原型になるのをはっきりと開始し,かくて今やわれわれの周囲で働いている分化的作用に支配されるようになるような段階である。物質界的因果関係は,「皮膚の毛」を身につけると――すなわち,一般に生理的装備に続いて直ちに起こる。両性の分離以前のヒトと哺乳類の形態*
  * どうか次のことに留意されたい。動物――哺乳類を含む――は全てヒトが脱ぎ捨てた組織から進化してきたけれども,なお,はるかに下級の存在として哺乳動物はヒトよりもはるかに早い時期に胎盤を持つようになり別個<のものになった。
は,アストラル質料[matter]から紡ぎ出され,食べたり飲んだり消化したりなどなどする物質的有機体のものとは全然似ない構造を持っている。有機体において知られている生理的装置はほとんど全て,アストラルから七つの根元型が物質化しはじめるのに引き続いて――現存する二界[plane,水準あるいは面とすべきだが慣行訳にしたがう]の間の「中間停止」のあいだに展開[evolve]された。われわれに馴染みある,副次的な地上の諸法則の影響が付随して起き,哺乳類の種の全ての産出という結果になった以上には,進化の「基本計画[ground-plan ]」は,これらの祖先型にはほとんど描き出されなかった。ゆっくりした分化の長い時期[aeon]は,しかしながら,この結果を生じさせるのに必要だった。
 第II図は(粗い)質料[物質]へ降下する前の純粋にアストラルの原型[prototypes]の領域を表わす。アストラル質料は,注意されなければならないのは,第4番目の状態の質料であり,われわれの粗い質料のように,それ自身の「原質」[protyle]を持っている。自然にはいくつかの「原質」があり,物質の色々な界[plane]に対応している。二つの亜物質界のエレメンタル王国,マインド界(マナス[manus ],第5番目の状態の質料)は,ブッディ界(第6番目の状態の質料)と同様,各々そして全て,対象宇宙の基礎を構成する六つの「原質」の一つから展開される。地球上の質料のいわゆる三つの「状態」は,「固体」,「液体」,そして「気体」として知られているが,厳正に言えば亜-状態にすぎない。物質界への降下,それはついに生理学的な人間と動物となったが,その過去の実在性については,いわゆるスピリチュアリズムの「物質化」の事実において明白な証拠がある。
 これら全ての例において,アストラル界の物質界への完全な一時的同化[mergence,統合吸収]が起きる。初期レムリア時代――地質学でのジュラ紀――のアストラル人種からの生理学的人間の進化は,交霊会の部屋での「霊[spirits]」(?)の「物質化」と正確に対応している。クルックス教授の「ケティー・キング」の場合には,生理学的機構――心臓,肺,など――の存在が疑う余地無く示された!!
 これはある程度までゲーテの原型[ARCHETYPE]だと言える。彼の言を聞こう:「かくしてわれわれは多くを得るべきであった。九つの完全な有機体は全て,一つの原型にしたがって形づくられる。原型は,そのまさに永続的な部分において多少とも単に変動し,そしてさらに,日に日に,再生産によって自分自身を完成し変形する」。これは,最初のアストラル根源型[astral root-types ]から種が分化するというオカルト的事実の一見不完全な予示となっている。「自然選択」,などなどの全民兵隊が生み出すのが何であろうと,構造的設計図の基本的統一性は後続する修正の全てによっても,実際上影響されずに残る。ある意味で全ての動物王国と人間王国に共通する「型の統一性」は,スペンサーやその他の者が考えると思われるように,全ての有機的形態の血縁性の証拠であるのではなく,自然が彼女の創造物を形作るにあたって従がった「基本設計[基礎計画]」の本質的統一性に対する証拠物件である。
 真相を要約するため,種の分化において関与する現実的要因[factor]の作表を再び利用しよう。過程自体の諸段階については,有機体の発展のもとである基礎的諸原理であるから,生物の専門家に領域に入ってしまう以上の注釈はここでは必要ない。



                

    動物と植物の種の起源に関与する要因。

     基本的アストラル原型[PROTOTYPES]が
         物質界に入る。
      
                ―――――
 ラマルクの発達に  1.遺伝によって伝えられる変異。
関する「生得と必要  2.自然選択。
の」法則を生じしめ  3.性選択。
るディヤン・チョー  4.生理的選択。
ハンの衝撃[Impulse]  5.隔離。
。それは全ての下位  6.成長の相関。
の媒介者[代理者]  7.環境への適応。(機械論的因果
の背後に横たわって     関係に反して,知的な。)
いる。
           
              
                  [A終わり,p.738]

(『暗燦』第5号、1996年8月?)


ブラヴァツキー『秘密教義 第一巻 宇宙発生論』 第三部 付録 第1節

2014年08月06日 22時40分51秒 | 秘教/オカルト科学
2014年8月6日-1
ブラヴァツキー『秘密教義 第一巻 宇宙発生論』 第三部 付録 第1節
"The_Secret_Doctrine_Vol_1COSMOGENESIS"(pdf), p.440-
〔六巻本の〕"secretdoctrineVol.II"(pdf), p.199-

付録 ADDENDA
秘学〔オカルティズム、隠秘学〕と科学について ON OCCULTISM AND SCIENCE
第1節 SECTION 1
これらの付録をつけた理由 REASONS FOR THESE ADDENDA

  MANY of the doctrines contained in the foregoing seven Stanzas and Commentaries having been studied and critically examined by some Western Theosophists, certain of the Occult Teachings have been found wanting from the ordinary stand-point of modern scientific knowledge.
  前出の七つのスタンザと注釈に含まれる教義の多くは、或る西洋神智学者たちによって研究され批判的に検討されてきており、オカルトの教えのいくつかは、現代的科学知識の通常の観点からは欠けていることが発見された。

They seemed to encounter insuperable difficulties in the way of their acceptance, and to require reconsideration in view of scientific criticism.
彼らは、受け入れるにあたって克服できない困難に出会い、科学的批判に照らした再考察を必要としたようである。

Some friends have already been tempted to regret the necessity of so often calling in question the assertions of modern Science.
友人たちがすっかり後悔に駆られたのは、現代科学の主張をしばしば呼び出さねばならないことであった。

It appeared to them --- and I here repeat only their arguments --- that "to run counter to the teachings of its most eminent exponents, was to court a premature discomfiture in the eyes of the Western World."
〈最も顕著な主唱者の教えに反することは、西洋世界の眼には時期尚早な敗北を招くことであった〉、これが彼らに明らかだったことであり、またここでわたしが彼らの主張を繰り返すだけの事柄でもある。

  It is, therefore, desirable to define once and for all the position which the writer, who does not agree in this with her friends, intends to maintain.
  したがって、友人たちとはこの点で同意しないわけだが、筆者が主張し続けようとする立場をずばりと定義することが望ましい。

So far as Science remains what in the words of Prof. Huxley it is, viz., "organized common sense"; so far as its inferences are drawn from accurate premises --- its generalizations resting on a purely inductive basis --- every Theosophist and Occultist welcomes respectfully and with due admiration its contributions to the domain of cosmological law.
科学が依然として、ハクスリー教授の言葉で〈組織された常識〉のままである限り、つまり、科学の推論結果が正確な前提から導かれる限り、あらゆる神智学徒と秘学徒は、つつしんで、また宇宙法則の領域への科学の寄与を当然にも賞賛して、歓迎するところである。

There can be no possible conflict between the teachings of occult and so‐called exact Science, where the conclusions of the latter are grounded on a substratum of unassailable fact.
秘学の教えといわゆる精密科学の教えの間には、相反する可能性はあり得ない。精密科学の諸結論が論争の余地のない土台に基づいているところでは、そうである。

It is only when its more ardent exponents, over‐stepping the limits of observed phenomena in order to penetrate into the arcana of Being, attempt to wrench the formation of Kosmos and its living Forces from Spirit, and attribute all to blind matter, that the Occultists claim the right to dispute and call in question their theories.
秘学徒が論争し異議を唱える権利を主張するのは、それをより熱心に主唱する者が、存在の奥義へと入り込むために、観察される現象の限界を踏み越え、宇宙 Kosmos の形成物とその生きている諸力を、霊からもぎ取ろうと試みるときだけである。

Science cannot, owing to the very nature of things, unveil the mystery of the universe around us.
科学は、物事のまさにその本性ゆえに、われわれの周りの宇宙 universe の神秘を明かすことばできない。

Science can, it is true, collect, classify, and generalize upon phenomena; but the occultist, arguing from admitted metaphysical data, declares that the daring explorer, who would probe the inmost secrets of Nature, must transcend the narrow limitations of sense, and transfer his consciousness into the region of noumena and the sphere of primal causes.
科学は、現象に対して収集し、分類し、そして一般化することができる。それは本当である。しかし、秘学徒は、認められた形而上学的資料〔観察事実〕から論じつつ、自然の最奥の秘密を探ろうとする大胆な探検者は、感覚の狭い限界を越えて本体たちの領域と第一原因へと自らの意識を移さなければならないと明言する。

To effect this, he must develop faculties which are absolutely dormant --- save in a few rare and exceptional cases --- in the constitution of the off‐shoots of our present Fifth Root‐race in Europe and America.
このことを引き起こすには、いくつかの稀で例外的な場合を除けば、ヨーロッパとアメリカにおける現在の第五根人種の子孫たちの体質にまったく眠っている能力を発達させなければない。

He can in no other conceivable manner collect the facts on which to base his speculations.
推測が基づくべき事実を、他に考え得る方法では、集めることはできない。

Is this not apparent on the principles of Inductive Logic and Metaphysics alike?
このことは、帰納論理と形而上学の諸原理についてと同様に明らかではないか?

労働者協同体

2014年08月05日 20時28分00秒 | 政治経済社会学
2014年8月5日-2
労働者協同体

 昨年だろうか、或るテレビ番組で、パン屋を数人かぐらいの人数で、すべての人が同じ賃金で働き経営するというのを見たことがある。
 大企業のCEOの年棒は、数億円といった額にもなる。リーマンショックのときは、(アメリカ)合州国政府の救済された企業の役員が高給を貰った
ことが話題となった。



 「小さな起業で楽しく生きる」
 「 ワーカーズ・コレクティブ、聞き慣れないボキャブラリーでしょうか? 直訳で、働く人たちの協同組合のことです。この本は、全国に約400以上、1万人を越える市民が、皆で資金を出し、全員が経営者の形で、自由に時間を選び、お互い仕事時間を助け合いながら働き、地域で必要な仕事を起業しよう、という」
http://www.honnoki.co.jp/chiisanakigyoudetanosikuikiru/




ブラヴァツキー『秘密教義 The Secret Doctorine』(1)

2014年08月05日 14時02分10秒 | 秘教/オカルト科学
2014年8月5日-1
ブラヴァツキー『秘密教義 The Secret Doctorine』(1)

 ヘレナ P. ブラヴァツキー Helena Petrovna Blavatsky の『秘密教義 The Secret Doctorine』は、二巻からなる大部の書である。第三巻として出版されたものは、遺された原稿が、たとえばアニー ベサントによって編纂されたものである。なお、アリス A. ベイリー Alice A. Bailey が引用するのは、二巻本が六巻本として出版されたものらしい。

 『秘密教義 The Secret Doctorine』の原文である英文は、一文が長いことが多く、たとえばthatがどの部分を指しているのかとか、或る主張文は引用していっているのか、あるいはまた反語的にまたは皮肉で言っているのか、判定し難いことがしばしばで、訳することが大変難しい。ブラヴァツキー自身、英語は母国語ではないからと弁明している。

 東條真人『シークレット・ドクトリンを読む』は、ブラヴァツキーの母国語であるロシア語の三巻本を参照している。またなによりも、広範で深い研究にもとづく解説がなされている。日本語の読者にとって、おおきな贈り物である。

 以下にいくつか、引用させていただく。

  「 本書が大方の人々から荒唐無稽な作り話と受け取られるであろうことは、間違いない。〔略〕
  筆者は、本書の内容がもつ論理的な一貫性によって、この新たな創世記(宇宙誕生の神話)が、現代の科学者たちが《作業仮説》として気軽に受け入れているものと同等の資格をもつことになると言っておきたい。 さらに言うならば、本書は〔略〕、宇宙そのものに忠実であり、統一性と 類推の法則にしたがっているからこそ考察に値するのである。」(東條真人(編訳)2001/5: 25頁)。

 神智学またはトランスヒマラヤ密教では、人間に関わる世界を七つの界 plane に分類して(これらは宇宙物質界に相当する)、それぞれをまた七つの亜界 subplane に分類している。下からの三つは、物質界 physical plane、アストラル界 astral plane、そしてメンタル界 mental plane である。物質界の上位の四つの亜界の物質はエーテル体 etheric body と呼ばれ、下位の気体、液体、固体という三つの状態の物質は濃密物質体 dense physical body と呼ばれる。

 人間の本質は、魂 soul またはエゴ ego であり、それがいくつかの三重の衣(または鞘 sheath)をまとっている。
 肉体システムを統御する機構の作動が不全となり、したがって生命維持機能が不全となり、かつ、魂が離脱を自ら決定することが、(肉体の)死である。こうして転生 reincarnation を繰り返す。物質界という浮き世を経験することで、物質を栄化しつつ、徳を積み、覚醒していくといういわば巡礼の旅をするのである。

 →意識の三状態、臨死体験記録の総括、エーテル体、Hodgsonの透視による個体発生の経過。


 
□ 文献 □
東條真人(編訳・解説).2001/5/11.ヘレナ・P・ブラヴァツキー〔著〕シークレット・ドクトリンを読む.339pp.出帆新社[トランス・ヒマラヤ密教叢書].[本体3,500円+税][c201407??]

原発推進と地球温暖化脅威論

2014年08月04日 17時42分55秒 | 原発を無くす
2014年8月4日-1
原発推進と地球温暖化脅威論

 グリーンランド Greenlandは、「面積2,166,086平方kmの81%である1,755,637平方kmを氷床が覆」い(ウィキペデイア[受信:2014年8月4日。])、「グリーンランドの氷床が全て融けたならば、現在よりも7.2mほど海面が上昇するという[文献2: IPCC Third Assessment Report: Climate Change 2001, The Scientific Basis, Table 11.3]」。
 グリーンランド国としては、
  「グリーンランドは、島内のほとんどの土地が厚い氷に覆われており、地下資源の採掘が困難であった。しかし、地球温暖化の影響で少しずつ氷が溶解しており、今後採掘のスピードが速まると予想される。グリーンランドの地下には中東地域に匹敵する量の原油が存在するとされており、地下資源収入が経済的にグリーンランドを支え、デンマークからのグリーンランド独立が容易になるとも指摘される。」
と、地球温暖化は政治的と経済的には良い影響をもたらす可能性がある。

 地球温暖化論懐疑派は、グリーンランドはその名の通り、かつて緑が広がる暖かい気候だったと主張する場合がある。これに対して、それは嘘だという人がいた。
 そこで、ウイキペディアを見ると、

  「「グリーンランド」の由来[編集]
〔982年頃、グリーンランドと命名した赤毛の〕エイリークはグリーンランド上陸より前、アイスランドを発見していた。彼が命名したアイスランドは、その名称故に入植希望者が現れなかった。そこで彼はこの地に入植希望者が多数現れることを願い、「緑の島」と名付けた。
 その他にもGruntland(グラウンドランド)が訛ったという説、あるいは氷河に覆われていない南部海岸地帯がエイリークの頃の中世の温暖期には緑にあふれていたという説もある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/グリーンランド[受信:2014年8月4日。]

と、嘘で入植者を誘うという説と、中世の温暖期には緑にあふれていたという説の両方があり、決定的ではない。
 中世とは、

  「中世前期(early middle ages、500年頃から1000年頃)、十字軍により西欧が拡大し、汎ヨーロッパ的な権力を巡って教皇権が世俗王権と争う中世盛期(high middle ages、1000年頃から1300年頃)、ルネサンスの興隆や百年戦争の争乱を経て絶対王制に向かいはじめる中世後期(late middle ages、1300年頃から1500年頃)に分類される。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/グリーンランド#.E7.8B.AC.E7.AB.8B.E3.81.B8.E3.81.AE.E5.8B.95.E3.81.8D[受信:2014年8月4日。]

となっている。上記の分類では、982年頃は中世前期となる。
 「中世の温暖期」のウィキペディア記事では、

  「およそ10世紀から14世紀にかけて続いたヨーロッパが温暖だった時期を指す。この時期の温暖化は地球温暖化や温室効果についての議論でしばしば話題にされる。 ただし最新の報告では、現在と同程度に温暖であった地域は限られ、地球全体での平均気温は今よりもずっと寒冷であったと見られている[1: Science, Vol. 326 no. 5957 pp. 1256-1260, 27 November 2009]。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/中世の温暖期[受信:2014年8月4日。]

とある。[1]のリンクをたどると、そのScienceの記事とは、

「Global Signatures and Dynamical Origins of the Little Ice Age and Medieval Climate Anomaly
Michael E. Mann1,*, Zhihua Zhang1, Scott Rutherford2, Raymond S. Bradley3, Malcolm K. Hughes4, Drew Shindell5, Caspar Ammann6, Greg Faluvegi5, Fenbiao Ni4」

である。筆頭著者は、懐疑派側からは、地球温暖化問題を宣伝するために、部屋を暑くしてアメリカ合州国議会で証言した(?)、かの悪名高い マイケル マン Michael E. Mannとなっている。
 マイケル マンは、「その過去の気温変化が19世紀以降の急激なカーブを示していたため、その気温変化の曲線が「ホッケースティック曲線」と呼ばれるようになった。その結果、マンはIPCCの第三次報告書の主要な書き手の一人に選ばれた」(http://ja.wikipedia.org/wiki/ホッケースティック論争[受信:2014年8月4日。])そうである。「彼の再現結果は、今世紀の気温上昇が人為的であることを示す有力な証拠の一つとな」(同上)った。

 IPCC(気候変動に関する政府間パネル Intergovernmental Panel on Climate Change)の第5次評価報告書では、二酸化炭素排出を削減するための方策として、原子力発電を選択肢の一つとしているそうである。
 1988年のアメリカ合州国の議会証言で、議員たちに訴えるために部屋を暑くなるままにして、地球温暖化について警告したのは、ジェームズ ハンセン James Hansen である。
 そしてジェームズ ハンセンらは、原子力発電を推奨する声明を出したとのことである。

  「2013年11月、気候変動の(とくに自然科学面の)専門家であるケン・カルデイラ(Ken Caldeira)さん、ケリー・エマニュエル(Kerry Emanuel)さん、ジェームズ・ハンセン(James Hansen)さん、トム・ウィグリー(Tom Wigley)さんが、地球温暖化の対策として原子力発電は必要という趣旨の意見を述べた手紙を公開しました。

 これに対して、2014年1月、明日香壽川さん、朴勝俊さん、西村六善さん、諸富徹さんが、「原子力発電は気候変動問題への答えではない」という意見書を出しました。」
http://blog.livedoor.jp/climatescientists/archives/1836759.html[受信:2014年8月4日。]

 まず、「環境政策への影響者だけれども原子力に反対の者たちへ:」は、

 To those influencing environmental policy but opposed to nuclear power:
https://plus.google.com/104173268819779064135/posts/Vs6Csiv1xYr
にある。
 それへの、明日香壽・朴勝俊・西村六善・諸富徹による反論、「原子力発電は気候変動問題への答えではない」は、

 ハンセン氏らの書簡への反論
 原子力発電は気候変動問題への答えではない
 2014 年 1 月 31 日(ver.2)
http://www.cneas.tohoku.ac.jp/labs/china/asuka/_src/2014/nuclear_power-climate_change_jp.pdf

 2014年02月10日13:38
 原子力発電と温暖化問題の関係についての意見書
http://blog.livedoor.jp/climatescientists/archives/1836759.html
に、ある。
 この意見書は、なかなかよく反論していると思う。
 しかし、結局、IPCC報告書で、原発が選択肢として残されているのは、原発推進派の言い分が通ったということだろう。
 したがって、動機の点から、地球温暖化脅威論は嘘が多いとみなすべきである。だから、地球温暖化脅威論での要所要所だけでなくすべての主張は嘘である、これを標準として検討しなければならない。もちろん、電子計算機による模擬計算がもとづくモデルと諸過程や江守正多『地球温暖化の予測は「正しい」か?』の言う職人技(の何?)も、なんら確証のデータは無い。むしろ反証的と思えるデータがある(後述)。
 
 
 万死に値する人為的温暖化論者
http://realcrazyclimate.wordpress.com/2011/03/17/万死に値する人為的温暖化論者/

 IPCCのメンバーは原発ムラの連中ばかり
http://www.asyura2.com/14/genpatu37/msg/173.html

 新・地震学セミナーからの学び
 42 「地球温暖化」を予言するモデルの危うさ
http://www.ailab7.com/ondanka.html

 (書評)『地球温暖化論争 標的にされたホッケースティック曲線』 マイケル・E・マン〈著〉 朝日新聞
http://www.asyura2.com/13/nature5/msg/442.html


 社民党のポスターに焦る安倍支持者たち(そりゃおかしいゼ)
http://www.asyura2.com/14/senkyo169/msg/164.html

 東電幹部が起訴相当なら、国会で「原発安全」の大ボラ吹きまくった脱法総理にもその資格は充分にある。
  「吉井英勝:海外では二重のバックアップ電源を喪失した事故もあるが日本は大丈夫なのか
安倍晋三:海外とは原発の構造が違う。日本の原発で同様の事態が発生するとは考えられない
吉井英勝:冷却系が完全に沈黙した場合の復旧シナリオは考えてあるのか
安倍晋三:そうならないよう万全の態勢を整えているので復旧シナリオは考えていない
吉井英勝:冷却に失敗し各燃料棒が焼損した場合の復旧シナリオは考えてあるのか
安倍晋三:そうならないよう万全の態勢を整えているので復旧シナリオは考えていない
吉井英勝:原子炉が破壊し放射性物質が拡散した場合の被害予測や復旧シナリオは考えてあるのか
安倍晋三:そうならないよう万全の態勢を整えているので復旧シナリオは考えていない」
http://www.asyura2.com/14/senkyo169/msg/313.html[受信:2014年8月4日。]


H.P. ブラヴァツキー『秘密教義』第二巻 第3部 付録 第I節

2014年08月03日 23時12分05秒 | 秘教/オカルト科学
2014年8月3日-3
H.P. ブラヴァツキー『秘密教義』第二巻 第3部 付録 第I節

   秘密教義 第二巻 第3部
     付録 第I節
              H.P.ブラヴァツキー
              麻名隆志 訳


 Secret Doctrine は1888年に出版されて近代オカルティズムの古典となっているが,現在なお汲みつくされていない泉である。近年,人類の祖先を巡る問題に新しい材料が加えられた。ひとつはアフリカで発掘されたアウストラロピテクス類であり,もうひとつは分子進化学による類人猿とヒトとの分岐年代の推定結果である。どちらも専門技術的問題があるが,結論としては古代の叡智,occult science(密教科学,秘教科学,神秘科学)の教えに近づいてきているのではなかろうか。
 原書としてはTheosophy Company のファクシミリ版を用い,Theosophical Publishing House のZirkoff 編の3巻本も参照した。

  *****************************************

        秘密教義

      第二巻。――第3部。
         付録。

  科学と秘密教義を対照させる。
  「この地獄界の知識――
   そう;友よ,そは何ぞ? 偽なるや,真なるや?
   偽なるもの,をいかな死すべき者が知りたいのか?
   真なるもの,をいかな死すべき者がかつて知ったというのか?」


      目次
                       ページ
第I節.古代人類学か,現代人類学か? ‥‥‥‥‥645
          ―――
第II節.人類祖先が科学によって提出さる ‥‥‥‥656
 プラスティドゥーレ魂,そして意識的神経細胞 ‥670
          ―――
第III節.ヒトの化石遺骨と類人猿 ‥‥‥‥‥‥‥‥675
 西洋の進化論:ヒトと類人猿の比較解剖学 ‥‥‥680
 ダーウィニズムとヒトの古さ:類人猿と彼らの
  祖先 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥685
          ―――
第IV節.地質紀の長さ,根人種周期,そしてヒト
     の古さについて ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥690
 それらについての現代科学の推察 ‥‥‥‥‥‥‥694
 惑星の連鎖期とその複数性について ‥‥‥‥‥‥699
 秘教的地質年代学 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥709
          ―――
第V節.有機体の進化――創造的諸中心 ‥‥‥‥‥731
 哺乳類の起源と進化 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥734
 ヨーロッパの旧石器人種たち ‥‥‥‥‥‥‥‥‥738
          ―――
第VI節.巨人,文明,そして水没した諸大陸を歴
     史にたどる ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥742
          ―――
第VII節.いくつかの水没した大陸の存在に関する
     科学的,地質学的証明 ‥‥‥‥‥‥‥‥778


  *****************************************


      第二巻への付録

        第1節

   古代人類学か現代人類学か?

 人の起源についての問いが,偏見がなく正直で熱心な科学者に対して,真剣に発せられると,その答えはつねに「われわれにはわからない」である。ド・カトルファージュ(de Quatrefages)は,不可知論的態度において,そのような人類学者の一人である。
 これは,他の科学者が公平でもなく正直でもないとうわけではなく,われわれの所見が思慮あるものとはときとして疑わしい場合と同様である。しかし,ヨーロッパの科学者の75%が進化論者だと推定される。現代思想のこれらの代表たちが全て,諸事実についての目にあまる虚説を張る罪を犯しているのだろうか? 誰もこうは言わない――が,大変例外的な場合がいくつかある。しかしながら,科学者たちは,反僧侶的熱狂によって,またダーウィニズムに代わる学説(「特殊創造説」をのぞいて)のどれにも絶望することによって,無意識のうちに,弾力性が不十分な仮説を「押しつける」ことにおいて不誠実である。その仮説は,今や課せられている過酷な緊張を憤る。同じ課題上の不誠実さは,しかしながら,聖職者社会でも大手を振っている。テンプル主教は,彼の「宗教と科学」において,ダーウィニズムの徹底的な支持者として打って出た。牧師たるこの著者は,物質を(その「最初の刻印」を受けた後),全ての宇宙的現象を助けを受けないで展開するもの[evolver ]と見なすことをできるかぎりやっている。この見解は,「世界の果て」に仮説的な神を設定する点で,ヘッケルの見解と違っているだけである。その神は諸力の相互作用から全く超然として立っているのだ。このような形而上学的実在[entity]は,カントのものと同じく,神学的神ではない。テンプル主教が唯物論的[物質主義的]科学と休戦したのは,われわれの考えでは,無分別である――それが聖書の宇宙創造説を全く拒否することになるという事実を別にしても。われわれの「学識ある」時代の唯物論に対して奴隷根性を発揮するのを前にして,われわれオカルティストはほほえむだけである。しかし,このような神学的怠け者が仕えていると称する主君たち,キリスト,そして一般にキリスト教徒への忠誠についてはどうなのか?
 しかしながら,当面,この牧師に挑戦する気はなく,目下の仕事は唯物論的科学だけに関するものである。われわれの問いに対する後者の答えは,その最良の代表者にあっては,「われわれにはわからない」である。もっとも,大多数の人は,全科学は先祖伝来の財宝であって,全てのことを知っているがごとく振るまう。
 というのは,実際,この否定的返答によっては,科学者の大多数はこの問いについて思索するのを妨げられなかったわけで,各人は,他の全てを除いて受け入れられた自分自身の特別な理論を持とうと努めている。こうして,1748年のMailletから1870年のヘッケルに至るまで,人類の起源についての理論が,その発明者の個性と同じ数ほどにも異なっている。ビュッフォン,Bory de Saint-Vincent,ラマルク,E.ジェフロワ・サンチレール,Gaudry,Naudin,ウォレス,ダーウィン,オーウェン,ヘッケル,Fillippi,フォークト,ハックスリィ,アガシー,など,各々は起源についての多かれ少なかれ科学的な仮説を展開した。ド・カトルファージュはそれらを2つの主要なグループにまとめている。1つは急速な変成[transmutation,今のevolutionと同様の意味]に,他は非常に漸進的な変成に固執する。前者は,新しい型(人間)は全く異なった生物から生まれることに賛成し,後者は累進的な派生による人間の進化[evolution]を教える。
 まことに不思議なことに,これら権威者の最も科学的なるものから,人間の起源という主題に関する全ての理論の最も非科学的なるものが今まで発してきたのだ。これは,非常に明白なことで,人間が類人猿様の哺乳類の子孫であるという現今の教えが,土くれからのアダムとアダムの肋骨からのイブの形成ほどには敬意をもって遇されないだろう時が急速に近づいている。というのは――
 「明らかに,とりわけダーウィニズムの最も基本的な諸原理に従えば,ある有機体は,発生がそれ自身に対して逆の順序になっているような他の有機体の子孫ではありえない。よって,これらの諸原理と一致して,人間は,何であろうといかなるタイプの類人猿の子孫でもないとしか考えられない。」*

  * ド・カトルファージュ「人類」, p.111。人と類人猿の頭脳のそれぞれの発達が述べられている。「類人猿では,側頭葉楕円体の[temporo-spheroidal]襞は,中頭葉を形成しているが,前頭葉を形成する前部の襞よりも以前に出現し完成する。人では前頭葉の襞は,反対に,最初に出現するものであって,中頭葉の襞は後に形成される。」(同上)

 類人猿説に対するLucaeの議論は,人と類人猿における頭骨の軸をつくっている骨の屈曲の違いに基づいており,それはシュミット(「由来の学説とダーウィニズム」,p. 290)によって,公平に論じられている。彼は,「類人猿は成長するにつれ,ますます獣的になるが,人はますます人間らしくなる」と認め,実際,先へ進むにあたってしばしためらっているようにみえる。たとえば,「頭骨の軸のこの屈曲は,したがって,類人猿とは反対で,人の形質としていっそう強調されよう。ある部類の特殊な特徴はそれから引き出すのはほとんどできない。由来の学説についてはとりわけそうであって,この事情は決して決定的ではないように思える」。 著者は明らかに,この議論に少なからず気をもんでいる。彼は,それが,現在の類人猿が人類の先祖であるどんな可能性をもひっくりかえすと断言する。しかし,それはまた,人と類人猿が共通の――もっとも,今までのところ完全に理論的な――祖先をもっていたというぎりぎりの可能性をも否定しないであろうか。
 「自然選択」自体でさえ,日に日にますますおびやかされている。ダーウィン陣営の脱落者は多く,かつては最も熱狂的な信奉者であった者が,新しい諸発見のために,ゆっくりとしかし着実に新規まき直ししようと準備している。1886年10月の「王立顕微鏡学会誌」には,次のような記事が読める:――
 「生理的選択。――G.J.ロマネス氏は,自然選択を,適応的構造の起源のための理論であるとみなすにはいくつかの困難があることを発見している。彼はそれに代わって生理的選択,あるいは最適者の分離,と称するものを提案する。彼の意見は,生活条件における小さな変化に対する生殖系の極度の感受性にもとづいており,野生種においては多少とも不妊へと向かう変異がひんぱんに起こっているにちがいないと考えている。もし変異がこのようであるなら,生殖系は,親の型ではある程度の不妊性を示す一方,変異型の限界内で多産でありつづける。変異は,交雑によってだめにはならないし,不妊性によってなくなってしまうことにもならないだろう。この種類の変異が起きれば,生理的障壁によって種は二つの部分に分けられるにちがいない。‥‥著者は結局,互いの不妊性を,種の分化の結果の一つではなく,その原因であると認めている。」*

  * これに加えられた編集部の論評は,アテニウム[ロンドンの文芸評論誌]――(3069号,1886年8月21日, pp. 242-3)誌上で「F. J. B.」氏は,自然観察者(ナチュラリスト)は長い間「形態的」と「生理的」種があると認めてきたと指摘している,というものである。前者は人の心にその起源があり,後者は,類縁個体グループの外的器官と同様に内的器官に影響を与えるに十分な一連の変化に起源がある。形態的種の「生理的選択」とは混乱した考えであり,生理的種の生理的選択なんてのは「冗長な用語」である。

 上述のことが,ダーウィン説を補足するものであり,それから導かれるものであることを示す試みがある。これは,せいぜい不体裁な試みである。公衆がまもなく信じさせられるだろうことは,チャールズ・ディクソンの「自然選択なしの進化」もまたダーウィニズム――著者がそうであるときっと主張するように,拡張されたダーウィニズムであるということだ。
 しかし,それは,一個の人間の身体を3片にあるいはいろいろな部分に分割し,そうして各部分はかつてあった如く同一の人間である,ただ拡張されただけだ,と主張するようなものだ。けれども著者は79ページで述べている:――「明瞭に理解してほしいのは,先のページの一語たりとも,ダーウィンの自然選択説に反対して書かれていないということである。私がなした全てはある現象を説明する試みである。ダーウィンの仕事を研究すればするほど,彼の仮説の真実性をますます確信することになる。」(!!)
 そして,この前の48ページで彼が言及しているのは:――「ダーウィンが彼の仮説を支持するものとしてずらりと挙げた諸事実の圧倒的なこと。それは,あらゆる難点と異議にもかかわらず,自然選択説を進展させ勝ち誇らせる」。
 これはしかしながら,この学識ある著者がこの説を「誇らかに」打ち負かすのを妨げたりはしない。そして,彼の仕事を「自然選択なしの進化」とおおっぴらに呼ぶことさえ,あるいは多言を要すれば,ダーウィンの基本的考えをみじんに打ち砕くことを,妨げはしない。
 自然選択自体については,この上ない認識が,ダーウィニズムの結論を暗黙に受け入れる今日の多くの思索家の間に広まっている。それは,たとえば,「自然選択」が種を生じさせる[originate]力を持っていると考えるような,レトリックの工夫にすぎない。「自然選択」には実体がない。しかし,有機体の間で適者の生存と不適者の除去が,生存への努力においてもたらされる様式を記述する便利な文句ではある。有機体の全てのグループは,生計手段を越えて繁殖する傾向がある。生活のためのたえざる争い――環境条件に加えて「食物を十分に取るためと食べられることから逃げるための努力」――は,不可避的に不適者をたえまなく取り除く。どの種属のエリートもこうしてえり分けられ,種を繁殖させ,それらの有機的特徴を子孫に伝える。全ての有益な変異はこうして永続し,漸進的改良が達せられる。しかし,自然選択は,筆者の卑見では,「力としての選択」とは,実際は全くの作り話である。とりわけ,種の起源の説明として用いられる場合はそうである。それは単に,「有益な変異」が生み出されたときに定型化される仕方を表わす代表的用語にすぎない。ひとりでには,「それ」は何も生み出さないし,「それ」に対して与えられる仕上げられていない材料に作用するだけである。問題になっている本当の問いとは,何の原因が――他の二次的諸原因と一緒になって――有機体自身において「変異」を生み出すか,である。これらの二次的原因の多くは,単に物理的,気候的,食餌的などなどのものである。まことに結構。しかし,有機体の進化の二次的側面を越えて,より深遠なる原理がさがし求められねばならない。唯物論者の「自然発生的変異」と「偶然的分岐」は,「物質,力,必然性」の世界では自己矛盾的用語である。準知性的刺激の監督的存在は別として,型の単なる変異性は,例えば人体の驚くべき複雑さと驚異を説明するには無力である。ダーウィニストの機械的理論の不十分さは,全く否定的思索家の中でもフォン・ハルトマン博士によって,十分に暴露された。盲目の未分化の細胞が,ヘッケルが書いたように,「自ずと器官へ配列する」などと書くのは,読者の知性を侮辱するものだ。動物の種の起源についての秘教的解答は他所で与えられる。
 性選択,自然選択,気候,隔離,などなどの旗のもとにまとめられた,分化についてのこれら全く二次的な原因は,西洋の進化論者を誤らせ,肉体的発展の出発点として役立つ「祖先型」が「どこから」というのが何であろうと,本当の説明は与えていない。真実は,現代科学に知られている分化的「原因」は,動物の元始の根原型がアストラル界から物質化[physicalization]した後で作用しはじめるにすぎない。ダーウィニズムは,進化とはその中間点で出会うにすぎない。すなわち,アストラル的進化が,通常の物質的諸力(これを,われわれの現代の五官によって知る)の活動に席を譲ったとき,である。しかし,ここにおいてさえ,ダーウィンの説は,最近なされた「拡張」した形でも,この場合の諸事実にうまく対処するには不適当である。種における生理的変異に潜んでいるもの――それに対しては他の全ての法則は従属的で二次的なものである――は,物質にゆきわたっている半意識的[sub-conscious]知性存在であり,究極的には神とディヤン・チョーハンの[Dhyan-Chohanic]英知の反映[REFLECTION]に帰すことができる。*

  * ネーゲリの「完全になるうること[perfectibility]の原理」,フォン・ベアの「目的に向かう努力」,Braunの「自然の進化史における内的刺激としての神の息吹き」,オーウェン教授の「完全になるうることへの傾向」などは全て,神とディヤン・チョーハンの想念に恵まれた,普遍的な導きのフォーハット[FOHAT]の暗黙の表明である。

 まんざら似てなくもない結論に,Ed. フォン・ハルトマンのような著名な思索家はたどりついた。彼は,手助けされない自然選択の効能に絶望して,進化は無意識(オカルティズムの宇宙ロゴス)によって知的に導かれていると考える。しかし,後者はフォーハット,あるいはディヤン・チョーハンのエネルギーを通して単に間接的に働き,それは偉大なる悲観論者が描くような直接的な仕方ではない。
 科学者の間でのこのような相異,互いのそしてしばしばの自己矛盾によって,本書の筆者は他の教え,より古い教えを――未来の科学的評価のための仮説としてだけであろうとも――明るみに出すように勇気づけられた。現代科学についてはどのみちあまり知らないけれども,この古代の開拓地の卑しき記録者にとってさえも明白なのは,上述の科学的虚偽と欠陥である。これら全てについて,二つの教えを平行線上に置くために,触れようと決めたのだった。
 今までのところ,「秘密教義」は全く,形而上学に関わってきた。今や地上に降りた。そして,物質科学と実地の人類学の領域,あるいは唯物論的自然観察者が自分たちの正当な領域だと主張する領域内に適所を得る。彼らは,ずうずうしくも更に,魂の働きがより高度にそしてより完全であるほど,動物学者と生理学者だけによる分析と説明にますます従うと主張している(ヘッケル「細胞の魂と魂の細胞」について)。この驚くべき主張はある人のものであって,彼は,彼の猿人由来説を証明するために,人の祖先の中にキツネザル科[Lemuridae ]を含めるのをためらわなかった。キツネザル科は,脱落膜が脱落しない[indeciduate]哺乳類である原猿亜目[Procimiae]の[分類]階級にまで,彼によって昇進させられた。原猿亜目には,彼はまことに間違って,脱落膜と盤状胎盤があるとしている。*

  * 下記参照。第II節「人類の祖先が科学によって提示さる」における,ド・カトルファージュによるヘッケルに対する暴露。

 これについて,ヘッケルは,ド・カトルファージュによってきびしくとがめられ,彼自身の同僚の唯物論者たちと不可知論者,彼に優らずとも同程度には偉大な権威者たち,すなわち,ウィルヒョウとドュ・ボア・レーモンによって批判されたのだった。*

  * ドュ・ボア・レーモンは厳密に言えば不可知論者であって,唯物論者ではない。彼は唯物論的教養――それは,精神現象は単に分子運動の産物だと断言する――に対して最も激しく抗議した。脳の構造に関する最も正確な生理学的知識がもたらすものは「運動中の物質以外の何物でもない」と彼は主張する。そして,「さらに進まなければならない,そして心的原理の全く不可解な性質,それは単なる物質的原因の所産であると考えるのは不可能である,を認めざるをえない」。

 このような反対にもかかわらず,ヘッケルの無思慮な理論は,今日まで,科学的で論理的だと言う人がいる。人の意識,魂,霊の不可解な性質は,今や,活発な原生生物[Protista]の原形質分子の機能の単なる進歩であり,人の心と「社会的本能」の文明に向かっての漸進的進化と成長は,蟻,蜂,そして他の生物の文化のなかにその起源をさかのぼらせねばならない。古代の叡智の教義を偏見なく聞こうという機会は実際ほとんど残されていない。教養のある俗人が教えられるのは,「下級動物の社会的本能は,近ごろ,明らかに,諸モラル,人間のモラルさえの起源であると考えられるようになった」(!),そしてわれわれの神聖なる意識,魂,知力,そして霊感はゼリー状のBathybiusの「単一の細胞魂の低級段階から進歩してきた」(ヘッケルの「進化の現在位置」注を見よ)のだ,と。そして彼はそれを信じているようである。このような人々に対して、オカルティズムの形而上学は、最も壮大なオーケストラと声楽のオラトリオが中国人に対して生み出すような効果、つまり、神経にさわる音といった効果を生み出すにちがいない。
 しかしながら、「天使たち」、最初の3つの前動物的人類種,そして第4人種の没落についての秘教的教えは、ヘッケル流の「プラスティドゥーレ的[plastidula ,plastidule はヘッケルの想定した生命担荷体,生命的原子]」,あるいは無機的な「原生生物の分子魂」よりも低い水準の作り事で自己妄想であるだろうか? 上述のアメーバの魂からの人間の霊的性質の進化と,大洋の軟泥の中の原形質体的住者からの人間の物質体[肉体]の主張されているところの発展の間には,深い裂け目があって,それは知的能力を存分に持っていても誰にも容易には橋渡しできないだろう。物質体の進化は,現代科学が教えるように,論争の決着がついていない一課題である。同じ方向での霊的そしてモラルの発展は,粗野な唯物論の気狂いじみた夢である。
          [つづく。p. 650,下から3行目まで]


     ***********************************

  第II節より抄訳
 [p. 671, 25行目~p. 672, 4 行目]

 後者(オカルティズム)が教えるのは,――(a) われわれの(プラーナ)生命素因[life-principle]の生命原子は,人が死ぬとき全く失われるのでは決してない。生命素因(独立の,永久の,意識的要因)が最高に注入されている原子は,一部は遺伝により父から子へ伝えられ,一部はもう一度団結させられてモナドの全ての新しい生まれ変わりにおける新しい身体に生命を与える素因となる。なぜなら(b) , 個体の魂がずっと同一であるように,諸下級素因(身体,そのアストラル体,あるいは生命複体,など)の原子も同一である。それらは,ひと続きの種々の身体,などなどにおける同一個体に対して親和性とカルマの法則によって引き出されるのである。


(1986年7月2日発行『暗燦 第4号』,p. 50-61)

リスクの或る定義、とんちんかんな主張

2014年08月03日 16時07分26秒 | 原発を無くす
2014年8月3日-2
リスクの或る定義、とんちんかんな主張

 原発事故は、被害の種類として対処が厄介で、被害規模が極めて大きいものになり得る。そしてそれが日本で現実になった。
 福島原発事故のようなものは絶対に避けたい。もっと大規模なものになることが避けられたのは奇跡的だと思う。どれだけ(科学技術者たちの主観として)完璧に事故防止策が取られていたとしても、原発の過酷事故が起これば、地域社会崩壊をもたらし、また国土喪失に等しい。

 山田昌弘(2013/12: 244)は、リスクを、「将来に起きる可能性がある危険な事態」と定義している。この本の議論は、福島原発事故ではないが、リスクという点から、引き合いに出している。

  「日本は、政府から一般の人々に至るまで「リスク」が本当に嫌いである。そのため、かえって混乱をもたらしているのではないか。〔略〕
 リスクを、将来に起きる可能性がある危険な事態と定義しておこう。多くの日本人はリスクが嫌いだから、リスクの存在を認めたがらない。気づいても見ないふりをしておく。リスクが起きないことを「信じる」。だから、いったんリスクが起きるとパニックに陥る。リスクの存在を認めざるをえなくなると、今度は、リスクが生じないための対策だけに全力を注ぎ、他のことを全て無視する。」
(山田昌弘 2013/12/5: 244)。

 「東京電力の原発事故も同じ構造をしている。津波は「想定外」でも、何らかのきっかけで電源を全て失う可能性は十分に想定できていたはずである。しかし、その可能性を認めてしまうと、その防止策を求められてしまうから、リスクは存在しないといい張るしかない。存在しないといっている以上、現実に電源を失ったときの対策を考えておくことはしない。そして、現実に起こったときには、東電も政府も何をしていいかわからない状況(パニック状況)から始めるしかないのである。
 社会学的に言えば、リスクへの対処法は、2種類ある。一つは、そのリスクが起きることを事前に防止するものである。そして、もう一つが、リスクが起きたとき、どうするかを事前に決めておくものである。そして、日本人、そして、日本社会は前者のリスク対策には優れていても、後者は全く苦手である。」
(山田昌弘 2013/12/5: 244)。
 
 「今回の原発事故でも、事故にならないような防止策は相当程度取られていたと考えられる。その点で、世界一の「事故リスク防止」システムが作られていたという評価も正しいだろう。抜けていたのは、事故が起きたときにどうすればよいかという対処法で、それを事前に準備してこなかったのだ。抜けていたのは、事故が起きたときにどうすればよいかという対処法で、それを事前に準備してこなかったのだ。」
(山田昌弘 2013/12/5: 246)。

 「高度に複雑になった社会は、想定外のことが起こりやすい社会である。〔略〕
 そんな時代、リスクがあるからけしからんといって、リスクのもとを全部なくすことは不可能である。しかし、日本社会では、それを求められる。浜岡原発を停止して、リスクのもとを全部消せということになってしまう。本当に必要なのは災害が起こり電源が失われたときにどのように対処するかをあらかじめ示すことである。それで初めて、国民は安心することができる。」
(山田昌弘 2013/12/5: 247)。

 おかしな空論である。問題は科学技術に関わっている。少なくとも原発に関する限り、電源が失われたときの対処策をしても、また想定外のことで、溶融に至るかもしれないわけである。
 外国では、溶融して貫通した場合の燃料の受け皿を設置している原発もある。(したがって、安部首相の言う「福島事故を受けて世界一の対策をした原発うんぬん」は、まったくのウソ。)
 しかし、そうなるのは絶対的に避けたい。だから、原発は作らない。稼働しない。すぐとま廃炉に進むのが、唯一の得策である。これ以上、放射性廃棄物を作るのはやめなければならない。


□ 文献 □
*山田昌弘.2013/12/5.なぜ日本は若者に冷酷なのか そして下降移動社会が到来する.254pp.東洋経済新報社.[本体1,500円+税][ob367.68ヤ]



存在するものはすべて生命である。存在しないものは存在しないだけである。

2014年08月03日 14時32分58秒 | 秘教/オカルト科学
2014年8月3日-1
存在するものはすべて生命である。存在しないものは存在しないだけである。

  「It has been stated before now that Occultism does not accept anything inorganic in the Kosmos. The expression employed by Science, "inorganic substance," means simply that the latent life slumbering in the molecules of so‐called "inert matter" is incognizable. ALL IS LIFE, and every atom of even mineral dust is a LIFE, though beyond our comprehension and perception, because it is outside the range of the laws known to those who reject Occultism. "The very Atoms," says Tyndall, "seem instinct with a desire for life.ʺ Whence, then, we would ask, comes the tendency "to run into organic form"? Is it in any way explicable except according to the teachings of Occult Science?」
(H.P. Blavatscky 1988, The Secret Doctorine Volume I Cosmogenesis. Facsimille edition, p.???; Zirkoff edition, p.248-249)。

  「すべては生命であり、鉱物屑でさえも、そのあらゆる原子は一つの生命である。そのことは、われわれの把握と知覚を越えている。なぜなら、オカルティズムを拒否する者たちに知られている諸法則の範囲外だからである。」
[20140803試訳]。


  「Chemistry and physiology are the two great magicians of the future, who are destined to open the eyes of mankind to the great physical truths. With every day, the identity between the animal and physical man, between the plant and man, and even between the reptile and its nest, the rock, and man―is more and more clearly shown. The physical and chemical constituents of all being found to be identical, chemical science may well say that there is no difference between the matter which composes the ox and that which forms man. But the Occult doctrine is far more explicit. It says: ‐‐‐ Not only the chemical compounds are the same, but the same infinitesimal _invisible lives_ compose the atoms of the bodies of the mountain and the daisy, of man and the ant, of the elephant, and of the tree which shelters him from the sun. Each particle―whether you call it organic or inorganic―_is a life_. Every atom and molecule in the Universe is both _life‐giving_ and _death‐giving_ to that form, inasmuch as it builds by aggregation universes and the ephemeral vehicles ready to receive the transmigrating soul, and as eternally destroys and changes the _forms_ and expels those souls from their temporary abodes. It creates and kills; it is self‐generating and self‐destroying; it brings into being, and annihilates, that mystery of mysteries―the _living body_ of man, animal, or plant, every second in time and space; and it generates equally life and death, beauty and ugliness, good and bad, and even the agreeable and disagreeable, the beneficent and maleficent sensations. It is that mysterious LIFE, represented collectively by countless myriads of lives, that follows in its own sporadic way, the hitherto incomprehensible law of Atavism; that copies family resemblances as well as those it finds impressed in the aura of the generators of every future human being, a mystery, in short, that will receive fuller attention elsewhere.」
(Zirkoff edition, p.261)。

 「化学と生理学は、未来の偉大な魔術師たちである。それらは、偉大な物理的真理に人の眼を開かせることになる。〔略〕
 山と雛菊、人と蟻、象と(人を日除けする)木を構成する、化学複合体だけでなく、不可視の極微的生命たちも、同一である。各々の粒子は、有機的と呼ばれるようが無機的と呼ばれようが、一つの生命である。宇宙におけるあらゆる原子と分子は、生命を与えており、そして死を与えてもいる。……」[20140803試訳]。



 自己組織化とは、いったい何なのだろうか?。
 一つの大生命で小さな小さな生命たちの活動である。
 活動または運動とは、生命である。


 

原発ゼロへ、(核分裂型)原発以外の発電を!

2014年08月01日 22時42分45秒 | 原発を無くす
2014年8月1日-2
原発ゼロへ、(核分裂型)原発以外の発電を!

 「原発ゼロを確信」小泉元首相ら米専門家と懇談
  「小泉、細川氏に加え、鳩山由紀夫、菅直人両元首相も一般参加で出席。原発ゼロの実現に向け、4人の元首相が顔をそろえた。」
http://www.kanaloco.jp/article/74857/cms_id/92202


 小泉元首相、川内原発再稼働で「感覚がおかしい」と批判
  「小泉氏は、原子力規制委員会が新規制基準を満たしていると判断した九州電力川内原発(鹿児島県)の再稼働問題について「感覚がおかしい」と批判。規制委の田中俊一委員長が「基準の適合性を審査した。安全だとは申し上げない」と発言したことを踏まえ、「政府は安全だから(再稼働を)進めると言うが、(規制委員長の発言と)矛盾している。責任の所在があやふやだ」と指摘した。

 その上で、「原発に展望はない。政治も原発を諦めざるを得なくなる。時間の問題だ」と言及。」
http://www.kanaloco.jp/article/75571/cms_id/94308

 先行きが見えない北海道電力の経営、再値上げでも利益は出ない (1/2)
http://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1402/19/news027.html

 先行きが見えない北海道電力の経営、再値上げでも利益は出ない (1/2)
http://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1402/19/news027_2.html

書芸術/審査/絵画原論への覚書

2014年08月01日 22時41分58秒 | 美術/絵画原論、絵画理論、絵画技法
2014年8月1日-1
書芸術/審査/絵画原論への覚書

 2014年8月1日午前に、
 書 imagined !/コンチネンタルギャラリー/札幌
を見た。そして色々と教えていただいた。

 ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/前衛書道
によれば、前衛書道は、墨象(ぼくしょう)とも呼ばれるとのことである。

  「前衛書道作品とは視覚平面芸術として純粋に造型・線・墨色・余白などの美しさを主張している。
 空間芸術として他の芸術との違いは時間的な運動の軌跡が造形を構築しているといえる(絵画などは書道に比べると時間的な軌跡が残りにくい)。身心一如の生命体の発現が造形に結晶する。
 時代に即応した表現の資材を模索して、新しい材料に手を伸ばすが書道の本質が毛筆のもつ弾力性にあることは踏まえている。
 簡単にいえば綺麗な字を書くことにこだわらず墨の後や空間を上手く使って書かれている書道のこと。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/前衛書道

 第一行目は、造形美の重視ということだろう。〈時間的な運動の軌跡が造形を構築している〉というが、出来上がった作品を見て、時間的な運動の軌跡として見て取るのは、(幅広の刷毛を使った場合でも)線的な場合だろう。そうすると、たとえば線描的絵画では、時間的軌跡を認識する場合があるだろう。

 下記の指摘は、二人以上の審査員の評価(例えば順位尺度)で平均値を取ったりする場合、革新的な作品が埋もれるという問題点に通じているだろう。
 
 佐賀県書道展に関する話題
 田宮文平氏インタビュー(2012/6/12)
  「美術評論家の田宮文平氏〔略〕に、今後の課題などについて聞いた。
〔略〕
-第20回記念展の審査はどうだったか。

田宮 佐賀県書道展は公募展としては珍しい単独審査。また、これほど厳正で中立な審査はまれであり、誇ってよい。公募展で主流となっている複数審査員による投票や合議審査だと個性的な作品は発掘されにくい。今回は、そうした実情をぜひ出品者に見てもらいたいと「公開審査」を提案した。

 -書の現状をどう見るか。

田宮 〔略〕書は“文字の形と言葉の意味を同時に伝える芸術”であり、読み下せなければ、外国語と同じで日常から遠ざかってしまう。相田みつを作品が受けるのは“言葉の発信力”があるからで、これなくして書は成り立たない。言葉を伝える重要性を再認識することが大切で、最大の課題だ。

-今やパソコンや携帯メールを通じた文字伝達が主流だが。

 田宮 文明の利便性と人間の情緒を養うものとは、使い分ける知恵が必要。哲学的な理念を持たないと利便性の追求だけに終始してしまう。書は情緒の形成に重要な役割を果たせると思う。
http://www1.saga-s.co.jp/shodo/topic.0.2223477.article.html

 書とは、〈文字の形と言葉の意味を同時に伝える芸術〉とある。
 また書は、〈情緒の形成〉と関わるともある。情緒と、文字形態あるいは言葉(→語句文)の意味とは、どういう関係になるのだろうか。
 ところで、絵画物体においても、記号や言葉が表示される場合がある。