今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

天童山 景徳院(山梨県甲州市大和町田野)

2017年07月19日 | 神社・仏閣
天童山 景徳院
「武田家終焉の地」ということで訪れた



額には山号の「天童山」



没頭地蔵尊
門から小道を20m程上って行く見えてくる



武田勝頼正室(北条夫人)の遺骸を葬った場所されている



木の両側にある柵に近づいてみる



右側には「武田勝頼公生害石」
生害石とは自ら命を絶つための場所として選んだ石のことを云う



左側には「北条夫人生害石」



近くにお堂がある



山門(山梨県指定有形文化財)
繰り返された火災から類焼を逃れた1579年の建立の山門



武田遺臣の一部は家康に臣従し、天正10年(1582)7月に勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、景徳院を創建した



寺名の「景徳院」



左右の格子内には仁王像が。運良くレンズが入るほどのスペースがある






足下から撮ることができるのは稀である



顔も体も逞しい。今は丘陵のようになっているが、昔は私の腹筋もこのように割れていた






本堂
左手の松は「旗竪松」といい、勝頼は武田家累代の重宝旗を大松の根元に立て、楯無鎧を世子信勝に着用させ、擐甲の礼を行った



曹洞宗寺院で、本尊は釈迦如来。地名から田野寺とも呼ばれる



鐘楼









勝頼公時世 「おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山の端」



下調べもしないで旅をしているため、この場所が墓だと思っていたが、実は違う場所にあるらしい



2006年、山梨県指定史跡「武田勝頼の墓」保存修復中に、勝頼の戒名などを記した大量の経石が発見され、江戸時代中期に供養が行われたことが判った
地下には埋納施設が存在する可能性が指摘されている



姫ケ淵の由来(無料駐車場の奥に川がある)
勝頼と共に落ち延びた北条夫人の身の回りの世話をしていた侍女16名も、武田氏の滅亡と共に命を絶ったとされる



その侍女たちが死を選び、身を投げた場所が姫が淵である
大きな石のレリーフに刻まれているのが、北条夫人と16名の侍女の姿。もう一つの物語である



撮影 平成29年5月18日

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 柏尾山 大善寺(山梨県甲州... | トップ | 2017年秋 車中泊による放浪... »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
武田氏ですね (OTETSUDAI @)
2017-07-19 13:27:22
山梨県と言えば武田公ですね。勝頼37歳で没…早すぎますね。この時代は自ら命を絶たなければならなかったとは、潔いというか無残にも感じます。
日野原医師が105歳で天寿を全うしたことを思う今の時代の違いが身に浸みます。今がいいのかかつての時代(武士道精神)の世が良かったのか。綺麗な写真を観ては考えさせられます。
姫ケ淵の由来を記した石は鏡のようですね。愛車もカメラマンも写っています。余程日頃から手入れの行き届いたものなのでしょう。
金剛力士の像は何処を観ても素晴らしいです。この肉体美は作者の憧れの姿だったのでしょうか。
昨日の関東は大荒れでした。今日は晴天です。いい旅をさせて頂きました。ありがとうございました。
返信する
武家の定めとはいっても (2014kurumatabi)
2017-07-19 15:00:48
武家の定めとはいっても、山中で自害する気持ちは現代人には理解できない程の口惜しさがあったことでしょう。運命とは言え連れの女性も自刃、入水ですからやりきれない思いだったと思います。
家康も武田のためこの寺を建てたのですから、昔の人はたいしたものだと思います。いい寺を訪れました。
返信する

コメントを投稿

神社・仏閣」カテゴリの最新記事