蔵の街・喜多方から、昨日投稿したひめさゆりの丘を山道に沿って先へ進むと元の与内畑鉱山跡へ出ます。熱塩加納地区には鉱山が幾つもありその昔は大変栄えた時もあったようです。
ひめさゆりの丘の先を左に行くと山都町へ出ます。福寿草で有名な沼の平です。距離にすると何キロもありません。更に山都町へ向かって走ると藤沢地区へ入る手前に昨日私が書いた、市広報の6月号巻末の市長随想で「愛なき人生は暗黒なり、汗なき社会は堕落なり」と詠んだ社会教育家・修養団の創始者、蓮沼門三先生生誕の地があります。道路沿いに大きく記してありますが、まず気が付くドライバーはいません。記念碑と共に銅像が在ります、生誕から修養団の創設にいたる云われが記して有ります。
簡単に抜粋して記します。蓮沼門三先生は父高橋岩四郎、母モトの長男として明治15年(1882年)2月22日未明雪が降りしきる酷寒肌を刺す中ここ福島県耶麻郡山都町大字相川地内藤沢の雪深い路傍のくるみの木の下で力強い産声をあげられた。運命的生誕であった。三歳より父岩四郎が熊の胆行商の途上行方不明により母が喜多方市岩月町大澤の蓮沼市太郎と再婚するに及び蓮沼家の人となる。貧苦の幼少時代を送りながらも刻苦勉学に努め15歳で小学校準教員~後正教員~その後上京府師範学校(現東京学芸大学)へ入学、寄宿舎に入りその美化清掃に独り献身努力を重ねた結果その誠心に触れ全学生の共感するところとなり遂に明治39年2月11日。校長を始めとする多くの同志と共に修養団を創設した。と記してあります。昭和55年(1980)98歳を天寿とし永眠されました。
渋沢栄一の知遇を得た事や我が国で最初に少年少女のキャンプ講習を開催したのも修養団なそうです。まだまだ長い説明文が記してあります。
なぜ路傍なのか?と言うと2月22日は旧暦で確か正月です、母モトは臨月の体ながら供の者と夫の家に挨拶まわりに行ったのです。モトは長女で岩四郎は婿養子です。夫の家で産気づいたのですが、そこで子供を産むわけにはいきません。無理して我が家への帰り道でした。たしか義母か誰か女性も同行しての帰り道このくるみの木の下まで来た時に、もう歩くこともならず産まれたそうです。山都町と言うと修養団と町の人々は誇りにしています。
本日の画像はその山都町の寺内地区にある小さいながらも現役の水車です、まわっています。小屋の内側に大きなプーリーが付いていてVベルトを繋げば動力源になります。田舎道を走っているとこうゆう光景に出会う事もあります。のどかな光景です。
ひめさゆりの丘の先を左に行くと山都町へ出ます。福寿草で有名な沼の平です。距離にすると何キロもありません。更に山都町へ向かって走ると藤沢地区へ入る手前に昨日私が書いた、市広報の6月号巻末の市長随想で「愛なき人生は暗黒なり、汗なき社会は堕落なり」と詠んだ社会教育家・修養団の創始者、蓮沼門三先生生誕の地があります。道路沿いに大きく記してありますが、まず気が付くドライバーはいません。記念碑と共に銅像が在ります、生誕から修養団の創設にいたる云われが記して有ります。
簡単に抜粋して記します。蓮沼門三先生は父高橋岩四郎、母モトの長男として明治15年(1882年)2月22日未明雪が降りしきる酷寒肌を刺す中ここ福島県耶麻郡山都町大字相川地内藤沢の雪深い路傍のくるみの木の下で力強い産声をあげられた。運命的生誕であった。三歳より父岩四郎が熊の胆行商の途上行方不明により母が喜多方市岩月町大澤の蓮沼市太郎と再婚するに及び蓮沼家の人となる。貧苦の幼少時代を送りながらも刻苦勉学に努め15歳で小学校準教員~後正教員~その後上京府師範学校(現東京学芸大学)へ入学、寄宿舎に入りその美化清掃に独り献身努力を重ねた結果その誠心に触れ全学生の共感するところとなり遂に明治39年2月11日。校長を始めとする多くの同志と共に修養団を創設した。と記してあります。昭和55年(1980)98歳を天寿とし永眠されました。
渋沢栄一の知遇を得た事や我が国で最初に少年少女のキャンプ講習を開催したのも修養団なそうです。まだまだ長い説明文が記してあります。
なぜ路傍なのか?と言うと2月22日は旧暦で確か正月です、母モトは臨月の体ながら供の者と夫の家に挨拶まわりに行ったのです。モトは長女で岩四郎は婿養子です。夫の家で産気づいたのですが、そこで子供を産むわけにはいきません。無理して我が家への帰り道でした。たしか義母か誰か女性も同行しての帰り道このくるみの木の下まで来た時に、もう歩くこともならず産まれたそうです。山都町と言うと修養団と町の人々は誇りにしています。
本日の画像はその山都町の寺内地区にある小さいながらも現役の水車です、まわっています。小屋の内側に大きなプーリーが付いていてVベルトを繋げば動力源になります。田舎道を走っているとこうゆう光景に出会う事もあります。のどかな光景です。