「ガラスの天井の上ゆく可能性」より
11月9日の結果を受け、彼女は「ガラスの天井」を打ち破ることは出来なかったと敗戦の弁を述べたが、そうだろうか。
アメリカ初の女性大統領は誕生しなかった、という点だけに注目すれば、そうなのだろうが、アメリカの事情に詳しい人は少し違う見立てをしている。
「彼女はすでに’’ガラスの天井’’を打ち破っている」のだと。
それは後ほど書くとして、11月9日に向け、アメリカの女性作家の本を数冊読み返していたので、まずはそれを記しておきたい。
K・スカーペッタも度々ぶつかる組織の横やりが直前に入るまでは、彼女の優勢が伝えられていたので、アメリカ女性に敬意を表するため、これまでに読んだアメリカ女性作家を思い出そうとしたのだが、これがなかなか浮かばない。
アメリカ人女流作家に初めて出会ったのは、「大地」(パール・s・バック)のはずだが、これを思い出すのに時間がかかったのは、アメリカ人によって書かれていることを忘れさせるほど、「大地」が描き出す中国とそこに生きる中国人一族の暮らしぶりの描写が克明だったためだ。
「戦争と平和」(トルストイ)もそうだが、私はこの手のジャンルが苦手だし、「大地」は長編なので、あらすじを正確に記す自信はないが。
第一部が貧農の若夫婦が貧しき時も(濡れ手に粟の大金を手にして)富める時も’’大地’’に執着し一生を終えるのに対して、第二部ではその息子らの価値観に変化が生じ、金に走る者と軍閥を目指す者に別れ、第三部では国の変貌に伴う個人の生き方の変化の現れとして孫の世代(※王元)が語られる、といったところか。
超大作の一部を切り取るのは困難だが、二つの視点から見た時、印象的な件がある。
その一つが’’大地’’という題名の視点。
父子三代が関わる’土地’’は、直接鍬や鋤で耕す場所としての土地、金銭と等価的に扱われる土地、海外から見た土地(国)と、時代とともに価値観を変遷させるが、’’土地’’は本当に変わっていったのか?
(『 』「大地」より引用)
『今の世の中には、何一つ確かなものはない。※元は不安だった。
この新時代に、何か自分のものだとはっきり言える人間がいるだろうか。
彼には二本の手と、頭脳と、人を愛する心以外の何一つ自分のものと言えるものはなかった。』
一つの王朝(時代)の衰退の直中に生き、又それを海外から見るという経験をする元が不安を感じるのは当然だが、ただ不安に終わるわけではない。
時代や価値観が変わろうとも、変わらないものがある。
それが自分のものであろうと、なかろうと、変わらず存在し続けるものがある。
それこそが、本書の題名となる’’大地’’なのだと、元の自問自答をとおして、気付かせてくれる「大地」。
もう一つの視点が、今 話題の’’女性’’
第一部には、貧農の青年が嫁を迎えようとする時に、嫁をもらう息子にその父が、言って聞かせる言葉が記されている。
『べっぴんの嫁なんぞもらってどうしようというだ。野良で働きながら家の仕事もすれば子供も生む、そういう女でなくちゃいけねえ。べっぴんの嫁で、そんなことができるか。そういう女は着るものと顔のことしか考えてやしねえだ。この家には、べっぴんはごめんだ。わしらは百姓なんだ。それによ、大家のきれいな女奴隷に生娘がいるなんて聞いたこともねえだ。若旦那がたが、みんな手をつけちまうだ。べっぴんの百番目の男になるよりも、醜女でも最初の男になるほうがいいじゃねえか。考えてみなよ、きれいな女が、金持ちの若旦那のやわらかい手と同じように、土百姓のおまえの手をよろこぶと思うか。女を慰みものにする連中の金色の肌と同じように、 おまえ の陽やけした面を好くと思うか』
このように第一部では、女性は性の対象あるいは「子供を産む機械」としか見做されてないのだが、時代がくだり第三部の孫世代では、纏足を止めた母により娘は学問を身につけるまでになる。
中国社会のこの変遷を、アメリカ人女性が見事に書ききっていることは興味深いが、では現在のアメリカの女性の立ち位置を、アメリカ人女性がどうみているかを書いている作品は?というと、(あまりアメリカ人作家の作品を読まないせいもあるが) なかなか思い浮ばない。
唯一思い浮かぶのは、シリーズ全作を読んでいるパトリシア・コーンウェルの「検視官」シリーズだ。
足掛け25~6年にも及ぶ本シリーズの主人公は、この間一貫して男社会の第一線で働いているため、彼女を通してアメリカ社会の一部が見えてくるかもしれない。
そのあたりは、又つづく
11月9日の結果を受け、彼女は「ガラスの天井」を打ち破ることは出来なかったと敗戦の弁を述べたが、そうだろうか。
アメリカ初の女性大統領は誕生しなかった、という点だけに注目すれば、そうなのだろうが、アメリカの事情に詳しい人は少し違う見立てをしている。
「彼女はすでに’’ガラスの天井’’を打ち破っている」のだと。
それは後ほど書くとして、11月9日に向け、アメリカの女性作家の本を数冊読み返していたので、まずはそれを記しておきたい。
K・スカーペッタも度々ぶつかる組織の横やりが直前に入るまでは、彼女の優勢が伝えられていたので、アメリカ女性に敬意を表するため、これまでに読んだアメリカ女性作家を思い出そうとしたのだが、これがなかなか浮かばない。
アメリカ人女流作家に初めて出会ったのは、「大地」(パール・s・バック)のはずだが、これを思い出すのに時間がかかったのは、アメリカ人によって書かれていることを忘れさせるほど、「大地」が描き出す中国とそこに生きる中国人一族の暮らしぶりの描写が克明だったためだ。
「戦争と平和」(トルストイ)もそうだが、私はこの手のジャンルが苦手だし、「大地」は長編なので、あらすじを正確に記す自信はないが。
第一部が貧農の若夫婦が貧しき時も(濡れ手に粟の大金を手にして)富める時も’’大地’’に執着し一生を終えるのに対して、第二部ではその息子らの価値観に変化が生じ、金に走る者と軍閥を目指す者に別れ、第三部では国の変貌に伴う個人の生き方の変化の現れとして孫の世代(※王元)が語られる、といったところか。
超大作の一部を切り取るのは困難だが、二つの視点から見た時、印象的な件がある。
その一つが’’大地’’という題名の視点。
父子三代が関わる’土地’’は、直接鍬や鋤で耕す場所としての土地、金銭と等価的に扱われる土地、海外から見た土地(国)と、時代とともに価値観を変遷させるが、’’土地’’は本当に変わっていったのか?
(『 』「大地」より引用)
『今の世の中には、何一つ確かなものはない。※元は不安だった。
この新時代に、何か自分のものだとはっきり言える人間がいるだろうか。
彼には二本の手と、頭脳と、人を愛する心以外の何一つ自分のものと言えるものはなかった。』
一つの王朝(時代)の衰退の直中に生き、又それを海外から見るという経験をする元が不安を感じるのは当然だが、ただ不安に終わるわけではない。
時代や価値観が変わろうとも、変わらないものがある。
それが自分のものであろうと、なかろうと、変わらず存在し続けるものがある。
それこそが、本書の題名となる’’大地’’なのだと、元の自問自答をとおして、気付かせてくれる「大地」。
もう一つの視点が、今 話題の’’女性’’
第一部には、貧農の青年が嫁を迎えようとする時に、嫁をもらう息子にその父が、言って聞かせる言葉が記されている。
『べっぴんの嫁なんぞもらってどうしようというだ。野良で働きながら家の仕事もすれば子供も生む、そういう女でなくちゃいけねえ。べっぴんの嫁で、そんなことができるか。そういう女は着るものと顔のことしか考えてやしねえだ。この家には、べっぴんはごめんだ。わしらは百姓なんだ。それによ、大家のきれいな女奴隷に生娘がいるなんて聞いたこともねえだ。若旦那がたが、みんな手をつけちまうだ。べっぴんの百番目の男になるよりも、醜女でも最初の男になるほうがいいじゃねえか。考えてみなよ、きれいな女が、金持ちの若旦那のやわらかい手と同じように、土百姓のおまえの手をよろこぶと思うか。女を慰みものにする連中の金色の肌と同じように、 おまえ の陽やけした面を好くと思うか』
このように第一部では、女性は性の対象あるいは「子供を産む機械」としか見做されてないのだが、時代がくだり第三部の孫世代では、纏足を止めた母により娘は学問を身につけるまでになる。
中国社会のこの変遷を、アメリカ人女性が見事に書ききっていることは興味深いが、では現在のアメリカの女性の立ち位置を、アメリカ人女性がどうみているかを書いている作品は?というと、(あまりアメリカ人作家の作品を読まないせいもあるが) なかなか思い浮ばない。
唯一思い浮かぶのは、シリーズ全作を読んでいるパトリシア・コーンウェルの「検視官」シリーズだ。
足掛け25~6年にも及ぶ本シリーズの主人公は、この間一貫して男社会の第一線で働いているため、彼女を通してアメリカ社会の一部が見えてくるかもしれない。
そのあたりは、又つづく