このところ立て続けに、あの作家さんがこの作品か、というものを読んだ。
好きな作家さんであるだけに残念でならず、ここに何かを記す元気もなかったのだが、福島沖の地震(11月22日)直後に、そのうちの一冊を読み返すと、最初に読んだ時とは異なるものが伝わってきた。そして、それを煎じ詰めると、あの作家さんがこの作品を書いた理由が、少し分かったような感じがするから不思議である。
そのような本の一冊目が、「ナナフシ」(幸田真音)だ。
帯には、こうある。
『人は生まれ変わる。何度でも。
夢と、大切な人さえあれば。』
『誇りを無くした男と、夢を失った少女。親子のような二人が愛情を注ぎ合い、傷付きながらも再生しようとするがー。』
『ファンドマネジャーとして活躍していた深尾真司は、2008年に起きた世界的な金融危機に見舞われ全てを失い、コンビニの雇われ店長として働いていた。ある日コンビニで、彩弓と名乗る行き倒れの女を助ける。トラブルの種を抱え辟易とする深尾だが、不思議な昆虫「ナナフシ」のような細い肢体と切なさを持つ彩弓に亡くなった自分の娘の姿を重ね、彼女の面倒を見ようとする。彩弓は将来を嘱望されたバイオリニストだったが、病を抱え、右手の神経を失おうとしていた。「もう、目の前で大切な人を失いたくない」自らの全てと引き換えにでも彩弓の命と右手を救おうとした深尾は、かつて憎しみさえも抱いた金融市場に、ふたたび身を委ねることを決意する―。』
これ以上でもこれ以下でもなく、これであらすじも要旨も語りつくしているように思われる「ナナフシ」。
これが、あの「日本国債」や「日銀券」を書いた幸田真音氏の本なのだろうかと、読み進めながら呆然としていた。
娘が不治の病に侵されようが、その看病で疲労困憊した妻が心身のバランスを崩そうが、仕事一筋だった主人公・深尾は、その仕事を’08のリーマンショックによる金融危機で失ってしまう。
史上空前の利益を上げていたはずのアメリカの投資銀行が、米政府の支援が受けられず経営破綻したのに伴い、深尾の勤める日本法人も破綻したのだ。
娘を亡くし、愛想をつかした妻には去られ、腹心の部下にまで自殺された深尾は、それまでひたすら追い求めてきた金を忌み嫌い拒絶するようになり、束の間とはいえ路上生活をするところまで追いつめられる。
その後、コンビニの雇われ店長として働くようになった深尾は、深夜コンビニトイレで倒れている女性・彩弓を救うのだが、この女性もまた困難な病に侵されていた。
身よりもなく病に怯える彩弓に、かつて救うことのできなかった実の娘を重ね、今度こそ何としても命を救いたいと願い、その治療費を捻出するため再び金融市場に乗り込んでいく。昔取った杵柄というべきか、デイトレで面白いように利益をあげた深尾は、安定収入を得るためスイスに本部をおく投資会社に再就職するのだが、そこが再び破綻する。折しも、彩弓の癌の肺転移が発覚する。
以前の深尾ならば、ここで投げ出し万事休すと云ったところだが、’’ナナフシ’’を思わせる彩弓と出会い、誰かを守ることで自分が強くなることを知った深尾は、’’ナナフシ’’の如く、再生するのだ。
このように、登場人物の容姿と生き方に重ねられる’’ナナフシ’’とは、どのような生き物なのか、本文より引用したものを記しておく。(『 』「ナナフシ」より引用)
’’ナナフシ’’とは、『枯れ枝のようで、指を触れたらすぐにも折れてしまいそうな弱い四肢と、ひどく緩慢な動き』をする不思議な生き物だそうだ。
『いまにも消えてしまいそうに頼りなげなくせに、意外にも強かで、ときに瑞々しい若草の緑にもなるかと思うと、腐った木の色にも姿を変える。そうやって周囲に合わせて、たくみに色を変えてみずから身を護る』ことを、「擬態」と呼ぶが、それは『厳しい環境に適合し、生き延びていくために、天から与えられた自衛手段』の一つである。
ウォーキング・スティック、文字通り歩く小枝’’ナナフシ’’と名付けられた、この不可思議な生き物には、もう一つ天から与えられ防衛手段がある。
それが、『敵に遭遇したら、みずからの脚を切り落として逃げるとか。手を切り離しても、足が取れても、やがて再生するという』、「自切」と云われる防衛手段だ。
危険に遭遇すれば、自らを変え、自らを切り、それでも生き抜こうとする’’ナナフシ’’
この「擬態」と「自切」の過程は各章のタイトルに使われるほど重要な意味をもっており、最終章の「再生」で彩弓の治療と深尾の新会社設立とが上手く繋がっていくところは、読み応えもあるのだが、それでも何か物足りないと感じたのは、やはり作者・幸田真音氏の代名詞とも云える経済小説の要素が限りなく少ないからだと思うのだ。
二度までも投資会社が破綻する現場に立ちあい、破綻会社に関係したがために人生が狂ってしまう人(自分も含めて)を目の当たりにする一方で、金がない限り適切な治療さえ満足に受けることができない現実にも直面した深尾が、金と人生との向き合い方を見直し、新生会社を設立させるところで物語を終える、このストーリー展開は決して悪くない。
だが、以前の幸田氏ならば、一大金融機関が破綻する様と、それを経験したヤリ手のファンドマネージャーが会社を再生させる再建過程こそを臨場感あふれる筆致で詳細に書いたであろうと思うと、本作がヒューマンドラマとしても経済小説としても、中途半端なものに感じられたのだ。
だが、その思いは、11月22日の福島沖の地震のニュース後に変化した。
そのあたりについては、又つづく
好きな作家さんであるだけに残念でならず、ここに何かを記す元気もなかったのだが、福島沖の地震(11月22日)直後に、そのうちの一冊を読み返すと、最初に読んだ時とは異なるものが伝わってきた。そして、それを煎じ詰めると、あの作家さんがこの作品を書いた理由が、少し分かったような感じがするから不思議である。
そのような本の一冊目が、「ナナフシ」(幸田真音)だ。
帯には、こうある。
『人は生まれ変わる。何度でも。
夢と、大切な人さえあれば。』
『誇りを無くした男と、夢を失った少女。親子のような二人が愛情を注ぎ合い、傷付きながらも再生しようとするがー。』
『ファンドマネジャーとして活躍していた深尾真司は、2008年に起きた世界的な金融危機に見舞われ全てを失い、コンビニの雇われ店長として働いていた。ある日コンビニで、彩弓と名乗る行き倒れの女を助ける。トラブルの種を抱え辟易とする深尾だが、不思議な昆虫「ナナフシ」のような細い肢体と切なさを持つ彩弓に亡くなった自分の娘の姿を重ね、彼女の面倒を見ようとする。彩弓は将来を嘱望されたバイオリニストだったが、病を抱え、右手の神経を失おうとしていた。「もう、目の前で大切な人を失いたくない」自らの全てと引き換えにでも彩弓の命と右手を救おうとした深尾は、かつて憎しみさえも抱いた金融市場に、ふたたび身を委ねることを決意する―。』
これ以上でもこれ以下でもなく、これであらすじも要旨も語りつくしているように思われる「ナナフシ」。
これが、あの「日本国債」や「日銀券」を書いた幸田真音氏の本なのだろうかと、読み進めながら呆然としていた。
娘が不治の病に侵されようが、その看病で疲労困憊した妻が心身のバランスを崩そうが、仕事一筋だった主人公・深尾は、その仕事を’08のリーマンショックによる金融危機で失ってしまう。
史上空前の利益を上げていたはずのアメリカの投資銀行が、米政府の支援が受けられず経営破綻したのに伴い、深尾の勤める日本法人も破綻したのだ。
娘を亡くし、愛想をつかした妻には去られ、腹心の部下にまで自殺された深尾は、それまでひたすら追い求めてきた金を忌み嫌い拒絶するようになり、束の間とはいえ路上生活をするところまで追いつめられる。
その後、コンビニの雇われ店長として働くようになった深尾は、深夜コンビニトイレで倒れている女性・彩弓を救うのだが、この女性もまた困難な病に侵されていた。
身よりもなく病に怯える彩弓に、かつて救うことのできなかった実の娘を重ね、今度こそ何としても命を救いたいと願い、その治療費を捻出するため再び金融市場に乗り込んでいく。昔取った杵柄というべきか、デイトレで面白いように利益をあげた深尾は、安定収入を得るためスイスに本部をおく投資会社に再就職するのだが、そこが再び破綻する。折しも、彩弓の癌の肺転移が発覚する。
以前の深尾ならば、ここで投げ出し万事休すと云ったところだが、’’ナナフシ’’を思わせる彩弓と出会い、誰かを守ることで自分が強くなることを知った深尾は、’’ナナフシ’’の如く、再生するのだ。
「ナナフシ」
写真出展 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Wandelndes_Blatt.JPG
このように、登場人物の容姿と生き方に重ねられる’’ナナフシ’’とは、どのような生き物なのか、本文より引用したものを記しておく。(『 』「ナナフシ」より引用)
’’ナナフシ’’とは、『枯れ枝のようで、指を触れたらすぐにも折れてしまいそうな弱い四肢と、ひどく緩慢な動き』をする不思議な生き物だそうだ。
『いまにも消えてしまいそうに頼りなげなくせに、意外にも強かで、ときに瑞々しい若草の緑にもなるかと思うと、腐った木の色にも姿を変える。そうやって周囲に合わせて、たくみに色を変えてみずから身を護る』ことを、「擬態」と呼ぶが、それは『厳しい環境に適合し、生き延びていくために、天から与えられた自衛手段』の一つである。
ウォーキング・スティック、文字通り歩く小枝’’ナナフシ’’と名付けられた、この不可思議な生き物には、もう一つ天から与えられ防衛手段がある。
それが、『敵に遭遇したら、みずからの脚を切り落として逃げるとか。手を切り離しても、足が取れても、やがて再生するという』、「自切」と云われる防衛手段だ。
危険に遭遇すれば、自らを変え、自らを切り、それでも生き抜こうとする’’ナナフシ’’
この「擬態」と「自切」の過程は各章のタイトルに使われるほど重要な意味をもっており、最終章の「再生」で彩弓の治療と深尾の新会社設立とが上手く繋がっていくところは、読み応えもあるのだが、それでも何か物足りないと感じたのは、やはり作者・幸田真音氏の代名詞とも云える経済小説の要素が限りなく少ないからだと思うのだ。
二度までも投資会社が破綻する現場に立ちあい、破綻会社に関係したがために人生が狂ってしまう人(自分も含めて)を目の当たりにする一方で、金がない限り適切な治療さえ満足に受けることができない現実にも直面した深尾が、金と人生との向き合い方を見直し、新生会社を設立させるところで物語を終える、このストーリー展開は決して悪くない。
だが、以前の幸田氏ならば、一大金融機関が破綻する様と、それを経験したヤリ手のファンドマネージャーが会社を再生させる再建過程こそを臨場感あふれる筆致で詳細に書いたであろうと思うと、本作がヒューマンドラマとしても経済小説としても、中途半端なものに感じられたのだ。
だが、その思いは、11月22日の福島沖の地震のニュース後に変化した。
そのあたりについては、又つづく