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破られていたガラスの天井②

2016-11-13 15:05:55 | ニュース
「破られていたガラスの天井」より

今回の選挙で、’’女性’’発の大統領というフレーズが話題となったので、アメリカ女性作家が書く’’現代女性の位置づけ’’に注目したのだが、あまりアメリカ人作家の本を読まないせいか、なかなか思い浮かばない。
諦めようかと思った時に、「ヒラリーは既に、ガラスの天井を打ち破っていた」という意外な説を聞いたので、シリーズ全作を読んでいるパトリシア・コーンウェル「検視官」シリーズを少し読み返してみた。

これは、弁護士資格まで持つ美人の医師(検視官)Drスカーペッタが全米を揺るがす事件を科学の力で次々と解決するというサスペンスもの故に、女性論を説くといったジャンルではないが、男社会で生きてきた女性作家が25年にわたり書いている作品だけに、随所に女性の社会的位置づけを感じさせる記述はある。

本書が日本で出版されるのは、アメリカに遅れること一年というから、第一巻「検視官」が書かれたのは、1990~1991年のことだと思う。
その第一巻は、主人公のDrスカーペッタがバージニア州初の女性検視局長として着任したところから始まるのだが、そこには今回の当選者(次期大統領)に瓜二つなマッチョな男P・マリーノが待ち受けている。
Drスカーペッタとコンビを組むことになったマリーノは、非常に優秀な捜査官ではあるものの、Drスカーペッタの検視官(医師)としての意見も弁護士としての意見も、「まったく、女ってやつは・・・」の一言で無視を決めむほどの、女性蔑視主義者にして人種差別主義者だったが、一方のスカーペッタも、粗野で差別主義的なマリーノを苦手なタイプとして関わるまいとする。
そんな二人が互いの能力を認め捜査上は良き相棒となる過程は本書の読みどころの一つでもあるので、女性の社会的活動が認められていく例として挙げられれば良いのだが、恋愛問題が絡んでくるため、適切な例とならないのは残念だ。

ただ、’’女性初の検視局長’’が物珍しいという設定で始まった本シリーズも、回を重ねるごとに、女性捜査官や女性検事の活躍や多様な性を生きる人が描かれるようになり、時代の変遷をまざまざと感じることが出来る作品だ。
もっとも25年にわたり22巻出版されている全巻を、今読み返している余裕はないので、記念すべき第一巻に、当時(1990^1991)の’’女性の社会的位置づけ’’が記されていないかと、この週末探していた。

すると、1991年から遡ること20年の頃のアメリカの大学(医学部)の様子が見えてきた。
スカーペッタが着任して初めて手掛けた大事件の被害者の一人が、彼女と同じく医師であったため、自分の医学生時代(1970年代)を思い出すのだが、その場面に当時のアメリカが見て取れるのだ。

その当時、スカーペッタの医学部のクラスには、女性が4人しかいなかった。
その女子学生は、女性というだけで男子学生から有形無形の嫌がらせを受けたと、スカーペッタは述懐する。
(『 』「検視官」より引用)
『私は男同士の連帯という恐るべきクモの巣を前にした、小さな虫のようなものだった。
 それに絡め取られることはあっても、決してその一部になることはないのだ。
 仲間外れにすることほど残酷な罰はない。
 私はそれまで、男でないからといって自分が人間以下の存在だとは考えたことがなかった。
 女性のクラスメートの一人は結局やめてしまったし、もう一人は完全な神経衰弱になってしまった。
 私にとっては生き残ることが唯一の望みであり、成功する意外に復讐の道はなかった』

主人公より少し若い作者・パトリシア・コーンウェルが描く当時の大学は、多少の誇大はあるとしても、その空気をそこそこ正確に伝えていたと思われるし、主人公と同じく捜査機関で働いたことのある作者は、その空気にも熟知していたと思われる。
そこには、明確に女性を拒絶する空気があった。

だがシリーズが1990年代後半から2000年代に入ってくると、あいかわらず軋轢はあるものの、あらゆる分野で専門的に働く女性が描かれるようになる。

それが実は、彼女がファーストレディーとして活躍していた時代に重なるのだ。
夫は自身の大統領選の時、「私を選べば、もれなく彼女がついてくる」と宣伝していたというが、ファーストレディーとしての活躍は(良くも悪くも)「もれなくついてくる」レベルでは到底なかった。
ファーストレディーという仕事に、自立した職業人として打ち込む彼女の姿は、各界に風穴を開けていったのではないだろうか。

この選挙結果を受け彼女は「ガラスの天井を破れなかった」と敗戦の弁で述べたが、アメリカ事情に詳しい人の「そうではない」という説を耳にした。
その御仁の説によれば、今回の結果は「ガラスの天井」が破れなかった云々では、もはやないのだと云う。

ファーストレディーとしての活動につづき、彼女が国務長官として世界を股にかけ活動する姿は世界中の知る所であるが、彼女の活躍の時期と前後し、アメリカでは次々と女性が組織のトップに立つようになる。
2012年、100年の歴史をもつIBM史上初の女性CEOが誕生
2013年、ビッグ3では初となる女性CEOがGMから誕生
2014年、FRB史上初の女性議長が誕生

彼女に年齢が近いスカーペッタが「私にとっては生き残ることが唯一の望みであり、成功する意外に復讐の道はなかった」と言うように、ある年齢以上の者にとっては目指し破るべき’’天井’’に見えていたそれが、若い世代にとっては、既に無いものとなっていた。
それを、超えるべき最大の障壁のように見せてしまった、その感覚の遅れも敗因の一因ではないかと、その御仁は言っている。

その見立てが正しいのかどうかは、分からない。
対抗馬が、P・マリーノなみのマッチョな思考をウリにしていただけに、私としては、その説に多少の疑問を抱かざるをえない。
だが、「~史上初の女性~」というフレーズを目新しいと感じさせないほどに、女性の社会的位置づけを前進させた功績は、間違いなくヒラリー・クリントンにあると思うのだ。

その意味において、たとえ女性初の大統領とならなくとも彼女はすでに「ガラスの天井」を破っていたのだと思う。
その功績こそを、今は、静かに讃えたいと思っている。