Dr.K と 優しさの夢物語

輝きの明日のために、思春期と思秋期の更年期障害の女性のための健康余話/ときには蕎麦談義とワン子のお話を

Dr.KAZUの雑記帳から 2月28日きょうはなんの日

2015-03-14 15:43:49 | きょうはなんの日

Dr.KAZUの雑記帳から 2月28日きょうはなんの日

       1591年 千家流 茶の湯 の開祖 千利休 豊臣秀吉の怒りに触れ切腹 70歳
       千利休の侘び・寂びの茶の湯に対して 豊臣秀吉は貴族的・成り上がり者的か

利休に尋ねよ!

千利休は 戦国時代から安土桃山時代にかけての商人 茶人である
侘び茶(草庵の茶)の完成者として知られ茶聖とも称せられている
和泉国・堺の商家の生まれで 若年より茶の湯に親しみ 高名な茶人に師事して 京都の大徳寺とは親しく交わる
織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ 本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えた
天正13年(1585年)には宮中参拝するため居士号「利休」を勅賜される
天正15年(1587年)の北野大茶会を主管し 秀吉の重い信任を受けたのである
茶人として名声と権威を誇るようになり 秀吉の政事にも大きく関わり 大友宋麟は大阪城を訪れた際に豊臣秀長から『 公儀のことは私に 内々のことは利休に! 』と耳打ちされたという
天正19年(1591年) 利休は突然に秀吉の逆鱗に触れ 聚楽屋敷内で切腹を命じられる
利休の首は 一条戻橋で梟首されたのである 首は賜死の一因ともされている大徳寺山門上の木造に踏ませる形で曝されたという

千利休が豊臣秀吉の怒りを買い死罪になった原因を《 大徳寺三門の改修にあたって増上慢があったため 自身の雪駄履きの木像を桜門の二階に設置し その下を秀吉に通らせた~ 》と言う説が有力であろう
それだけであろうか
秀吉は蟄居を命じたが 利休が一切の釈明や謝罪をしなかったために更に怒りに触れたのである
あるいは私腹を肥やしすぎた
あるいは政治権力者秀吉と芸術家利休の自負心の対決
あるいは権益の抗争 など諸説入り乱れて物語となっているようです

京都を遊ぶとき 大徳寺は訪れる機会が多いのであるが 2008年の写し絵からも
利休の心情を窺い知ることはできませんでした