白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・反復される都落ち/都入り

2021年09月01日 | 日記・エッセイ・コラム
竹ノ下、山崎、大渡、と勝利してきた足利軍の勢いをおそれた後醍醐軍は新田義貞・義介らが到着するのを待たず、京を出発し山門(比叡山)へ退去した。それを知った勅使河原(てしがわら)親子三人は足利方の捕虜になるよりはと、三条河原(さんじょうがわら)から羅生門(らしょうもん)へ引き返し、こう思いながら切腹した。

「危ふきを見て命(めい)を致すは、義なり」(「太平記2・第十四巻・十七・P.416」岩波文庫 二〇一四年)

何度か出てくる語句で「論語」からの引用。

「子張曰、士見危到命、見得思義、祭思敬、喪思哀、其可已矣

(書き下し)子張(しちょう)曰(い)わく、士、危うきを見ては命(いのち)を致(いた)し、得(う)るを見ては、義を思い、祭(まつり)には敬を思い、喪(も)に哀(あい)を思わば、それ可(か)ならんのみ。

(現代語訳)子張がいった。『君につかえる者は、危機にあたっては生命をささげ、利益を前にしては取るべき筋合いかどうかを考え、祭礼には神への敬虔を専一と考え、葬儀には死者への哀(かな)しみをたいせつと考える。それでまずまずといえる』」(「論語・第十巻・第十九・子張篇・一・P.536」中公文庫 一九七三年)

また名和長年(なわながとし)はあっという間もなく騒乱に巻き込まれた内裏に舞い戻って現状を確かめる。長年はこのとき勢多(せた)の戦線におり、後醍醐帝が退去した東坂本(ひがしさかもと=今の滋賀県大津市坂本)へすぐに駆けつけることができたわけだが、たった一度も皇居に駆けつけないままとっとと逃げたのでは後から非難されるかもしれないと考え、いったん無理を押して京の皇居へ入り現状を見届けることにしたわけである。そこで寂寥たるありさまに呆然。

「佳人(かじん)晨粧(しんそう)を飾(かざ)り」(「太平記2・第十四巻・十八・P.417」岩波文庫 二〇一四年)

つい二、三ヶ月前まではそうだったのだが。「和漢朗詠集」からの引用。

「佳人尽飾於晨粧 魏宮鐘動 遊子猶行於残月 函谷鶏鳴

(書き下し)佳人(かじん)尽(ことごと)くに晨粧(しんそう)を飾(かざ)る 魏宮(ぐゑきう)に鐘(しよう)動(うご)く 遊子(いうし)なほ残月(さんぐゑつ)に行く 函谷(かんこく)に鶏(にはとり)無く」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・暁・四一六・P.160」新潮社 一九八三年)

足利軍に蹂躙されてしまう前に建物もまた自分たちの手で自害させてしまわなければならない。長年は内裏に火を放つ。

「三十六殿(でん)」(「太平記2・第十四巻・十八・P.418」岩波文庫 二〇一四年)

それらはどんどん炎上していく。先にも一度出ている語句。「和漢朗詠集」から引かれたもの。

「秦甸之一千里 凜々氷鋪 漢家之三十六宮 澄々粉飾

(書き下し)秦甸(しんてん)の一千里 凛々(りんりん)として氷鋪(し)けり 漢家(かんか)の三十六宮(しふりくきう) 澄々(ちようちよう)として粉(ふん)飾(かざ)れり」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻上・十五夜・二四〇・P.95」新潮社 一九八三年)

その様子はこう描かれる。

「越王(えつおう)、呉(ご)を亡ぼして姑蘇城(こそじょう)を一片の煙となし、項羽(こうう)、秦(しん)を傾(かたぶ)けて咸陽宮(かんようきゅう)三月(さんげつ)の炎を昌(さか)んにせし、呉越(ごえつ)、秦楚(しんそ)の古(いにし)へに異ならずと、歎(なげ)かぬ人もなかりけり」(「太平記2・第十四巻・十八・P.418」岩波文庫 二〇一四年)

形式は「和漢朗詠集」から。

「強呉滅兮有荊棘 姑蘇臺之露瀼々 暴秦衰兮無虎狼 咸陽宮之煙片々

(書き下し)強呉(きやうご)滅(ほろ)びて荊棘(けいきよく)あり 姑蘇臺(こそたい)の露瀼々(しやうじやう)たり 暴秦(ぼうしん)衰へて虎狼(こらう)なし 咸陽宮(かんやうきう)の煙(けぶり)片々(へんへん)たり」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・故宮・五三二・源順・P.202~203」新潮社 一九八三年)

二個のエピソードが入っている。

(1)「越王(えつおう)、呉(ご)を亡ぼして姑蘇城(こそじょう)を一片の煙となし」は越王句践(こうせん)が滅した呉王夫差(ふさ)の宮殿の様子。

「呉は士も民もともに疲弊し、その軽兵(敏捷<びんしょう>な勇士)と精鋭はことごとく斉・晋で戦死していた。越は大いに呉を破り、さらに留(とど)まって、呉の都を包囲した。三年を費やして呉軍を破り、今度はついに呉王を姑蘇(こそ)の山に住まわせた(蘇州の山に立てこもらざるを得ないようにした意)」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.289』ちくま学芸文庫 一九九五年)

(2)「項羽(こうう)、秦(しん)を傾(かたぶ)けて咸陽宮(かんようきゅう)三月(さんげつ)の炎を昌(さか)んにせし」は項羽が秦の咸陽宮(かんようきゅう)を焼いた時、三ヶ月間ほど燃え続けたというエピソードから。

「数日すると、項羽は兵を率いて西行し、咸陽を屠り、秦の降王嬰を殺し、秦の宮室を焼いた。火は三ヶ月にわたって消えず、財宝婦女を収めて東へ帰った」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.214』ちくま学芸文庫 一九九五年)

また、「荊棘(けいきよく)あり 姑蘇臺(こそたい)の露瀼々(しやうじやう)」について。「史記・淮南・衡山列伝」から。

「伍子胥(ごししょ)は呉王を諫(いさ)めましたが、呉王は聞きいれず、そこで伍子胥は、『わたくしはやがて鹿どもが〔荒れはてた〕わが姑蘇(こそ)の楼台(ろうだい)で遊ぶのを見ることでしょう』と申したとか。いまにわたくしもわが宮殿に荊(いばら)が生(お)いしげり、したたる露で着物がぐっしょり濡(ぬ)れるのを見ることでしょう」(「淮南・衡山列伝 第五十八」『史記列伝4・P.244~245』岩波文庫 一九七五年)

さらに、「暴秦(ぼうしん)衰へて虎狼(こらう)なし」について。「史記・蘇秦列伝」から。

「秦は虎狼の国じゃ。親しむことはできぬ」(「蘇秦列伝 第九」『史記列伝1・P.134』岩波文庫 一九七五年)

次の箇所は三井寺の合戦。新田方が橋をかけて渡る場面。橋桁はあるが橋板がない。近くに大型の卒塔婆が二本立っていた。そこで二人の怪力の持ち主が名乗り出て卒塔婆を引き抜き橋の代わりに仕立てた。「太平記」は「烏獲(うかく)・樊噲(はんかい)」の名を上げて、今ここにそれを凌ぐほどの怪力の持ち主がいるという。

「異国には、烏獲(うかく)、樊噲(はんかい)」(「太平記2・第十五巻・三・P.441」岩波文庫 二〇一四年)

烏獲(うかく)は武王に仕えた武者だったことが「史記・秦本紀」に載っている。

「武王は力があり、力だめしを好んだ。それで力持ちの任鄙(にんぴ)・烏獲(うかく)・孟説(もうえつ)などが、みな大官になった」(「秦本紀・第五」『史記1・本紀・P.128』ちくま学芸文庫 一九九五年)

さらに樊噲(はんかい)は劉邦の臣下。項羽との宴席で身の危険に陥った劉邦を助けに入った。「史記・項羽本紀」から。

「荘が入って長寿を祝し、祝酒がおわると、『わが君と沛公とが酒宴せられるのに、陣中のこととて何の座興もないので、一さし剣舞をご覧に入れましょう』と言った。項羽が、『それがよい』と言ったので、項荘が剣を抜いて起って舞うと、項伯もまた剣を抜いて舞い、常に身をもって沛公をおおいかばい、荘は撃つ機会がなかった。その時、張良は起って軍門に行くと、樊噲(はんかい)に出会い、樊噲が、『今日の首尾はどうです』と聞くので、『非常に危急だ。いま項荘が剣を抜いて舞うているが、沛公を殺そうというのだ』と言った。噲は、『そりゃ大変、わたしが入って沛公と生死をともにしましょう』と言って剣を帯び盾をひっさげて軍門に入った。戟(げき)をたがえた衛士が、止めて入れさせないようにするので、樊噲は盾をそばだてて衛士を地につきたおし、中に入って帷(まく)を引き開け、西向きに突っ立って目をいからし項王をにらんだ。頭の髪の毛は直立し、まなじりは裂けているようであった」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.211~212』ちくま学芸文庫 一九九五年)

ふたたび新田方が巻き返し入京することになる。しかしその間「太平記」では以前に一度触れた俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)と竜宮城の物語が差し挟まれる。

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