山門(比叡山)と三井寺との合戦になったところで「竜宮城」のエピソードが差し挟まれる。三井寺の鐘の由来が語られる形になる。そこで俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)が竜宮城に招かれる箇所。その景観。
「玉の甃(つみいし)暖(あたた)かにして、落花自(おの)づから繽粉(ひんぷん)たり。朱楼(しゅろう)、紫殿(しでん)、玉(たま)の欄干(らんかん)」(「太平記2・第十五巻・五・P.447」岩波文庫 二〇一四年)
白居易「驪宮高」にこうある。
「朱樓紫殿三四重 遲遲兮春日 玉甃暖兮溫泉溢
(書き下し)朱樓(しゆろう) 紫殿(しでん) 三四重(さんしちよう)。遲遲(ちち)たる春日(しゆんじつ)には 玉甃(ぎよくしう)暖(あたた)かにして溫泉(をんせん)溢(あふ)る。
(現代語訳)朱塗りの高どの、紫いろの御殿が三重四重にかさなっている。暮れのおそい春の日には 玉の敷き瓦もあたたかでしかも温泉があふれて流れている」(漢詩選10「驪宮高」『白居易・P.88~90』集英社 一九九六年)
また「落花自(おの)づから繽粉(ひんぷん)たり」は陶淵明「桃花源記」から。
「落英繽粉。
(書き下し)落英(らくえい)繽粉(ひんぷん)たり。
(現代語訳)花びらをひらひらと舞い落ちるさまが実にみごとだった」(陶淵明「桃花源記」『陶淵明全集・下・P.152』岩波文庫)
ちなみに三井寺が武家方に付くのは源氏の源義光(よしみつ)が神羅明神社で元服し神羅三郎と名乗ったことや、そもそも神羅明神社は三井寺の守護神として創建されているので当然といえば当然の成り行き。さらに延暦寺と三井寺とは長く対立してきた経緯があり、「太平記」は両者の関係を後醍醐方と足利方との対立に当てはめた。また、この合戦の合間に起きた説話として「御伽草子」所収、南方熊楠の愛読書「秋夜長物語」が書かれたことは日本の文芸レベルの一つの到達点といえる。
次の箇所も何度か出てくる。
「漢楚(かんそ)の八ヵ年の戦ひを一時(いっし)に集め、呉越(ごえつ)三十度の軍(いくさ)を百倍になすとも、なほこれには及ぶべからず」(「太平記2・第十五巻・六・P.457」岩波文庫 二〇一四年)
「漢楚(かんそ)の八ヵ年の戦ひ」は次のとおり「史記・項羽本紀」にある。
「わしは兵を起こして以来、今に八年である。みずから七十余戦し、当たるところの者は破り、撃つところの者は従え、いまだかつて敗れたことがなく、ついに天下を取った。しかも今ついにここに困窮するとは、天がわしを滅ぼすのであって戦いの罪ではない。今日はもとより死を決している」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.232』ちくま学芸文庫 一九九五年)
「呉越(ごえつ)三十度の軍(いくさ)」は「史記・越王句践世家」に詳しい。
「范蠡(はんれい)は越王句践(こうせん)に支えて、身を苦しめ力をあわせ、句践と深くはかること二十余年、ついに呉を滅ぼして会稽の恥を報い、北のかた兵を淮水に渡し、斉・晋に臨んで中国に号令し、周の王室を尊崇した。かくて句践は覇者となり、范蠡は上将軍と称して、国に帰還した」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.295』ちくま学芸文庫 一九九五年)
だが「呉越(ごえつ)」の戦闘が「三十二」回に渡ったということは「太平記」の別の条に載っており、実際何度戦ったのかはよくわからない。
「呉王、自ら当たること三十二ヵ度」(「太平記1・第四巻・五・P.227」岩波文庫 二〇一四年)
京中に充満した両軍勢。立錐の余地もないほど溢れかえったが、その様相は「稲麻竹葦(とうまちくい)」のようだと述べられている。
「稲麻竹葦(とうまちくい)の如く打ち囲みたる大勢(おおぜい)ども」(「太平記2・第十五巻・七・P.468」岩波文庫 二〇一四年)
もともとは「法華経・方便品」にある語句。
「如稲麻竹葦 充満十方刹
(書き下し)稲・麻・竹・葦の如くにして 十方の刹(くに)に充満せんに
(現代語訳)蘆や竹のように、すべての世界にすき間なく充満し」(「法華経・上・巻第一・方便品・第二・P.72~73」岩波文庫 一九六二年)
尊氏は九州の多々良浜(たたらはま)まで落ちていく。気疲れが激しい。次のように。
「朝の湌(さん)飢渇(けかち)にして、夜の寝(ねや)腥臊(せいそう)たり」(「太平記2・第十五巻・十六・P.492」岩波文庫 二〇一四年)
白居易「縛戎人」からの引用。
「朝飡飢渇費杯盤 夜卧腥臊汚牀席
(書き下し)朝飡(てうさん)には飢渇(きかつ)して杯盤(はいばん)を費(つひや)し 夜卧(やぐわ)には腥臊(せいさう)たり牀席(しやうせき)を汚(けが)す。
(現代語訳)朝食には飢えかわいているので飲み物も食い物もたっぷりとり よるねるときにはなまぐさいからだでベッドやむしろをよごす」(漢詩選10「縛戎人」『白居易・P.82~86』集英社 一九九六年)
多々良浜に押し寄せた菊池武俊(きくちたけとし)の軍は四、五万騎。尊氏に付き従う者はもはや三百余人ほど。尊氏は現状を次のように思い嘆き自嘲する。
「蚍蜉(ひふ)の大樹(たいじゅ)を動かし」(「太平記2・第十五巻・十八・P.497」岩波文庫 二〇一四年)
韓兪「調張籍」からの引用。もう何をやっても無駄だという意味に使われる。
「蚍蜉撼大樹 可笑不自量
(書き下し)蚍蜉(ひふ) 大樹(だいじゅ)を撼(うご)かす 笑(わろ)うべし 自(み)ずから量(はか)らざるを
(現代語訳)大蟻が大木(たいぼく)をゆりうごかしているのだ、身の程知らずを笑ってやるがよい」(「調張籍」『中國詩人選集11・韓兪・P.26~28』岩波書店 一九五八年)
そこで弟の足利直義(ただよし)や臣下の高師茂(こうのもろしげ)が進み出て尊氏を励ます。尊氏は事態の急展開についてこう言う。
「言(ことば)の下に骨を消し、笑(え)みの中(うち)に刀を利(と)ぐは、この比(ころ)の人の心なり」(「太平記2・第十五巻・十九・P.504」岩波文庫 二〇一四年)
人々の心境の変わりやすさを詠んだもので「和漢朗詠集」に載る。
「言下暗生消骨火 咲中偸鋭刺人刀
(書き下し)言(ことば)の下(もと)には暗(そら)に骨を消(け)す火(ひ)を生(な)す 咲(ゑ)みの中(うち)には偸(ひそ)かに人を刺(さ)す刀(かたな)を鋭(と)ぐ」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・述懐・七五九・惟良春道・P.284」新潮社 一九八三年)
類詠も多い。白居易は次のように述べている。
「君不見李義府之輩 笑欣欣 笑中有刀潜殺人
(書き下し)君(きみ)見(み)ずや李義府(りぎふ)の輩(はい) 笑(わら)って欣欣(きんきん)たるも 笑(わらひ)の中(うち)に刀(たう)ありて潜(ひそか)に人(ひと)を殺(ころ)すを。
(現代語訳)見ろ、李義府(りぎふ)などは笑ってにこにこしていたが その笑いの中には刀があってこっそり人を殺したのだ」(漢詩選10「天可度」『白居易・P.107~108』集英社 一九九六年)
多々良浜で尊氏は菊池の大軍を相手に奇跡的勝利をおさめる。そこからまた足利方の東上が始まる。
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「玉の甃(つみいし)暖(あたた)かにして、落花自(おの)づから繽粉(ひんぷん)たり。朱楼(しゅろう)、紫殿(しでん)、玉(たま)の欄干(らんかん)」(「太平記2・第十五巻・五・P.447」岩波文庫 二〇一四年)
白居易「驪宮高」にこうある。
「朱樓紫殿三四重 遲遲兮春日 玉甃暖兮溫泉溢
(書き下し)朱樓(しゆろう) 紫殿(しでん) 三四重(さんしちよう)。遲遲(ちち)たる春日(しゆんじつ)には 玉甃(ぎよくしう)暖(あたた)かにして溫泉(をんせん)溢(あふ)る。
(現代語訳)朱塗りの高どの、紫いろの御殿が三重四重にかさなっている。暮れのおそい春の日には 玉の敷き瓦もあたたかでしかも温泉があふれて流れている」(漢詩選10「驪宮高」『白居易・P.88~90』集英社 一九九六年)
また「落花自(おの)づから繽粉(ひんぷん)たり」は陶淵明「桃花源記」から。
「落英繽粉。
(書き下し)落英(らくえい)繽粉(ひんぷん)たり。
(現代語訳)花びらをひらひらと舞い落ちるさまが実にみごとだった」(陶淵明「桃花源記」『陶淵明全集・下・P.152』岩波文庫)
ちなみに三井寺が武家方に付くのは源氏の源義光(よしみつ)が神羅明神社で元服し神羅三郎と名乗ったことや、そもそも神羅明神社は三井寺の守護神として創建されているので当然といえば当然の成り行き。さらに延暦寺と三井寺とは長く対立してきた経緯があり、「太平記」は両者の関係を後醍醐方と足利方との対立に当てはめた。また、この合戦の合間に起きた説話として「御伽草子」所収、南方熊楠の愛読書「秋夜長物語」が書かれたことは日本の文芸レベルの一つの到達点といえる。
次の箇所も何度か出てくる。
「漢楚(かんそ)の八ヵ年の戦ひを一時(いっし)に集め、呉越(ごえつ)三十度の軍(いくさ)を百倍になすとも、なほこれには及ぶべからず」(「太平記2・第十五巻・六・P.457」岩波文庫 二〇一四年)
「漢楚(かんそ)の八ヵ年の戦ひ」は次のとおり「史記・項羽本紀」にある。
「わしは兵を起こして以来、今に八年である。みずから七十余戦し、当たるところの者は破り、撃つところの者は従え、いまだかつて敗れたことがなく、ついに天下を取った。しかも今ついにここに困窮するとは、天がわしを滅ぼすのであって戦いの罪ではない。今日はもとより死を決している」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.232』ちくま学芸文庫 一九九五年)
「呉越(ごえつ)三十度の軍(いくさ)」は「史記・越王句践世家」に詳しい。
「范蠡(はんれい)は越王句践(こうせん)に支えて、身を苦しめ力をあわせ、句践と深くはかること二十余年、ついに呉を滅ぼして会稽の恥を報い、北のかた兵を淮水に渡し、斉・晋に臨んで中国に号令し、周の王室を尊崇した。かくて句践は覇者となり、范蠡は上将軍と称して、国に帰還した」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.295』ちくま学芸文庫 一九九五年)
だが「呉越(ごえつ)」の戦闘が「三十二」回に渡ったということは「太平記」の別の条に載っており、実際何度戦ったのかはよくわからない。
「呉王、自ら当たること三十二ヵ度」(「太平記1・第四巻・五・P.227」岩波文庫 二〇一四年)
京中に充満した両軍勢。立錐の余地もないほど溢れかえったが、その様相は「稲麻竹葦(とうまちくい)」のようだと述べられている。
「稲麻竹葦(とうまちくい)の如く打ち囲みたる大勢(おおぜい)ども」(「太平記2・第十五巻・七・P.468」岩波文庫 二〇一四年)
もともとは「法華経・方便品」にある語句。
「如稲麻竹葦 充満十方刹
(書き下し)稲・麻・竹・葦の如くにして 十方の刹(くに)に充満せんに
(現代語訳)蘆や竹のように、すべての世界にすき間なく充満し」(「法華経・上・巻第一・方便品・第二・P.72~73」岩波文庫 一九六二年)
尊氏は九州の多々良浜(たたらはま)まで落ちていく。気疲れが激しい。次のように。
「朝の湌(さん)飢渇(けかち)にして、夜の寝(ねや)腥臊(せいそう)たり」(「太平記2・第十五巻・十六・P.492」岩波文庫 二〇一四年)
白居易「縛戎人」からの引用。
「朝飡飢渇費杯盤 夜卧腥臊汚牀席
(書き下し)朝飡(てうさん)には飢渇(きかつ)して杯盤(はいばん)を費(つひや)し 夜卧(やぐわ)には腥臊(せいさう)たり牀席(しやうせき)を汚(けが)す。
(現代語訳)朝食には飢えかわいているので飲み物も食い物もたっぷりとり よるねるときにはなまぐさいからだでベッドやむしろをよごす」(漢詩選10「縛戎人」『白居易・P.82~86』集英社 一九九六年)
多々良浜に押し寄せた菊池武俊(きくちたけとし)の軍は四、五万騎。尊氏に付き従う者はもはや三百余人ほど。尊氏は現状を次のように思い嘆き自嘲する。
「蚍蜉(ひふ)の大樹(たいじゅ)を動かし」(「太平記2・第十五巻・十八・P.497」岩波文庫 二〇一四年)
韓兪「調張籍」からの引用。もう何をやっても無駄だという意味に使われる。
「蚍蜉撼大樹 可笑不自量
(書き下し)蚍蜉(ひふ) 大樹(だいじゅ)を撼(うご)かす 笑(わろ)うべし 自(み)ずから量(はか)らざるを
(現代語訳)大蟻が大木(たいぼく)をゆりうごかしているのだ、身の程知らずを笑ってやるがよい」(「調張籍」『中國詩人選集11・韓兪・P.26~28』岩波書店 一九五八年)
そこで弟の足利直義(ただよし)や臣下の高師茂(こうのもろしげ)が進み出て尊氏を励ます。尊氏は事態の急展開についてこう言う。
「言(ことば)の下に骨を消し、笑(え)みの中(うち)に刀を利(と)ぐは、この比(ころ)の人の心なり」(「太平記2・第十五巻・十九・P.504」岩波文庫 二〇一四年)
人々の心境の変わりやすさを詠んだもので「和漢朗詠集」に載る。
「言下暗生消骨火 咲中偸鋭刺人刀
(書き下し)言(ことば)の下(もと)には暗(そら)に骨を消(け)す火(ひ)を生(な)す 咲(ゑ)みの中(うち)には偸(ひそ)かに人を刺(さ)す刀(かたな)を鋭(と)ぐ」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・述懐・七五九・惟良春道・P.284」新潮社 一九八三年)
類詠も多い。白居易は次のように述べている。
「君不見李義府之輩 笑欣欣 笑中有刀潜殺人
(書き下し)君(きみ)見(み)ずや李義府(りぎふ)の輩(はい) 笑(わら)って欣欣(きんきん)たるも 笑(わらひ)の中(うち)に刀(たう)ありて潜(ひそか)に人(ひと)を殺(ころ)すを。
(現代語訳)見ろ、李義府(りぎふ)などは笑ってにこにこしていたが その笑いの中には刀があってこっそり人を殺したのだ」(漢詩選10「天可度」『白居易・P.107~108』集英社 一九九六年)
多々良浜で尊氏は菊池の大軍を相手に奇跡的勝利をおさめる。そこからまた足利方の東上が始まる。
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