白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「太平記」後半の流行語「下剋上」

2021年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
京都では合戦が盛んだが同時に歌舞音曲など芸能もまた盛んに行われていた。新座(しんざ)は南都・奈良の田楽、本座(ほんざ)は京・白川の田楽、という区別があった。その新座に「閑屋(しずや)」という名の田楽師の芸風の面白さが上げられている。

「新座(しんざ)の閑屋(しずや)、猿の面(おもて)を着て五幣(ごへい)を差し上げ、渡橋(わたりばし)の高欄(こうらん)を一飛(ひとと)び飛びては拍子を踏み、踏みては五幣を打ち振つて、真(まこと)に軽(かろ)げに跳(おど)り出(い)でたり」(「太平記4・第二十七巻・九・P.288」岩波文庫 二〇一五年)

実在人物らしい。「申楽談義」にその名が見える。

「しづや、入(いり)かはりたる風體(ふうてい)をす」(日本古典文学大系「申楽談義」『歌論集/能楽論集・P.487」岩波書店 一六六一年)

ところで高師直(もろなお)・師泰(もろやす)兄弟に対する讒言は足利直義を動かすところまできていた。上杉重能・畠山直宗の側が高兄弟を追い落とすチャンスである。しかし机上の空論は遂に空論でしかない。政権の中枢に最も近い高兄弟は大軍を率いてたちまちのうちに足利尊氏(たかうじ)の屋敷まで詰め寄りあっけなく弟・直義(ただよし)を出家に追い込む。実力の違いを見せつけられた上杉・畠山は逃げようとするが一度に逮捕され越前国(えちぜんのくに)へ流罪と決まった。別れのシーン。

「都にまたも帰るべき、事は堅田(かただ)に引く網の、目にもたまらぬわが涙」(「太平記4・第二十七巻・十二・P.304」岩波文庫 二〇一五年)

散文化されているがもともとは源氏に敗北し北國へ流罪となった平時忠(たいらのときただ)が詠んだ別れの歌。「平家物語」からの引用。

「かへりこむことはかた田にひくあみのめにもたまらぬわがなみだかな」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十二・平大納言被流・P.347」岩波書店 一九九三年)

もはや源頼朝による鎌倉政権樹立が決まったも同然で平家方の残党は続々と処分されている時期に、ここまでセンチメンタルで少なく見積もっても未練がましい歌を残すものかと思いはする。一方、ほぼ同時期に自らの仏教思想を打ち立てていた道元はこういっている。

「花は愛惜(あいじやく)にちり、草は棄嫌(きけん)におふるのみなり」(「正法眼蔵1・第一・現成公案・P.53~54」岩波文庫 一九九〇年)

現代語訳に翻訳してみても意味は何ら変わらない。

「散る花を惜しみ、生い茂る草を嫌うのも人の心の在りようである」(「正法眼蔵1・第一・現成公按・P.22」河出文庫 二〇〇四年)

一読すると、花が散るのを惜しいと思い、また手入れされなくなった庭に茫々たる雑草が覆い茂り始めるのを見るのはなるほど悲しいものだ、と論じているかのようだ。だが道元の言葉はそのようなセンチメンタルなレベルで語られているわけではまったくない。そうではなく、そもそも花は散るものである、そしてまた、主人を失い手入れされなくなった庭では雑草がいきいきと生い繁る。それを嘆くのは人間の心模様としては自然な動きかもしれないが、しかし世界というものは、揺れ動いてばかりの人間の心など無視して花は散り庭は亡ぶ。それこそ本来的な無常というものであり、嘆くのではなく逆に積極的に受け入れて対象化しなければならない。そう道元はいう。

上杉・畠山ら散り散りばらばらになっていく人々は次のように思う。かたつむりの角(つの)のような小さな世界で争い事ばかり、さらに人間の生涯は瞬時に過ぎていくと。

「蝸牛(かぎゅう)の角(つの)の(上の)三千界(さんぜんかい)、石火(せっか)の光の中の一刹那(いちせつな)」(「太平記4・第二十七巻・十二・P.304」岩波文庫 二〇一五年)

「和漢朗詠集」所収、白居易「対酒」からの引用。

「蝸牛角上争何事 石火光中寄此身

(書き下し)蝸牛(くわぎう)の角(つの)の上に何の事をか争(あらそ)ふ 石火(せきくわ)の光の中(うち)にこの身を寄(よ)せたり」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・無常・七九一・白居易・P.295」新潮社 一九八三年)

ただ単なる流刑であり、あばら家で粗末な暮らしだが、しばらく我慢すれば京へ戻れるに違いないと思い込んでいた上杉・畠山の両人。しかし高兄弟はそれほど甘くない。上杉・畠山とも越前で死ぬ。畠山は家来の勧めで自害。上杉はおろおろと女房の顔を見て無駄に時間を稼いでいるうちに八木光勝(やぎみつかつ)の手下の者に生捕りにされ斬り殺された。このすぐ後に「雲景未来記(うんけいみらいき)」の条が続いており、「太平記」で始めて「下克上(げこくじょう)」という言葉が登場する。

「臣君を殺し、子父を殺し、力を以て争ふべき時至るゆゑに、下克上(げこくじょう)の一端により、高貴清花(こうきせいが)も君主一人(いちじん)も、ともに力を得ずして、下輩下賤(げはいげせん)の士四海(しかい)を呑む」(「太平記4・第二十七巻・十三・P.316」岩波文庫 二〇一五年)

「『今度は、地口天心(ちこうてんしん)を呑むと云ふ事あれば、いかにも下克上(げこくじょう)の時分にて、下(しも)勝ちぬべし』と申しければ、雲景(うんけい)、重ねて申すやう、『さては、下(しも)の道理にて、僻事(ひがごと)上(かみ)に逆(さか)うて、天下をわがままに治むべきか』と問へば、『いや、さはまたあるまじ。末世乱悪の儀にて、先(ま)づ下勝ちて、上を犯すべし。されども、上を犯す科(とが)も遁(のが)れ難(がた)ければ、重ねて下科(とが)に伏(ふく)すべし。これより当代、公家武家忽(たちま)ちに変化して、大逆(たいぎゃく)あるべし』と申せば、『さては、武家の代尽(つ)き、君、天下を治めさせ給ふべきか』と問へば、『それは、いさ知らず。今日明日(きょうあす)、武運も尽くべき時分ならねば、南朝の御治世は何(なに)とかあらんずらん。天変(てんぺん)はいかにもこの中(うち)にあるべし』」(「太平記4・第二十七巻・十三・P.322~323」岩波文庫 二〇一五年)

次の一節は「下克上」の事例として「太平記」が上げている。

「魯(ろ)の哀公(あいこう)に季桓子(きかんし)が威を振るひ」(「太平記4・第二十八巻・一・P.329」岩波文庫 二〇一五年)

「春秋左氏伝」や「史記・魯周公世家」に載る記事。

(1)「哀公は三桓の倨傲ぶりを嫌って、諸侯を利用してこれを排除しようとした。三桓の方も公の《でたらめ》さを嫌い、ために君臣間に摩擦が多かった。公は陵阪(りょうはん)に出遊する途中、孟氏(もうし)之衢(く)=孟氏大街で孟武伯(仲孫彘)に出逢い、『子(あなた)にひとつおたずねするが、余(わし)は無事に死ねるだろうか』とたずねると、『臣(わたくし)にわかるわけはございません』と答え、三度同じ質問をしても、とうとうそれ以上答えなかった。公は越とともに〔自国の〕魯を攻めて三桓を排除しようと考えた。秋八月甲戌の日、公は公孫有陘(こうそんゆうけい)の邸に赴き、それに乗じて邾に逃れ、ついで越に赴いた。国人は公孫有山(有陘)氏に〔哀公を出国させた〕罪を押しつけた」(「春秋左氏伝・下・哀公二十七年・P.501」岩波文庫 一九八九年)

(2)「二十三年、越王句践(こうせん)が呉王夫差を滅ぼした。二十七年の春、季康子が没した。その年の夏、哀公は三桓の専横を憂慮し、諸侯の力をかりて牽制(けんせい)しようとした。三桓のほうでも、哀公が事をおこすのを心配した。そのため君臣の間には隙が多かった。哀公が陵阪(りょうはん=都の近郊)に遊んだとき、街で孟武伯(もうぶはく)に出会った。『わしは天寿を全うして死ねるだろうか』と哀公が問うと、孟武伯は、『わかりません』と答えた。哀公は越にたよって三桓を伐とうと思った。その年の八月、哀公が有陘氏(ゆうけいし)のもとに行ったとき、三桓は共同して哀公を攻めた。哀公は衛に出奔し、さらに衛を去って鄒に行き、ついに越に行った」(「魯周公世家・第三」『史記3・世家・上・P.92~93』ちくま学芸文庫 一九九五年)

軍事力で上回っていれば下の者が上の者を転倒させることはできる。だがただそれだけで民衆もまた一致して付いてくるとはまったく限らない世界が出現する。

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