尊氏を罵る延暦寺の文書はこう続く。
「朝錯(ちょうそ)を仮(か)つて逆謀(ぎゃくぼう)を挙ぐ、劉濞(りゅうび)が亡ずる所なり」(「太平記3・第十七巻・八・P.146」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・呉王濞列伝」から二箇所引用されている。
(2)「朝錯(ちょうそ)」は漢の孝景帝の重臣「鼂錯(ちょうそ)」のこと。呉楚七国の謀反の動きが発覚した時、袁盎(えんおう)が景帝に進言し、鼂錯一人を暗殺処刑することで謀反を収集する方向へ図った。
「呉や楚の国々の謀反の書が上聞に達したばかりで、まだ兵士は出陣せず、竇嬰もまた出発しないとき、かれはもと呉の宰相であった袁盎(えんおう)にそのことをしゃべった。袁盎は当時官位についていなかったが、勅令で召し出され参内した。お上(景帝)はちょうど兵力の配置と食糧調達について鼂錯(ちょうそ)と相談していた。お上は袁盎にたずねた、『きみは前に呉の宰相であったが、呉の臣下の田禄伯(でんろくはく)がどんな男か知っているかね。いま呉や楚が謀反したが、きみの考えではどうかね』。答えて『ご心配なさるに及びません。じきに撃破されるでしょう』。お上『呉王は山の銅をとって貨幣を鋳造し、海水を煮て塩を作っておる。天下の豪傑連中をさそいいれ、白髪頭(しらがあたま)になってこのように反乱を起したのだ。計画が充分成功する見込みなしに、どうして起(た)ちあがるだろう。かれらが何もできまいというのはなぜだ』。袁盎は答えた、『呉の国に銅と塩の資源があって有利なことは確かにそうでございますが、豪傑を誘いこむことができたはずはありません。もしも呉が豪傑をつかみましたならば、かれらは呉王を助けて正義を行なわせ、反乱させないでしょう。呉が誘いいれたのは、すべてやくざの若者、逃亡者、貨幣偽造の悪人どもです。ですから、ぐるになり〔呉王を〕そそのかして反乱を起したのです』。鼂錯『袁盎の判断はなるほど、もっともです』。お上はたずねた、『どんな方策をとるのがよいか』。袁盎は答えた、『どうかお人払いを』。お上は側にいた者を退出させたが、鼂錯だけが残っていた。袁盎『わたくしの申しますことは、大臣でも聞かせることはできません』。そこで鼂錯を退出させた。鼂錯は小走りに御殿の東の部屋に退いたが、心は憎しみでいっぱいであった。お上はさっそく袁盎にたずねた。袁盎は答えて『呉や楚の王たちは互いに手紙を送りあって<高祖皇帝はご子息・ご兄弟にそれぞれ領地を授けたもうたのに、いま賊臣の鼂錯をひとりぎめで諸侯に罪があるととがめ、その領地を削りとっている>と申しております。ですから表面は謀反でありますが、力を合せて西に向かって進んで来ても、もし鼂錯を処刑し、もとの領地をとり返せれば、そこでやめて終りになりましょう。ただいま最善の策は、鼂錯一人を斬りすて、使者を出して呉や楚など七ヵ国の謀反の罪をおゆるしになり、もとの領地を返しておやりになることでございます。それだけで、刃に血をぬることもなく、すべての戦いはおさまりましょう』。これを聞いてお上は黙りこんでいたが、しばらくしていった、『いや、全くどうしたものかな。わしは一人の人間を惜しむつもりはない、それで天下への詫びになるものならだが』。袁盎『わたくしのつまらぬ計略は、これ以外にございません。どうか上様には充分ご考慮くださいませ』。やがて袁盎(えんおう)を太常(たいじょう)に任命し、呉王の弟の子の徳候(劉通<りゅうつう>)を宗正(そうせい)とした。袁盎は旅装を整え出発した。その十日余りのち、お上は中尉に鼂錯をよび出させたが、東の市場を視察するためだとだまして車に載せて行き、官服のまま東の市場で斬った(市場は処刑場でもあった)」(「呉王濞列伝・第四十六」『史記列伝3・P.230~231』岩波文庫 一九七五年)
(2)「劉濞(りゅうび)が亡ずる所」は、鼂錯(ちょうそ)の政策により領地削減され叛乱軍を組織した張本人でありなおかつ当時の呉王・劉濞(りゅうひ)の最後を指す。同じく鼂錯の政策により溜まっていた他国の不平不満を煽り立ててまとめ上げ、漢に対して叛乱軍を動かしはしたものの徐々に敗退し、遂に東越(とうえつ)に頸(くび)を刎ねられて死んだ。なお「劉濞(りゅうび)」は「太平記」の誤りで正しくは「劉濞(りゅうひ)」。
「天子は将軍たちに勅語を賜った、『善を行なうものには、天はしあわせを授けられ、悪を行なうものには、天はわざわいを授けられる、といわれている。高祖皇帝には功績や徳行を表彰するため、諸侯をお立てになった。〔趙の〕幽王(ゆうおう=劉友<りゅうゆう>)と〔斉の〕悼恵王(とうけいおう=劉肥<りゅうひ>)の家は断絶して後継ぎがなかった。孝文皇帝は哀れみをたれ恩恵を加えられ、幽王の子の劉遂(りゅうすい)と悼恵王の子劉卬(りゅうこう)らを王とし、かれらの先王のみたまやを奉じて、漢を守る藩国とされたもうたのである。そのおん徳は天地にも比べられ、そのご明察は日月と並ぶほどである。呉王劉濞(りゅうひ)はそのおん徳にそむき、道義に反して、天下の逃亡者や罪人をさそい入れ、天下の貨幣を混乱させ、病気と称して二十年余り参内しなかった。所管の役人がたびたび劉濞を処罰するよう申請したが、孝文皇帝はかれをお許しになり、以前の行ないを改めて善をなすよう希望されたのである。ところがいま楚王劉戊(りゅうぼ)・趙王劉遂(りゅうすい)・膠西王劉卬(こうせいおうりゅうこう)・済南王劉辟光(せいなんおうりゅうへきこう)・菑川王劉賢(しせんおうりゅうけん)・膠東王劉雄渠(こうとうおうりゅうゆうきょ)と、同盟を結んで反乱を起した。大逆無道のしわざである。兵をあげて天子のみたまやを危うくし、大臣と漢の使者を虐殺し、人民たちを脅迫し、罪なきものを殺害し、民家を焼き破壊し、かれらの墓地を堀りかえし、乱暴残虐のかぎりである。いま劉卬らはさらに天にさからい道にはずれた行為を重ね、〔各地にある高祖皇帝の〕みたまやを焼き、その宝物をかすめとった。朕ははなはだ心痛している。朕は喪服をつけて正殿に入ることを考慮している。将軍たちよ、部下たちを励まし、反逆者を討伐せよ。反逆者を討伐する場合、敵陣深く突入し数多く殺したものを、てがらとする。首を斬り敵を捕えた場合、比三百石以上の官吏は、すべて殺し、見逃すでないぞ。この勅命について、とやかく言ったり、または従おうとしないものがあれば、みな腰斬にせよ』。最初、呉王が淮水を渡り、楚王とそのまま西に進み棘壁(きょくへき)を破り、勝ちに乗じて進撃したとき、その鉾先(ほこさき)ははなはだ鋭かった。梁(りょう)の孝王(劉武<りゅうぶ>)は不安に思い、六人の将軍を派遣して呉を攻撃させた。呉は梁の二将軍をうち破った。その士卒はみな梁に逃げ帰った。梁はふたたび条候(じょうこう=周亜夫)に使者を送って救援を要請したが、条候は承知しなかった。そこでこんどは使者を〔都へ〕送ってお上(景帝)に条候を悪(あ)しざまにいった。お上は人をやって条候に梁を救うよう勧告したが、かれはやはり自己の判断を固執して救援に行かなかった。梁は韓安国(かんあんこく)と楚王をいさめて死んだ楚の宰相(張尚<ちょうしょう>)の弟張羽(ちょうう)を将軍とし、やっと呉の軍にかなりの打撃を与えることができた。呉の軍は西に向かって進もうとしたが、梁は城を固く守っており、それ以上は西へ進めなかった。そのため条候の軍へ向かい、下邑(かゆう)で出あって戦闘を交えようと思ったが、条候は城壁にたてこもり戦おうとしなかった。呉は兵糧がつき、兵卒は飢え、たびたび戦いをいどんだ。かくて夜間に条候の城壁に突撃し、東南の方で騒ぎ立てた。条候は西北の方を用心させると、はたして西北から突入して来た。呉の軍はさんざんにうち破られ、士卒に餓死するものがたくさんあったため、王から離反してちりぢりになった。そこで呉王はその直属の勇士数千人と夜のうちに逃げ去り、揚子江を渡って、丹徒(たんと)へ走り、東越(とうえつ)をたのみとした。東越の兵は一万人余りいたが、さらに人をやって敗残兵を集めさせた。漢からも使いをやって有利な条件で東越を誘惑した。そうなると東越は呉王をだまし、呉王が野外に出て兵卒をねぎらっているとき、戈(ほこ)でつき殺させ、その首を器に載せ、駅つぎの馬車を走らせて天子に報告した」(「呉王濞列伝・第四十六」『史記列伝3・P.235~237』岩波文庫 一九七五年)
一方、延暦寺と同盟した奈良の興福寺の文書。こうある。
「城濮三舎(せいぼくさんしゃ)の謀(はかりごと)」(「太平記3・第十七巻・八・P.149」岩波文庫 二〇一五年)
紀元前六三二年、晋が楚を破った「城濮(じょうぼく)の戦い」で晋軍がいったん三日分の行程(三舎)を退却して見せた謀略。
「晋軍は後退した。軍吏が、『国君(文公)が、臣下(子玉)を避けるとは恥辱です。それに楚軍は〔数ヶ月にわたる宋の包囲で〕老(おとろ)えているのに、なぜ後退するのですか』と言うと、子反は言った。『軍隊は、直なるものを壮(さか)んといい、曲なるものを老という。遠征期間の長さによるものではない。もし楚〔の成王〕の恩恵がなかったら、今日はないわけで、三舎(三日分の行程)後退して避けるのが(僖二十三B)それに報いる道である。恩恵に背(そむ)き約束を履行せずに、楚の敵(宋)を支えている現状は、我(こちら)が曲であり楚が直であり、楚の志気は充実して、老(おとろ)えているとは申せない。我(こちら)が後退し楚の側も引き揚げれば、これに越したことはない。もし楚が引き揚げねば、国君が退くのに臣下が押し入ることになり、曲は彼(あちら)にまわる』。晋軍は三舎後退した。楚の将士は停止しようとしたが、子玉は許さなかった。夏四月戊辰の日、晋候・宋公(成公)・斉の国帰父(こくきほ)と崔夭(さいよう)・秦の小子憖(ぎん=穆公の子)は城濮(じょうぼく)に駐屯した。楚軍が険(けわ)しい丘陵を背にして宿営したので、晋候は心配した。従卒たちの唱(うた)に耳を傾けると、
去年の畠(はたけ)は草莽々(ぼうぼう)でも そのまま今年の畠に鍬(くわ)入れよ
という。公が〔戦うべきか否か〕決しかねていると、子犯は、『戦うべきです。戦って勝てば、必ず諸侯はついて来ます。たとえ勝てなくても、〔晋国には〕山河の備えがあるから、何も心配はありません』。公が、『かつて楚から受けた恩恵はどうする』と言うと、欒枝(らんし)は、『漢水以北の姫姓諸国は、楚がすべて滅ぼしたのです。小さな恩恵にこだわって大きな恥辱をお忘れとは。戦った方がよろしい』」(「春秋左氏伝・上・僖公二十八年・P.287~288」岩波文庫 一九八八年)
それにしても足利尊氏・直義兄弟は散々な言われようだ。延暦寺側の文書には「辺都(へんと)の酋長(ゆうちょう)・豺狼(さいろう)の心・戎虜(じゅうりょ)を誘引」とある。辺鄙な蛮地(鎌倉)の酋長(しゅうちょう)に過ぎず、山犬や狼の貪欲さに凝り固まり、野蛮な未開人たちを誘い込んでいる連中だと。また興福寺側の文書には「遠蛮(えんばん)の亡慮(ぼうりょ)・東夷(とうい)の降卒(こうそつ)・鷹犬(ようけん)の才に非(あら)ず」とある。遠い蛮地に逃げた単なる虜囚であり、降伏もした東国の戎(未開人)でしかなく、そのうえ主君の手先として働く才能一つないと。さらに「天誅(てんちゅう)」とさえ書かれている。なかでも「鷹犬(ようけん)の才・爪牙(そうげ)の任」はただならぬ用語である。古代中国に陳琳(ちんりん)という詩人がいるが、こう書いている。
「相公實勤王
(書き下し)相公(しょうこう) 実(まこと)に王(おう)に勤(つと)め
(現代語訳)丞相(じょうしょう)はまことに朝命をかしこみ」(「文選・詩篇・6・巻三十・雑擬上・擬魏太子鄴中集詩八首幷序・陳琳・P.203~205」岩波文庫 二〇一九年)
「勤王(きんのう)」の二文字。とはいえ、文書にはもっと古くから見える。
「諸侯の支持を得るには、勤王(王事に奔走する)が何よりです」(「春秋左氏伝・上・僖公二十五年・P.271」岩波文庫 一九八八年)
尊王攘夷、勤王倒幕、八紘一宇、治安維持法、大東亜戦争、オキナワ、ヒロシマ、日米安保と、これらはどれも無関係ではない。今なお被害者・加害者の無限の系列が生々しく描き残されている。そしてそもそも「勤王・天誅」という言葉が「檄」として日本中で最有力な大寺院の一つから出されている点を忘れてはならないだろう。
さて次は、東寺に籠った尊氏が新田義貞の挑発に乗って一騎討ちに出ようと動きかけたところを上杉重能(うえすぎしげよし)が諌めて思い留まらせた場面。
「楚(そ)の項羽(こうう)が漢(かん)の高祖(こうそ)に向かひ、『独り身にして戦はん』と申ししをば、高祖あざ咲(わら)ひて、『汝(なんじ)を討つに、刑徒(けいと)を以てすべし』と欺(あざむ)き候はずや」(「太平記3・第十七巻・十・P.164」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・高祖本紀」のエピソードから。漢王(劉邦)は項羽の罪を十個としているが、総合すれば十個という意味であって一つずつ拾い上げているのは合計九個。
「項王は漢王と二人、単身で決戦しようと言った。漢王は項王の罪を責め、『わしは初めおまえと共に命(めい)を懐王に受けた時、懐王はさきに関を入って関中を定める者を王にしようと言ったのに、おまえは約束にそむいてわしを蜀漢(漢中)の王にした。これが罪悪の一つ。おまえは卿子冠軍(けいしかんぐん)を矯殺(きょうさつ=王命をいつわって殺す)し、自ら大将軍になった。これが罪悪の二つ。おまえは趙を援け、事が終わったなら還って懐王に報告すべきに、勝手に諸侯の兵を強制して函谷関に入った。これが罪悪の三。懐王は秦に入ったら暴掠(ぼうりゃく)するなと言ったのに、おまえは秦の宮室を焼き、始皇帝の冢(つか)を堀り財物を私した。これが罪悪の四。また秦の降王嬰(えい)を殺した。これが罪悪の五。いつわって秦の子弟二十万を新安(河南・新安)で穴埋めにし、その将を王とした。これが罪悪の六。おまえは自分の部下の諸将を上地の王とし、もとの主君をうつして臣下に叛逆を起こさせた。これが罪悪の七。おまえは義帝を逐い出して、自ら彭城を都とし、韓王の地を奪い、梁・楚の地をあわせて王となり、自ら広大な領地を取った。これが罪悪の八。おまえは人に命じてひそかに義帝を江南に殺させた。これが罪悪の九。また人臣として主君を殺し、降った者を殺し、政(まつりごと)をおこなって不公平、誓いを破って不信義なことは天下の容れない大逆無道。これが罪悪の十である。わしは義兵を率いて諸侯を従え、残賊を誅し、刑余の罪人におまえを撃たせているのであって、何を好んで自らおまえと決戦などしよう』と言った」(高祖本紀・第八」『史記1・本紀・P.263~264』ちくま学芸文庫 一九九五年)
ところで足利方討伐で一致した公家・武家を比叡山に集めた延暦寺。二十万人とされているが四ヶ月を過ぎる頃には兵糧が尽きてきた。そこでこうある。
「松蝑(しょうしょ)の飢ゑを嗜(たしな)むのみにあらず」(「太平記3・第十七巻・十一・P.169」岩波文庫 二〇一五年)
「春秋左氏伝・宣公十五年」の記事から。松蝑(しょうしょ)は蝗(いなご)のこと。
「冬、エン(蝗<いなご>の幼虫)が発生し、不作だった」(「春秋左氏伝・上・宣公十五年・P.470」岩波文庫 一九八八年)
そこへ佐々木道誉が登場する。いっときは九州まで押し寄せながら今度は逆に京・近江まで引き退いてきた新田勢。今度は目前に現われた近江守護職・道誉の不気味な動きに動揺を隠せなくなる。次の箇所は道誉が近江守護職を手に入れたのはどのようにしてか、という問いにかかわる。流布本などは「後醍醐帝をうまく騙して」手に入れたとしている。いかにも謀略家・佐々木道誉のイメージからすればそれはそれで面白い。だが実際はどうだったか。「将軍の御前(おんまえ)に参つて申」とある。懇切丁寧に説明した。それによるとずっと以前から近江守護職は佐々木家が務めていたのであり、何も後醍醐帝の時代になってどさくさ紛れに手に入れたものでも何でもないと。そう言われればもっともな話なのだ。
「佐々木佐渡判官入道道誉(ささきさどのほうがんにゅうどうどうよ)、将軍の御前(おんまえ)に参つて申されけるは、『江州(ごうしゅう)は、代々(だいだい)佐々木名字(みょうじ)の守護の国にて候ふ。小笠原上洛(しょうらく)して道を隔(へだ)て、不慮の両度に及んで合戦を致し候ふ。その功を以て、やがて国々の管領(かんれい)仕(つかまつ)り候ふ事、道誉面目(めんぼく)を失ふ処にて候ふ。江州の管領を給はり候はば、即ちかの国に下向(げこう)仕り、国中の朝敵を打ち平らげ、坂本(さかもと)の通(かよ)ひ路(じ)を差(さ)し塞(ふさ)ぎ、敵を兵粮攻(ひょうろうぜ)めにし候ふべし』と申されたりければ、将軍も、『しかるべし』とて、道誉が申(もう)し請(う)くる旨(むね)に任せて、当国の管領、并びに便宜(びんぎ)の闕所(けっしょ)数々所(すかしょ)、道誉が恩賞に行ひて、やがて江州へぞ遣(つか)はされける」(「太平記3・第十七巻・十一・P.171」岩波文庫 二〇一五年)
楠正成はもういない。新田義貞はどうするのか。どんな言葉が残されているだろうか。
BGM1
BGM2
BGM3
「朝錯(ちょうそ)を仮(か)つて逆謀(ぎゃくぼう)を挙ぐ、劉濞(りゅうび)が亡ずる所なり」(「太平記3・第十七巻・八・P.146」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・呉王濞列伝」から二箇所引用されている。
(2)「朝錯(ちょうそ)」は漢の孝景帝の重臣「鼂錯(ちょうそ)」のこと。呉楚七国の謀反の動きが発覚した時、袁盎(えんおう)が景帝に進言し、鼂錯一人を暗殺処刑することで謀反を収集する方向へ図った。
「呉や楚の国々の謀反の書が上聞に達したばかりで、まだ兵士は出陣せず、竇嬰もまた出発しないとき、かれはもと呉の宰相であった袁盎(えんおう)にそのことをしゃべった。袁盎は当時官位についていなかったが、勅令で召し出され参内した。お上(景帝)はちょうど兵力の配置と食糧調達について鼂錯(ちょうそ)と相談していた。お上は袁盎にたずねた、『きみは前に呉の宰相であったが、呉の臣下の田禄伯(でんろくはく)がどんな男か知っているかね。いま呉や楚が謀反したが、きみの考えではどうかね』。答えて『ご心配なさるに及びません。じきに撃破されるでしょう』。お上『呉王は山の銅をとって貨幣を鋳造し、海水を煮て塩を作っておる。天下の豪傑連中をさそいいれ、白髪頭(しらがあたま)になってこのように反乱を起したのだ。計画が充分成功する見込みなしに、どうして起(た)ちあがるだろう。かれらが何もできまいというのはなぜだ』。袁盎は答えた、『呉の国に銅と塩の資源があって有利なことは確かにそうでございますが、豪傑を誘いこむことができたはずはありません。もしも呉が豪傑をつかみましたならば、かれらは呉王を助けて正義を行なわせ、反乱させないでしょう。呉が誘いいれたのは、すべてやくざの若者、逃亡者、貨幣偽造の悪人どもです。ですから、ぐるになり〔呉王を〕そそのかして反乱を起したのです』。鼂錯『袁盎の判断はなるほど、もっともです』。お上はたずねた、『どんな方策をとるのがよいか』。袁盎は答えた、『どうかお人払いを』。お上は側にいた者を退出させたが、鼂錯だけが残っていた。袁盎『わたくしの申しますことは、大臣でも聞かせることはできません』。そこで鼂錯を退出させた。鼂錯は小走りに御殿の東の部屋に退いたが、心は憎しみでいっぱいであった。お上はさっそく袁盎にたずねた。袁盎は答えて『呉や楚の王たちは互いに手紙を送りあって<高祖皇帝はご子息・ご兄弟にそれぞれ領地を授けたもうたのに、いま賊臣の鼂錯をひとりぎめで諸侯に罪があるととがめ、その領地を削りとっている>と申しております。ですから表面は謀反でありますが、力を合せて西に向かって進んで来ても、もし鼂錯を処刑し、もとの領地をとり返せれば、そこでやめて終りになりましょう。ただいま最善の策は、鼂錯一人を斬りすて、使者を出して呉や楚など七ヵ国の謀反の罪をおゆるしになり、もとの領地を返しておやりになることでございます。それだけで、刃に血をぬることもなく、すべての戦いはおさまりましょう』。これを聞いてお上は黙りこんでいたが、しばらくしていった、『いや、全くどうしたものかな。わしは一人の人間を惜しむつもりはない、それで天下への詫びになるものならだが』。袁盎『わたくしのつまらぬ計略は、これ以外にございません。どうか上様には充分ご考慮くださいませ』。やがて袁盎(えんおう)を太常(たいじょう)に任命し、呉王の弟の子の徳候(劉通<りゅうつう>)を宗正(そうせい)とした。袁盎は旅装を整え出発した。その十日余りのち、お上は中尉に鼂錯をよび出させたが、東の市場を視察するためだとだまして車に載せて行き、官服のまま東の市場で斬った(市場は処刑場でもあった)」(「呉王濞列伝・第四十六」『史記列伝3・P.230~231』岩波文庫 一九七五年)
(2)「劉濞(りゅうび)が亡ずる所」は、鼂錯(ちょうそ)の政策により領地削減され叛乱軍を組織した張本人でありなおかつ当時の呉王・劉濞(りゅうひ)の最後を指す。同じく鼂錯の政策により溜まっていた他国の不平不満を煽り立ててまとめ上げ、漢に対して叛乱軍を動かしはしたものの徐々に敗退し、遂に東越(とうえつ)に頸(くび)を刎ねられて死んだ。なお「劉濞(りゅうび)」は「太平記」の誤りで正しくは「劉濞(りゅうひ)」。
「天子は将軍たちに勅語を賜った、『善を行なうものには、天はしあわせを授けられ、悪を行なうものには、天はわざわいを授けられる、といわれている。高祖皇帝には功績や徳行を表彰するため、諸侯をお立てになった。〔趙の〕幽王(ゆうおう=劉友<りゅうゆう>)と〔斉の〕悼恵王(とうけいおう=劉肥<りゅうひ>)の家は断絶して後継ぎがなかった。孝文皇帝は哀れみをたれ恩恵を加えられ、幽王の子の劉遂(りゅうすい)と悼恵王の子劉卬(りゅうこう)らを王とし、かれらの先王のみたまやを奉じて、漢を守る藩国とされたもうたのである。そのおん徳は天地にも比べられ、そのご明察は日月と並ぶほどである。呉王劉濞(りゅうひ)はそのおん徳にそむき、道義に反して、天下の逃亡者や罪人をさそい入れ、天下の貨幣を混乱させ、病気と称して二十年余り参内しなかった。所管の役人がたびたび劉濞を処罰するよう申請したが、孝文皇帝はかれをお許しになり、以前の行ないを改めて善をなすよう希望されたのである。ところがいま楚王劉戊(りゅうぼ)・趙王劉遂(りゅうすい)・膠西王劉卬(こうせいおうりゅうこう)・済南王劉辟光(せいなんおうりゅうへきこう)・菑川王劉賢(しせんおうりゅうけん)・膠東王劉雄渠(こうとうおうりゅうゆうきょ)と、同盟を結んで反乱を起した。大逆無道のしわざである。兵をあげて天子のみたまやを危うくし、大臣と漢の使者を虐殺し、人民たちを脅迫し、罪なきものを殺害し、民家を焼き破壊し、かれらの墓地を堀りかえし、乱暴残虐のかぎりである。いま劉卬らはさらに天にさからい道にはずれた行為を重ね、〔各地にある高祖皇帝の〕みたまやを焼き、その宝物をかすめとった。朕ははなはだ心痛している。朕は喪服をつけて正殿に入ることを考慮している。将軍たちよ、部下たちを励まし、反逆者を討伐せよ。反逆者を討伐する場合、敵陣深く突入し数多く殺したものを、てがらとする。首を斬り敵を捕えた場合、比三百石以上の官吏は、すべて殺し、見逃すでないぞ。この勅命について、とやかく言ったり、または従おうとしないものがあれば、みな腰斬にせよ』。最初、呉王が淮水を渡り、楚王とそのまま西に進み棘壁(きょくへき)を破り、勝ちに乗じて進撃したとき、その鉾先(ほこさき)ははなはだ鋭かった。梁(りょう)の孝王(劉武<りゅうぶ>)は不安に思い、六人の将軍を派遣して呉を攻撃させた。呉は梁の二将軍をうち破った。その士卒はみな梁に逃げ帰った。梁はふたたび条候(じょうこう=周亜夫)に使者を送って救援を要請したが、条候は承知しなかった。そこでこんどは使者を〔都へ〕送ってお上(景帝)に条候を悪(あ)しざまにいった。お上は人をやって条候に梁を救うよう勧告したが、かれはやはり自己の判断を固執して救援に行かなかった。梁は韓安国(かんあんこく)と楚王をいさめて死んだ楚の宰相(張尚<ちょうしょう>)の弟張羽(ちょうう)を将軍とし、やっと呉の軍にかなりの打撃を与えることができた。呉の軍は西に向かって進もうとしたが、梁は城を固く守っており、それ以上は西へ進めなかった。そのため条候の軍へ向かい、下邑(かゆう)で出あって戦闘を交えようと思ったが、条候は城壁にたてこもり戦おうとしなかった。呉は兵糧がつき、兵卒は飢え、たびたび戦いをいどんだ。かくて夜間に条候の城壁に突撃し、東南の方で騒ぎ立てた。条候は西北の方を用心させると、はたして西北から突入して来た。呉の軍はさんざんにうち破られ、士卒に餓死するものがたくさんあったため、王から離反してちりぢりになった。そこで呉王はその直属の勇士数千人と夜のうちに逃げ去り、揚子江を渡って、丹徒(たんと)へ走り、東越(とうえつ)をたのみとした。東越の兵は一万人余りいたが、さらに人をやって敗残兵を集めさせた。漢からも使いをやって有利な条件で東越を誘惑した。そうなると東越は呉王をだまし、呉王が野外に出て兵卒をねぎらっているとき、戈(ほこ)でつき殺させ、その首を器に載せ、駅つぎの馬車を走らせて天子に報告した」(「呉王濞列伝・第四十六」『史記列伝3・P.235~237』岩波文庫 一九七五年)
一方、延暦寺と同盟した奈良の興福寺の文書。こうある。
「城濮三舎(せいぼくさんしゃ)の謀(はかりごと)」(「太平記3・第十七巻・八・P.149」岩波文庫 二〇一五年)
紀元前六三二年、晋が楚を破った「城濮(じょうぼく)の戦い」で晋軍がいったん三日分の行程(三舎)を退却して見せた謀略。
「晋軍は後退した。軍吏が、『国君(文公)が、臣下(子玉)を避けるとは恥辱です。それに楚軍は〔数ヶ月にわたる宋の包囲で〕老(おとろ)えているのに、なぜ後退するのですか』と言うと、子反は言った。『軍隊は、直なるものを壮(さか)んといい、曲なるものを老という。遠征期間の長さによるものではない。もし楚〔の成王〕の恩恵がなかったら、今日はないわけで、三舎(三日分の行程)後退して避けるのが(僖二十三B)それに報いる道である。恩恵に背(そむ)き約束を履行せずに、楚の敵(宋)を支えている現状は、我(こちら)が曲であり楚が直であり、楚の志気は充実して、老(おとろ)えているとは申せない。我(こちら)が後退し楚の側も引き揚げれば、これに越したことはない。もし楚が引き揚げねば、国君が退くのに臣下が押し入ることになり、曲は彼(あちら)にまわる』。晋軍は三舎後退した。楚の将士は停止しようとしたが、子玉は許さなかった。夏四月戊辰の日、晋候・宋公(成公)・斉の国帰父(こくきほ)と崔夭(さいよう)・秦の小子憖(ぎん=穆公の子)は城濮(じょうぼく)に駐屯した。楚軍が険(けわ)しい丘陵を背にして宿営したので、晋候は心配した。従卒たちの唱(うた)に耳を傾けると、
去年の畠(はたけ)は草莽々(ぼうぼう)でも そのまま今年の畠に鍬(くわ)入れよ
という。公が〔戦うべきか否か〕決しかねていると、子犯は、『戦うべきです。戦って勝てば、必ず諸侯はついて来ます。たとえ勝てなくても、〔晋国には〕山河の備えがあるから、何も心配はありません』。公が、『かつて楚から受けた恩恵はどうする』と言うと、欒枝(らんし)は、『漢水以北の姫姓諸国は、楚がすべて滅ぼしたのです。小さな恩恵にこだわって大きな恥辱をお忘れとは。戦った方がよろしい』」(「春秋左氏伝・上・僖公二十八年・P.287~288」岩波文庫 一九八八年)
それにしても足利尊氏・直義兄弟は散々な言われようだ。延暦寺側の文書には「辺都(へんと)の酋長(ゆうちょう)・豺狼(さいろう)の心・戎虜(じゅうりょ)を誘引」とある。辺鄙な蛮地(鎌倉)の酋長(しゅうちょう)に過ぎず、山犬や狼の貪欲さに凝り固まり、野蛮な未開人たちを誘い込んでいる連中だと。また興福寺側の文書には「遠蛮(えんばん)の亡慮(ぼうりょ)・東夷(とうい)の降卒(こうそつ)・鷹犬(ようけん)の才に非(あら)ず」とある。遠い蛮地に逃げた単なる虜囚であり、降伏もした東国の戎(未開人)でしかなく、そのうえ主君の手先として働く才能一つないと。さらに「天誅(てんちゅう)」とさえ書かれている。なかでも「鷹犬(ようけん)の才・爪牙(そうげ)の任」はただならぬ用語である。古代中国に陳琳(ちんりん)という詩人がいるが、こう書いている。
「相公實勤王
(書き下し)相公(しょうこう) 実(まこと)に王(おう)に勤(つと)め
(現代語訳)丞相(じょうしょう)はまことに朝命をかしこみ」(「文選・詩篇・6・巻三十・雑擬上・擬魏太子鄴中集詩八首幷序・陳琳・P.203~205」岩波文庫 二〇一九年)
「勤王(きんのう)」の二文字。とはいえ、文書にはもっと古くから見える。
「諸侯の支持を得るには、勤王(王事に奔走する)が何よりです」(「春秋左氏伝・上・僖公二十五年・P.271」岩波文庫 一九八八年)
尊王攘夷、勤王倒幕、八紘一宇、治安維持法、大東亜戦争、オキナワ、ヒロシマ、日米安保と、これらはどれも無関係ではない。今なお被害者・加害者の無限の系列が生々しく描き残されている。そしてそもそも「勤王・天誅」という言葉が「檄」として日本中で最有力な大寺院の一つから出されている点を忘れてはならないだろう。
さて次は、東寺に籠った尊氏が新田義貞の挑発に乗って一騎討ちに出ようと動きかけたところを上杉重能(うえすぎしげよし)が諌めて思い留まらせた場面。
「楚(そ)の項羽(こうう)が漢(かん)の高祖(こうそ)に向かひ、『独り身にして戦はん』と申ししをば、高祖あざ咲(わら)ひて、『汝(なんじ)を討つに、刑徒(けいと)を以てすべし』と欺(あざむ)き候はずや」(「太平記3・第十七巻・十・P.164」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・高祖本紀」のエピソードから。漢王(劉邦)は項羽の罪を十個としているが、総合すれば十個という意味であって一つずつ拾い上げているのは合計九個。
「項王は漢王と二人、単身で決戦しようと言った。漢王は項王の罪を責め、『わしは初めおまえと共に命(めい)を懐王に受けた時、懐王はさきに関を入って関中を定める者を王にしようと言ったのに、おまえは約束にそむいてわしを蜀漢(漢中)の王にした。これが罪悪の一つ。おまえは卿子冠軍(けいしかんぐん)を矯殺(きょうさつ=王命をいつわって殺す)し、自ら大将軍になった。これが罪悪の二つ。おまえは趙を援け、事が終わったなら還って懐王に報告すべきに、勝手に諸侯の兵を強制して函谷関に入った。これが罪悪の三。懐王は秦に入ったら暴掠(ぼうりゃく)するなと言ったのに、おまえは秦の宮室を焼き、始皇帝の冢(つか)を堀り財物を私した。これが罪悪の四。また秦の降王嬰(えい)を殺した。これが罪悪の五。いつわって秦の子弟二十万を新安(河南・新安)で穴埋めにし、その将を王とした。これが罪悪の六。おまえは自分の部下の諸将を上地の王とし、もとの主君をうつして臣下に叛逆を起こさせた。これが罪悪の七。おまえは義帝を逐い出して、自ら彭城を都とし、韓王の地を奪い、梁・楚の地をあわせて王となり、自ら広大な領地を取った。これが罪悪の八。おまえは人に命じてひそかに義帝を江南に殺させた。これが罪悪の九。また人臣として主君を殺し、降った者を殺し、政(まつりごと)をおこなって不公平、誓いを破って不信義なことは天下の容れない大逆無道。これが罪悪の十である。わしは義兵を率いて諸侯を従え、残賊を誅し、刑余の罪人におまえを撃たせているのであって、何を好んで自らおまえと決戦などしよう』と言った」(高祖本紀・第八」『史記1・本紀・P.263~264』ちくま学芸文庫 一九九五年)
ところで足利方討伐で一致した公家・武家を比叡山に集めた延暦寺。二十万人とされているが四ヶ月を過ぎる頃には兵糧が尽きてきた。そこでこうある。
「松蝑(しょうしょ)の飢ゑを嗜(たしな)むのみにあらず」(「太平記3・第十七巻・十一・P.169」岩波文庫 二〇一五年)
「春秋左氏伝・宣公十五年」の記事から。松蝑(しょうしょ)は蝗(いなご)のこと。
「冬、エン(蝗<いなご>の幼虫)が発生し、不作だった」(「春秋左氏伝・上・宣公十五年・P.470」岩波文庫 一九八八年)
そこへ佐々木道誉が登場する。いっときは九州まで押し寄せながら今度は逆に京・近江まで引き退いてきた新田勢。今度は目前に現われた近江守護職・道誉の不気味な動きに動揺を隠せなくなる。次の箇所は道誉が近江守護職を手に入れたのはどのようにしてか、という問いにかかわる。流布本などは「後醍醐帝をうまく騙して」手に入れたとしている。いかにも謀略家・佐々木道誉のイメージからすればそれはそれで面白い。だが実際はどうだったか。「将軍の御前(おんまえ)に参つて申」とある。懇切丁寧に説明した。それによるとずっと以前から近江守護職は佐々木家が務めていたのであり、何も後醍醐帝の時代になってどさくさ紛れに手に入れたものでも何でもないと。そう言われればもっともな話なのだ。
「佐々木佐渡判官入道道誉(ささきさどのほうがんにゅうどうどうよ)、将軍の御前(おんまえ)に参つて申されけるは、『江州(ごうしゅう)は、代々(だいだい)佐々木名字(みょうじ)の守護の国にて候ふ。小笠原上洛(しょうらく)して道を隔(へだ)て、不慮の両度に及んで合戦を致し候ふ。その功を以て、やがて国々の管領(かんれい)仕(つかまつ)り候ふ事、道誉面目(めんぼく)を失ふ処にて候ふ。江州の管領を給はり候はば、即ちかの国に下向(げこう)仕り、国中の朝敵を打ち平らげ、坂本(さかもと)の通(かよ)ひ路(じ)を差(さ)し塞(ふさ)ぎ、敵を兵粮攻(ひょうろうぜ)めにし候ふべし』と申されたりければ、将軍も、『しかるべし』とて、道誉が申(もう)し請(う)くる旨(むね)に任せて、当国の管領、并びに便宜(びんぎ)の闕所(けっしょ)数々所(すかしょ)、道誉が恩賞に行ひて、やがて江州へぞ遣(つか)はされける」(「太平記3・第十七巻・十一・P.171」岩波文庫 二〇一五年)
楠正成はもういない。新田義貞はどうするのか。どんな言葉が残されているだろうか。
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