白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・金ヶ崎城落城

2021年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
十月も二十日を過ぎれば越前の寒さは身に沁みるようになる。北国落ちしていく新田勢の中には凍死者も出はじめた。一宮(いちのみや)尊良親王を含む一行は旅の疲れをねぎらおうと金ヶ崎(かねがさき)の海上で管弦の宴を催す。金ヶ崎は今の福井県敦賀市。すると白魚が飛び跳ねて船の中に踊り込んだ。思いがけない「奇瑞(きずい)=吉兆」と見て皆は喜んだ。

「昔、周(しゅう)の武王(ぶおう)、八百の諸侯を率(そっ)して、殷(いん)の紂(ちゅう)を討たんために孟津(もうしん)を渡りし時、白魚(はくぎょ)飛んで武王の舟に入(い)れり。武王、これを取つて天に祭る」(「太平記3・第十七巻・二十三・P.206」岩波文庫 二〇一五年)

「史記・周本紀」に載るエピソード。

「武王が黄河を渡ると、中流で白魚が王の舟中に踊り入った。武王は俯(ふ)して、白魚を取って祭った」(「周本紀・第四」『史記1・本紀・P.66』ちくま学芸文庫 一九九五年)

管弦の催しの様子。

「翠帳紅閨(すいちょうこうけい)、万事の礼法異(こと)なりと雖(いえど)も、舟の中波の上、一時(いっし)の歓会これ同じ」(「太平記3・第十七巻・二十三・P.206」岩波文庫 二〇一五年)

遊女も参加して盛り上がる。「翠帳紅閨(すいちょうこうけい)」の一節は「和漢朗詠集」から。

「翠黛紅閨 万事之礼法雖異 舟中浪上 一生之歓会是同

(書き下し)翠帳紅閨(すいちやうこうけい) 万事(ばんし)の礼法(れいはふ)異(こと)なりといへども 舟の中(うち)浪(なみ)の上 一生(いつしやう)の歓会(くわんくわい)これ同じ」新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・遊女・七一九・大江以言・P.270」新潮社 一九八三年)

一方、京の花山院(かさんいん)の故宮に幽閉された後醍醐帝。物寂しさが募ってくる。花山院邸跡は今の京都御苑内。京都市上京区東洞院通と植木町通とが交差する辺り。当時の様子はこうある。

「遠寺(えんじ)の鐘に御枕を欹(そばだ)てては、楓橋(ふうきょう)の夜の泊(とま)りに御(おん)あはれを添へられ」(「太平記3・第十八巻・一・P.217」岩波文庫 二〇一五年)

(1)「遠寺(えんじ)の鐘に御枕を欹(そばだ)て」は「和漢朗詠集」に載る白居易の詩から。

「遺愛寺鐘敧枕聴 香鑪峯雪巻簾看

(書き下し)遺愛寺(ゐあいじ)の鐘(かね)は枕(まくら)を敧(そばた)てて聴く 香鑪峯(かうろほう)の雪は簾(すだれ)を撥(かか)げて看(み)る」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・山家・五五四・白居易・P.210」新潮社 一九八三年)

(2)「楓橋(ふうきょう)の夜の泊(とま)り」は張継「楓橋夜泊」から。

「月落烏啼霜満天 江楓漁火對愁眠 姑蘇城外寒山寺 夜半鐘聲到客船

(書き下し)月(つき)落(お)ち烏(からす)啼(な)いて霜(しも)天に満つ 江楓(こうふう) 漁火(ぎょか) 愁眠(しゅうみん)に対す 姑蘇城外(こそじょうがい) 寒山寺(かんざんじ) 夜半(やはん)の鐘声(しょうせい) 客船(かくせん)に到(いた)る」(張継「楓橋夜泊」『唐詩選・下・P.169~170』岩波文庫 二〇〇〇年)

かつて栄華を誇った後宮の女性たちはもう誰一人いない。帝は想う。

「寛平(かんぴょう)の昔の跡をも尋ね、花山(かさん)の近き例をも追はばや」(「太平記3・第十八巻・一・P.218」岩波文庫 二〇一五年)

文章はほぼ同じ。「平家物語」から。寛平は宇多(うだ)天皇の退位後の名称、花山は十九歳で出家した花山(かさん)院のこと。

「寛平(クワンペイ)の昔(ムカシ)をもとぶらひ花山(クハサン)の古(イニシヘ)をも尋て」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第三・城南之離宮・P.193」岩波書店 一九九一年)

ところが帝は花山の故宮脱出に成功。誰がどのように仕組んだのかはっきりわからないが、京の者らはこう評した。

「天に口なし。人を以て云はしむ」(「太平記3・第十八巻・四・P.229」岩波文庫 二〇一五年)

「平家物語」にある一節。当時流行したキャッチ・コピーらしい。

「天(テン)に口(クチ)なし、人(にん)をもッて言(い)はせよ」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第一・清水寺炎上・P.36~37」岩波書店 一九九一年)

当時のキャッチ・コピーといえば、奈良の興福寺と争っていた延暦寺の衆徒らが清水寺を炎上させた時、京の民衆は「観音火坑変成池(クワンヲンクワキヤウヘンジヤウチ)はいかに?」と皮肉ったらしい。「法華経」にこうあるからだが。

「假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑變成池

(書き下し)仮使(たとい)、害(そこの)う意(こころ)を興して 大いなる火坑(かきょう)に推し落さんも 彼の観音の力を念ぜば 火坑は変じて池と成らん」(「法華経・下・巻第八・観世音菩薩普門品・第二十五・P.262」岩波文庫 一九六七年)

ところで瓜生保(うりゅうたもつ)の弟に義鑑坊(ぎかんぼう)という禅僧がいた。金ヶ崎城籠城戦で討死。遺言を残していた。自分が死んだとしても他の兄弟全員が殉死してはいけない、残りの兄弟は生き延びて再起を期すべしという内容。こうある。

「昔、秦(しん)の世に、趙盾(ちょうとん)、智伯(ちはく)と云ひける者二人(ににん)、趙の国を争ふこと年久し」(「太平記3・第十八巻・四・P.240」岩波文庫 二〇一五年)

この「秦(しん)」は誤りで正しくは「晋(しん)」。滅亡寸前まで追い込まれた趙氏を、臣下の程嬰(ていえい)と公孫杵臼(こうそんしょきゅう)とが謀(はか)って存続させたエピソード。「史記・趙世家」にある。

「危機を脱してから、程嬰(ていえい)は公孫杵臼(こうそんしょきゅう)に言った。『こんどは見つからなかったが、後日また探しに来るにちがいない。どうしたらよいだろう』。公孫杵臼が言った。『孤児を守り立てるのと、死ぬのと、どちらがむずかしいでしょう』。程嬰が、『死ぬほうがたやすく、孤児を守り立てるほうがむずかしいにきまっている』と言うと、『趙子の先君はあなたを手厚く待遇されましたから、子(し)はなるべくむずかしいほうを引き受けてください。わたしはたやすいほうを引き受けます。まずわたしを死なせてください』と言い、二人相談のすえ、杵臼が他人の嬰児を手に入れて背負い、りっぱなねんねこを着せて、山中にかくれた。程嬰がまかり出て、いつわって将軍たちに言うよう、『わたしは腑甲斐(ふがい)ないことながら、趙氏の孤児を立てることができませんでした。誰かわたしに千金くれるなら、わたしは趙氏の孤児のありかを申しましょう』と。将軍たちはみな喜んでそれを承知し、兵を出して程嬰に随(したご)うて公孫杵臼を攻めた。杵臼もいつわって言った。『何という小人(しょうじん)だろう、程嬰という男は。かつて下宮の禍い(屠岸賈が趙氏を下宮で襲うた事件)のときに死ぬことができず、わしと相談して趙氏の孤児をかくしたのに、いままたわしを売った。たとい遺児を立てることができなかったにしろ、売るという法があるものか』。そして嬰児を抱き、『天よ、天よ、趙氏の孤児に何の罪がありましょう。なにとぞ生かしておいてください。杵臼を殺すだけでよいではありませんか』と叫んだ。将軍たちは許さないで、ついに杵臼と孤児と二人とも殺した。将軍たちは、趙氏の孤児もこれで間違いなく死んだと思い、みな喜んだ。しかし趙氏の真の孤児は生きており、程嬰はこれとともに山中にかくれた」(「趙世家・第十三」『史記3・世家・上・P.329~330』ちくま学芸文庫 一九九五年)

建武四年(一三三七年)。金ヶ崎城は前年十一月前後から度々激しい吹雪に見舞われていた。三月に落城。総勢八百十四人が自害。凄惨な最後を迎えた。

「月陰(くも)り雨暗き夜は、叫呼求食(きゅうこくじき)の声啾々(しゅうしゅう)」(「太平記3・第十八巻・九・P.253」岩波文庫 二〇一五年)

杜甫の詩が引用されている。

「君不見青海頭 古来白骨無人収 新鬼煩寃旧鬼哭 天陰雨湿声啾啾

(書き下し)君(きみ)見(み)ずや 青海(せいかい)の頭(ほとり) 古来(こらい) 白骨(はっこつ) 人(ひと)の収(おさ)むる無(な)く 新鬼(しんき)は煩寃(はんえん)し旧鬼(きゅうき)は哭(こく)し 天(てん)陰(くも)り雨(あめ)湿(しめ)るとき声(こえ)の啾啾(しゅうしゅう)たるを

(現代語訳)諸君は見ないか、あの青海のあたりでは、むかしから白骨をばとり片づけるものもなく、新しい亡霊どもはもだえうらみ、古い亡霊どもは泣き叫び、天の曇り雨の湿るときに、しくしくと泣き声をたてているのを」(「兵車行」『杜甫詩選・P.43~45』岩波文庫 一九九一年)

新田義顕(にったよしあき)と一宮(いちのみや)尊良親王の自害に続く三百八十人の割腹自殺については以前触れた。

「新田越後守義顕(にったえちごのかみよしあき)は、一宮(いちのみや)に向かひまゐらせて、『合戦今はこれまでと覚えて候ふ。われわれは、力なく弓箭(きゅうせん)の名を惜しむべき家にて候ふ間、自害仕(つかまつ)らんずるにて候ふ。上様(うえさま)の御事(おんこと)は、たとひ敵の中へ御出で候ふとも、失ひまゐらすまでの事はよも候はじ。ただかやうにて御座(ござ)候へとこそ存じ候へ』と申されければ、一宮、いつよりも御快(おんこころよ)げにうち笑(え)ませ給ひて、『主上(しゅしょう)、帝都へ還幸(かんこう)なりし時、われを以て元首(げんしゅ)とし、汝(なんじ)を以て股肱(ここう)の臣たらしむ。それ股肱なくして、元首保(たも)つ事を得(え)んや。されば、わが命を白刃(はくじん)の上に縮(しじ)めて、怨(あた)を黄泉(こうせん)の下に酬(むく)はんと思ふなり。そもそも自害をばいかやうにしたるがよきものぞ』と仰せられければ、義顕、感涙(かんるい)を押さへて、『かやうに仕るものにて候ふ』と申しもはてず、左の脇に刀を突き立て、右の小脇のあばら骨三枚懸けて掻き破り、その刀を抜いて宮の御前に差し置き、うつ伏しになつて死ににけり。

一宮、やがてその刀を召されて(御覧ずるに、柄口(つかぐち)に血余つて滑りければ、御衣(ぎょい)の袖を以て、刀の)柄(つか)をきりきりと押し巻かせ給ひて、雪の如くなる御膚(おんはだえ)を顕(あらわ)され、御心(おんむな)もとの辺に突き立てて、義顕が枕の上に臥させ給ふ。

頭大夫行房(とうのだいぶゆきふさ)、武田五郎(たけだのごろう)、里見大炊助時義(さとみおおいのすけときよし)、気比弥三郎大夫氏治(けひのやさぶろうたゆううじはる)、太田帥法眼賢覚(おおたそつのほうげんけんがく)、御前に候ひけるが、『いざさらば、宮の御供仕らん』とて、前にありける瓦気(かわらけ)に刀の刃をかき合はせ、同音(どうおん)に念仏申して、一度に皆腹を切る。これを見て、庭上(ていしょう)に並み居(い)たる兵三百八十人、互ひに差し違へ差し違へ、上が上に重(かさ)なり臥(ふ)す」(「太平記3・第十八巻・九・P.248~250」岩波文庫 二〇一五年)

このシーンもまた明治維新前後の錦絵・無惨絵を思わせる婆娑羅(ばさら)的な描写である。とともに、世阿弥のいう「序破急」の「急」並びにその余韻を響かせてはいないだろうか。

「急と申(まうす)は、揚句(あげく)の義なり。その日の名殘なれば、限(かぎ)りの風(ふう)なり。破と申(まうす)は、序を破(やぶ)りて、細(こま)やけて、色々を盡(つ)くす姿なり。急と申(まうす)は、又その破を盡(つ)くす所の、名殘(なごり)の一體(いつてい)也。さる程(ほど)に、急(きう)は、揉(も)み寄(よ)せて、亂舞(らんぶ)・はたらき、目を驚(おどろ)かす気色(けしき)なり」(日本古典文学大系「花鏡」『歌論集/能楽論集・P.417~418」岩波書店 一六六一年)

「天人(てんにん)なほ五衰(ごすい)の日に逢(あ)へり」と大江朝綱はいっている。

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