白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・高師直/血と花の管弦

2021年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム
暦応二年(一三三九年)、八宮(はちのみや)義良(のりよし)親王が吉野で即位。御村上(ごむらかみ)帝となる。だがまだ幼少のため実質的に政務をとりしきったのは北畠親房(きたばたけちかふさ)・洞院実世(とういんさねよ)・四条隆資(しじょうたかすけ)。この時期、北畠親房は関東から東北の政務に携わっていたので重鎮とはいえども奈良・吉野の山中で総指揮に当たることは無理難題が多過ぎたと思われる。

「百官冢宰(ちょうさい)に統(す)べて、三年政(まつりごと)を聞こし召されぬ事」(「太平記3・第二十一巻・七・P.426」岩波文庫 二〇一五年)

「論語」からの引用。しかし孔子が言っているのは喪の期間の通例についてであり、帝が幼少だからといった意味ではない。

「子張曰、書云、高宗諒陰三年不言、何謂也、子曰、何必高宗、古之人皆然、君薨百官総己以聴於冢宰三年

(書き下し)子張曰わく、書に云(い)う、高宗(こうそう)、諒陰(りょうあん)三年言(ものい)わずとは、何の謂(いい)ぞや。子曰わく、何ぞ必ずしも高宗のみならん。古(いにしえ)の人は皆然(しか)り、君薨(こう)ずれば、百官、己(おの)れを総(す)べて以て冢宰(ちょうさい)に聴(き)くこと三年なり。

(現代語訳)子張がおたずねした。『<殷(いん)高宗は三年の喪(も)に服している間、一度もものをいわなかった>という<書経>の文句は、どういうことでしょうか』。先生がいわれた。『なにも高宗だけにかぎらない。昔の人は皆そんなふうであった。君主がなくなると、官吏が残らず自分の職務をとりまとめ、総理大臣の指揮を仰ぐこと三年間にわたったのだ』」(「論語・第七巻・第十四・憲問篇・四二・P.422」中公文庫 一九七三年)

一方、高師直(こうのもろなお)は同じ足利方ではあるにせよ、むしろそのぶん顔を合わせる機会が多かったからだろう、塩治高貞(えんやたかさだ)の妻に一目惚れしてしまい、その妻を手に入れるため塩治高貞を自害へ追い込んだ。どんな手段を取るべきか。家臣の薬師寺公義(やくしじきんよし)が師直に近づき、手紙のやりとりをしては、と勧めてこういう。

「人皆、岩木(いわき)ならねば、詩歌(しいか)になびかぬ者や候べき」(「太平記3・第二十一巻・八・P.443」岩波文庫 二〇一五年)

白居易「李夫人」からの引用。

「人非木石皆有情

(書き下し)人(ひと)は木石(ぼくせき)に非(あら)ざれば皆(み)な情(じょう)有(あ)り

(現代語訳)木石ならぬ人間の身、誰しも情愛はあります」(「李夫人」『白楽天詩選・上・P.187~189』岩波文庫 二〇一一年)

さらに「詩経」参照。

「我心匪石 不可轉也

(書き下し)我(わ)が心(こころ)は石(いし)に匪(あら)ねば 転(ころば)す可からざる也(なり)

(現代語訳)わたしの心は石でないから、ころがして変えさせることはできない」(「邶風・柏舟」『中國詩人選集2・詩経国風・上・P.103~104』岩波書店 一九五八年)

しかしまた塩治高貞の妻は史上稀にみる美人だった。その点で事態の成り行きは「春秋左氏伝」のエピソードを含むと考えられる。

「飛び切りの美人というのは、人の心を惑わすもの。徳義のあつい人〔が妻とするの〕でもない限り、きっと禍がおこります」(「春秋左氏伝・下・昭公二十八年・P.287」岩波文庫 一九八九年)

その美貌について王昭君とその故郷の柳の風情が引き合いに出される。

「巫女廟(ふじょびょう)の花は夢の中(うち)に残り、昭君村(しょうくんそん)の柳は雨の外(ほか)に疎(おろそ)かなる心地して」(「太平記3・第二十一巻・八・P.446」岩波文庫 二〇一五年)

この記述は白居易の詩から「和漢朗詠集」に採られた箇所。

「巫女廟花紅似粉 昭君村柳翠於眉

(書き下し)巫女廟(ぶぢよべう)の花は紅(くれなゐ)にして粉(ふん)に似たり 昭君村(せうくんそん)の柳は眉(まゆ)よりも翠(あを)し」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻上・柳・一〇四・白居易・P.47」新潮社 一九八三年)

結果的に塩治高貞は出雲国(いずものくに)まで落ち延びて自害して果てる。そこへ行き着くまで高貞の家来たちはどんどん殺され或いは自害していくのだが、「太平記」の語り口調は余りにも凄絶な猟奇的描写で有名。とはいえ、焦点を当てたいのはそれら乱闘シーンではない。高師直が病気で公務を休んでいる時、こうある。

「高武蔵守、ちと違例(いれい)の事あつて、且(しばら)く出仕(しゅっし)もせで居たりける間、恩顧(おんこ)の者ども、毎日、酒肴(さけさかな)を調(ととの)へて、道々の遊び者どもを召し集めて、その芸能を尽(つ)くさせて、病中の気をぞ慰(なぐさ)めける」(「太平記3・第二十一巻・八・P.433」岩波文庫 二〇一五年)

ここで「道々の遊び者ども」とあるのは専門的芸能者のこと。佐々木道誉が主催した大原野花会の条に「道々(みちみち)の物の上手ども」とある。

「道誉、かねては必ず予参(よさん)すべしと領状(りょうじょう)したりけるが、わざと引(ひ)き違(ちが)へて、京中の道々(みちみち)の物の上手ども独(ひと)りも残さず皆引き具して、大原野(おおはらの)の花の下(もと)に宴(えん)を儲(もう)け、席を粧(かざ)つて、世に類(たぐ)ひなき遊びをぞしたりける」(「太平記6・第三十九・六・P.162」岩波文庫 二〇一六年)

高師直が伏せっている時、その鬱々たる心情を慰めたのもまた音楽だった。

「覚都検校(かくいちけんぎょう)と真城(しんじょう)と、連(つ)れ平家をうたひける」(「太平記3・第二十一巻・八・P.433~434」岩波文庫 二〇一五年)

「連(つ)れ平家」というのは二人の琵琶法師が相互に掛け合いながら「平家物語」を演奏するスタイル。山水河原ノ物がせっせと作庭に打ち込んでいた同じ時期に琵琶法師らはこれまたせっせと平家語りに打ち込んでいた。周囲は合戦の巷であったにせよ、彼らには彼らの生涯があったのである。

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