後醍醐帝勝利の功労者の一人だった赤松円心。だが円心だけがなぜか論功行賞とはほど遠い立場に追いやられた。中傷や讒言が飛び交った最中なのでそうなったのかもしれないが円心にすれば足利尊氏や楠正成とまではいかなくても名和長年と同等の取り扱いがあってもおかしくなかった。九州まで落ち延びた尊氏がふたたび攻め上ってくるのに合わせて円心は新田に答える。その嘲りにも似た返事を見て痛いところを突かれた新田義貞。こう言う。
「王事もろい事なし。恨みを以て朝敵となるとも、天を戴(いただ)いて天を欺(あざむ)かんや」(「太平記3・第十六巻・二・P.37」岩波文庫 二〇一五年)
「詩経・鴇羽」からの一部抜粋。皇帝がすべての事態に目配りしていないということなどありえない、間違いなどありえない、にもかかわらず宮方を裏切るつもりなのかと言うわけだが。もともとは次の詩。「王事靡盬」の語句だけが抜き出され流通し肥大した結果、結果がさらなる原因となりそもそもの意味がずれを起こしていく典型例。
「肅肅鴇羽 集于苞栩 王事靡盬 不能蓺稷黍 父母何怙 悠悠蒼天 曷其有所
(書き下し)粛粛(しゅくしゅく)たる鴇(ほう)の羽(はね)は 苞(しげ)れる栩(ほほそ)に集(とど)まる 王事(おうじ)は盬(もろ)きこと靡(な)く 稷(しょく)と黍(しょ)を蓺(う)うる能(あた)わず 父母(ふぼ)は何(なに)をか怙(たの)まん 悠悠(ゆうゆう)たる蒼天(そうてん)よ 曷(いつ)か其(そ)れ所(ところ)有(あ)らん
(現代語訳)しゅうしゅうと野雁のはばたきが、ほほその林にとまる〔おかしや野雁、おかしなおれ〕。天子さまの御用におめこぼしはなく、〔この戦争にかり出されたおかげで〕小きびもきびも植えられはせぬ。〔ふるさと〕の父母は何をたよりに生きていることか。はるかなる青空よ、いつになったらちゃんとなる」(「唐風・鴇羽」『中國詩人選集2・詩経国風・下・P.167~168』岩波書店 一九五八年)
次に山陽道の難所・船坂山(ふなさかやま)。その様相を述べた部分にこうある。
「一夫(いっぷ)怒りて関(かん)に臨(のぞ)まば、万侶(ばんりょ)通ることを得難(えがた)し」(「太平記3・第十六巻・三・P.39」岩波文庫 二〇一五年)
杜甫の詩から引かれたもの。
「一夫怒臨関 百万未可傍
(書き下し)一夫(いっぷ) 怒(いか)って関(かん)に臨(のぞ)めば 百万(ひゃくまん) 未(いま)だ傍(そ)う可(べ)からず
(現代語訳)一人の男が怒ってこの要塞を前にして立てば、百万の敵も近づくことはできないであろう」(「剣門」『杜甫詩選・P.242~243』岩波文庫 一九九一年)
また、赤松円心の三男・赤松則裕(そくゆう)が尊氏のもとを訪れ、難所の続く山陽道を一気に落としていくよう進言する場面。
「趙王(ちょうおう)城を秦(しん)の兵に囲まれて、楚(そ)の項羽(こうう)が船を沈め釜甑(ふそう)を焼いて、戦ひ負けば、士卒一人も生きて帰らじとせし軍(いくさ)に候はずや」(「太平記3・第十六巻・四・P.50」岩波文庫 二〇一五年)
(1)「趙王(ちょうおう)城を秦(しん)の兵に囲まれて」、しかし魯仲連(ろちゅうれん)の策によって秦の包囲網を退けたエピソードを例に上げる。
「『秦はいま万乗(ばんじょう)の国であります。梁もやはり万乗の国です。どちらも万乗の国をしめ、いずれも王の号を称しています。相手がただ一度の合戦に勝ったと見てとるや、追従(ついしょう)して帝の号を与えようとは、三晋の国々の大臣は、鄙や魯の下男下女にもおとることになるではございませんか。それに、ほかに策がなくて秦が帝になったとしますと、まず諸侯の大臣をとりかえますでしょう。秦は自分の考えで愚かと思うのをやめさせ、賢いと思うのをすすめ、にくいと思うのをやめて、かわいいと思うのを昇進させます。それからまた自分のむすめやこしもとどもを諸侯のきさきや夫人にして、梁(りょう)の宮中にも住まわせましょう。梁王もおちついてはいられますまい。そして将軍はいったい何によってもとのようなご寵愛をかためるおつもりですか』。それをきいて新垣衍(しんえんえん)は立ち上り再拝して感謝した、『先生はなみの者と思うていたが、今はじめて天下の士だとわかった。わしはここを出よう。もう二度と秦を帝にすると口に出すまい』。秦の大将がこの由を聞くと、わざわざ軍を五十里後退させたのであった。そこへ折よく魏の公子無忌(ぶき)が晋鄙(しんぴ)の軍の指揮権をうばって趙(ちょう)を救い秦の軍を攻撃し、かくて秦の軍は引きあげた」(「魯仲連・鄒陽列伝・第二十三」『史記列伝2・P.85』岩波文庫 一九七五年)
(2)「楚(そ)の項羽(こうう)が船を沈め釜甑(ふそう)を焼いて」は、自ら退路を断ち奮戦させて勝利した事例。「史記・項羽本紀」から引かれたエピソード。
「項羽は全軍を率いて河を渡り、船をみな沈め、釜や甑(こしき=栗を炊くとき用いる器)を破り、屋舎を焼き、三日間の糧を携え、士卒の必死を期して、少なくも生還の心のないことを示した。このため鉅鹿(きょろく)に着くとたちまち王離を包囲し、秦軍(章邯の軍)とあって九戦し、その甬道(ようどう)を絶って大いにこれを破った」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.204』ちくま学芸文庫 一九九五年)
じわじわ攻め上ってくる尊氏勢。新田義貞も必死で声を張り上げる。
「韓信(かんしん)が水を背にして陣を張れるはこれなり」(「太平記3・第十六巻・六・P.60」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・淮陰候列伝」の反復。
「韓信はそこで一万人の兵を先行させ、〔井陘の口を〕出ると、河を背にして陣がまえさせた。趙軍は遥かにそれを眺めて、大笑いした。あけがた、韓信は大将の旗じるしと陣太鼓をうちたて、進軍の太鼓を鳴らしながら、井陘の出口を出た。趙はとりでを開いて出撃し、しばらくの間、大激戦が展開された。このとき韓信と張耳は負けたふりをして、太鼓や旗さしものを投げ捨て、河岸の陣へと逃走した。河岸の軍は、陣を開いて受けいれた。ふたたび激しい戦闘となった。趙の軍ははたしてとりでをがらあきにして、漢の太鼓や旗さしものを奪いとろうと競争し、韓信と張耳の軍を追って来た。韓信と張耳が河岸の軍に入ったあと、その軍兵はみな必死になって戦ったので、うち破ることができなかった。〔そのあいだに〕韓信が出しておいた別働隊二千騎は、趙がとりでをがらあきにして戦利品を追い求めるのをうかがっていたから、いまこそと趙のとりでの中へかけ入り、趙の旗さしものを全部ぬきとり、漢の赤旗二千本をうち立てた。趙軍は勝とうとして勝てず、韓信らをとらえることもできず、とりでにひき返そうとしたとき、とりでの上すべて漢の赤旗がひらめいて、それを見るや仰天して漢はもはや趙の王や将軍たちを全部とらえたものと思いこんだ。兵はかくて混乱し逃走しだした。趙の将軍がかれらを斬ったが、くいとめることはできなかった。この機をすかさず、漢軍は前後からはさみうちし、趙の軍をさんざんにうち破って、捕虜とし、成安君(陳余)を泜水(ちすい)の側で斬り殺し、趙王歇(けつ)を捕虜とした」(「淮陰候列伝・第三十二」『史記列伝3・P.16~17』岩波文庫 一九七五年)
しかし新田勢は今の兵庫県神戸市付近まで退却せざるを得なくなる。さらに楠正成(まさしげ)はすでに討死覚悟。「太平記」は正成を百里奚(ひゃくりけい)に喩える。
「昔の百里奚(ひゃくりけい)は、穆公(ぼくこう)晋(しん)の国を伐(う)ちし時、軍(いくさ)の利なからん事を鑑(かんが)みて、その将孟明視(もうめいし)に向かつて、今を限りの別れを悲しみき」(「太平記3・第十六巻・七・P.64~65」岩波文庫 二〇一五年)
百里奚の価値は「史記・秦本紀」にこう記されている。
「繆公は百里奚の賢明なのを聞き、重く買いとろうと思ったが、楚人が引き渡さないかもしれないと、人を楚にやって、『貴地にわが侍臣の百里奚がいるが羖羊(めひつじ)の皮五枚でつぐないたい』と言わした。楚人はついに許して百里奚を与えた」(「秦本紀・第五」『史記1・本紀・P.107』ちくま学芸文庫 一九九五年)
正成は子の正行(まさつら)に遺訓し今生の別れとなる。「史記・秦本紀」では百里奚が老いのため戦場に出られず子の孟明視(もうめいし)を思い慟哭する場面にこうある。
「繆公は、『おまえらは、わからないのだ。わしはもう決めている』と言い、ついに兵を出し、百里奚の子の孟明視(もうめいし)、蹇叔の子の西乞術(せいきつじゅつ)および白乙兵(はくおつへい)を将とした。出発に当たって、百里奚と蹇叔の二人は哭(な)いた。繆公が聞いて、『わしが出兵しようとすると、おまえらが哭いてわが軍を沮(はば)むのはどうしてか』と言った。二老が言った。『わたくしらは年が老い、還るころには死んで、もう会えないのじゃないかと哭けてくるのです』」(「秦本紀・第五」『史記1・本紀・P.113』ちくま学芸文庫 一九九五年)
新田義貞と楠正成との会話。正成はいう。
「衆愚(しゅぐ)の愕々(がくがく)たるは、一賢(いっけん)の喉(のんど)には如(し)かず」(「太平記3・第十六巻・八・P.66」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・商君列伝」で趙良が持ち出した趙簡子の言葉。
「千人の諾諾(だくだく)は一士の諤諤(がくがく)に如かず」(「商君列伝 第八」『史記列伝1・P.111』岩波文庫 一九七五年)
「史記・趙世家」にこうある。
「趙簡子の家臣に周舎(しゅうしゃ)という者がおり、直諫を好んだ。周舎の死後、簡子は朝政を聴くたびに、うち沈んでいた。ある大夫が不行届きを詫びると、簡子は言った。『大夫に罪があるわけじゃないが、<千羊の皮も、一狐の腋(腋の毛皮)に如かず>とか、大夫たちが朝見するとき、かしこまってただ<唯(はい)、唯(はい)>と返事するだけで、周舎のような諤々(がくがく)の論が聞けなくなったのが、わしにはさびしいのだ』」(「趙世家・第十三」『史記3・世家・上・P.340』ちくま学芸文庫 一九九五年)
次に孔子の言葉が出てくる。
「暴虎憑河(ぼうこひょうか)して、死すとも悔いなからん者には与(くみ)せじ」(「太平記3・第十六巻・八・P.66」岩波文庫 二〇一五年)
「論語」から。
「暴虎馮河、死而無悔者、吾不与也、必也臨事而懼、好謀而成者也
(書き下し)暴虎馮河(ぼうこひょうか)し、死して悔(く)いなき者は、吾与(とも)にせざるなり。必ずや事に臨(のぞ)みて懼(おそ)れ、謀(ぼう)を好みて成さん者なり。
(現代語訳)虎(とら)を手討ちにし、河をかちわりして、死んでも後悔しない、そんなものとはいっしょに仕事はできないよ。事にあたって慎重にかまえ、よく計画をたてて成功するものといっしょにやりたいのだ」(「論語・第四巻・第七・述而篇・十・P.185」中公文庫 一九七三年)
さらにこうも。
「死を善道(ぜんどう)に守り」(「太平記3・第十六巻・十・P.82」岩波文庫 二〇一五年)
「論語」に載る。だが「守死善道」については次のように古注と現代の通例とは異なる。「太平記」では古注の意味で用いられた。古注では「死をもって道を守る」だが、もしそれなら「死守善道」とあるはず。しかもそもそも漢語である。もっとも、古注の側がわかりやすいと言えはする。けれども古注を取るとその前の「篤信好学」との整合性が破綻してしまう。だから問題はなぜ「太平記」では敢えて古注の側が取られていたのかということになるだろう。
「子曰、篤信好学、守死善道、危邦不入、乱邦不居、天下有道則見、無道則隠、邦有道、貧且賤焉恥也、邦無道、富且貴焉恥也
(書き下し)子曰わく、篤(あつ)く信じて学を好み、死にいたるまで守りて道を善(よ)くす。危邦(きほう)には入らず、乱邦(らんぽう)には居らず。天下道あるときは則(すなわ)ち見(あら)われ、道なきときは則ち隠る。邦(くに)に道あるとき、貧しく且(か)つ賤(いや)しきは恥なり。邦に道なきとき、富み且つ貴きは恥なり。
(現代語訳)先生がいわれた。『かたい信念をもって学問を愛し、死にいたるまで守りつづけて道をほめたたえる。危機にのぞんだ国家に入国せず、内乱のある国家には長く滞在しない。天下に道義が行われる太平の世には、表にたって活動するが、道義が失われる乱世には裏に隠れる。道義が行なわれる国家において、貧乏で無名の生活をおくるのは不名誉なことである。道義が行なわれない国家において、財産をもち高位に上るのは不名誉なことである』」(「論語・第四巻・第八・泰伯篇・十三・P.223~224」中公文庫 一九七三年)
政治家にとって自分の言葉は自分の命と等価でなければならなかった時代のエピソードだが、今やもはやまったく違ってしまったというわけでもないのだ。
BGM1
BGM2
BGM3
「王事もろい事なし。恨みを以て朝敵となるとも、天を戴(いただ)いて天を欺(あざむ)かんや」(「太平記3・第十六巻・二・P.37」岩波文庫 二〇一五年)
「詩経・鴇羽」からの一部抜粋。皇帝がすべての事態に目配りしていないということなどありえない、間違いなどありえない、にもかかわらず宮方を裏切るつもりなのかと言うわけだが。もともとは次の詩。「王事靡盬」の語句だけが抜き出され流通し肥大した結果、結果がさらなる原因となりそもそもの意味がずれを起こしていく典型例。
「肅肅鴇羽 集于苞栩 王事靡盬 不能蓺稷黍 父母何怙 悠悠蒼天 曷其有所
(書き下し)粛粛(しゅくしゅく)たる鴇(ほう)の羽(はね)は 苞(しげ)れる栩(ほほそ)に集(とど)まる 王事(おうじ)は盬(もろ)きこと靡(な)く 稷(しょく)と黍(しょ)を蓺(う)うる能(あた)わず 父母(ふぼ)は何(なに)をか怙(たの)まん 悠悠(ゆうゆう)たる蒼天(そうてん)よ 曷(いつ)か其(そ)れ所(ところ)有(あ)らん
(現代語訳)しゅうしゅうと野雁のはばたきが、ほほその林にとまる〔おかしや野雁、おかしなおれ〕。天子さまの御用におめこぼしはなく、〔この戦争にかり出されたおかげで〕小きびもきびも植えられはせぬ。〔ふるさと〕の父母は何をたよりに生きていることか。はるかなる青空よ、いつになったらちゃんとなる」(「唐風・鴇羽」『中國詩人選集2・詩経国風・下・P.167~168』岩波書店 一九五八年)
次に山陽道の難所・船坂山(ふなさかやま)。その様相を述べた部分にこうある。
「一夫(いっぷ)怒りて関(かん)に臨(のぞ)まば、万侶(ばんりょ)通ることを得難(えがた)し」(「太平記3・第十六巻・三・P.39」岩波文庫 二〇一五年)
杜甫の詩から引かれたもの。
「一夫怒臨関 百万未可傍
(書き下し)一夫(いっぷ) 怒(いか)って関(かん)に臨(のぞ)めば 百万(ひゃくまん) 未(いま)だ傍(そ)う可(べ)からず
(現代語訳)一人の男が怒ってこの要塞を前にして立てば、百万の敵も近づくことはできないであろう」(「剣門」『杜甫詩選・P.242~243』岩波文庫 一九九一年)
また、赤松円心の三男・赤松則裕(そくゆう)が尊氏のもとを訪れ、難所の続く山陽道を一気に落としていくよう進言する場面。
「趙王(ちょうおう)城を秦(しん)の兵に囲まれて、楚(そ)の項羽(こうう)が船を沈め釜甑(ふそう)を焼いて、戦ひ負けば、士卒一人も生きて帰らじとせし軍(いくさ)に候はずや」(「太平記3・第十六巻・四・P.50」岩波文庫 二〇一五年)
(1)「趙王(ちょうおう)城を秦(しん)の兵に囲まれて」、しかし魯仲連(ろちゅうれん)の策によって秦の包囲網を退けたエピソードを例に上げる。
「『秦はいま万乗(ばんじょう)の国であります。梁もやはり万乗の国です。どちらも万乗の国をしめ、いずれも王の号を称しています。相手がただ一度の合戦に勝ったと見てとるや、追従(ついしょう)して帝の号を与えようとは、三晋の国々の大臣は、鄙や魯の下男下女にもおとることになるではございませんか。それに、ほかに策がなくて秦が帝になったとしますと、まず諸侯の大臣をとりかえますでしょう。秦は自分の考えで愚かと思うのをやめさせ、賢いと思うのをすすめ、にくいと思うのをやめて、かわいいと思うのを昇進させます。それからまた自分のむすめやこしもとどもを諸侯のきさきや夫人にして、梁(りょう)の宮中にも住まわせましょう。梁王もおちついてはいられますまい。そして将軍はいったい何によってもとのようなご寵愛をかためるおつもりですか』。それをきいて新垣衍(しんえんえん)は立ち上り再拝して感謝した、『先生はなみの者と思うていたが、今はじめて天下の士だとわかった。わしはここを出よう。もう二度と秦を帝にすると口に出すまい』。秦の大将がこの由を聞くと、わざわざ軍を五十里後退させたのであった。そこへ折よく魏の公子無忌(ぶき)が晋鄙(しんぴ)の軍の指揮権をうばって趙(ちょう)を救い秦の軍を攻撃し、かくて秦の軍は引きあげた」(「魯仲連・鄒陽列伝・第二十三」『史記列伝2・P.85』岩波文庫 一九七五年)
(2)「楚(そ)の項羽(こうう)が船を沈め釜甑(ふそう)を焼いて」は、自ら退路を断ち奮戦させて勝利した事例。「史記・項羽本紀」から引かれたエピソード。
「項羽は全軍を率いて河を渡り、船をみな沈め、釜や甑(こしき=栗を炊くとき用いる器)を破り、屋舎を焼き、三日間の糧を携え、士卒の必死を期して、少なくも生還の心のないことを示した。このため鉅鹿(きょろく)に着くとたちまち王離を包囲し、秦軍(章邯の軍)とあって九戦し、その甬道(ようどう)を絶って大いにこれを破った」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.204』ちくま学芸文庫 一九九五年)
じわじわ攻め上ってくる尊氏勢。新田義貞も必死で声を張り上げる。
「韓信(かんしん)が水を背にして陣を張れるはこれなり」(「太平記3・第十六巻・六・P.60」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・淮陰候列伝」の反復。
「韓信はそこで一万人の兵を先行させ、〔井陘の口を〕出ると、河を背にして陣がまえさせた。趙軍は遥かにそれを眺めて、大笑いした。あけがた、韓信は大将の旗じるしと陣太鼓をうちたて、進軍の太鼓を鳴らしながら、井陘の出口を出た。趙はとりでを開いて出撃し、しばらくの間、大激戦が展開された。このとき韓信と張耳は負けたふりをして、太鼓や旗さしものを投げ捨て、河岸の陣へと逃走した。河岸の軍は、陣を開いて受けいれた。ふたたび激しい戦闘となった。趙の軍ははたしてとりでをがらあきにして、漢の太鼓や旗さしものを奪いとろうと競争し、韓信と張耳の軍を追って来た。韓信と張耳が河岸の軍に入ったあと、その軍兵はみな必死になって戦ったので、うち破ることができなかった。〔そのあいだに〕韓信が出しておいた別働隊二千騎は、趙がとりでをがらあきにして戦利品を追い求めるのをうかがっていたから、いまこそと趙のとりでの中へかけ入り、趙の旗さしものを全部ぬきとり、漢の赤旗二千本をうち立てた。趙軍は勝とうとして勝てず、韓信らをとらえることもできず、とりでにひき返そうとしたとき、とりでの上すべて漢の赤旗がひらめいて、それを見るや仰天して漢はもはや趙の王や将軍たちを全部とらえたものと思いこんだ。兵はかくて混乱し逃走しだした。趙の将軍がかれらを斬ったが、くいとめることはできなかった。この機をすかさず、漢軍は前後からはさみうちし、趙の軍をさんざんにうち破って、捕虜とし、成安君(陳余)を泜水(ちすい)の側で斬り殺し、趙王歇(けつ)を捕虜とした」(「淮陰候列伝・第三十二」『史記列伝3・P.16~17』岩波文庫 一九七五年)
しかし新田勢は今の兵庫県神戸市付近まで退却せざるを得なくなる。さらに楠正成(まさしげ)はすでに討死覚悟。「太平記」は正成を百里奚(ひゃくりけい)に喩える。
「昔の百里奚(ひゃくりけい)は、穆公(ぼくこう)晋(しん)の国を伐(う)ちし時、軍(いくさ)の利なからん事を鑑(かんが)みて、その将孟明視(もうめいし)に向かつて、今を限りの別れを悲しみき」(「太平記3・第十六巻・七・P.64~65」岩波文庫 二〇一五年)
百里奚の価値は「史記・秦本紀」にこう記されている。
「繆公は百里奚の賢明なのを聞き、重く買いとろうと思ったが、楚人が引き渡さないかもしれないと、人を楚にやって、『貴地にわが侍臣の百里奚がいるが羖羊(めひつじ)の皮五枚でつぐないたい』と言わした。楚人はついに許して百里奚を与えた」(「秦本紀・第五」『史記1・本紀・P.107』ちくま学芸文庫 一九九五年)
正成は子の正行(まさつら)に遺訓し今生の別れとなる。「史記・秦本紀」では百里奚が老いのため戦場に出られず子の孟明視(もうめいし)を思い慟哭する場面にこうある。
「繆公は、『おまえらは、わからないのだ。わしはもう決めている』と言い、ついに兵を出し、百里奚の子の孟明視(もうめいし)、蹇叔の子の西乞術(せいきつじゅつ)および白乙兵(はくおつへい)を将とした。出発に当たって、百里奚と蹇叔の二人は哭(な)いた。繆公が聞いて、『わしが出兵しようとすると、おまえらが哭いてわが軍を沮(はば)むのはどうしてか』と言った。二老が言った。『わたくしらは年が老い、還るころには死んで、もう会えないのじゃないかと哭けてくるのです』」(「秦本紀・第五」『史記1・本紀・P.113』ちくま学芸文庫 一九九五年)
新田義貞と楠正成との会話。正成はいう。
「衆愚(しゅぐ)の愕々(がくがく)たるは、一賢(いっけん)の喉(のんど)には如(し)かず」(「太平記3・第十六巻・八・P.66」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・商君列伝」で趙良が持ち出した趙簡子の言葉。
「千人の諾諾(だくだく)は一士の諤諤(がくがく)に如かず」(「商君列伝 第八」『史記列伝1・P.111』岩波文庫 一九七五年)
「史記・趙世家」にこうある。
「趙簡子の家臣に周舎(しゅうしゃ)という者がおり、直諫を好んだ。周舎の死後、簡子は朝政を聴くたびに、うち沈んでいた。ある大夫が不行届きを詫びると、簡子は言った。『大夫に罪があるわけじゃないが、<千羊の皮も、一狐の腋(腋の毛皮)に如かず>とか、大夫たちが朝見するとき、かしこまってただ<唯(はい)、唯(はい)>と返事するだけで、周舎のような諤々(がくがく)の論が聞けなくなったのが、わしにはさびしいのだ』」(「趙世家・第十三」『史記3・世家・上・P.340』ちくま学芸文庫 一九九五年)
次に孔子の言葉が出てくる。
「暴虎憑河(ぼうこひょうか)して、死すとも悔いなからん者には与(くみ)せじ」(「太平記3・第十六巻・八・P.66」岩波文庫 二〇一五年)
「論語」から。
「暴虎馮河、死而無悔者、吾不与也、必也臨事而懼、好謀而成者也
(書き下し)暴虎馮河(ぼうこひょうか)し、死して悔(く)いなき者は、吾与(とも)にせざるなり。必ずや事に臨(のぞ)みて懼(おそ)れ、謀(ぼう)を好みて成さん者なり。
(現代語訳)虎(とら)を手討ちにし、河をかちわりして、死んでも後悔しない、そんなものとはいっしょに仕事はできないよ。事にあたって慎重にかまえ、よく計画をたてて成功するものといっしょにやりたいのだ」(「論語・第四巻・第七・述而篇・十・P.185」中公文庫 一九七三年)
さらにこうも。
「死を善道(ぜんどう)に守り」(「太平記3・第十六巻・十・P.82」岩波文庫 二〇一五年)
「論語」に載る。だが「守死善道」については次のように古注と現代の通例とは異なる。「太平記」では古注の意味で用いられた。古注では「死をもって道を守る」だが、もしそれなら「死守善道」とあるはず。しかもそもそも漢語である。もっとも、古注の側がわかりやすいと言えはする。けれども古注を取るとその前の「篤信好学」との整合性が破綻してしまう。だから問題はなぜ「太平記」では敢えて古注の側が取られていたのかということになるだろう。
「子曰、篤信好学、守死善道、危邦不入、乱邦不居、天下有道則見、無道則隠、邦有道、貧且賤焉恥也、邦無道、富且貴焉恥也
(書き下し)子曰わく、篤(あつ)く信じて学を好み、死にいたるまで守りて道を善(よ)くす。危邦(きほう)には入らず、乱邦(らんぽう)には居らず。天下道あるときは則(すなわ)ち見(あら)われ、道なきときは則ち隠る。邦(くに)に道あるとき、貧しく且(か)つ賤(いや)しきは恥なり。邦に道なきとき、富み且つ貴きは恥なり。
(現代語訳)先生がいわれた。『かたい信念をもって学問を愛し、死にいたるまで守りつづけて道をほめたたえる。危機にのぞんだ国家に入国せず、内乱のある国家には長く滞在しない。天下に道義が行われる太平の世には、表にたって活動するが、道義が失われる乱世には裏に隠れる。道義が行なわれる国家において、貧乏で無名の生活をおくるのは不名誉なことである。道義が行なわれない国家において、財産をもち高位に上るのは不名誉なことである』」(「論語・第四巻・第八・泰伯篇・十三・P.223~224」中公文庫 一九七三年)
政治家にとって自分の言葉は自分の命と等価でなければならなかった時代のエピソードだが、今やもはやまったく違ってしまったというわけでもないのだ。
BGM1
BGM2
BGM3
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/27/e1b91b224a93e2bd1b118913d7714d8f.jpg)