白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・引き出しで充満する「太平記」

2021年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム
高師直(もろなお)・師泰(もろやす)兄弟に対する上杉重能(うえすぎしげよし)・畠山直宗(はたけやまただむね)両人の嫉妬に満ちた関係は険悪になっていくばかり。ここではその逆のケース・「刎頸(ふんけい)の交わり」の故事が引用される。

「この玉、代々天子の御宝となつて、趙王(ちょうおう)の代(よ)に伝はる。趙王、これを重んじて、趙璧(ちょうへき)と名を替へて、更(さら)に身を放(はな)ち給はず。学窓(がくそう)に蛍(ほたる)を集めねども、書を照らす光暗からず、輦路(れんろ)に月を得ざれども、路(みち)を分かつに影明らかなり」(「太平記4・第二十七巻・四・P.257~258」岩波文庫 二〇一五年)

ただ「太平記」ではエピソードの紹介の仕方が、引用元の「史記・廉頗・藺相如列伝」に記録されている順序とは時系列的に前後が異なっている。なので「史記・列伝」に載る順序に従って並べ直しておこう。

「秦の昭王はそれを聞いて、人をやり趙王に書面をおくった。『城十五と璧を交換したい』とある。趙王は大将軍廉頻や大臣たちと協議した。璧を秦に与えるとすれば、城が手に入る見こみはうすく、だまされただけに終る恐れがある。もし与えなければ、秦が攻めてくる恐れがある。議論は決しなかった。だれか秦へ返答にゆく使者を見つけようとしたが、これも得られないでいた」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.54』岩波文庫 一九七五年)

趙の宦官の長官・繆賢(びゅうけん)は家来の藺相如(りんしょうじょ)を使者として推薦した。

「王は召し出して藺相如に問うた、『秦王は城十五をもって予の璧(へき)ととりかえたいというのじゃが、壁をやったものか、どうじゃ』。相如『秦は強国、趙は弱国ゆえ、承諾せぬわけにまいりますまい』。王『わしの璧をとりあげ、城をくれねば、何とする』。相如『秦が城を出すからとて璧をほしいと申しますのに、承諾せねば、趙のとがでございます。趙が璧を出しても秦が城をくれねば、秦にとががございます。二つの策をはかりにかけて見ますと、承諾して秦のとがにするのがよろしゅうございましょう』。王『使者にはだれがよいか』。相如『そうしても人がないと仰せられますれば、わたくし璧をおあずかりして使者にまいりとう存じます。城が趙の手に入りましたらば、璧を秦へのこしてまいります。城が手に入らねば、わたくし、はばかりながら璧をそのまま持って帰ってまいります』。それを聞き趙王は相如を使いとし、璧を持ち西へ向かって秦に行かせることとした」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.55~56』岩波文庫 一九七五年)

璧を秦王に捧げて様子を見る藺相如。周囲の従者や侍女らに廻して見せびらかし、一方、肝心の「城十五」との交換の話など一つも出てこない。もともと予想していたことなので藺相如は次のように動く。

「相如は秦王には趙への代償に城をくれる気はないと見て取るや、やおら進み出た、『その璧には《きず》がございます。それを指さしてご覧に入れましょう』。王は璧をわたした。すると相如は璧を手に持ち、あとずさりして、柱を背にし、さかだった髪は冠をつきあげるいきおいで、秦王によびかけた、『大王さまには璧がほしいと、書面を趙王におくられました。趙王は群臣をよびつどえて協議せられましたが、<秦は強大さをたのみ貪欲にて、口だけで璧を求めている。代わりの城はたぶん手に入るまい>と皆が申し、秦へ璧を出さぬと定まりました。わたくし考えますに、無官の者の交わりでさえ、互いにだましはいたしませぬ。まして大国のあいだでございます。それに璧一つくらいのことで、強大なる秦国の親睦をそこなうのは、よろしくありませんと申しました。それより趙王は五日のあいだ斎戒(さいかい)し、わたくしに璧を持たせ、それにそえた書簡を御殿へさしだしましたしだいでございます。何ゆえと申せば、大国のご威光をあおぎ、敬意をあらわすためでございます。今日わたくし到着ののち、大王さまのご引見のもよう、人を見くだし、璧は侍女たちへ順にまわされ、なぐさみ物とせられます。このようすでは、大王さまには趙王へ代わりの城を下されるお気もちはないと存じましたゆえ、璧を取りもどしました。大王もしやわたくしに強迫しようとなさいますなら、わたくしの頭を璧もろとも柱にぶちあてぶちわって見せますぞ』。相如はくだんの璧を手に持ち、柱を横目でにらみ、ぶちつけようとした」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.56~57』岩波文庫 一九七五年)

さらに。

「秦王は璧がこわれてはつまらぬと、まずわびを言って、ぜひもらいたいと言い、係りの役人をよび地図を前に、ここからさきの十五の都(まち)を趙へやろうと言った。相如は秦王が趙へ城をくれるというのは表むきだけで、実は手に入るまいと推察したから、やがて申し出た、『和氏(かし)の璧は天下に名の聞えた宝でございます。趙王は献上せぬわけにはゆかぬと思いましたから、これを送り出すときに五日間斎戒しておりました。大王さまにもこのたびは五日のあいだ斎戒なされ、宮廷に九賓(きゅうひん)の礼をそなえられましたならば、そのうえにて、わたくし恐れながら献上つかまつりましょう』。秦王も力ずくで奪うことはむつかしかろうと推察し、かくて五日ものいみすると約束し、相如を広成(こうせい=地名)の宿舎で休ませた。相如は、秦王がものいみはしても、きっと約束はほごにして城を出すまいと察したから、従者にそまつな身なりで璧を懐中し、間道よりこっそり趙まで持って帰らせておいた」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.57』岩波文庫 一九七五年)

大国=秦と小国=趙とでは軍事力に圧倒的違いがある。藺相如は秦王が約束を守るなどと夢にも考えていない。とはいえ国と国との関係上、両者の立場の対等性を確実に担保しておくのが第一に重要だとわかっている藺相如は言語を駆使し、秦の側から言い出した「璧と城十五との交換」という条件を上手く利用して「両国の対等な関係維持」へ移動させることに成功する。だから璧は元通り趙に取り戻され、同時に秦は城十五を持ったままだが璧を手に入れることは不可能となる。

「秦王は五日のものいみを終えて、いよいよ九賓の礼をととのえ、宮廷において趙の使者藺相如を引見した。相如はそこへ出ると、『秦は繆公(ぼくこう)よりこのかた二十余りの君々、約束をたしかに守られたことは一度もありません。わたくしは王さまのあざむきをうけては趙に申しわけ立ちませぬゆえ、人をやって璧を趙へ持ち帰らせました。もう趙に着く時分でありましょうて。それに秦は強国、趙は弱国ですから、大王さまよりただ一人の使者をつかわされますや、趙はただちに璧をもってまいりました。その秦の強大なるおん国が、まず十五の都を与えられますれば、趙はどうして璧を手もとにおいて大王さまのおとがめを待ちましょうや。わたくし大王をあざむきまいらせました罪は死にあたると承知しております。熱湯で煮殺されましても本望でございます。大王さま、お心のままに、群臣の方々とよくよくよくご熟慮くだされますよう願い上げます』と言い出した。秦王は群臣と顔を見あわせ、驚きの声をあげた。側の者が相如を引っ立てようとしたが、秦王はすぐ言った、『今日相如を殺したとて、璧はいつまでも手に入らず、しかも秦と趙の親しみをそこなうものじゃ。それよりここのところは厚くもてなしてとらせ、趙に帰らせるがよい。趙王も璧ひとつくらいで秦をあざむきはしまい』。けっきょく、かたのごとく相如を引見し、儀式を終わって帰らせた」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.58』岩波文庫 一九七五年)

困難な使者の役目を無事に果たし終えたことで藺相如は出世する。

「相如の帰国後、趙王はかれが使いして諸侯に辱(はず)かしめられなかったのは賢者であると、かれを上大夫(じょうたいふ)に親任した。秦も城を趙へやらなかったし、趙もまた秦へ璧をやらなかった」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.58』岩波文庫 一九七五年)

結局「城十五」と璧とを交換するつもりなど毛頭なかった秦は趙へ少しばかり軍を進める。そして両者は「澠池(べんち)」で会見することになる。

「そののち秦は趙をうち石城(せきじょう)をおとした。あくる年、さらに攻撃し趙の死者は二万人であった。秦王は使者をだし趙王へ、よしみを結びたいから、西河(せいか)の南の澠池(べんち)において会見しようと申し入れさせた。秦のたくらみをおそれた趙王は出かけないつもりであったが、廉頗(れんぱ)と藺相如(りんしょうじょ)は方策を立てた、『王さまのお出ましがなければ、趙の弱さと気おくれを見せるものでございます』。かくて趙王は出発し、相如が供をした。廉頗は国境まで見送って、王に別れを告げ、『お出ましのうえは、途中の道のりとご会見の儀礼が終って、お帰りまでの日数は、察するところ三十日にはなりますまい。三十日たってお帰りなければ、太子さまのご即位を願いたてまつります、秦の野望を失わせるためでございます』。王はそれも許可し、かくて秦王と澠池で会見したのである」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.58~59』岩波文庫 一九七五年)

秦王の今度のたくらみは趙王をとことん恥ずかしい目に合わせて諸侯の笑い者にしてやることにあった。ところが、またしても藺相如のすばやい機転で秦王は趙王を笑い者に仕立て上げることに失敗した。

「秦王は酒宴たけなわとなるや、『予は趙王には音楽をこのまれると聞き及んでおる。ひとつ瑟(しつ)をながでていただけまいか』と言い、趙王は瑟をひいた。秦の御史(ぎょし=記録係)が進み出て記録にとどめた、『某年某月某日、秦王、趙王と会飲し、趙王をして瑟を鼓せしむ』と。藺相如は進み出た、『趙王は秦の王さまには秦のうたがお上手と聞かれております。缶(ほとぎ)をうって、互いの興をそえていただきとう存じます』。秦王はきげんわるく、ことわった。そのとき相如は前へ出て缶をさし出し、ひざまずいて願った。秦王はそれをたたこうとはしない。相如は言った、『この五歩の近さゆえ、それがしの頸(くび)の血が大王にはねかかると思しめされませ』。側の者がかれへ切りかかろうとしたが、かれは目を見ひらき大喝すると、みなたじろいだ。そのとき秦王は気はすすまぬものの、すこし缶をたたいた。相如はふりむいて趙の御史ををよびよせ、『某年某月某日、秦王、趙王のために缶(ふ)をうつ』としるさせた。秦の群臣が『ひとつ趙より城十五をもって秦王への贈り物としていただきたい』と言えば、藺相如もまた言った、『秦の咸陽(かんよう)をば趙王への贈り物にいただきましょう』。酒宴のはてるまで、秦王はとうとう趙をおしきることはできず、趙の方でも兵の備えを厳重にして相手の出かたをみていたから、秦もうかつなことはできなかった」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.59~60』岩波文庫 一九七五年)

こうしてさらに出世し、廉頗(れんぱ)と並ぶ上卿の位に任じられた藺相如。だがその言動は普段と変わらない。家来から見れば随分と廉頗に遠慮しているように思えて悩ましい。だが藺相如はこんな深謀遠慮を秘めていた。

「廉頗は『わしは趙の大将として、攻城夜戦に大功をたてた。しかるに藺相如は口先ばかりのはたらきで、わしの上の位におる。それに相如はもともといやしい出じゃ。わしははずかしい。あれの下には立っておれぬ』とて、言いふらした、『わしが相如の顔を見たら、恥辱をあたえるぞ』。相如はうわさを聞き、顔をあわせぬようにし、朝見の日も、いつも病気と言いたて、廉頗と席を争うことをのぞまなかった。そのうちに相如は外へ出たが、遠くから廉頗を見ると、車をひきめぐらし、すがたをかくした。そうなると相如の近侍たちは、いっしょにいさめた、『わたくしどもが親戚をはなれお側につかえておりますのは、殿さまのご高義をしとうたためでございます。殿さまは今は廉頗と同列でいらせられますのに、廉さまが悪口せられたとて、おそれて逃げかくれられまして、ことにお気づかいのようでございます。なみの者さえはずかしく思いますのに、まして大臣大将でございますものを。わたくしどもおろかでございますから、お暇をいただきとう存じます』。藺相如はかたく制止した、『諸君、廉将軍と秦王はどちらが上とおもうか』。『それはかないませぬ』。相如『あの秦王の威勢でさえ、それがしは宮廷のまんなかでしかりつけ、群臣に辱めを与えた。それがしは駄馬のごとくではあろうが、廉将軍ごときをおそれようか。ただ考えてみるに、強大なる秦が趙へ兵力を用いんとせぬわけは、われら両人があるため、それだけである。もし両虎ともに闘えば、どちらかは生きてはいぬ。わしがかようにしておるのは、国家の急をさきとし、私のあだをのちにするとてである』。それを聞いた廉頗は肌ぬぎとなって荊(いばら)のむちを背におい、客をかいぞえに、藺相如のやしきの門へ行って謝罪した、『性根(しょうね)のいやしいそれがしを、将軍がこれほどまでお心ひろく扱ってくださろうとは存じもかけずにおりました』。そのあげく、心おきなく歓談して、刎頸(ふんけい)の交わりをむすんだのであった」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.60~61』岩波文庫 一九七五年)

ところで「太平記」は次の文章を強調する。

「両虎(りょうこ)相闘うて共に死する時、一つの狐、その弊(つい)へに乗つてこれを咀(か)む」(「太平記4・第二十七巻・四・P.265」岩波文庫 二〇一五年)

すでに述べているが「史記・廉頗・藺相如列伝」にある一節。

「両虎ともに闘えば、どちらかは生きてはいぬ」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.61』岩波文庫 一九七五年)

同じ内容の言葉は「春申君列伝」にも見える。

「両虎あい闘(たたか)えば、その疲れにつけこむことは駄犬にでもできます」(「春申君列伝 第十八」『史記列伝1・P.295』岩波文庫 一九七五年)

しかしエピソードの通りに事態が進展するわけもない。

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