白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「太平記」折り返し地点に出現する「今昔物語」的エピソード

2021年09月14日 | 日記・エッセイ・コラム
自害した新田義貞の首は京へ運ばれ獄門にかけられた。大勢の車馬、老若男女が足を止めて義貞の身の不運を嘆いた。その中に義貞の妻・匂当内侍(こうとうのないし)の姿があった。もっとも、匂当内侍が実在した証拠はない。「太平記」の中では義貞の寵愛を一身に集めた稀に見る美女として登場しているが。その美貌について。

「金屋(きんおく)の内に粧(よそお)ひを閉ぢて、鶏障(けいしょう)の下に媚(こび)を深くせし」(「太平記3・第二十巻・十三・P.385」岩波文庫 二〇一五年)

白居易の詩から二箇所引用して接続した形容になっている。

(1)「金屋粧成嬌侍夜 

(書き下し)金屋(きんおく) 粧(よそお)い成(な)りて嬌(きょう)として夜(よる)に侍(じ)し

(現代語訳)黄金のやかたでは粧いをこらし、あでやかに夜のおとぎ」(「長恨歌」『白楽天詩選・上・P.56』岩波文庫 二〇一一年)

(2)「金雞障下

(書き下し)金鶏(きんけい)の障下(しょうか)

(現代語訳)金鶏(きんけい)の屏風のもと」(「胡旋女」『白楽天詩選・上・P.137~139』岩波文庫 二〇一一年)

北畠顕家(きたばたけあきいえ)が大坂の堺で戦死。新田義興(にったよしおき)が八幡(やわた)城から撤退。さらに新田義貞は自害したとなるとそれまで後醍醐方として参戦していた諸々の武士団らに動揺が走り劣勢に陥るのは必至。その前に関東から東北地方に蟠踞する味方の勢を安易に裏切らせないよう強力な武威を見せつけておかねばならない。そこで結城上野入道道忠(ゆうきこうずけのにゅうどうどうちゅう)は伊勢国(いせのくに)鳥羽(とば)に主だった武将らをいったん集結させ何艘かに分けて乗船し、八宮(はちのみや)義良(のりよし)親王を含む船団を組み関東へ向かった。

出港時は快晴。ところが「天龍灘(てんりゅうなだ)」(天龍川河口沖・遠州灘)を過ぎる頃、猛烈な暴風雨に見舞われた。或る船は檣(ほばしら)を吹き折られ、また或る船は操船のための梶(かじ)をへし折られて渦を巻く太平洋を漂流するばかり。多くの船がどこへ行ったのかわからなくなり、伊豆大島(おおしま)、安房の館山(たてやま)、三浦半島、鎌倉の由比ヶ浜(ゆいがはま)など散り散りばらばらに漂着するという有様。ところが八宮(はちのみや)を乗せた船一艘だけはなぜか伊勢の志摩半島の先端へ無事帰り着くことができた。ここで八宮にスポットが当たる。

「九五の天位」(「太平記3・第二十巻・十四・P.395」岩波文庫 二〇一五年)

異例の幸運に恵まれたことから、まさに「九五の天位」(君主)にふさわしいと崇拝される。「易経」から。

「九五。飛龍在天。利見大人。

(書き下し)九五。飛竜天に在り。大人を見るに利ろし。

(現代語訳)九五は陽剛中正、飛んで天に昇った竜。才徳が充実し志を得て人の上に立った者にもたとえられようが、なお在下の大人賢者(九二)を得てその助けをかりることを心掛けるがよい(彖伝、文言伝は大人をこの九五の君とする)」(「易経・上・乾爲天(けんいてん)・P.79~81」岩波文庫 一九六九年)

一方、結城上野入道道忠の船は一週間ばかり海上を彷徨っていたがようやく風もおさまって伊勢の津へ漂着した。ふたたび東北へ向かわねばと風待ちしていたところ、思いがけず病の床に伏せってしまった。かなりの重症。故郷の下総(しもうさ)へ帰ることなくしばらくして死んだ。そんな折、一人の山伏(やまぶし)が下総へ下る用事で通りがかった。道忠の死を知って故郷にいる家族に伝えようと約束した。山伏はまたすぐに歩き始め、日暮れに宿を取ろうと探していると一人の律僧と出会い、一夜限りの宿泊所を提供された。そして真夜中。地獄に堕ちた結城道忠が壮絶な責め苦を受けている場面を見る。そこは暗鬱極まりない荒涼たる冥途。

「鉄城(てつじょう)堅く閉ぢ、鉄網(てつもう)四方に張れり」(「太平記3・第二十巻・十五・P.400」岩波文庫 二〇一五年)

「往生要集」からの引用。

「七重の鐵城、七重の鐵網あり」(「往生要集・厭離穢土・阿鼻地獄・P.41~42」岩波文庫 一九四二年)

生前の罪状は次のとおり。僧であろうとなかろうと年齢性別を問わず一日に二、三人は殺害して身の周りにぶら下げて眺めなければ気が晴れないというタイプで惨殺行為を止めるつもりもない。だから道忠の行くところはどこでも忽ち屠畜場のように死骸の山ができてしまいあたかも墓場の様相を呈する。

「咎(とが)なき者を打(う)ち縛(しば)り、僧尼(そうに)を害(がい)する事、勝計(しょうけい)すべからず。常に死人の生頸(なまくび)を見ねば、心地(ここち)の蒙気(もうき)するにとて、僧俗男女(そうぞくなんにょ)を云はず、日(ひ)ごとに二、三人が頸を切つて、わざと目の前にぞ懸けさせける。されば、かれが暫(しばら)くも居たるあたりは、死肉満ちて屠所(としょ)の如く、尸骸(しがい)積んで九原(きゅうげん)の如し」(「太平記3・第二十巻・十五・P.398」岩波文庫 二〇一五年)

宿を提供してくれた律僧に山伏が事情を尋ねると、無限地獄で未来永劫に渡って責め苦を受けているのが死後の結城道忠であるとのこと。そのうち暁の鐘が鳴った。するとつい今まで見えていた地獄の様相も律僧の姿もふいに消え失せた。山伏は不思議なことがあるものだと思いつつ下総へ下り、結城の家を訪れて道忠は伊勢で死去したと家族に伝えた。結城家ではまさかの話なので信じなかったがそれから三、四日後に伊勢から飛脚が到着、道忠死去の報を伝えた。山伏の言っていたことは本当だったのかと家人らはびっくり。その後、四十九日まで追善供養を行なった。ところでこのエピソードだが「太平記」というより遥かに「今昔物語」に近いと感じるのはどうしてだろう。ニーチェのいう債権債務関係が顔を覗かせているからだろうか。

さて、物語は進んでいく。遂に後醍醐帝死去の条に至る。帝は殉死・副葬品は無用だという。「秦の穆公」や「始皇帝」の例に習わずともよいと。

「秦の穆公(ぼくこう)が三老(さんろう)を埋(うず)み、(始皇帝<しこうてい>の宝玉<ほうぎょく>を随へし事)」(「太平記3・第二十一巻・五・P.419」岩波文庫 二〇一五年)

前者は「史記・秦本紀」に載る。

「三十九年、繆公が卒し、雍(陝西・扶風)に葬った。殉死する者が百七十七人なり秦の良臣子輿氏(しよし)の奄息(えんそく)・仲行(ちゅうこう)・鍼虎(かんこ)という三人も、この中にあった」(「秦本紀・第五」『史記1・本紀・P.118』ちくま学芸文庫 一九九五年)

後者は「史記・始皇本紀」からの引用。

「冢(はか)の中に宮殿や百官の座席をつくり、珍稀の物を宮中からうつして充満し、工匠(だいく)に機弩矢(きどし)を作らせ、地面を掘って近づく者があれば、ひとりでに発射するようにした」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.166』ちくま学芸文庫 一九九五年)

それよりも「朝敵滅亡」を遺言する。

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