一方で比叡山に集結した後醍醐方が兵糧攻めに合う形となり、もう一方でそれを見た足利尊氏は後醍醐帝に京へ還幸することを勧める。せっかく集まった後醍醐方だったが山の上で籠城しているうちに二十万人の兵士のみならず貴族公卿らとその家族さえ食っていけなくなるところまで追い詰められた後醍醐帝は、隙を見て送ってきた尊氏の言葉に乗ることにする。兵糧攻めにもう一撃加えたのは佐々木道誉。京の大原から国境に当たる龍華(りゅうげ)越えを越えてこっそり近江へ侵入し琵琶湖東側の三上山付近に布陣。比叡山を遠攻めにした。後醍醐帝と新田方、そして山門関係者らの親類縁者や家来らが持っている荘園・領土をどんどん召し上げ道誉自身を味方するものにばんばん取らせた。近江守護職はそもそも佐々木家だったからである。
さらにもう一撃があって、どういうことかというと尊氏が何ヵ所かの庄園を東大寺・興福寺に寄付したところ、東大寺も興福寺もともに比叡山との同盟を破却したばかりか尊氏ら武家方へ付くと約束したのだった。
最も敏感なのはまさしく後醍醐帝。そこへ滑り込んできた尊氏からの京都還幸の勧め。乗るほかない。そのあいだにも尊氏は全国に散り散りになっている他の大名に続々回状を廻して足利方へ付くよう精力的に働きかけた。後醍醐帝は還幸することに決める。だがそもそも帝は帝なりに腹に一物も二物も持つ天皇であって一筋縄ではいかない。京都還幸に当たって新田義貞の子・堀口美濃守貞満(ほりぐちみののかみさだみつ)の涙ながらの訴えを聞いてやる。貞満はいう。「われわれ新田勢を見捨てて京都の尊氏のもとへ戻られるとおっしゃるのでしょうか。それならまるきりこうであって頂いて構いません」。要するに、新田義貞始めわれわれ五十余人全員を「殺して頂いて結構です」と。
「首を刎(は)ねて伍子胥(ごししょ)が罪に比し、胸を割(さ)きて比干(ひかん)が刑に処(しょ)せられ候ふべし」(「太平記3・第十七巻・十三・P.178」岩波文庫 二〇一五年)
(1)「史記・伍子胥列伝」から。呉王夫差(ふさ)に諫言したため処刑を言い渡され自害した。
「伍子胥は天をあおいで大息をつき、『さてもさても。讒臣(ざんしん)嚭(ひ)が乱をなしおったのを、王さまは、あべこべにわしを殺されるとは、わしはきさまの父に覇業を成させた。きさまが王にならぬまえ、公子たちが位を争った。わしは命にかえて先王さまをいさめたが、とても立てられぬところであった。きさまが位についたあと、呉の国を分けてやろうと言ったが、わしはそれを望もうともしなかった。それが今はへつらい者の言葉を信じ、善意の者を殺すのか』と言い、それからけらいに言いつけた、『わしの墓には、梓(あずさ)の木を必ずうえろ。〔木が大きくなったら、呉王の〕棺桶にできるだろう。そしてわしの目だまをえぐり出して、呉の都の東門の上におけ。越(えつ)の敵がはいって呉を滅ぼすのをながめるのだ』。こうして自ら首をはねて死んだ」(「伍子胥列伝 第六」『史記列伝1・P.69』岩波文庫 一九七五年)
(2)「史記・殷本紀」からの引用。殷王・紂は諌めごとをいう側近を脯(ほしにく)にしたり、好みに合わない女性を殺し、その父を醢(ひしお=塩漬の肉<しおから>)にしたりした。側近の西伯が去った。庶兄の微子も仲間の楽官らと逃亡した。とうとう紂の叔父・比干が厳しい言葉で諫言したところ紂は比干の胸を引き裂き心臓を抉り出して殺した。
「比干は、『人臣としては死んで争わなければならない』と言い、紂を強諌した。紂は怒って、『聖人の胸には七つの穴があるということだが、ほんとうだろうか』と言って比干の胸をひらいて心臓を見た」(「殷本紀・第三」『史記1・本紀・P.58』ちくま学芸文庫 一九九五年)
しかし後醍醐帝は新田義貞が一方的に朝敵の汚名をこうむるのを避けるため、新田勢の北陸下向に当たって恒良(つねよし)親王を預けるとともに再起を期せと命じる。
「朕すでに、汝がために匂践(こうせん)が恥を忘る。汝早く、朕がために范蠡(はんれい)が謀(はかりごと)を廻(めぐ)らせ」(「太平記3・第十七巻・十四・P.180」岩波文庫 二〇一五年)
(1)「史記・越王句践世家」から。
「越王は残兵五千人を取りまとめて、会稽山に立て籠り、呉王は追撃してこれを包囲した」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.283』ちくま学芸文庫 一九九五年)
(2)「范蠡(はんれい)が謀(はかりごと)」は、会稽(かいけい)の敗北から越王匂践が呉王を破るまで范蠡とともにした二十数年間。「史記・越王句践世家」から次の三カ所。
「呉は士も民もともに疲弊し、その軽兵(敏捷<びんしょう>な勇士)と精鋭はことごとく斉・晋で戦死していた。越は大いに呉を破り、さらに留(とど)まって、呉の都を包囲した。三年を費やして呉軍を破り、今度はついに呉王を姑蘇(こそ)の山に住まわせた(蘇州の山に立てこもらざるを得ないようにした意)」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.289』ちくま学芸文庫 一九九五年)
「会稽のときのことは、天が越を呉に賜うたのに、呉は天に逆ろうて受けなかったのです。いまは天が呉を越に賜うのです。越として何と天に逆らうべきでしょうか。君王が朝早くから夜おそくまで政務に励まれたのも、呉のためではなかったのですか。はかりにはかって二十二年、それを一朝に棄てて、それでよいのですか。天の与えるものを取らなければ、かえって咎(とが)を受けるのです。斧(おの)の柄をつくるために木を伐る者は、いま持っている斧の柄にあわせて伐ればよいのです(詩経・豳風<ひんぷう>・伐柯<ばっか>の『柯を伐り柯を伐る、その則遠からず』を引用したもの)。わが君は会稽の苦しみをお忘れになったのですか」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.289~290』ちくま学芸文庫 一九九五年)
「呉王はこれをことわり、『わたしは老いました。いまさら君王に仕えることもなりますまい』と言って、ついに自殺した。死に臨んで、『わしは子胥にあわす顔がない』と、面(おもて)を巾(きれ)で蔽(おお)いかくした。越王は呉王を葬り、太宰嚭(ひ)を誅した」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.290』ちくま学芸文庫 一九九五年)
新田義貞北国落ち。帝は京都へ還幸。一方、北国へ赴く一行は戸津(今の滋賀県大津市下阪本戸津浜<とつはま>)からを越前を目指す。建武三年(一三三六年)。そろそろ秋が深まり始める十月十日。こうある。
「南に翔(かけ)り北に嚮(むか)ふ、寒温(かんうん)を春の雁(かり)に付(つ)け難(がた)し。東に出でて西に流る、只(ただ)瞻望(せんぼう)を暁の月に寄す」(「太平記3・第十七巻・十六・P.184」岩波文庫 二〇一五年)
「和漢朗詠集」からの引用。
「南翔北嚮 難付寒温於秋鴻 東出西流 只寄瞻望於暁月
(書き下し)南に翔(かけ)り北に嚮(むか)ふ 寒温(かんうん)を秋の鴻(かり)に付(つ)けがたし 東に出で西に流る ただ瞻望(せんばう)を暁(あかつき)の月に寄す」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・恋・七八二・大江朝綱・P.292」新潮社 一九八三年)
還幸に付き従って京へ降りてきた人々。その一人、本間孫四郎(ほんままごしろう)はもともと途中から新田方へ寝返っていた。捕縛され六条河原で斬首。また道場坊助注記猷覚(どうじょうぼうちゅうきゆうかく)は法勝寺(ほっしょうじ)の僧侶だったが軍事物資調達の中心人物として、十二月二十九日、阿弥陀峯(あみだがみね=今の京都市東山区清水寺南麓)で斬首。その他、死罪は免れたものの高官の多くが免職・出勤停止になった。「本朝文粋」から橘直幹の言葉が引かれている。
「傍人(ぼうじん)の光彩に向かつて、泥沙(でいしゃ)の塵(ちり)に交はり」(「太平記3・第十七巻・十七・P.187」岩波文庫 二〇一五年)
こうある。
「対傍人之栄貴、顔低泥沙。独仕有此邦、猶抱貧賤之恥、久顧不運之質、多積淪落之悲。
(書き下し)傍人(ばうじん)の栄貴(えいき)に対(むか)へば、顔(おもて)泥沙(でいさ)に低(た)る。独(ひと)り有道(いうたう)の邦(くに)に仕(つか)へて、猶(なお)し貧賤(ひんせん)の恥(はぢ)を抱(いだ)き、久(ひさ)しく不運(ふうん)の質(しつ)を顧(かへり)みて、多く淪落(りんらく)の悲(かな)しびを積(つ)む」(新日本古典文学体系「請被特蒙天恩兼任民部大輔闕状」『本朝文粋・巻第六・一五〇・橘直幹・P.211、P.38』岩波書店 一九九二年)
「貧賤(ひんせん)の恥(はぢ)を抱(いだ)き」は「論語」に見える。
「子曰、篤信好学、守死善道、危邦不入、乱邦不居、天下有道則見、無道則隠、邦有道、貧且賤焉恥也、邦無道、富且貴焉恥也
(書き下し)子曰わく、篤(あつ)く信じて学を好み、死にいたるまで守りて道を善(よ)くす。危邦(きほう)には入らず、乱邦(らんぽう)には居らず。天下道あるときは則(すなわ)ち見(あら)われ、道なきときは則ち隠る。邦(くに)に道あるとき、貧しく且(か)つ賤(いや)しきは恥なり。邦に道なきとき、富み且つ貴きは恥なり。
(現代語訳)先生がいわれた。『かたい信念をもって学問を愛し、死にいたるまで守りつづけて道をほめたたえる。危機にのぞんだ国家に入国せず、内乱のある国家には長く滞在しない。天下に道義が行われる太平の世には、表にたって活動するが、道義が失われる乱世には裏に隠れる。道義が行なわれる国家において、貧乏で無名の生活をおくるのは不名誉なことである。道義が行なわれない国家において、財産をもち高位に上るのは不名誉なことである』」(「論語・第四巻・第八・泰伯篇・十三・P.223~224」中公文庫 一九七三年)
「多く淪落(りんらく)の悲(かな)しびを積(つ)む」は白居易参照。
「同是天涯淪落人
(書き下し)同(おな)じくこれ天涯淪落(てんがいりんらく)の人(ひと)
(現代語訳)おまえもわたしも同じく世界のはてにおちぶれた人間」(漢詩選10「琵琶引」『白居易・P.255~261』集英社)
こうもある。
「顔子(がんし)が一瓢(いっぴょう)水清くして、独(ひと)り道ある事を知る」(「太平記3・第十七巻・十七・P.187」岩波文庫 二〇一五年)
「論語」から。
「子曰、賢哉回也、一箪食、一瓢飲、在陋巷、人不堪其憂、回也不改其楽、賢哉回也
(書き下し)子曰く、賢なるかな回(かい)や、一箪(たん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、陋巷(ろうこう)に在(あ)り。人はその憂(うれ)いに堪(た)えず、回はその楽(たの)しみを改めず。賢なるかな回や。
(現代語訳)先生がいわれた。『なんとすぐれた男であることよ、顔回という男は。毎日、竹の弁当箱一杯のご飯と、ひさごのお椀(わん)一杯の飲み物で、狭い路地(ろじ)の奥に住んでいる。ふうつの人間はとても憂欝(ゆううつ)でたまらなくなるだろうが、回は道を学ぶ楽しさをちっとも忘れない。なんとすぐれた男であることよ』」(「論語・巻第三・第六・雍也篇・十一・P.157」中公文庫)
そうはいうものの実際の家屋はもはや豹変してしまっている。
「相如(しょうじょ)が四壁(しへき)風冷(すさま)じうして、衣なきに堪へず」(「太平記3・第十七巻・十七・P.187」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・司馬相如列伝」から。
「梁の孝王はかれを諸士たちと同じ宿舎に住まわせた。司馬相如は学者・論客たちと生活をともにすることができ、そうして数年たって、かれは『子虚(しきょ)の賦(ふ)』を書きあらわした。そのころ、梁の孝王が卒した(前一四四年)。司馬相如はそこで〔郷里の成都へ〕帰ったが、かれの家は貧しくなっていて、生活の手段となるものは何ひとつ残っていなかった」(「司馬相如列伝 第五十七」『史記列伝4・P.154~155』岩波文庫 一九七五年)
しかし「太平記」はまだ半分も過ぎてはいない。
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さらにもう一撃があって、どういうことかというと尊氏が何ヵ所かの庄園を東大寺・興福寺に寄付したところ、東大寺も興福寺もともに比叡山との同盟を破却したばかりか尊氏ら武家方へ付くと約束したのだった。
最も敏感なのはまさしく後醍醐帝。そこへ滑り込んできた尊氏からの京都還幸の勧め。乗るほかない。そのあいだにも尊氏は全国に散り散りになっている他の大名に続々回状を廻して足利方へ付くよう精力的に働きかけた。後醍醐帝は還幸することに決める。だがそもそも帝は帝なりに腹に一物も二物も持つ天皇であって一筋縄ではいかない。京都還幸に当たって新田義貞の子・堀口美濃守貞満(ほりぐちみののかみさだみつ)の涙ながらの訴えを聞いてやる。貞満はいう。「われわれ新田勢を見捨てて京都の尊氏のもとへ戻られるとおっしゃるのでしょうか。それならまるきりこうであって頂いて構いません」。要するに、新田義貞始めわれわれ五十余人全員を「殺して頂いて結構です」と。
「首を刎(は)ねて伍子胥(ごししょ)が罪に比し、胸を割(さ)きて比干(ひかん)が刑に処(しょ)せられ候ふべし」(「太平記3・第十七巻・十三・P.178」岩波文庫 二〇一五年)
(1)「史記・伍子胥列伝」から。呉王夫差(ふさ)に諫言したため処刑を言い渡され自害した。
「伍子胥は天をあおいで大息をつき、『さてもさても。讒臣(ざんしん)嚭(ひ)が乱をなしおったのを、王さまは、あべこべにわしを殺されるとは、わしはきさまの父に覇業を成させた。きさまが王にならぬまえ、公子たちが位を争った。わしは命にかえて先王さまをいさめたが、とても立てられぬところであった。きさまが位についたあと、呉の国を分けてやろうと言ったが、わしはそれを望もうともしなかった。それが今はへつらい者の言葉を信じ、善意の者を殺すのか』と言い、それからけらいに言いつけた、『わしの墓には、梓(あずさ)の木を必ずうえろ。〔木が大きくなったら、呉王の〕棺桶にできるだろう。そしてわしの目だまをえぐり出して、呉の都の東門の上におけ。越(えつ)の敵がはいって呉を滅ぼすのをながめるのだ』。こうして自ら首をはねて死んだ」(「伍子胥列伝 第六」『史記列伝1・P.69』岩波文庫 一九七五年)
(2)「史記・殷本紀」からの引用。殷王・紂は諌めごとをいう側近を脯(ほしにく)にしたり、好みに合わない女性を殺し、その父を醢(ひしお=塩漬の肉<しおから>)にしたりした。側近の西伯が去った。庶兄の微子も仲間の楽官らと逃亡した。とうとう紂の叔父・比干が厳しい言葉で諫言したところ紂は比干の胸を引き裂き心臓を抉り出して殺した。
「比干は、『人臣としては死んで争わなければならない』と言い、紂を強諌した。紂は怒って、『聖人の胸には七つの穴があるということだが、ほんとうだろうか』と言って比干の胸をひらいて心臓を見た」(「殷本紀・第三」『史記1・本紀・P.58』ちくま学芸文庫 一九九五年)
しかし後醍醐帝は新田義貞が一方的に朝敵の汚名をこうむるのを避けるため、新田勢の北陸下向に当たって恒良(つねよし)親王を預けるとともに再起を期せと命じる。
「朕すでに、汝がために匂践(こうせん)が恥を忘る。汝早く、朕がために范蠡(はんれい)が謀(はかりごと)を廻(めぐ)らせ」(「太平記3・第十七巻・十四・P.180」岩波文庫 二〇一五年)
(1)「史記・越王句践世家」から。
「越王は残兵五千人を取りまとめて、会稽山に立て籠り、呉王は追撃してこれを包囲した」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.283』ちくま学芸文庫 一九九五年)
(2)「范蠡(はんれい)が謀(はかりごと)」は、会稽(かいけい)の敗北から越王匂践が呉王を破るまで范蠡とともにした二十数年間。「史記・越王句践世家」から次の三カ所。
「呉は士も民もともに疲弊し、その軽兵(敏捷<びんしょう>な勇士)と精鋭はことごとく斉・晋で戦死していた。越は大いに呉を破り、さらに留(とど)まって、呉の都を包囲した。三年を費やして呉軍を破り、今度はついに呉王を姑蘇(こそ)の山に住まわせた(蘇州の山に立てこもらざるを得ないようにした意)」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.289』ちくま学芸文庫 一九九五年)
「会稽のときのことは、天が越を呉に賜うたのに、呉は天に逆ろうて受けなかったのです。いまは天が呉を越に賜うのです。越として何と天に逆らうべきでしょうか。君王が朝早くから夜おそくまで政務に励まれたのも、呉のためではなかったのですか。はかりにはかって二十二年、それを一朝に棄てて、それでよいのですか。天の与えるものを取らなければ、かえって咎(とが)を受けるのです。斧(おの)の柄をつくるために木を伐る者は、いま持っている斧の柄にあわせて伐ればよいのです(詩経・豳風<ひんぷう>・伐柯<ばっか>の『柯を伐り柯を伐る、その則遠からず』を引用したもの)。わが君は会稽の苦しみをお忘れになったのですか」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.289~290』ちくま学芸文庫 一九九五年)
「呉王はこれをことわり、『わたしは老いました。いまさら君王に仕えることもなりますまい』と言って、ついに自殺した。死に臨んで、『わしは子胥にあわす顔がない』と、面(おもて)を巾(きれ)で蔽(おお)いかくした。越王は呉王を葬り、太宰嚭(ひ)を誅した」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.290』ちくま学芸文庫 一九九五年)
新田義貞北国落ち。帝は京都へ還幸。一方、北国へ赴く一行は戸津(今の滋賀県大津市下阪本戸津浜<とつはま>)からを越前を目指す。建武三年(一三三六年)。そろそろ秋が深まり始める十月十日。こうある。
「南に翔(かけ)り北に嚮(むか)ふ、寒温(かんうん)を春の雁(かり)に付(つ)け難(がた)し。東に出でて西に流る、只(ただ)瞻望(せんぼう)を暁の月に寄す」(「太平記3・第十七巻・十六・P.184」岩波文庫 二〇一五年)
「和漢朗詠集」からの引用。
「南翔北嚮 難付寒温於秋鴻 東出西流 只寄瞻望於暁月
(書き下し)南に翔(かけ)り北に嚮(むか)ふ 寒温(かんうん)を秋の鴻(かり)に付(つ)けがたし 東に出で西に流る ただ瞻望(せんばう)を暁(あかつき)の月に寄す」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・恋・七八二・大江朝綱・P.292」新潮社 一九八三年)
還幸に付き従って京へ降りてきた人々。その一人、本間孫四郎(ほんままごしろう)はもともと途中から新田方へ寝返っていた。捕縛され六条河原で斬首。また道場坊助注記猷覚(どうじょうぼうちゅうきゆうかく)は法勝寺(ほっしょうじ)の僧侶だったが軍事物資調達の中心人物として、十二月二十九日、阿弥陀峯(あみだがみね=今の京都市東山区清水寺南麓)で斬首。その他、死罪は免れたものの高官の多くが免職・出勤停止になった。「本朝文粋」から橘直幹の言葉が引かれている。
「傍人(ぼうじん)の光彩に向かつて、泥沙(でいしゃ)の塵(ちり)に交はり」(「太平記3・第十七巻・十七・P.187」岩波文庫 二〇一五年)
こうある。
「対傍人之栄貴、顔低泥沙。独仕有此邦、猶抱貧賤之恥、久顧不運之質、多積淪落之悲。
(書き下し)傍人(ばうじん)の栄貴(えいき)に対(むか)へば、顔(おもて)泥沙(でいさ)に低(た)る。独(ひと)り有道(いうたう)の邦(くに)に仕(つか)へて、猶(なお)し貧賤(ひんせん)の恥(はぢ)を抱(いだ)き、久(ひさ)しく不運(ふうん)の質(しつ)を顧(かへり)みて、多く淪落(りんらく)の悲(かな)しびを積(つ)む」(新日本古典文学体系「請被特蒙天恩兼任民部大輔闕状」『本朝文粋・巻第六・一五〇・橘直幹・P.211、P.38』岩波書店 一九九二年)
「貧賤(ひんせん)の恥(はぢ)を抱(いだ)き」は「論語」に見える。
「子曰、篤信好学、守死善道、危邦不入、乱邦不居、天下有道則見、無道則隠、邦有道、貧且賤焉恥也、邦無道、富且貴焉恥也
(書き下し)子曰わく、篤(あつ)く信じて学を好み、死にいたるまで守りて道を善(よ)くす。危邦(きほう)には入らず、乱邦(らんぽう)には居らず。天下道あるときは則(すなわ)ち見(あら)われ、道なきときは則ち隠る。邦(くに)に道あるとき、貧しく且(か)つ賤(いや)しきは恥なり。邦に道なきとき、富み且つ貴きは恥なり。
(現代語訳)先生がいわれた。『かたい信念をもって学問を愛し、死にいたるまで守りつづけて道をほめたたえる。危機にのぞんだ国家に入国せず、内乱のある国家には長く滞在しない。天下に道義が行われる太平の世には、表にたって活動するが、道義が失われる乱世には裏に隠れる。道義が行なわれる国家において、貧乏で無名の生活をおくるのは不名誉なことである。道義が行なわれない国家において、財産をもち高位に上るのは不名誉なことである』」(「論語・第四巻・第八・泰伯篇・十三・P.223~224」中公文庫 一九七三年)
「多く淪落(りんらく)の悲(かな)しびを積(つ)む」は白居易参照。
「同是天涯淪落人
(書き下し)同(おな)じくこれ天涯淪落(てんがいりんらく)の人(ひと)
(現代語訳)おまえもわたしも同じく世界のはてにおちぶれた人間」(漢詩選10「琵琶引」『白居易・P.255~261』集英社)
こうもある。
「顔子(がんし)が一瓢(いっぴょう)水清くして、独(ひと)り道ある事を知る」(「太平記3・第十七巻・十七・P.187」岩波文庫 二〇一五年)
「論語」から。
「子曰、賢哉回也、一箪食、一瓢飲、在陋巷、人不堪其憂、回也不改其楽、賢哉回也
(書き下し)子曰く、賢なるかな回(かい)や、一箪(たん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、陋巷(ろうこう)に在(あ)り。人はその憂(うれ)いに堪(た)えず、回はその楽(たの)しみを改めず。賢なるかな回や。
(現代語訳)先生がいわれた。『なんとすぐれた男であることよ、顔回という男は。毎日、竹の弁当箱一杯のご飯と、ひさごのお椀(わん)一杯の飲み物で、狭い路地(ろじ)の奥に住んでいる。ふうつの人間はとても憂欝(ゆううつ)でたまらなくなるだろうが、回は道を学ぶ楽しさをちっとも忘れない。なんとすぐれた男であることよ』」(「論語・巻第三・第六・雍也篇・十一・P.157」中公文庫)
そうはいうものの実際の家屋はもはや豹変してしまっている。
「相如(しょうじょ)が四壁(しへき)風冷(すさま)じうして、衣なきに堪へず」(「太平記3・第十七巻・十七・P.187」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・司馬相如列伝」から。
「梁の孝王はかれを諸士たちと同じ宿舎に住まわせた。司馬相如は学者・論客たちと生活をともにすることができ、そうして数年たって、かれは『子虚(しきょ)の賦(ふ)』を書きあらわした。そのころ、梁の孝王が卒した(前一四四年)。司馬相如はそこで〔郷里の成都へ〕帰ったが、かれの家は貧しくなっていて、生活の手段となるものは何ひとつ残っていなかった」(「司馬相如列伝 第五十七」『史記列伝4・P.154~155』岩波文庫 一九七五年)
しかし「太平記」はまだ半分も過ぎてはいない。
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