足利尊氏が征夷大将軍になると足利方に立って戦った武士らはみんな一段と高い位を狙い論功行賞を待った。その様子。
「象外(しょうがい)の撰に当たり、俗骨(ぞっこつ)忽(たちま)ちに蓬莱(ほうらい)の雲を踏み、或いは乱階(らんかい)の賞によつて庸才(ようさい)立ちどころに台閣(たいかく)の月を攀(よ)ず」(「太平記3・第十九巻・二・P.305」岩波文庫 二〇一五年)
「和漢朗詠集」からの引用。
「昇殿是象外之選也 俗骨不可以踏蓬莱之雲 尚書下之望也 庸才不可以攀臺閣之月
(書き下し)昇殿(しようでん)はこれ象外(しやうぐわい)の選(えら)びなり 俗骨(しよくこつ)もて蓬莱(ほうらい)の雲を踏(ふ)むべからず 尚書(しやうしよ)はまた天下の望(のぞ)みなり 庸才(ようさい)もて臺閣(たいかく)の月を攀(よ)づべからず」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・述懐・七五七・橘直幹・P.283~284」新潮社 一九八三年)
さらにこうある。
「銀鞍(ぎんあん)未だ解かず、五馬(ごば)忽(たちま)ち重山(ちょうざん)の雲に鞭(むちう)ち、蘭橈(らんにょう)未だ乾(かわ)かず、巨船(こせん)遥(はる)かに滄海(そうかい)の波に棹(さおさ)す」(「太平記3・第十九巻・二・P.305」岩波文庫 二〇一五年)
「本朝文粋」所収、平兼盛による「申遠江駿河等守状」が参照されている。
「馬鞍未解、早鞭重山之雲、舟檝未乾、急棹畳浪之岸」(新日本古典文学体系「申遠江駿河等守状」『本朝文粋・巻第六・一五五・平兼盛・P.217』岩波書店 一九九二年)
恒良(つねよし)親王と成良(なりよし)親王との兄弟毒殺については以前触れた。恒良親王の言葉の中にこうある。
「籠鳥(ろうちょう)の雲を恋ひ、涸魚(かくぎょ)の水を求むる」(「太平記3・第十九巻・四・P.317」岩波文庫 二〇一五年)
籠の中の鳥、水のない道端に落ちた魚のようなもので、空を恋い水を求めはするものの、この先はもうないだろうという意味。「本朝文粋」から。
「唯有籠鳥恋雲之思、未免轍魚近肆之悲」(新日本古典文学体系「申勘解由次官図書頭状」『本朝文粋・巻第六・一五四・平兼盛・P.216』岩波書店 一九九二年)
後醍醐帝はふたたび奈良吉野へ潜行する。越前金ヶ崎落城の衝撃は大きく、しばらくは足利方の天下になるのではと憶測が流れる。ところが金ヶ崎城籠城戦の際、たまたま杣山方面へ出ていた新田義貞・脇屋義助は生きているということがわかり、諸国ではあちこち後醍醐方再起をかけ改めて蜂起する軍勢が出現してきた。望みを繋ごうとする逸話が二つ挙げられる。
(1)「異国には趙盾(ちょうとん)」(「太平記3・第十九巻・六・P.322」岩波文庫 二〇一五年)
趙盾(ちょうとん)は晋の高官。霊公の暴政を諫めることが度々あり逆に霊公に殺されそうになり一時亡命した。国内に残っていた趙穿(ちょうせん)が霊公を弑(しい)したため帰国することができ、また趙盾の子は父亡きあと、晋の高官として国政についた。
「霊公は即位して十四年、いよいよ驕慢(きょうまん)になり、しばしば趙盾に諫(いさ)められたが、聴かなかった。熊掌(ゆうしょう=熊の掌の料理)を食べたところ、よく煮えとおっていなかったので、料理人を殺し、その屍(しかばね)を運び出させた。それを趙盾にに見つけられると、霊公は恐れて盾を殺そうとした。盾はもともと恵み深く人をいつくしんだ。かつて桑の樹の下で餓死しようとしていたのを盾に救われた者があった。その後、晋に宮仕えしていたが、いま盾の危いのを知ると難をふせいで救ったため、盾は逃げることができた。国境を出ないうちに、趙穿(ちょうせん)が霊公を弑(しい)し襄公の弟黒臀(こくとん)を立てた。これが成公である。それで趙盾はまた引き返して、国政にあたったが、君子らは盾が正卿でありながら、逃げて国境を出もせず、還って賊を討とうともしなかったことを非難した。それゆえ太史(史官)は、『趙盾、その君を弑す』と記録した。晋の景公の時になって、趙盾は卒し、宣孟(せんもう)と諡された。子の朔(さく)があとを嗣(つ)いだ」(「趙世家・第十三」『史記3・世家・上・P.326~327』ちくま学芸文庫 一九九五年)
(2)「犂牛(りぎゅう)の喩(たと)へ」(「太平記3・第十九巻・六・P.322」岩波文庫 二〇一五年)
「論語」からの引用。
「子謂仲弓日、犂牛之子、騂且角、雖欲勿用、山川其舎諸
(書き下し)子、仲弓(ちゅうきゅう)を謂(い)いえ曰わく、犂牛(りぎゅう)の子も騂(あか)く且(か)つ角(つの)あらば、用うる勿(な)からんと欲すと雖(いえど)も、山川それ諸(これ)を舎(す)てんや。
(現代語訳)先生が仲弓の人物を評していわれた。『鋤(すき)を引くまだら牛の仔(こ)でも、赤毛でととのった角(つの)をいただいていると、人間が祭のいけにえにあてないでおこうと思っても、山と川の神々さまのほうで、目こぼしにはなさらないだろうよ』」(「論語・第三巻・第六・雍也篇・六・P.150」中公文庫)
ともあれ戦況は日々変容していく。あっちに付き、こっちに付きと、渡り歩いている武将などもいたわけで、そういう場合は考えても考えてもどうしようもないと思ったのか、なかには身の置き場を失くし出家する者も出てきた。
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「象外(しょうがい)の撰に当たり、俗骨(ぞっこつ)忽(たちま)ちに蓬莱(ほうらい)の雲を踏み、或いは乱階(らんかい)の賞によつて庸才(ようさい)立ちどころに台閣(たいかく)の月を攀(よ)ず」(「太平記3・第十九巻・二・P.305」岩波文庫 二〇一五年)
「和漢朗詠集」からの引用。
「昇殿是象外之選也 俗骨不可以踏蓬莱之雲 尚書下之望也 庸才不可以攀臺閣之月
(書き下し)昇殿(しようでん)はこれ象外(しやうぐわい)の選(えら)びなり 俗骨(しよくこつ)もて蓬莱(ほうらい)の雲を踏(ふ)むべからず 尚書(しやうしよ)はまた天下の望(のぞ)みなり 庸才(ようさい)もて臺閣(たいかく)の月を攀(よ)づべからず」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・述懐・七五七・橘直幹・P.283~284」新潮社 一九八三年)
さらにこうある。
「銀鞍(ぎんあん)未だ解かず、五馬(ごば)忽(たちま)ち重山(ちょうざん)の雲に鞭(むちう)ち、蘭橈(らんにょう)未だ乾(かわ)かず、巨船(こせん)遥(はる)かに滄海(そうかい)の波に棹(さおさ)す」(「太平記3・第十九巻・二・P.305」岩波文庫 二〇一五年)
「本朝文粋」所収、平兼盛による「申遠江駿河等守状」が参照されている。
「馬鞍未解、早鞭重山之雲、舟檝未乾、急棹畳浪之岸」(新日本古典文学体系「申遠江駿河等守状」『本朝文粋・巻第六・一五五・平兼盛・P.217』岩波書店 一九九二年)
恒良(つねよし)親王と成良(なりよし)親王との兄弟毒殺については以前触れた。恒良親王の言葉の中にこうある。
「籠鳥(ろうちょう)の雲を恋ひ、涸魚(かくぎょ)の水を求むる」(「太平記3・第十九巻・四・P.317」岩波文庫 二〇一五年)
籠の中の鳥、水のない道端に落ちた魚のようなもので、空を恋い水を求めはするものの、この先はもうないだろうという意味。「本朝文粋」から。
「唯有籠鳥恋雲之思、未免轍魚近肆之悲」(新日本古典文学体系「申勘解由次官図書頭状」『本朝文粋・巻第六・一五四・平兼盛・P.216』岩波書店 一九九二年)
後醍醐帝はふたたび奈良吉野へ潜行する。越前金ヶ崎落城の衝撃は大きく、しばらくは足利方の天下になるのではと憶測が流れる。ところが金ヶ崎城籠城戦の際、たまたま杣山方面へ出ていた新田義貞・脇屋義助は生きているということがわかり、諸国ではあちこち後醍醐方再起をかけ改めて蜂起する軍勢が出現してきた。望みを繋ごうとする逸話が二つ挙げられる。
(1)「異国には趙盾(ちょうとん)」(「太平記3・第十九巻・六・P.322」岩波文庫 二〇一五年)
趙盾(ちょうとん)は晋の高官。霊公の暴政を諫めることが度々あり逆に霊公に殺されそうになり一時亡命した。国内に残っていた趙穿(ちょうせん)が霊公を弑(しい)したため帰国することができ、また趙盾の子は父亡きあと、晋の高官として国政についた。
「霊公は即位して十四年、いよいよ驕慢(きょうまん)になり、しばしば趙盾に諫(いさ)められたが、聴かなかった。熊掌(ゆうしょう=熊の掌の料理)を食べたところ、よく煮えとおっていなかったので、料理人を殺し、その屍(しかばね)を運び出させた。それを趙盾にに見つけられると、霊公は恐れて盾を殺そうとした。盾はもともと恵み深く人をいつくしんだ。かつて桑の樹の下で餓死しようとしていたのを盾に救われた者があった。その後、晋に宮仕えしていたが、いま盾の危いのを知ると難をふせいで救ったため、盾は逃げることができた。国境を出ないうちに、趙穿(ちょうせん)が霊公を弑(しい)し襄公の弟黒臀(こくとん)を立てた。これが成公である。それで趙盾はまた引き返して、国政にあたったが、君子らは盾が正卿でありながら、逃げて国境を出もせず、還って賊を討とうともしなかったことを非難した。それゆえ太史(史官)は、『趙盾、その君を弑す』と記録した。晋の景公の時になって、趙盾は卒し、宣孟(せんもう)と諡された。子の朔(さく)があとを嗣(つ)いだ」(「趙世家・第十三」『史記3・世家・上・P.326~327』ちくま学芸文庫 一九九五年)
(2)「犂牛(りぎゅう)の喩(たと)へ」(「太平記3・第十九巻・六・P.322」岩波文庫 二〇一五年)
「論語」からの引用。
「子謂仲弓日、犂牛之子、騂且角、雖欲勿用、山川其舎諸
(書き下し)子、仲弓(ちゅうきゅう)を謂(い)いえ曰わく、犂牛(りぎゅう)の子も騂(あか)く且(か)つ角(つの)あらば、用うる勿(な)からんと欲すと雖(いえど)も、山川それ諸(これ)を舎(す)てんや。
(現代語訳)先生が仲弓の人物を評していわれた。『鋤(すき)を引くまだら牛の仔(こ)でも、赤毛でととのった角(つの)をいただいていると、人間が祭のいけにえにあてないでおこうと思っても、山と川の神々さまのほうで、目こぼしにはなさらないだろうよ』」(「論語・第三巻・第六・雍也篇・六・P.150」中公文庫)
ともあれ戦況は日々変容していく。あっちに付き、こっちに付きと、渡り歩いている武将などもいたわけで、そういう場合は考えても考えてもどうしようもないと思ったのか、なかには身の置き場を失くし出家する者も出てきた。
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