白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・宮家と武家/夢窓疎石のダブルバインド

2021年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム
一宮(いちのみや)尊良親王の自害というより、一宮の恋愛譚はなぜこのようにドラマティックに描き立てられたのか。

「昔、漢(かん)の李夫人(りふじん)、甘泉殿(かんせんでん)の病(やまい)の床(とこ)に臥(ふ)してはかなくなりたりしを、漢の武帝(ぶてい)、悲しみに堪へかねて、返魂香(はんごうこう)を焼(や)き給ひしに、煙(けぶり)の中に李夫人の面影(おもかげ)幽(かす)かに見えたりしを、似(に)せやかに画(か)かせて御覧ぜられしかれども『言(ものい)はず笑はず人を愁殺せしむ』」(「太平記3・第十八巻・十一・P.257」岩波文庫 二〇一五年)

もとより白居易「李夫人」からの引用。

「甘泉殿裏令寫眞 丹靑畫出竟何益 不言不笑愁殺人

(書き下し)甘泉殿裏(かんせんでんり)に眞(しん)を寫(うつ)さしむ 丹靑(たんせい)畫(ゑが)きいだすもつひに何(なん)の益(えき)かある 言(い)はず笑(わら)はず人(ひと)を愁殺(しうさつ)す。 

(現代語訳)甘泉殿(かんせんでん)に肖像をかかせておかれた。絵にかいたってなんの役にたとう ものもいわねば笑いもしないでひどく悲しませるだけだ」(漢詩選10「李夫人」『白居易・P.95~97』集英社 一九九六年)

さらにこうある。

「牆(かき)に苔生(お)ひ、瓦(かわら)に松生(お)ひて」(「太平記3・第十八巻・十一・P.259」岩波文庫 二〇一五年)

これもまた白居易からの引用。

「牆有衣兮瓦有松

(書き下し)牆(かき)に衣(こけ)あり瓦(かはら)に松(しょう)あり。

(現代語訳)垣にはこけがはえ瓦にはシノブがはえている」(漢詩選10「驪宮高」『白居易・P.88~90』集英社 一九九六年)

周囲の眼にも理解者がいた。

「さやうに宮の思し召したらんずるを、いかが便(びん)ならざる事はあるべき」(「太平記3・第十八巻・十一・P.265~266」岩波文庫 二〇一五年)

相思相愛の意味を肌で知る者はいるものだ。百日通うほどのことが出来るならその愛はまったく本物に違いないと。謡曲「通小町(かよいこまち)」にこうある。

「さらばおことは車の榻(しじ)に、百夜(ももよ)待ち所を申させ給へ、我は又百夜通ひし処をまなうで見せ申候べし」(新日本古典文学体系「通小町」『謡曲百番・P.158』岩波書店)

「太平記」には次にこうある。

「生きては偕老(かいろう)の契(ちぎ)りを深くし、死しては同じ苔の下にと思(おぼ)し召(め)し交(か)はして、十年(ととせ)あまりになりにける」(「太平記3・第十八巻・十一・P.266」岩波文庫 二〇一五年)

(1)「詩経・邶風」から。

「死生契濶 與子成説 執子之手 與子偕老

(書き下し)死生契濶(しせいけつかつ) 子(きみ)と説(ちぎ)りを成(な)しぬ 子(きみ)の手(て)を執(と)り  子(きみ)と偕(とも)に老(お)いんと

(現代語訳)〔家にのこした妻よ、〕死んでも生きてもどんな苦労な目にあおうともと、おまえさんとの間にはちゃんとした約束がある。おまえさんの手をにぎりながら、おまえさんと一しょにともしらがまでと約束したっけ」(「邶風・撃鼓」『中國詩人選集2・詩経国風・上・P.123』岩波書店 一九五八年)

(2)「詩経・王風」から。

「死則同穴

(書き下し)死(し)しては則(すなわ)ち穴(あな)を同(おな)じくせん

(現代語訳)死んでからも同じお墓にはいりましょう」(「王風・大車」『中國詩人選集2・詩経国風・下・P.33~34』岩波書店 一九五八年)

また「本朝文粋」に小野篁(おののたかむら)の類句が見える。「詩経」は紀元前八世紀成立とされるのでそれに学んだ篁の手腕が冴える。

「幸願蒙府君之恩許、共同穴偕老之義。

(書き下し)幸(さいはひ)に願(ねが)はくは府君(ふくん)の恩許(おんきよ)を蒙(かうぶ)りて、同穴偕老(とうけつかいらう)の義(ぎ)を共(とも)にせん」(新日本古典文学体系「奉右大臣」『本朝文粋・巻第七・一八六・小野篁・P.46、P.242』岩波書店 一九九二年)

ただ次の文章では一宮も御息所(みやすどころ)もまだ死んでいない。御息所を松浦党の船に乗っ取られた秦武文(はたのたけふん)は呪っていう。

「『安からぬものかな。その義ならば、ただ今の程に海底の龍神(りゅうじん)となつて、その船をばやるまじきものを』と怒つて、腹十文字に掻き切り、蒼海(そうかい)の底に沈みけり」(「太平記3・第十八巻・十一・P.273」岩波文庫 二〇一五年)

松浦党の連中もなんだか気味悪くなってくる。御息所の心境は次の通り。

「鬼と一つ車に乗せられ、巫(ぶ)の三狭(さんこう)に棹(さお)さすらんも」(「太平記3・第十八巻・十一・P.274」岩波文庫 二〇一五年)

「和漢朗詠集」からの引用。

「載鬼一車何足恐 棹巫三狭未為危

(書き下し)鬼(おに)を一車(ひとくるま)に載(の)すとも何(なん)の恐るるに足(た)らむ 巫(ぶ)の三狭(さんかふ)に棹(さを)さすともいまだ危(あやふ)しとせず」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・述懐・七六〇・兼明親王・P.285」新潮社 一九八三年)

謎の僧侶が乗船していて、松浦党の連中が女人を捕えているのを見てこう言う。

「南方無垢(なんぽうむく)の成道(じょうどう)」(「太平記3・第十八巻・十一・P.278」岩波文庫 二〇一五年)

「法華経」の一節。

「皆見龍女。忽然之間。變成男子。具菩薩行。即往南方。無垢世界。坐寳蓮華。成等正覺。三十二相。八十種好。普爲十万。一切衆生。演説妙法。

(書き下し)皆、竜女の、忽然(こつねん)の間に変じて男子(なんし)と成り、菩薩の行を具して、すなわち、南方の無垢(むく)世界に往き、宝蓮華に坐して、等正覚を成じ、三十二相・八十種好ありて、普(あまね)く十方の一切衆生のために、妙法を演説するを見たり」(「法華経・中・巻第五・提婆達多品・第十二・P.224」岩波文庫)

それにしてもどうしてこんなことになってしまったのか。一宮はこう思う。

「王質(おうしつ)が山より出でて七世(しちせ)の孫に逢ひ、方士(ほうし)が海に入りて楊貴妃(ようきひ)を見奉りしに異ならず」(「太平記3・第十八巻・十一・P.284~285」岩波文庫 二〇一五年)

(1)「和漢朗詠集」から。

「謬入仙家 雖為半日之客 恐帰旧里 纔逢七世之孫

(書き下し)謬(あやま)て仙家(せんか)に入(い)て 半日(はんじつ)の客(かく)たりといへども 恐(おそ)らくは旧里(きうり)に帰(かへ)て 纔(わづ)かに七世(しちせ)の孫(むまご)に逢(あ)はむことを」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・仙家・五四五・大江朝綱・P.207」新潮社 一九八三年)

(2)白居易「長恨歌」から。

「遂敎方士慇懃覓 排空馭気奔如電 升天入地求之遍 上窮碧落下黄泉 兩處茫茫皆不見 忽聞海上有仙山

(書き下し)つひに方士(はうし)をして慇懃(いんぎん)に覓(もと)めしむ。空(くう)を排(はい)し気(き)に馭(ぎよ)して奔(はし)ること電(いなづま)のごとく 天(てん)に升(のぼ)り地(ち)に入(い)りこれを求(もと)むる遍(あまね)し。上(かみ)は碧落(へきらく)を窮(きは)め下(しも)は黄泉(くわうせん) 兩處(りやうしよ) 茫茫(ばうばう)としてみな見えず。たちまち聞(き)く海上(かいじやう)に仙山(せんざん)あり」(漢詩選10「長恨歌」『白居易・P.46~47』集英社 一九九六年)

「太平記」はこう述べる。

「長生殿(ちょうせいでん)の内には、梨花(りか)の雨(あめ)土を破らず、不老門(ふろうもん)の前には、楊柳(ようりゅう)の風(かぜ)枝を鳴らさず」(「太平記3・第十八巻・十一・P.285」岩波文庫 二〇一五年)

形式は(1)「和漢朗詠集」から持ち込んだもの。

「長生殿裏春秋富 不老門前日月遅

(書き下し)長生殿(ちやうせいでん)の裏(うら)には春秋(しゆんしう)富(と)めり 不老門(ふらうもん)の前(まへ)には日月(じつぐゑつ)遅(おそ)し」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・祝・七七四・慶滋保胤・P.289」新潮社 一九八三年)

その中に(2)白居易「長恨歌」から「梨花(りか)の雨(あめ)」と引用されている。

「梨花一枝春帯雨

(書き下し)梨花一枝(りくわいつし) 春(はる) 雨(あめ)を帯(お)ぶ

(現代語訳)たとえば一枝(いっし)のなしの花が春雨にぬれたよう」(漢詩選10「長恨歌」『白居易・P.48~55』集英社 一九九六年)

それからほどなく建武四年(一三三七年)、一宮は金ヶ崎城で自害。御息所は衰弱が激しく、一宮の四十九日を迎えることなく死去。一宮の頸(くび)は京に送られ、葬礼は夢窓疎石が執り行った。夢窓はいう。

「古より今にいたるまで、山水(せんずい)とて山を築(つ)き石を立てて、樹を植ゑ水を流して、嗜愛する人多し。その風情は同じといへども、その意趣は各々ことなり。或は我が心には、さしも面白しとは思はねども、ただ家の飾りにして、よその人にいしげなる住居(すまゐ)かなと言はれむために、構ふる人もあり。或はよろづの事に貪着(とんぢやく)の心ある故に、世間の珍宝を集めて嗜愛する中に、山水をもまた愛して、奇石珍木をえらび求めて、集め置ける人もあり。かやうの人は、山水のやさしきことをば愛せず。ただこれ俗塵を愛する人なり。白楽天、小池を堀りてその辺(ほと)りに竹を植ゑて愛せられき。その語に云く、竹はこれ心虚(むな)しければ、我が友とす。水はよく性浄(きよ)ければ、吾が師とすと云云。世間に山水を好み給ふ人、同じくは楽天の意のごとくならば、実にこれ俗塵に混ぜざる人なるべし。或は天性淡伯にして、俗塵の事をば愛せず。ただ詩歌を吟じ、泉石にうそぶきて、心を養ふ人あり。烟霞の痼疾(こしつ)泉石の膏盲(かうくわう)と言へりるは、かやうの人の語なり。これをば世間のやさしき人と申しぬべし。

たとひかやうなりとも、もし道心なくば、亦これ輪廻の基(もと)なり。或はこの山水に対して、ねぶりをさまし、つれづれを慰めて、道行の助けとする人あり。これはつねざまの人の山水を愛する意趣には同じからず。まことに貴しと申しぬべし。然れども、山水と道行と差別せる故に、真実の道人とは申すべからず。或は山河大地、草木瓦石、皆これ自己の本分なりと信ずる人、一旦山水を愛することは、世情に似たれども、やがてその世情を道心として、泉石草木の四気にかはる気色を、工夫する人あり。もしよくかやうならば、道人の山水を愛する模様としぬべし。然らば則ち、山水を好むは、定めて悪事ともいふべからず。定めて善事とも申しがたし。山水に得失なし。得失は人の心にあり」(夢窓国師「夢中問答集・中・P.163~164」講談社学術文庫 二〇〇〇年)

後に足利義詮(よしあきら)のブレーン筆頭となる夢窓疎石だが、その地位ゆえに後醍醐帝(宮方)を無視するわけにはいかない。「慰め」と言っているが、夢窓にとって作庭以上の自己慰撫は他になかったに違いない。冷静であるために。

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