白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「太平記」作者の不在

2021年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム
建武二年(一三三五年)、北条高時の次男・時行(ときゆき)は「中先代(なかせんだい)の乱」を起こし北条家はまだ滅亡していないことを世間にアピールしたが敗北。諸国を転々と流浪・潜伏していた。ところが金ヶ崎城落城後も新田義貞・脇屋義助の軍が越前で生き延びていると聞き、奈良吉野へ潜幸した後醍醐帝へ使者を送り、かつて朝敵となった過去を恩赦する綸旨を受け取ることに成功した。宿敵・足利尊氏打倒への許しを得たことになる。同じ頃、奥州国司(こくし)を務めていた北畠顕家(きたばたけあきいえ)も金ヶ崎落城後、大勢の家臣に逃げられて気持ちは塞ぎ領地も戦意もほとんど亡くしていたが、新田義貞が北国で再度挙兵との報を聞き、陸奥国(みちのくのくに)一円に回状を廻して失地回復の意向を伝えたところ、たちまち同志が集まった。さらに新田義貞の次男・義興(よしおき)は上野国(こうずけのくに=今の群馬県)から武蔵国(むさしのくに=今の埼玉県・東京都北部)へ軍を進め入間川(いるまがわ)へ到着した。

東国に散らばっていた後醍醐方の武士団は瞬く間に巨大化。京へ向かって進軍する。ところどころで散発的戦いに打ち勝ち、美濃国墨俣(みののくにすのまた=今の岐阜県大垣市墨俣)に着くころ、北畠顕家勢は六十万騎に膨れ上がっていた。ところが次の青野原(あおのがはら=今の岐阜県大垣市青野から不破郡垂井付近)で、足利勢との合戦を前にして北畠顕家は戦場から離れ後醍醐帝のいる吉野へ向かう。北国で陣を張る新田義貞とも合流しない。もしこの合戦に打ち勝てば尊氏のいる京は目の前。しかし青野原で勝った場合、軍功という点でいえば北畠顕家ではなく新田義貞・義興親子のものになるのは明らか。それではせっかく東北から上ってきたにもかかわらず余りにもつまらないと思った北畠顕家。黒地川(くろじがわ=今の岐阜県不破郡関ヶ原を流れる黒血川)と関の藤川(せきのふじかわ=今の岐阜県関ヶ原町を流れる藤古川)に陣取った足利軍と戦わずに現場を離れた。その間、足利方は青野原(あおのがはら)合戦の方針をめぐって二個の兵法を論じている。

(1)決戦派。土岐頼遠(ときよりとお)の言葉にこうある。

「楚の宋義(そうぎ)が、『虻(あぶ)を殺すには、その馬を撃(う)たず』と云ひしに似たるべし」(「太平記3・第十九巻・九・P.333」岩波文庫 二〇一五年)

宋義(そうぎ)が提案した方法で一致していたところに土岐頼遠が異論を唱えた形になる。そもそも宋義(そうぎ)は項羽に対してこう言っている。「史記・項羽本紀」から。

「項羽が、『わしは秦軍が趙王を鉅鹿に包囲していると聞いているが、はやく兵を率いて黄河を渡り、楚軍が外から趙軍が内から応戦すれば、きっと秦軍を破れると思う』と言うと、宋義は、『そうではない。手で牛をうっても、上にとまった蝱(あぶ)は殺せるが、なかの蝨(しらみ)は殺せない。いま秦は趙を攻め、もし戦いに勝っても兵はつかれるだろうから、わが方はそのつかれに乗ずるのがよく、勝たなければ兵を率い、鼓を打って堂々と西に向かえばよい。きっと秦を破ることができよう。だからまず秦と趙を闘わすのが何よりの得策である。堅(よろい)をつけ鋭(ぶき)をとって戦うことは、わしは公に及ばぬが、坐っていて策略をめぐらすことでは、公はわしに及ばぬ』と言い」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.202』ちくま学芸文庫 一九九五年)

しかしそれでは敗北して死ねば勇士としての名は残るだろうが、合戦自体に負けてしまえば元も子もないというわけで、(2)「嚢砂背水(のうしゃはいすい)の陣(じん)」を取ることになった。「嚢砂・背水」ともに「史記・淮陰候列伝」にある。

「嚢砂(のうしゃ)」について。

「かくて戦闘が行なわれ、韓信と濰水(いすい)をはさんで対陣した。韓信はそこで夜、部下に作らせた一万余りの袋の中に砂をいっぱいにつめさせ、川上で流れをせきとめ、軍をひきつれ半分ほど川を渡って竜且を攻撃したが、負けたふりをして退却した。竜且ははたして喜び、『韓信が臆病なことは知れ切っていたわい』といい、そのまま韓信を追撃して川を渡り出した。韓信は部下に命じ、せきとめた土嚢(どのう)を切り開かせるや、川水は一度にどうと流れてきた。竜且の軍の大半は川を渡りきれなかった。すかさずすぐに攻撃を加えて竜且を殺した。竜且の部下で川の東に残っていた軍兵は、ちりぢりになって逃走し、斉王の田広も逃げ去った。かくて韓信は逃げる敵を城陽(じょうよう)まで追いかけ、楚の兵卒を全員捕虜とした」(「淮陰候列伝・第三十二」『史記列伝3・P.23』岩波文庫 一九七五年)

「背水(はいすい)」について。

「韓信はそこで一万人の兵を先行させ、〔井陘の口を〕出ると、河を背にして陣がまえさせた。趙軍は遥かにそれを眺めて、大笑いした。あけがた、韓信は大将の旗じるしと陣太鼓をうちたて、進軍の太鼓を鳴らしながら、井陘の出口を出た。趙はとりでを開いて出撃し、しばらくの間、大激戦が展開された。このとき韓信と張耳は負けたふりをして、太鼓や旗さしものを投げ捨て、河岸の陣へと逃走した。河岸の軍は、陣を開いて受けいれた。ふたたび激しい戦闘となった。趙の軍ははたしてとりでをがらあきにして、漢の太鼓や旗さしものを奪いとろうと競争し、韓信と張耳の軍を追って来た。韓信と張耳が河岸の軍に入ったあと、その軍兵はみな必死になって戦ったので、うち破ることができなかった。〔そのあいだに〕韓信が出しておいた別働隊二千騎は、趙がとりでをがらあきにして戦利品を追い求めるのをうかがっていたから、いまこそと趙のとりでの中へかけ入り、趙の旗さしものを全部ぬきとり、漢の赤旗二千本をうち立てた。趙軍は勝とうとして勝てず、韓信らをとらえることもできず、とりでにひき返そうとしたとき、とりでの上すべて漢の赤旗がひらめいて、それを見るや仰天して漢はもはや趙の王や将軍たちを全部とらえたものと思いこんだ。兵はかくて混乱し逃走しだした。趙の将軍がかれらを斬ったが、くいとめることはできなかった。この機をすかさず、漢軍は前後からはさみうちし、趙の軍をさんざんにうち破って、捕虜とし、成安君(陳余)を泜水(ちすい)の側で斬り殺し、趙王歇(けつ)を捕虜とした」(「淮陰候列伝・第三十二」『史記列伝3・P.16~17』岩波文庫 一九七五年)

一方、北国で息を吹き返したとはいえ合戦続きで兵糧に行き詰まっていた新田勢。土地の民家を襲い神社仏閣から財物を略奪し、地元での評判を日に日に落としていた。越後・加賀・越中・越前の者らは新田勢を非難してこう囁いた。

「霊神(れいじん)怒りを為せば、災害岐(ちまた)に満つ」(「太平記3・第二十巻・2・P.350」岩波文庫 二〇一五年)

「平家物語」前半で「貞観政要」から引用された文章のそのまた引用。

「霊神(レイシン)怒(イカリ)をなせば、災害(サイガイ)岐(チマタ)に満(み)つといへり」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第一・内裏炎上・P.59」岩波書店 一九九一年)

北国で乱暴狼藉の限りを尽くしている新田方の手の武士たち。そのうち新田義貞の身には良くないことが起こる前兆(きざし)かもしれないと密かに思い始める人々もいたらしい。

しかし義貞軍には勢いがある。足羽城(あすわのじょう)・黒丸城(くろまるじょう)攻めにかかっていた。義貞軍勝利はもう「掌(たなごころ)をさす」ほど明らかと見えていた。

「義貞の勢いよいよ強大になつて、足羽城(あすわのじょう)を拉(とりひしぐ)事、隻手(せきしゅ)の中(うち)にありと、人皆(ひとみな)、掌(たなごころ)をさす思ひをなせり」(「太平記3・第二十巻・三・P.351」岩波文庫 二〇一五年)

この「掌(たなごころ)をさす」は「論語」にある。

「或問禘之説、子曰、不知也、知其説者之於天下也、其如示諸斯乎、指其掌

(書き下し)或る人、禘(てい)の説を問う。子曰わく、知らざるなり。その説を知る者の天下に於(お)けるや、それ諸(これ)を斯(ここ)に示(み)るが如(ごと)きかと。その掌(たなごころ)を指(さ)せり。

(現代語訳)さるお方(かた)が禘(てい)の祭について見解をただした。先生がいわれた。『禘の祭のことなど、私は何も存じませんよ。禘について見解を持ちうる人なら、世界のことでも、ちょうどこれを見るようなものでしょう』と語りながら、自分の手のひらをゆびさされた」(「論語・第二巻・第三・八佾篇・十一・P.68~69」中公文庫)

そんな折、吉野の後醍醐帝から義貞のもとに勅書がもたらされた。京都の八幡山(やわたやま=今の京都府八幡市石清水八幡宮)に立て籠もっている新田義興(よしおき)・北畠顕信(あきのぶ)の軍勢が足利勢に包囲されているようなので北国の戦闘はひとまず差し置いて「京都の征戦(せいせん)」に専念しろというもの。そこで義貞は延暦寺を味方に付けて京を包囲することを考えた。そのため延暦寺と同盟したいと依頼した書状にこうある。

「素昔(そせき)を覿(み)、眇(はる)かに玄風(げんぷう)を聴く」(「太平記3・第二十巻・四・P.354」岩波文庫 二〇一五年)

「文選・序文」からの引用。

「式觀元始、眇覿玄風

(書き下し)式(もっ)て元始(げんし)を観(み)、眇(はる)かに玄風(げんぷう)を覿(み)れば

(現代語訳)世界の始原を閲(けみ)し、遠く玄妙なる風気を検(けみ)すれば」(「文選・詩篇・6・文選序・昭明太子・P.416」岩波文庫 二〇一九年)

同盟依頼の書状を送ったのは義貞。署名も義貞の名で出されている。だがその文面をあらかじめ用意しておき筆で書いたのは児島高徳(こじまたかのり)。長く「太平記」の作者として語られてきたが実在した形跡は見当たらず、三宅(みやけ)高徳・和田(わだ)高徳とも書かれており、謎の人物。「逆臣(ぎゃくしん)尊氏(たかうじ)直義(ただよし)以下(いげ)の党類を誅罰(ちゅうばつ)し、仏法王法(ぶっぽうおうほう)の光栄を致さん」とか「天誅(てんちゅう)を行はん」とか書き述べており、今そんな文章をネットに書き込もうものならたちまち警察に目を付けられそうな思想家。一九四五年夏の原爆投下までは日本でも稀にみる忠臣として有名だったが、戦後その名はすべての歴史教科書から瞬時に消え失せた。書面にはこうもある。

「九五(きゅうご)の聖位(せいい)」(「太平記3・第二十巻・四・P.355」岩波文庫 二〇一五年)

この箇所は「天子」とはどのような位(くらい)を言うのかについて。「易経」からの引用。

「九五。飛龍在天。利見大人。

(書き下し)九五。飛竜天に在り。大人を見るに利ろし。

(現代語訳)九五は陽剛中正、飛んで天に昇った竜。才徳が充実し志を得て人の上に立った者にもたとえられようが、なお在下の大人賢者(九二)を得てその助けをかりることを心掛けるがよい(彖伝、文言伝は大人をこの九五の君とする)」(「易経・上・乾爲天(けんいてん)・P.79~81」岩波文庫 一九六九年)

「大人・君子の道」とはどのような意味でいうのか。「易経」では孔子の理論が引かれている。二箇所ばかり見ておこう。

(1)「同人先號咷而後笑。子曰、君子之道、或出或處、或黙或語。二人同心、其利斷金。同心之言、其臭如蘭。

(書き下し)人に同じうするに先には号(な)き咷(さけ)び後には笑う。子曰く、君子の道、あるいは出であるいは処り、あるいは黙しあるいは語る。二人心を同じくすれば、その利(するど)きこと金を断つ。同心の言は、その臭(かおり)蘭のごとし。

(現代語訳)同人九五の爻辞には『人に同じうするに先には号(な)き咷(さけ)び後には笑う』とある。これについて孔子は次のように言う。君子の道は、時には大いに語り論ずるなど、時に応じてさまざまであるが、その心情の正しさを重んずる点においては変りがない。正しい心情の持主が二人して心をあわせれば、その鋭さは金鉄をも断ち得るほどであり、心を同じくする者のことばは、蘭の香(かお)りのごとくにかぐわしいものである」(「易経・下・周易繫辞上伝・P.227~231」岩波文庫 一九六九年)

(2)「天地之大徳曰生、聖人之大寶曰位、何以守位。曰仁。何以聚人。曰財。理財正辭、禁民爲非、曰義。

(書き下し)天地の大徳を生と曰(い)い、聖人の大宝を位を曰(い)う。何をもってか位を守る。曰く仁。何をもってか人を聚むる。曰く財。財を理(おさ)め辞を正しくし、民の非を為すを禁ずるを、義と曰う。

(現代語訳)天地の偉大な徳は、万物を生々して息むことのない生(せい)のはたらきであり、その天地にあやかる聖人の偉大な宝物は、天子の位である。しからば何によってその位を守るかといえば、それは仁=人(ひと)であり、何によってその人を聚めることが可能かといえば、それは財物である。そこでその財物を正しく管理し、理非曲直の判断を正しくし、民衆が非行におもむくのを禁ずることを義と名づけるのである」(「易経・下・周易繫辭下傅・P.251~254」岩波文庫 一九六九年)

児島高徳という人物は「太平記」を創作したのではなく、逆に「太平記」が創作したフィクションであり、日本史の専門分野では実在した形跡はないというのが通説である。

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