白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「太平記」後半が問う最下層階級とその実力

2021年09月19日 | 日記・エッセイ・コラム
康永一年(一三四二年)四月、脇屋義助は伊予に到着。盛大な歓迎を受ける。だが翌月の五月には発病、七日後に死去。四国にいた南朝方はいきなりどん底に叩き落とされたような衝撃を受けてしょんぼり。「太平記」はこう語る。

「宮方(みやがた)の大将軍にて国府(こう)に座せられたる脇屋刑部卿義助(わきやぎょうぶきょうよしすけ)、俄(にわ)かに病(やまい)を受けて、心身悩乱(のうらん)し給ひけるが、打(う)ち臥(ふ)す事わづかに七日を過ぎて、つひにはかなくなりにけり。相順(あいしたが)ふ官軍ども、ただ始皇(しこう)沙丘(さきゅう)に崩じて、漢楚(かんそ)機に乗らん事を悲しみ、孔明(こうめい)籌筆(ちゅうひつ)に死して、呉魏(ごぎ)便りを得ん事を愁(うれ)ふ。されば、(五更<ごこう>に燈<とぼしび>消えて、破窓<はそう>の雨に向かひ、中流<ちゅうる>に船を失ひて)、一瓠(いっこ)の浪に瓢(ただよ)ふが如し」(「太平記4・第二十四巻・三・P.95~96」岩波文庫 二〇一五年)

始皇帝の死は「史記・始皇本紀」からの引用。

「主上の病いは、いよいよひどくなった。すると始皇は公子の扶蘇(ふそ)に賜う璽書(じしょ)をつくって『棺を咸陽に迎えて葬式をせよ』と言った。詔書は封印がされ、中車府(ちゅうしゃふ=乗輿路車のことを司る官)の長官で符璽(ふじ)の事をおこなう趙高(ちょうこう)の所にあったが、まだ使者に渡されなかった。七月丙寅(へいいん)の日、始皇は沙丘(さきゅう)の平台(へいだい=河北・平郷の平台宮)で崩じた」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.164~165』ちくま学芸文庫 一九九五年)

しかし、ただ死去したというだけのことで秦が始皇帝からわずか三代で滅んだのにはまた別の理由がある。重臣だった趙高(ちょうこう)と李斯(りし)が公子胡亥(こがい)を唆して仲間に引き入れ、二代目皇帝になるはずだった扶蘇を死刑に処し、同時に賢臣として名高かった蒙恬(もうてん)も同時に死刑に処するという内容の遺言を偽造・公表・実行。

「高(こう)は公子胡亥、丞相李斯とひそかにはかり、始皇の封じた公子扶蘇に賜う詔書を破り棄て、いつわって丞相李斯が始皇の遺詔を沙丘で受けたと言い、胡亥を立てて太子とした。また別に扶蘇と蒙恬(もうてん)に賜う詔書を偽造して、二人の罪状を数え、どちらにも死を賜うと申し送った」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.165』ちくま学芸文庫 一九九五年)

「列伝」にも同じくこうある。

「始皇帝の詔(みことのり)を丞相が受けた、といつわり(おもてむき始皇帝はまだ存命中)、丞相は公子胡亥を太子に立てた。また〔始皇帝の〕書翰の文面を次のように改めて、長男の扶蘇に与えた、『朕(ちん)は天下を巡察し、名山の神々を祭り、わが寿(よわい)長かれと祈った。しかるに汝扶蘇は将軍蒙恬とともに、軍勢数十万をひきいて国境の地に駐屯(ちゅうとん)すること、すでに十余年である。進撃することはあたわず、士卒の損害は多くして、一寸一尺の領土をひろめた功績(いさおし)はなく、なおかえってしばしば上書して、わがなせることをあからさまにそしった。その職分をとかれ都へ帰って太子となれぬゆえに、日に夜に恨みをいだくのであろう。扶蘇は人の子として不孝である。剣を与うる、これをもって自決せよ。将軍蒙恬は扶蘇とともに外地にあり、扶蘇の過(あやま)ちを改め正さないのは、当然その陰謀を知るゆえである。人の臣として不忠である、死を賜わり、軍隊は副将王離(おうり)に預けることとする』。その書翰には皇帝の玉璽を押して封じ、胡亥の食客にそれをたずさえさせ、上郡にいる扶蘇に送った。使者が到着して、扶蘇は書翰を開いてみて、涙にくれ、奥の部屋にはいり、自殺しようとした。蒙恬は扶蘇をとどめて、言った、『陛下は外にお出ましになって、まだ太子をお定めにはなりませんでした。わたくしに三十万の兵をひきいて辺境を守備せしめられ、公子さまは監察のお役目、これは天下の重任であります。今ただ一人の使者がまいったからとて、にわかに自殺しようとなさいますが、使者が贋者(にせもの)でないと、どうしてわかりましょうぞ。なにとぞ重ねてのご沙汰(さた)を願われますよう。いま一度のご沙汰があったその上で死をとげられましても、けっして遅くはございません』。使者はくりかえし早くせよとうながした。扶蘇はきまじめな性格であったので、蒙恬にむかって、『父上が子に死ねとおおせられるのだ。それをどうして重ねて願い出ることができよう』と言い、その場で自殺した」(「李斯列伝・第二十七」『史記列伝2・P.179~180』岩波文庫 一九七五年)

だが趙高は次に李斯が疑われるよう二世皇帝に働きかけ続け、李斯とその三族(父母・兄弟・妻子)は殺されてしまう。

「二世皇帝の二年(前二〇八年)七月、李斯に五つの刑をことごとく加え、都咸陽の市場で胴斬りにした。李斯は牢から引き出され、その次男と同じ縄につながれたが、次男の方をふりむいて、語りかけた、『おまえといっしょにもう一度あの黄色い猟犬をつれ、上蔡(じょうさい=李斯の郷里)の東門から出て、すばしっこい兎を狩りたてに行ってみたいものじゃが、できることではないのう』。そこで父と子はたがいの身をいたんで声をあげて泣いた。そのあと李斯の三族(父母・兄弟・妻子)は皆殺しにされた」(「李斯列伝・第二十七」『史記列伝2・P.196』岩波文庫 一九七五年)

李斯は「五つの刑」を受けた。「五刑(ごけい)」のこと。(1)墨(いれずみ)。(2)劓(はなきり)。(3)剕(あしきり)。(4)宮(きゅう)。男性の場合は去勢、女性の場合は幽閉。(5)大辟(くびきり)。さらにばらばらになった身体各部位は、塩漬けにされ咸陽の市場の店頭に吊って晒された。その間、趙高は一度自分自身が皇帝になろうと振る舞って見せるが他の臣下らはことごとく無視した。そこで仕方なく始皇帝の孫・子嬰(しえい)を立てて三世皇帝とした。ところが子嬰は趙高をまったく信用しておらず、側近に命じて暗殺させた。

「趙高は衛兵に贋(にせ)の勅命を出し、全員に白装束(白は喪服の色)をつけさせ、武器を持って〔望夷の〕離宮にむかって進軍させ、自分は離宮の中にはいって、二世皇帝に告げた、『山東の盗賊ども(叛乱軍を指す)の兵が大挙してやってまいりました!』二世皇帝は高楼に上ってそれを目にし、恐れおののいた。趙高は、すぐさま、ここぞと二世皇帝を脅迫(きょうはく)して、自殺させた。それから趙高は皇帝の玉璽(ぎょくじ=皇帝の地位の象徴)を奪って自分の体におびた。しかし百官はだれもかれに服従しなかった。かれは、〔皇帝即位の儀式をあげるため〕昇殿しようとしたが、そのたびに宮殿が崩れそうになり、それが三度くりかえされた。趙高は自分でも、天が許さず、臣下たちも認めないことを覚って、ようやく始皇帝の孫(子嬰<しえい>)をよびよせて玉璽を渡した。子嬰は即位したが、趙高が気がかりで、病気だと偽(いつわ)って政治にもかかわらず、一方で、宦官の韓談(かんだん)やその子とともに趙高殺害を計画した。趙高が拝謁(はいえつ)に来て、病気のお見舞いをしたい、と願ったおりをとらえ、子嬰はかれを奥へ呼び入れ、韓談に刺し殺させ、そのあと、趙高の三族を皆殺しにした」(「李斯列伝・第二十七」『史記列伝2・P.197~198』岩波文庫 一九七五年)

だからといって三世の子嬰は混乱収集に向いていたか。全然そうではない。むしろ世間知らずもはなはだしい。その頃に実力をつけてきていた漢の劉邦に撃破され逮捕される。さらにその後、幽閉されているところを後からやって来た楚の項羽に発見されて処刑された。

「子嬰が位についてから三か月のち、沛公(はいこう=のちの漢の高祖劉邦<りゅうほう>)の軍が武関を突破して、秦の都咸陽に侵入した。秦の群臣はことごとく秦にそむき、沛公に抵抗しなかった。子嬰は妻と子をともない、みずから首に紐もかけ、軹道(しどう=咸陽の東北にあった宿場)の近くで沛公に降伏した。沛公はかれの身柄を係官に預けておいた。のち項王(こうおう=項羽)が到着すると、あらためて子嬰を斬り殺した。かくのごとくにして秦は結局天下を失ったのであった」(「李斯列伝・第二十七」『史記列伝2・P.198』岩波文庫 一九七五年)

伊予までやって来たもののあっけなく病いに倒れた脇屋義助の死は南朝方の公家・武家らにそれくらいのインパクトを与えた。なお「太平記」に諸葛孔明が「籌筆(ちゅうひつ)」(四川省)で死んだとあるのは誤りで正しくは「五丈原(ごじょうげん)」(陝西省)。

次に夢窓疎石が天竜寺開山に当たったことを巡って延暦寺が言い出した。「疎石法師(そせきほうし)を遠流(おんる)し、天龍寺に於ては、犬神人(いぬじにん)を以て破却(はきゃく)せしむべき」であると。天台宗延暦寺と東大寺・興福寺など法相宗の大寺院ばかりで仕切ってきた帝室に関する寺院建立に際して、あろうことか禅宗の僧侶を採用するとはどういうことか。夢窓疎石は流刑に処し、天龍寺はただちに犬神人に命じて大規模テロをもって破壊させるべきであるとの内容。道元や親鸞らが延暦寺を去った理由もこのような檄文を見れば誰にでも想像がつきそうなものだ。しかもなお「犬神人(いぬじにん)」に命じてやらせろという。「犬神人」というのは当時の寺院に所属した被差別民のこと。

一度は隠遁生活に入っていた疎石である。そんな自分がなぜ後醍醐帝供養のための寺院建立に呼び出されたのかという理由は嫌というほど承知している。夢窓疎石のほかに、この時点で後醍醐帝供養のための寺院を作り得る力を持つ僧侶がどこにいたというのだろうか。その上で作られたのが天竜寺の庭。しかも何かといえば僧兵を繰り出して朝廷を脅す延暦寺側と圧倒的勝利を手にした足利方側との間に入ってなお、あの「おおらかな」庭を作ることが一体ほかの誰にできたというのか。だからこそ疎石にとって作庭はまたとない「慰め」になり得たのだろう。亀山殿の跡地だから廃墟化してはいても大枠くらいは残っていた。しかしそれでは庭にならない。疎石にとって残骸化していた跡地を見た時に脳裏をよぎったことはおそらく、石をどう配置すべきか、という禅僧としての問題だったと思われる。

次に何度も繰り返される「天子・君子」の条件について。

「君子は、その言(げん)のその行(こう)に過ぎんことを恥づ」(「太平記4・第二十五巻・二・P.132」岩波文庫 二〇一五年)

「論語」からの引用。

「子曰、君子恥其言之過其行也

(書き下し)子曰わく、君子はその言の、その行(こう)に過(す)ぐるを恥ず。

(現代語訳)先生がいわれた。『君子は自分のいうことが、行為以上になることを恥じる』」(「論語・第七巻・第十四・憲問篇・二九・P.410」中公文庫 一九七三年)

しかし興福寺の仲算(ちゅうざん)は南都の側の高僧だが、公家政権・武家政権・寺院勢力が互いに争い合う権力闘争をどこか馬鹿馬鹿しく思っている。仲算はその場の雰囲気に紛れてこう言ったりする。

「止みなん、止みなん、須(すべから)く説(と)く可(べ)からず。我が法は、妙(みょう)にして思(おも)ひ難(がた)し」(「太平記4・第二十五巻・二・P.140」岩波文庫 二〇一五年)

「法華経・方便品」から。

「止止不須説 我法妙難思 諸増上慢者 聞必不敬信

(書き下し)止みなん。止みなん。説くべからず。わが法は妙にして思い難し 諸(もろもろ)の増上慢(ぞうじょうまん)の者は 聞けば必ず敬信(きょうしん)せざらん。

(現代語訳)ここで教えを説いて何になろう。この智慧は微妙で、追求しがたい。多くの愚か者が、うぬぼれの心を起こし、教えが説かれても理解せず、それを捨てよう」(「法華経・上・巻第一・方便品・第二・P.82~85」岩波文庫 一九六二年)

さらに天台が先か禅が先かなどと言ってはいるが、遥か古代中国の時代すでに禅の公案にこうあると述べる。

「一枝(いっし)の花を拈(ねん)じ給ひしを、会中(えちゅう)の大比丘衆(だいびくしゅ)知る事の更(さら)になかりしを、摩訶迦葉(まかかしょう)一人、破顔微笑(はがんみしょう)して、心を以て心を得たり」(「太平記4・第二十五巻・二・P.141~142」岩波文庫 二〇一五年)

「無門関」からの引用。「拈華微笑(ねんげみしょう)」の段として有名。

「世尊、昔、在霊山會上拈花示衆。是時、衆皆默然。惟迦葉尊者破顔微笑。世尊云、吾有無相、微妙法門、不立文字、教外別傅、付囑摩訶迦葉。無門曰、黄面瞿曇、傍若無人。厭良爲賤、懸羊頭賣狗肉。將謂、多少奇特。只如當時大衆都笑、正法眼蔵、作麽生傅。設使迦葉不笑、正法眼蔵又作麽生傅。若道正法眼蔵有傅授、黄面老子、誑噱閭閻。若道無傅授、爲甚麽獨許迦葉。

(書き下し)世尊、昔、霊山会上(りょうぜんえじょう)に在って花を拈じて衆(しゅ)に示す。是(こ)の時、衆皆な黙然(もくねん)たり。惟(た)だ迦葉(かしょう)尊者のみ破顔微妙(はがんみしょう)す。世尊云く、『吾に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、涅槃妙心(ねはんみょうしん)、実相無相(じっそうむそう)、微妙(ぼみょう)の法門有り。不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)、摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(ふしょく)す』。無門曰く、『黄面(おうめん)の瞿曇(ぐどん)、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)。良(りょう)を圧(お)して賤(せん)と為(な)し、羊頭(ようとう)を懸(かか)げて狗肉(くにく)を売る。将(まさ)に謂(おも)えり、多少の奇特(きとく)と。只だ当時(そのかみ)大衆都(すべて)笑うが如(ごと)きんば、正法眼蔵、作麽(そも)生(さん)か伝えん。設(も)し迦葉(かしょう)をして笑わざらしめば、正法眼蔵また作麽生か伝えん。若(も)し正法眼蔵に伝授有りと道(い)わば、黄面(おうめん)の老子、閭閻(りょえん)を誑噱(おうこ)す。若し伝授無しと道わば、甚麽(なん)としてか独(ひと)り迦葉を許す』。

(現代語訳)釈迦牟尼世尊が、昔、霊鷲山で説法された時、一本の花を持ち上げ、聴衆の前に示された。すると、大衆は皆黙っているだけであったが、唯だ迦葉尊者だけは顔を崩してにっこりと微笑(ほほえ)んだ。そこで世尊は言われた、『私には深く秘められた正しい真理を見る眼、説くに説くことのできぬ覚りの心、そのすがたが無相であるゆえに、肉眼では見ることのできないような不可思議な真実在というものがある。それを言葉や文字にせず、教えとしてではなく、別の伝え方で摩訶迦葉にゆだねよう』。無門は言う、『金色のお釈迦様もなんと独りよがりなものだ。善良な人間を連れ出して奴隷にするかと思えば、羊の肉だなどと偽って狗(いぬ)の肉を売りつけなさる。とても並みの人間に出来る芸とは言えぬ。だがしかし、もしもあの時その場の大衆が皆な一斉に微笑んだとしたら、正法眼蔵とやらいう結構なものをどのように伝えたであろうか。また逆に、迦葉尊者を微笑ませ得なかったとしたら、それをどのようにして伝えたであろうか。そもそも正法眼蔵というようなものが伝達できるとすれば、お釈迦さまは一般大衆を誑かしたことになる。また伝達出来るものでないとすれば、どうして迦葉尊者だけに伝授を許されたのであろうか』」(「無門関・六・世尊拈花・P.43~46」岩波文庫 一九九四年)

そしてまたしても反復される「天子とはどうあるべきか」という問い。

「九五(きゅうご)の位」(「太平記4・第二十六巻・四・P.179」岩波文庫 二〇一五年)

ここでは「易経」から。

「九五。飛龍在天。利見大人。

(書き下し)九五。飛竜天に在り。大人を見るに利ろし。

(現代語訳)九五は陽剛中正、飛んで天に昇った竜。才徳が充実し志を得て人の上に立った者にもたとえられようが、なお在下の大人賢者(九二)を得てその助けをかりることを心掛けるがよい(彖伝、文言伝は大人をこの九五の君とする)」(「易経・上・乾爲天(けんいてん)・P.79~81」岩波文庫 一九六九年)

足利政権は義満の時代に全盛期を迎える。ところがそれも不満たらたらの大寺院大神社勢力を味方に付けた独りよがりな戦国武将らによって駆逐されていく。世阿弥も武野紹鴎もそれら様々な時間と場所とから起こってきた歴史の複数性についていち早く気づいていた。「南方録」にこうある。

「十年を過ぎず、茶の本道捨(すた)るべし。すたる時、世間にては却つて茶の湯繁昌と思(おもう)べきなり。ことごとく俗世の遊事に成てあさましき成(なり)はて、今見るがごとし。かなしきかな、宗易、漢和ともに古来これ無き露地草菴一風の茶を工夫し、をそらく趙州の意味にもかなふべきかなどと思ふに、末世に相応せず、程もなく正道断絶すべきこと口惜きことなり。二畳敷もやがて二十畳敷の茶堂に成べし、易は三畳敷をしつらいたるさへ、道のさまたげかと後悔なる」(「南方録・滅後・P.217~218」岩波文庫 一九八六年)

さらに具体的に述べる。

「能弥、珠光(じゅこう)の流、伝々して紹鷗(じょうおう)、利休に至り、露地草菴の清規(しんぎ)は、鷗休の煆煉(たんれん)に出て、世に流布せること、今また贅(せい)するに及ばず。その下も、古田織部(ふるたおりべ)、小堀遠州(こぼりえんしゆ)等に至れる次第、壺中炉談(こちゅうろだん)につまびらかなり。今、古織門下の茶人、小遠をそしり、小遠門下の茶人、古織をそしつて、両頭の蛇、両啄(たく)の鳥のごときだも、愚まいのつたなく、あはれむべきものなり。豈(あに)いはんや、古織、小遠等を以て、本祖の鷗休をないがしろにするをや」(「南方録・岐路弁疑・P.285~286」岩波文庫 一九八六年)

古田織部並びに小堀遠州に対する露骨な批判である。なぜそうなるのか。宗易(利休)を中心に置くとただちにそうなる。論理的にもヘーゲル流の直感として見ても。しかし織部を擁護するわけではないが、こうは言える。織部の茶碗を一つだけ見てもはっきり言ってそれこそ「鷗休をないがしろにする」ものだ。ところが織部の小ぶりの器ものを一揃え揃ったものを見てみよう。するとそれはがらりと様相を変えたまったく新しい陶器へ異化されているのがわかるはずだ。次に遠州。遠州の場合は庭に注目したい。大徳寺孤篷庵(こほうあん)忘筌(ぼうせん)露地は余りにも有名。だがどこがよいのか。手水鉢の独創性は誰もが口にする。だがその横に知らぬ顔でぽつねんと収まっている寄燈籠こそ面白い。笠部分は中世の墓石に使われた丸い石を荒廃して誰もいなくなった墓地から持ってきて真ん中で切断し、その上半分を用いるとあのような風流な笠が出来上がる。西苔寺の庭を作る時、疎石が裏山にごろごろ転がっている古代古墳の巨石を再利用したように。もっとも、アイデアだけでは机上の空論でしかない。ところがその時そこに技術があり技術者がいたという事実に驚くのである。

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