後醍醐帝の遺体は吉野の金峯山寺蔵王堂(ざおうどう)付近に築かれた円丘に葬られた。随行してきた人々の様子はこう描かれている。
「土墳(どふん)数尺(すしゃく)の草に一径(いっけい)涙尽(つ)くるとも、愁(うれ)へ未だ尽きず」(「太平記3・第二十一巻・五・P.421」岩波文庫 二〇一五年)
白居易「隋堤柳」から。
「土墳三尺何處葬 呉公臺下多悲風
(書き下し)土墳(どふん)三尺(さんせき)いづれの處(ところ)にか葬(はうむ)る 呉公臺下(ごこうだいか)悲風(ひふう)多(おお)し。
(現代語訳)わずか二、三尺の土墳をきずいて葬られた場所は 呉公台(ごこうだい)というところで、あたりには悲しい音たてて風が吹く」(漢詩選10「隋堤柳」『白居易・P.104~106』集英社 一九九六年)
さらに涙は尽きても悲しみは尽きないとあるわけだが、精神的にはただ単に天を仰ぐばかりで高臣后妃(こうしんこうひ)らは一様にどこか放心状態に陥っているかのようだ。
「鼎湖(ていこ)の雲を瞻望(せんぼう)し」(「太平記3・第二十一巻・五・P.421」岩波文庫 二〇一五年)
この箇所は「和漢朗詠集」からの引用。
「開巻已知為子道 秋風悵望鼎湖雲
(書き下し)巻(くゑん)を開いて已(すで)に子たる道を知(し)んぬ 秋の風に悵望(ちやうばう)す鼎湖(ていこ)の雲」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・親王・六六九・慶滋保胤・P.251」新潮社 一九八三年)
それまで張り詰めていた緊張の糸が不意に途切れてしまったように思える。吉野山まで付き随ってきた人々はこの先いったいどうなるのだろうと公家・武家ともに今後の身の振る舞い方を考えなくてはならない。「思ひ思ひに身の隠れ家をぞ求め給ひける」とある。隠遁・降参という言葉がふと頭をもたげる。
「東海(とうかい)の流れを踏んで、仲連(ちゅうれん)が跡を尋ね」(「太平記3・第二十一巻・六・P.422」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・魯仲連・鄒陽列伝」に出てくる魯仲連の心情のように傾斜し始める。
「秦は礼儀をすて、いくさの手柄を第一とする国にて、詐術をもって士を使い、人民を奴隷のように使っております。あの国がもしほしいままに帝となり、まちがって天下の政治をとるようなことがあれば、それがしは東の海にとびこんで死ぬほかない」(「魯仲連・鄒陽列伝・第二十三」『史記列伝2・P.82』岩波文庫 一九七五年)
逃げ出そうというのである。しかし魯仲連(ろちゅうれん)の場合は戦略家としての言葉であり理論的徹底性がある。だから後になってからではあるにせよ新垣衍(しんえんえん)を驚かせただけでなく、暴虐尽くしで有頂天になっていた秦軍を恐れさせ引き上げさせるほど深淵な計略が始めからあった。
「『秦はいま万乗(ばんじょう)の国であります。梁もやはり万乗の国です。どちらも万乗の国をしめ、いずれも王の号を称しています。相手がただ一度の合戦に勝ったと見てとるや、追従(ついしょう)して帝の号を与えようとは、三晋の国々の大臣は、鄙や魯の下男下女にもおとることになるではございませんか。それに、ほかに策がなくて秦が帝になったとしますと、まず諸侯の大臣をとりかえますでしょう。秦は自分の考えで愚かと思うのをやめさせ、賢いと思うのをすすめ、にくいと思うのをやめて、かわいいと思うのを昇進させます。それからまた自分のむすめやこしもとどもを諸侯のきさきや夫人にして、梁(りょう)の宮中にも住まわせましょう。梁王もおちついてはいられますまい。そして将軍はいったい何によってもとのようなご寵愛をかためるおつもりですか』。それをきいて新垣衍(しんえんえん)は立ち上り再拝して感謝した、『先生はなみの者と思うていたが、今はじめて天下の士だとわかった。わしはここを出よう。もう二度と秦を帝にすると口に出すまい』。秦の大将がこの由を聞くと、わざわざ軍を五十里後退させたのであった。そこへ折よく魏の公子無忌(ぶき)が晋鄙(しんぴ)の軍の指揮権をうばって趙(ちょう)を救い秦の軍を攻撃し、かくて秦の軍は引きあげた」(「魯仲連・鄒陽列伝・第二十三」『史記列伝2・P.85』岩波文庫 一九七五年)
ところが後醍醐帝を失った吉野では逆であり、それぞれ残された者らは気持ちの上ですでに負けてしまっている。そこに吉水法印宗信(よしみずのほういんそうしん)が急いでやって来て檄を飛ばす。宗信の職は「吉野(よしの)の執行(しゅぎょう)」とある。執行(しゅぎょう)は今でいう事務局長の立場。皆の前でこういう。
「文王(ぶんおう)草昧(そうまい)の主(あるじ)として、武王(ぶおう)の業を起こし、高祖(こうそ)崩じて後(のち)、孝恵(こうけい)漢(かん)の代(よ)を保たずや」(「太平記3・第二十一巻・六・P.422」岩波文庫 二〇一五年)
例として上げられているのは古代中国春秋時代のエピソード。「史記・周本紀」・「史記・高祖本紀」から引かれた。
(1)「虞(ぐ)・芮(ぜい)<ともに山西・河東にあった国>二国の国人に争訴があり、是非が決しなかった。西伯に訴えるため周に行ったところ、周の国境を入ると、田を耕す者はみな畔(あぜ)を譲り合い、民の風習はみな長者に譲り合っていた。虞・芮の人は、まだ西伯に会わないのに自ら恥じ、たがいに、『われわれの争うところは、周人の恥とするところである。どうして訴えにゆくことができよう。ゆけば、ただ恥をかくだけである』と言い、ついに帰って共に譲りあった」(「周本紀・第四」『史記1・本紀・P.64』ちくま学芸文庫 一九九五年)
(2)「諸侯はこれを聞いて、『西伯こそ受命(天命を受けた天子)の君である』と言った。翌年、西伯は犬戎(けんじゅう=戎狄の一種)を伐ち、その翌年密須(みつしゅ=国名。陝西・涇州地方)を伐ち、そのまた翌年に耆国(既述の飢の国で山西・黎城<れいじょう>地方にあったといわれる)を破った。殷の祖伊(そい)が、これを聞きおそれて紂王に告げると、紂王は、『天命はわれにあるのだから、西伯に何ができよう』と言った。その翌年邗(う=国名。今の河南・河内地方にあったという説もあるが不詳)を伐ち、そのまた翌年に崇(しゅう)候虎(こ=崇は今の西安の近くコ地方か)を伐って、豊邑(ほうゆう=陝西・コの豊水の西)をつくり、岐山(きさん)の麓からうつって、ここを都とした。その翌年西伯が崩じ、太子の発(はつ)が立った。これが武王であって、西伯の在位は、およそ五十年であった。羑里にとらわれている時、易の八卦(はっけ)を敷衍(ふえん)して六十四卦としたもののようである。また詩人は西伯が受命の年に王を称し、虞(ぐ)・芮(ぜい)の訟を断じたようにいう。その後七年で崩じ、文王と諡(おくりな)した。在位中は、殷の法律制度と暦を改めて周の制度暦法を作り、古公を追尊して太王とし、公季を王季とした。思うに、周が王を称する発端が太王の時に興ったからであろう」(「周本紀・第四」『史記1・本紀・P.64~65』ちくま学芸文庫 一九九五年)
(3)「高祖の遺体を入棺すると、太子は群臣とともに太上皇の廟に行った。群臣はみな、『高祖は微賤から身を起こし、乱世を治めて正しきにかえし、天下を平定して漢の太祖となられたのである。その功労はもっとも高く、尊号をたてまつって高皇帝としよう』と言った。太子が号を継いで皇帝となった。これが恵帝である」(高祖本紀・第八」『史記1・本紀・P.278』ちくま学芸文庫 一九九五年)
都合上三つに分けたが、いずれも偉大な先代が築いた礎をもとに、なお一層国家を盤石化させた事例。吉水法印宗信(そうしん)は長々と演説しているわけだが、「太平記」の一つのパターンとして、その文章は激しいアジテーション〔檄文〕の形を取っている。そうである以上、問われるのはいつもそう単純にはいかないイデオロギーであるほかない。
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「土墳(どふん)数尺(すしゃく)の草に一径(いっけい)涙尽(つ)くるとも、愁(うれ)へ未だ尽きず」(「太平記3・第二十一巻・五・P.421」岩波文庫 二〇一五年)
白居易「隋堤柳」から。
「土墳三尺何處葬 呉公臺下多悲風
(書き下し)土墳(どふん)三尺(さんせき)いづれの處(ところ)にか葬(はうむ)る 呉公臺下(ごこうだいか)悲風(ひふう)多(おお)し。
(現代語訳)わずか二、三尺の土墳をきずいて葬られた場所は 呉公台(ごこうだい)というところで、あたりには悲しい音たてて風が吹く」(漢詩選10「隋堤柳」『白居易・P.104~106』集英社 一九九六年)
さらに涙は尽きても悲しみは尽きないとあるわけだが、精神的にはただ単に天を仰ぐばかりで高臣后妃(こうしんこうひ)らは一様にどこか放心状態に陥っているかのようだ。
「鼎湖(ていこ)の雲を瞻望(せんぼう)し」(「太平記3・第二十一巻・五・P.421」岩波文庫 二〇一五年)
この箇所は「和漢朗詠集」からの引用。
「開巻已知為子道 秋風悵望鼎湖雲
(書き下し)巻(くゑん)を開いて已(すで)に子たる道を知(し)んぬ 秋の風に悵望(ちやうばう)す鼎湖(ていこ)の雲」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・親王・六六九・慶滋保胤・P.251」新潮社 一九八三年)
それまで張り詰めていた緊張の糸が不意に途切れてしまったように思える。吉野山まで付き随ってきた人々はこの先いったいどうなるのだろうと公家・武家ともに今後の身の振る舞い方を考えなくてはならない。「思ひ思ひに身の隠れ家をぞ求め給ひける」とある。隠遁・降参という言葉がふと頭をもたげる。
「東海(とうかい)の流れを踏んで、仲連(ちゅうれん)が跡を尋ね」(「太平記3・第二十一巻・六・P.422」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・魯仲連・鄒陽列伝」に出てくる魯仲連の心情のように傾斜し始める。
「秦は礼儀をすて、いくさの手柄を第一とする国にて、詐術をもって士を使い、人民を奴隷のように使っております。あの国がもしほしいままに帝となり、まちがって天下の政治をとるようなことがあれば、それがしは東の海にとびこんで死ぬほかない」(「魯仲連・鄒陽列伝・第二十三」『史記列伝2・P.82』岩波文庫 一九七五年)
逃げ出そうというのである。しかし魯仲連(ろちゅうれん)の場合は戦略家としての言葉であり理論的徹底性がある。だから後になってからではあるにせよ新垣衍(しんえんえん)を驚かせただけでなく、暴虐尽くしで有頂天になっていた秦軍を恐れさせ引き上げさせるほど深淵な計略が始めからあった。
「『秦はいま万乗(ばんじょう)の国であります。梁もやはり万乗の国です。どちらも万乗の国をしめ、いずれも王の号を称しています。相手がただ一度の合戦に勝ったと見てとるや、追従(ついしょう)して帝の号を与えようとは、三晋の国々の大臣は、鄙や魯の下男下女にもおとることになるではございませんか。それに、ほかに策がなくて秦が帝になったとしますと、まず諸侯の大臣をとりかえますでしょう。秦は自分の考えで愚かと思うのをやめさせ、賢いと思うのをすすめ、にくいと思うのをやめて、かわいいと思うのを昇進させます。それからまた自分のむすめやこしもとどもを諸侯のきさきや夫人にして、梁(りょう)の宮中にも住まわせましょう。梁王もおちついてはいられますまい。そして将軍はいったい何によってもとのようなご寵愛をかためるおつもりですか』。それをきいて新垣衍(しんえんえん)は立ち上り再拝して感謝した、『先生はなみの者と思うていたが、今はじめて天下の士だとわかった。わしはここを出よう。もう二度と秦を帝にすると口に出すまい』。秦の大将がこの由を聞くと、わざわざ軍を五十里後退させたのであった。そこへ折よく魏の公子無忌(ぶき)が晋鄙(しんぴ)の軍の指揮権をうばって趙(ちょう)を救い秦の軍を攻撃し、かくて秦の軍は引きあげた」(「魯仲連・鄒陽列伝・第二十三」『史記列伝2・P.85』岩波文庫 一九七五年)
ところが後醍醐帝を失った吉野では逆であり、それぞれ残された者らは気持ちの上ですでに負けてしまっている。そこに吉水法印宗信(よしみずのほういんそうしん)が急いでやって来て檄を飛ばす。宗信の職は「吉野(よしの)の執行(しゅぎょう)」とある。執行(しゅぎょう)は今でいう事務局長の立場。皆の前でこういう。
「文王(ぶんおう)草昧(そうまい)の主(あるじ)として、武王(ぶおう)の業を起こし、高祖(こうそ)崩じて後(のち)、孝恵(こうけい)漢(かん)の代(よ)を保たずや」(「太平記3・第二十一巻・六・P.422」岩波文庫 二〇一五年)
例として上げられているのは古代中国春秋時代のエピソード。「史記・周本紀」・「史記・高祖本紀」から引かれた。
(1)「虞(ぐ)・芮(ぜい)<ともに山西・河東にあった国>二国の国人に争訴があり、是非が決しなかった。西伯に訴えるため周に行ったところ、周の国境を入ると、田を耕す者はみな畔(あぜ)を譲り合い、民の風習はみな長者に譲り合っていた。虞・芮の人は、まだ西伯に会わないのに自ら恥じ、たがいに、『われわれの争うところは、周人の恥とするところである。どうして訴えにゆくことができよう。ゆけば、ただ恥をかくだけである』と言い、ついに帰って共に譲りあった」(「周本紀・第四」『史記1・本紀・P.64』ちくま学芸文庫 一九九五年)
(2)「諸侯はこれを聞いて、『西伯こそ受命(天命を受けた天子)の君である』と言った。翌年、西伯は犬戎(けんじゅう=戎狄の一種)を伐ち、その翌年密須(みつしゅ=国名。陝西・涇州地方)を伐ち、そのまた翌年に耆国(既述の飢の国で山西・黎城<れいじょう>地方にあったといわれる)を破った。殷の祖伊(そい)が、これを聞きおそれて紂王に告げると、紂王は、『天命はわれにあるのだから、西伯に何ができよう』と言った。その翌年邗(う=国名。今の河南・河内地方にあったという説もあるが不詳)を伐ち、そのまた翌年に崇(しゅう)候虎(こ=崇は今の西安の近くコ地方か)を伐って、豊邑(ほうゆう=陝西・コの豊水の西)をつくり、岐山(きさん)の麓からうつって、ここを都とした。その翌年西伯が崩じ、太子の発(はつ)が立った。これが武王であって、西伯の在位は、およそ五十年であった。羑里にとらわれている時、易の八卦(はっけ)を敷衍(ふえん)して六十四卦としたもののようである。また詩人は西伯が受命の年に王を称し、虞(ぐ)・芮(ぜい)の訟を断じたようにいう。その後七年で崩じ、文王と諡(おくりな)した。在位中は、殷の法律制度と暦を改めて周の制度暦法を作り、古公を追尊して太王とし、公季を王季とした。思うに、周が王を称する発端が太王の時に興ったからであろう」(「周本紀・第四」『史記1・本紀・P.64~65』ちくま学芸文庫 一九九五年)
(3)「高祖の遺体を入棺すると、太子は群臣とともに太上皇の廟に行った。群臣はみな、『高祖は微賤から身を起こし、乱世を治めて正しきにかえし、天下を平定して漢の太祖となられたのである。その功労はもっとも高く、尊号をたてまつって高皇帝としよう』と言った。太子が号を継いで皇帝となった。これが恵帝である」(高祖本紀・第八」『史記1・本紀・P.278』ちくま学芸文庫 一九九五年)
都合上三つに分けたが、いずれも偉大な先代が築いた礎をもとに、なお一層国家を盤石化させた事例。吉水法印宗信(そうしん)は長々と演説しているわけだが、「太平記」の一つのパターンとして、その文章は激しいアジテーション〔檄文〕の形を取っている。そうである以上、問われるのはいつもそう単純にはいかないイデオロギーであるほかない。
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