白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・イデオロギーとしての「犬死(いぬじに)」

2021年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム
蜀の劉備が諸葛孔明を招くに当たって述べたとする言葉が「太平記」の中に出てくる。

「残(ざん)に勝つて殺を捨てん事、如何(いかん)がそれ百年を待たん」(「太平記3・第二十巻・八・P.370」岩波文庫 二〇一五年)

もともとは「論語・子路篇」に見える孔子の言葉。

「子曰、善人為邦百年、亦可以勝残去殺矣。誠哉是言也

(書き下し)子曰わく、善人邦(くに)を溜め(おさ)むること百年ならば、亦(また)以て残(ざん)に勝ち殺(さつ)を去るべしと。誠(まこと)なるかな、是(こ)の言や。

現代語訳)先生がいわれた。『<ふつうの善人でも百年間ひきつづいて国家を統治すると、乱暴者を押えて死刑を廃止することができる>という。ほんとうだね、このことばは』」(「論語・第七巻・第十三・子路篇・十一・P.362」中公文庫 一九七三年)

でもなぜ三国時代のエピソードが出てくるのか。或る夜、新田義貞は夢を見た。足羽(あすわ)辺りの川を挟んで足利方の斯波高経と対陣し合って数日を経ている模様。膠着状態でどちらも動こうとしない。おそらく先に動いた側が負けるパターンに陥っていたのだろう。ところが突如として義貞の体が体長九十メートルはあろうかという巨大な大蛇に化けた。それを見た斯波高経軍は慌てふためいて数十里も逃げ去っていった。そこで夢が醒めた。その夢を占ったところ、龍は雷雲を伴って敵方を討ち払うものだからきっと吉兆に違いないという。皆は喜んだ。しかしそばにいた斎藤入道道猷(さいとうにゅうどうどうゆう)一人は疑問を呈していう。

「龍は陽気(ようき)に向かつて威を震(ふる)ひ、陰(いん)の時に至つては蟄戸(ちっこ)を閉づ。時、今(いま)陰の初めなり。しかも、龍の姿にて水辺に臥したりと見給へるも、孔明を臥竜(がりょう)と云ひしに異ならず」(「太平記3・第二十巻・八・P.373」岩波文庫 二〇一五年)

「陽の気/陰の気」については「易経」参照。

「夫乾其靜也専、其動也直。是以大生焉。夫坤其靜也翕、其動也闢。是以廣生焉。

(書き下し)夫れ乾はその静かなるや専(もっぱ)らにして、その動くや直(なお)し。ここをもって大いに生ず。夫れ坤はその静かなるや翕(あ)い、その動くや闢(ひら)く。ここをもって広く生ず。

(現代語訳)そもそも乾はその陽気がいまだ発動せず静止の状態にある時は専一不二であるが、ひとたび発動すれば直遂不撓ーーーまっしぐらで撓(たわ)み屈することがない。なればこそ大いに物を生じ得るのである。また坤はその陰気がまだ発動せず静止の状態にある時はぴたりと閉じあわさっているが、ひとたび発動すれば陽気の施しを受けて開放発散する。なればこそ広く物を生ずることを得るのである」(「易経・周易繫辞上伝・P.222~223」岩波文庫 一九六九年)

そこまではなるほどそう感じたのだろう。しかし斎藤道猷は「時、今(いま)陰の初めなり」=「時節柄、今は<陰>の初頭であり<陽>の時期に即して安易に考える状況にはない」、という。この時ちょうど新田勢は足羽城(あすわのじょう)攻め直前だった。足羽の城内には「藤島庄(ふじしまのしょう)」という地域が含まれていたのだが、藤島庄の領有権を巡って平泉寺(へいせんじ)は長いあいだ延暦寺と相論していた。「平泉寺(へいせんじ)」は今の福井県勝山市平泉寺町にある天台宗寺院で延暦寺の末寺。どこにでもありがちな本寺と末寺との険悪な関係。そこへ斯波高経(しばたかつね)が赴き、次の新田勢との戦闘にあたり足利方の戦勝祈願を行い、もし勝利した場合には藤島庄(ふじしまのしょう)を延暦寺から切り離して平泉寺の領有権を認めるという内容の御教書(みきょうじょ)を平泉寺に与えた。そして平泉寺で念入りな怨敵調伏(おんてきちょうぶく)の祈祷中、そんなこととは夢にも思っていない義貞が大蛇になって高経(たかつね)に勝つという奇妙な夢を見た構造になっている。祈祷は義貞軍を呪い殺すというわけだが、もとより義貞と延暦寺とは軍事同盟中。だから平泉寺が藤島庄の領有権を確実なものとするため本寺に当たる延暦寺をも怨敵として壊滅させる祈祷を連日始めたわけである。そんな折、新田義貞は本当に死んだ。

「この馬名誉(めいよ)の俊足(しゅんそく)なりければ、一、二丈の堀をば前々(さきざき)たやすく越えけるが、五筋(いつすじ)まで射立てられたる矢にや弱りたりけん、小溝(こみぞ)一つ越えかねてえ、屏風(びょうぶ)を返すが如く岸の下にぞ倒れたりける。義貞、弓手(ゆんで)の足を敷かれて、起き上がらんとし給ふ処(ところ)に、白羽(しらは)の矢一筋(ひとすじ)、真向(まっこう)のはづれ、眉間(みけん)の真中(まんなか)にぞ立つたりける。義貞、今は叶(かな)はじと思はれけん、腰の刀を抜いて、自ら頸(くび)を掻き落とし、深泥(じんでい)の中にぞ臥(ふ)し給ひける」(「太平記3・第二十巻・十・P.378~379」岩波文庫 二〇一五年)

それを見た斯波勢の氏家中務丞光範(うじいえなかつかさのじょうみつのり)は義貞の頸(くび)だけをとっとと持ち去った。首のない義貞の死骸だけが泥にまみれて転がっている。文章はこう続く。

「結城上野守(ゆうきこうずけのかみ)、中野藤左衛門(なかのとうざえもん)、金持太郎左衛門(かなじたろうざえもん)三騎、馬より飛んで下(お)り、義貞の死骸の前に跪(ひさまず)いて、腹を掻き切つて重なり伏す。この外(ほか)、四十余騎の兵、皆堀溝(ほりみぞ)の中に射落とされて、敵の独(ひと)りも取り得ず、犬死(いぬじに)してこそ臥したりける」(「太平記3・第二十巻・十・P.379」岩波文庫 二〇一五年)

同じ後醍醐方として登場したにもかかわらず、死後なお延々引き続く楠正成の大人気と比較して、なぜ新田義貞の死はこんなにも寂しいのだろうか。名誉回復は明治時代。天皇を担いで新政府を作った薩長政権が明らかな政治利用目的で演じて見せたに過ぎない。

「漢(かん)の高祖(こうそ)は、自ら淮南(わいなん)の黥布(げいふ)を討ちし時、流れ矢に当たつて未央宮(びおうきゅう)の裏(うら)に崩(ほう)じ給ひ」(「太平記3・第二十巻・十・P.380」岩波文庫 二〇一五年)

義貞の死を「漢(かん)の高祖(こうそ)=劉邦」の死亡時の様相と同一化させて書かれている。「史記・高祖本紀」から時系列的に並べてみよう。

(1)「秋七月、淮南王黥布が叛し、東のかた荊王劉賈の地をあわせ北のかた淮水を渡った。楚王は逃げて薛(せつ=山東・勝県)に入った。高祖は親征してこれを撃ち、子長(ちょう)を立てて淮南王とした。十二年十月、高祖はすでに布(ふ)の軍を会垂(かいすい=地名、不詳)に撃ち、布が逃げたので別将に追撃させた」(高祖本紀・第八」『史記1・本紀・P.274』ちくま学芸文庫 一九九五年)

(2)「高祖が布を撃つ時、流れ矢に当たり、行くゆく道中傷を病んでひどくなった」(高祖本紀・第八」『史記1・本紀・P.276』ちくま学芸文庫 一九九五年)

(3)「布を追撃した漢の別将は、布軍を洮水(とうすい=水名、不詳)の南北に撃って大いにこれを破り、追うて布を番陽(はよう=江西・鄱陽)で斬った。樊噲(はんかい)は別に兵を率いて代(だい)を定め、陳豨(ちんき)を当城(とうじょう=河北・蔚県)で斬った。十一月、高祖は布軍討伐の軍陣から長安に帰った」(高祖本紀・第八」『史記1・本紀・P.276』ちくま学芸文庫 一九九五年)

なお、高祖が死んだ場所について「太平記」では「未央宮」になっているが事実は「長楽宮」。

(4)「四月甲辰(こうしん)、高祖は長楽宮に崩じた(時に年六十二)」(高祖本紀・第八」『史記1・本紀・P.277』ちくま学芸文庫 一九九五年)

「犬死(いぬじに)」。そう言ってしまえばそうに違いない。だが見逃すわけにはいかない或る差異が横たわっている。一方で楠正成らの壮大かつ華々しい大量の「犬死(いぬじに)」。もう一方で新田義貞とその残されたごく少数の者の「犬死(いぬじに)」。前者は婆娑羅的な死であり詩でもあり得る。ところが後者は文字通りの「犬死(いぬじに)」。掲揚され持て囃される「犬死(いぬじに)」と、ずっと後になってから政府によってとことん利用されるだけ利用され、その後はふたたび暗い血溜まりが転々と浮かぶ泥沼にその名ばかりをを漂い残す「犬死(いぬじに)」という問い。それは形を変えてまた始まり今だ終わっていない問いでもある。

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