白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・吉野金峯山寺炎上前夜

2021年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム
恩賞が与えられる場面。なかでも奇怪なのは「剣」。次のように形容される。

「周(しゅう)の代に宝鼎(ほうてい)を掘り出だし」(「太平記4・第二十六巻・四・P.194」岩波文庫 二〇一五年)

「史記・五帝本紀」から引かれたエピソード。

「官名は、黄帝が位につく時、雲瑞があったので、雲という号をつけ(春官を星雲、夏官を縉<しんうん>、秋官を白雲、冬官を黒雲、中官を黄雲とつけた)軍隊も雲師といった。左右の大監を置いて諸侯を監督させ、諸侯が仲よくなったので大いに鬼神や山川を祀り、封禅(ほうぜん=泰山に壇をつくって天を祭り梁父山<りょうほざん>〔泰山の下の小山〕で地をはらって地を祭ること)をおこなった。それで祭祀は昔から黄帝の時が、もっとも多かったとされる。封禅の際に宝鼎(ほうてい)・神策(神のめどき、占の竹策)を得たので、その神策で月日を逆算して暦をつくり、風后(ふうこう)・力牧(りきぼく)・常先(じょうせん)・大鴻(たいこう)の四人を挙げて民を治めさせ、天地四時の紀、陰陽の理、死生の制、存亡の変にしたがって、百穀草木、を蒔(ま)き、鳥獣虫蟻を馴らし、日月星辰を測り、土石金玉を採り、身心耳目を労し、山野水谷の資財を節用した。土徳の祥瑞(黄帝の時、黄竜と地螾<ちいん>ーーー土の精が現われた)があったので黄帝と号した」(「五帝本紀・第一」『史記1・本紀・P.10~11』ちくま学芸文庫 一九九五年)

「太平記」に「周(しゅう)の代」とあるのは間違いで正しくは「漢の武帝の代」。だが問題はそういうことではなく、この「剣」に関してである。源平合戦の終盤、壇ノ浦で安徳天皇が抱いたまま海中に沈み込んで以来行方不明になったはずの「宝剣」が、なぜか伊勢で発見されたと言って円成(えんじょう)という僧が名乗り出た。

「簸川上(ひのかみかわ)にて切られし八岐蛇(やまたのおろち)、元暦(げんんりゃく)の比(ころ)、安徳(あんとく)天皇(てんのう)となつて、この宝剣を執(と)つて龍宮城(りゅうぐうじょう)へ還(かえ)り給ひぬ」(「太平記4・第二十六巻・四・P.195」岩波文庫 二〇一五年)

「平家物語」から。

「むかし出雲国ひの河上にて、素戔烏(ソサノヲ)の尊にきり殺(ころ)されたてまつりし大蛇、霊剣ををしむ心ざしふかくして、八(やつ)のかしら、八の尾を表事(へうじ)として、人王(にんわう)八十代の後、八歳の帝(てい)となッて、霊剣をとりかへして、海底に沈み給ふにこそ」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十一・剣・P.307~308」岩波書店 一九九三年)

後醍醐帝の死後、政権がまだ安定していない時期には「宝剣発見」というような根拠の怪しい話が出てくるのも仕方がないと、足利直義は相手にしなかった。

次に「邯鄲(かんたん)の夢」で有名な「枕中記」が和漢混淆体に引き直された上でほぼ丸ごと引用される。原文も現代語訳も手に入りやすいのでここでは二箇所ばかり引いておこう。

(1)「紫髯(しぜん)の老将、錦(にしき)の纜(ともづな)を解(と)き、青蛾(せいが)の少女(おとめ)、棹(さお)の歌(うた)を唱ふ」(「太平記4・第二十六巻・五・P.198」岩波文庫 二〇一五年)

白居易「隋堤柳」からの引用。

「紫髯郎將護錦纜 青蛾御史直迷樓

(書き下し)紫髯(しぜん)の郎將(らうしやう) 錦(きん)の纜(ともづな)を護(まも)り 青蛾(せいが)の御史(ぎょし) 迷樓(めいろう)に直(とのゐ)す

(現代語訳)赤髯(あかひげ)の近衛(このえ)の将軍がニシキの綱の番をし 眉うつくしい女官が迷楼(めいろう)の宿直をした」(漢詩選10「隋堤柳」『白居易・P.103~105』集英社 一九九六年)

(2)「過(あやま)ちて改むるに憚(はばか)ることなかれ」(「太平記4・第二十六巻・五・P.199」岩波文庫 二〇一五年)

「論語・学而篇」からの引用。

「子曰、君子不重則不威、学則不固、主忠信、無友不如己者、過則勿憚改

(書き下し)子曰わく、君子重からざれば則(すなわ)ち威あらず、学べば則ち固(こ)ならず。忠信に主(した)しみ、己(おの)れに如(し)かざる者を友とすること無(な)かれ。過(あやま)てば則ち改むるに憚(はばか)ること勿(な)かれ。

(現代語訳)先生がいわれた。『貴族たるものは、まずどっしりとかまえること。そうでないと威厳を失うし、学問をさせてもしっかりとしたところができないからだ。次は、律儀(りちぎ)で約束をたがえない人に昵懇(じっこん)をねがって、自分に及ばないものと友だちにならないこと。最後に、過(あやま)ちがあれば、すなおに認めてすぐさま訂正することだ』」(「論語・第一巻・第一・学而篇・八・P.17」中公文庫 一九七三年)

いまのところ断然注目しておきたいのは(2)。「過則勿憚改」=「過(あやま)てば則ち改むるに憚(はばか)ること勿(な)かれ」=「過(あやま)ちがあれば、すなおに認めてすぐさま訂正すること」。東京五輪は終わったが、当初発表されていた予算額を遥かに越える資金が投入された。調べれば使途不明金も出てくるだろう。さらに五輪は終わってもそれ以前から指摘されている「桜を見る会」疑惑はまだまだ終わっていない。「モリカケ」問題もいまなお渦中である。にもかかわらずマスコミでは次期総裁選がどうしたこうした。さらに沖縄米軍基地拡張問題はもはや取り上げられさえもしなくなっている模様。コロナ禍はあたかも貨幣のように日本の諸問題を覆い隠したままなのだが。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

住吉(すみよし)、堺(さかい)、四條畷(しじょうなわて)、と言っても楠正成(くすのきまさしげ)ではなく、子の楠正行(まさつら)の代。高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)軍との最後の戦闘が近い。真冬に行われた。次は師直が取った陣形。

「鳥雲(ちょううん)の陣(じん)をなして、陰(いん)を設(もう)け、陽(よう)に備ふ」(「太平記4・第二十六巻・七・P.213」岩波文庫 二〇一五年)

兵法書「六韜(りくとう)」からの引用。

「烏雲の陣とは、陰陽を兼ねそなえ、あるいは陰である北側に屯集(とんしゅう)し、あるいは陽である南側に屯集することをいいます」(「六韜・第五巻・豹韜・第四十七・烏雲山兵・P.181」中公文庫 二〇〇五年)

現場は大坂南東部から奈良の生駒山にかけて。

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