次の文章。
「稲麻(とうま)の如くに打ち囲んだり」(「太平記4・第二十六巻・七・P.214」岩波文庫 二〇一五年)
見覚えがあると思う。京中に足利勢が充満していた時の文面はこうだった。
「稲麻竹葦(とうまちくい)の如く打ち囲みたる大勢(おおぜい)ども」(「太平記2・第十五巻・七・P.468」岩波文庫 二〇一四年)
いずれも立錐の余地一つないほど軍隊で充満した状態を指して言われている。「法華経」からの引用。
「如稲麻竹葦 充満十方刹
(書き下し)稲・麻・竹・葦の如くにして 十方の刹(くに)に充満せんに
(現代語訳)蘆や竹のように、すべての世界にすき間なく充満し」(「法華経・上・巻第一・方便品・第二・P.72~73」岩波文庫 一九六二年)
次に。
「項羽(こうう)が山を抜き」(「太平記4・第二十六巻・七・P.215」岩波文庫 二〇一五年)
漢の劉邦に包囲された項羽の辞世の詩。「史記・項羽本紀」から。
「力は山を抜き 気は世を蓋(お)うも 時に利あらず 騅(すい)逝(ゆ)かず 騅の逝かざるは 如何(いかん)すべき 虞(ぐ)や虞や なんじを如何(いかん)せん」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.231』ちくま学芸文庫 一九九五年)
さらにここで「秦の穆公」のエピソードが語られる。
「かやうの事、異国にも規(ためし)あり。秦の穆公と申しける王」(「太平記4・第二十六巻・八・P.226」岩波文庫 二〇一五年)
かつて穆公の良馬を食べた者が約三百人いた。穆公の臣下は彼ら三百人を捕えた。本来ならただちに殺されるところだったが穆公は許してやり、戦闘で疲労しているに違いない彼らに薬酒を振る舞い与えた。するとその三百人は今度、晋に包囲された穆公を守るため果敢に戦ったという故事。「史記・秦本紀」に載る。
「岐下(岐山の麓)の良馬を食った者三百人が、駆けて晋軍に打ち入ったので、晋軍は囲みを解き、繆公は危険を脱して、かえって晋君を生捕りにすることができた。かつて繆公は、良馬をうしなったが、これは岐下の野人が捕えて食ったのであって、その人数は三百余人であった。役人が捕えて罰しようとすると、繆公は、『君子は家畜のために、人を害してはならない。わしは、良馬の肉を食ったら酒を飲まないと人を傷(そこな)う、と聞いている』と言って、みなに酒を賜い罪を赦(ゆる)した。三百人の者は、秦が晋を撃つと聞いて、みな従軍を願い、繆公が危険になったのを見ると、またみな鋒(ほこ)を推ししごき死を争って、馬を食って赦された徳に報いたのである」(「秦本紀・第五」『史記1・本紀・P.111』ちくま学芸文庫 一九九五年)
寛大な処遇が吉と出た事例である。さて「太平記」はすぐにまた四条畷(しじょうなわて)から生駒山にかけての合戦の模様に戻ってこう伝える。
「龍門原上(りゅうもんげんしょう)の苔の下に尸(かばね)を埋(うず)めて名を残し」(「太平記4・第二十六巻・九・P.237」岩波文庫 二〇一五年)
楠正行(まさつら)・正時(まさとき)・和田新発意(しんぼち)は自害。一族郎等ら兵士三百四十三人もすべて討死・自害して果てた。しかしこの文面は白居易「題故元少尹集後」からの引用。
「龍門原上土 埋骨不埋名
(書き下し)龍門(りゅうもん) 原上(げんじょう)の土(つち)。骨(ほね)を埋(うず)めて名(な)を埋(うづ)めず。
(現代語訳)竜門原上の土は きみの骨を埋めただけで、きみの名声は埋もらず後世に伝わるのだ」(漢詩選10「題故元少尹集後」『白居易・P.300~301』集英社 一九九六年)
さらに敗北した楠正行・正時・和田新発意を始め約三百七十人の頸(くび)は京へ運び込まれ六条河原(ろくじょうがわら)に晒された。奈良吉野に残っている公家らは慌てふためきながらさらなる山奥へ逃げ去った。一部は今の奈良県西吉野郡賀名生(あのう)へ。なかには今の奈良県吉野郡天川村までとっとと退却する者もいた。そこまで逃げ込んでしまっては、後醍醐帝の頃は信用できたけれども新帝・後村上帝が立ってからは自分たちの身が危ないと絶叫しているようなもので、逆に失礼ではないかと思えてくるのだが。なお、「賀名生(あのう)」という名称だがもっと昔は「穴生(あのう)」と書いた。「賀名生(あのう)」へ変更されたのは朝廷の行在所となって以後である。
そして高師直が三万騎を率いて吉野の金峯山寺に押し寄せた時、すでに人っ子一人いなくなっていた。三度呼び声を上げたが木霊(こだま)一つ返ってこない。そうとわかれば残る仕事はもはや一つ。蔵王堂を中心として伽藍すべてに火をかけて焼き払った。
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「稲麻(とうま)の如くに打ち囲んだり」(「太平記4・第二十六巻・七・P.214」岩波文庫 二〇一五年)
見覚えがあると思う。京中に足利勢が充満していた時の文面はこうだった。
「稲麻竹葦(とうまちくい)の如く打ち囲みたる大勢(おおぜい)ども」(「太平記2・第十五巻・七・P.468」岩波文庫 二〇一四年)
いずれも立錐の余地一つないほど軍隊で充満した状態を指して言われている。「法華経」からの引用。
「如稲麻竹葦 充満十方刹
(書き下し)稲・麻・竹・葦の如くにして 十方の刹(くに)に充満せんに
(現代語訳)蘆や竹のように、すべての世界にすき間なく充満し」(「法華経・上・巻第一・方便品・第二・P.72~73」岩波文庫 一九六二年)
次に。
「項羽(こうう)が山を抜き」(「太平記4・第二十六巻・七・P.215」岩波文庫 二〇一五年)
漢の劉邦に包囲された項羽の辞世の詩。「史記・項羽本紀」から。
「力は山を抜き 気は世を蓋(お)うも 時に利あらず 騅(すい)逝(ゆ)かず 騅の逝かざるは 如何(いかん)すべき 虞(ぐ)や虞や なんじを如何(いかん)せん」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.231』ちくま学芸文庫 一九九五年)
さらにここで「秦の穆公」のエピソードが語られる。
「かやうの事、異国にも規(ためし)あり。秦の穆公と申しける王」(「太平記4・第二十六巻・八・P.226」岩波文庫 二〇一五年)
かつて穆公の良馬を食べた者が約三百人いた。穆公の臣下は彼ら三百人を捕えた。本来ならただちに殺されるところだったが穆公は許してやり、戦闘で疲労しているに違いない彼らに薬酒を振る舞い与えた。するとその三百人は今度、晋に包囲された穆公を守るため果敢に戦ったという故事。「史記・秦本紀」に載る。
「岐下(岐山の麓)の良馬を食った者三百人が、駆けて晋軍に打ち入ったので、晋軍は囲みを解き、繆公は危険を脱して、かえって晋君を生捕りにすることができた。かつて繆公は、良馬をうしなったが、これは岐下の野人が捕えて食ったのであって、その人数は三百余人であった。役人が捕えて罰しようとすると、繆公は、『君子は家畜のために、人を害してはならない。わしは、良馬の肉を食ったら酒を飲まないと人を傷(そこな)う、と聞いている』と言って、みなに酒を賜い罪を赦(ゆる)した。三百人の者は、秦が晋を撃つと聞いて、みな従軍を願い、繆公が危険になったのを見ると、またみな鋒(ほこ)を推ししごき死を争って、馬を食って赦された徳に報いたのである」(「秦本紀・第五」『史記1・本紀・P.111』ちくま学芸文庫 一九九五年)
寛大な処遇が吉と出た事例である。さて「太平記」はすぐにまた四条畷(しじょうなわて)から生駒山にかけての合戦の模様に戻ってこう伝える。
「龍門原上(りゅうもんげんしょう)の苔の下に尸(かばね)を埋(うず)めて名を残し」(「太平記4・第二十六巻・九・P.237」岩波文庫 二〇一五年)
楠正行(まさつら)・正時(まさとき)・和田新発意(しんぼち)は自害。一族郎等ら兵士三百四十三人もすべて討死・自害して果てた。しかしこの文面は白居易「題故元少尹集後」からの引用。
「龍門原上土 埋骨不埋名
(書き下し)龍門(りゅうもん) 原上(げんじょう)の土(つち)。骨(ほね)を埋(うず)めて名(な)を埋(うづ)めず。
(現代語訳)竜門原上の土は きみの骨を埋めただけで、きみの名声は埋もらず後世に伝わるのだ」(漢詩選10「題故元少尹集後」『白居易・P.300~301』集英社 一九九六年)
さらに敗北した楠正行・正時・和田新発意を始め約三百七十人の頸(くび)は京へ運び込まれ六条河原(ろくじょうがわら)に晒された。奈良吉野に残っている公家らは慌てふためきながらさらなる山奥へ逃げ去った。一部は今の奈良県西吉野郡賀名生(あのう)へ。なかには今の奈良県吉野郡天川村までとっとと退却する者もいた。そこまで逃げ込んでしまっては、後醍醐帝の頃は信用できたけれども新帝・後村上帝が立ってからは自分たちの身が危ないと絶叫しているようなもので、逆に失礼ではないかと思えてくるのだが。なお、「賀名生(あのう)」という名称だがもっと昔は「穴生(あのう)」と書いた。「賀名生(あのう)」へ変更されたのは朝廷の行在所となって以後である。
そして高師直が三万騎を率いて吉野の金峯山寺に押し寄せた時、すでに人っ子一人いなくなっていた。三度呼び声を上げたが木霊(こだま)一つ返ってこない。そうとわかれば残る仕事はもはや一つ。蔵王堂を中心として伽藍すべてに火をかけて焼き払った。
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