白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・足利直義(ただよし)を煽る妙吉侍者(みょうきつじしゃ)

2021年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム
高師直(もろなお)・師泰(もろやす)兄弟に対する讒言。足利直義(ただよし)に告げようと妙吉侍者(みょうきつじしゃ)が出してきた例は秦の高級官僚だった趙高(ちょうこう)のエピソード。

「始皇帝、自ら詔(みことのり)を遺(のこ)して、御位(みくらい)をば第一の御子扶蘇(ふそ)に譲り給ひたりけるを、趙高(ちょうこう)は扶蘇御位に即(つ)き給ひなば、賢人才人皆朝家(ちょうか)に召(め)し仕(つか)はれて、天下をわが心に任(まか)する事あるまじと思ひければ、始皇帝の御譲りを引き破つて捨てて、趙高が養君にし奉りたる第二の王子胡亥(こがい)と申しけるに、世を譲り給ひたりと披露(ひろう)して、剰(あまつさ)へ討手(うって)を咸陽宮(かんようきゅう)へ差(さ)し遣(つか)はし、(扶蘇をば)討ち奉りてけり。かくて、幼稚におはする胡亥を二世皇帝と称して、御位に即け奉り、四海万機(しかいばんき)の政(まつりごと)、ただ趙高が心のままにぞ行ひける」(「太平記4・第二十七巻・六・P.276~277」岩波文庫 二〇一五年)

始皇帝の遺書を書き換えたのは始皇帝死去の際、大臣・官僚の最高位にいた李斯(りし)とそのすぐ下にいた趙高(ちょうこう)との二人。公子胡亥(こがい)は二世皇帝になることを条件に李斯・趙高と同盟、遺書の改竄・偽造の仲間に加わった。しかし嫡子の扶蘇(ふそ)には蒙恬(もうてん)という賢臣がついていた。そこで李斯・趙高ともに蒙恬を排除しなければ謀略を上手く進めることは困難と考えたのだろう、扶蘇・蒙恬とも死刑とする処分を遺書の内容として発表した。「史記・始皇本紀」からの引用。

「高(こう)は公子胡亥、丞相李斯とひそかにはかり、始皇の封じた公子扶蘇に賜う詔書を破り棄て、いつわって丞相李斯が始皇の遺詔を沙丘で受けたと言い、胡亥を立てて太子とした。また別に扶蘇と蒙恬(もうてん)に賜う詔書を偽造して、二人の罪状を数え、どちらにも死を賜うと申し送った」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.165』ちくま学芸文庫 一九九五年)

この箇所は「史記・李斯列伝」に詳しい。

「始皇帝の詔(みことのり)を丞相が受けた、といつわり(おもてむき始皇帝はまだ存命中)、丞相は公子胡亥を太子に立てた。また〔始皇帝の〕書翰の文面を次のように改めて、長男の扶蘇に与えた、『朕(ちん)は天下を巡察し、名山の神々を祭り、わが寿(よわい)長かれと祈った。しかるに汝扶蘇は将軍蒙恬とともに、軍勢数十万をひきいて国境の地に駐屯(ちゅうとん)すること、すでに十余年である。進撃することはあたわず、士卒の損害は多くして、一寸一尺の領土をひろめた功績(いさおし)はなく、なおかえってしばしば上書して、わがなせることをあからさまにそしった。その職分をとかれ都へ帰って太子となれぬゆえに、日に夜に恨みをいだくのであろう。扶蘇は人の子として不孝である。剣を与うる、これをもって自決せよ。将軍蒙恬は扶蘇とともに外地にあり、扶蘇の過(あやま)ちを改め正さないのは、当然その陰謀を知るゆえである。人の臣として不忠である、死を賜わり、軍隊は副将王離(おうり)に預けることとする』。その書翰には皇帝の玉璽を押して封じ、胡亥の食客にそれをたずさえさせ、上郡にいる扶蘇に送った。使者が到着して、扶蘇は書翰を開いてみて、涙にくれ、奥の部屋にはいり、自殺しようとした。蒙恬は扶蘇をとどめて、言った、『陛下は外にお出ましになって、まだ太子をお定めにはなりませんでした。わたくしに三十万の兵をひきいて辺境を守備せしめられ、公子さまは監察のお役目、これは天下の重任であります。今ただ一人の使者がまいったからとて、にわかに自殺しようとなさいますが、使者が贋者(にせもの)でないと、どうしてわかりましょうぞ。なにとぞ重ねてのご沙汰(さた)を願われますよう。いま一度のご沙汰があったその上で死をとげられましても、けっして遅くはございません』。使者はくりかえし早くせよとうながした。扶蘇はきまじめな性格であったので、蒙恬にむかって、『父上が子に死ねとおおせられるのだ。それをどうして重ねて願い出ることができよう』と言い、その場で自殺した」(「李斯列伝・第二十七」『史記列伝2・P.179~180』岩波文庫 一九七五年)

扶蘇が自害すると主君の汚名を晴らすため蒙恬は生き残る方向を選んだ。すると胡亥・李斯・趙高の側は蒙恬を陽周(ようしゅう=今の中国陝西省楡林市靖辺県)の牢獄に監禁した。もはやこれまでと感じた蒙恬は毒をあおいで自害。一方、秦の章邯(しょうかん)の軍が鉅鹿(きょろく)包囲に成功したものの、駆けつけた項羽の反撃に合い苦戦を強いられていた頃、秦の宮廷では李斯の仲間だったはずの趙高が李斯追い落としにかかっており、とうとう李斯を処刑に追い込んだ。

「三年、章邯らが兵を率いて鉅鹿を囲んだ。楚の上将軍項羽は、楚の兵を率い、出かけて行って鉅鹿を授けた。冬、趙高が丞相となり、ついに李斯の罪を取り調べ、法にあてて殺した」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.173~174』ちくま学芸文庫 一九九五年)

そもそもの力関係は趙高よりも李斯の側が上回っていた。しかし趙高は粘り強く奸策にも長けており、胡亥を二世皇帝につけるや矢継ぎ早に行動を起こし、李斯だけでなく李斯の側近らを次々と逮捕、処刑した。「李斯の罪」というのは後で二世皇帝にも掛けられる嫌疑と同じである。莫大な国家予算を投じて打ち続けられる阿房宮造営と軍事遠征との二つが大きい。巨額の金銭的負担により国民の側から離反者が続出、治安悪化と並行して盗賊団の結成・重犯罪が相次ぐようになっていた。

「二世皇帝の二年(前二〇八年)七月、李斯に五つの刑をことごとく加え、都咸陽の市場で胴斬りにした。李斯は牢から引き出され、その次男と同じ縄につながれたが、次男の方をふりむいて、語りかけた、『おまえといっしょにもう一度あの黄色い猟犬をつれ、上蔡(じょうさい=李斯の郷里)の東門から出て、すばしっこい兎を狩りたてに行ってみたいものじゃが、できることではないのう』。そこで父と子はたがいの身をいたんで声をあげて泣いた。そのあと李斯の三族(父母・兄弟・妻子)は皆殺しにされた」(「李斯列伝・第二十七」『史記列伝2・P.196』岩波文庫 一九七五年)

始めは勢いのあった秦軍だが楚の項羽との戦いで徐々に退却を余儀なくされていく。形勢は明らかに不利。章邯(しょうかん)は司馬欣に会った時、いま秦国に戻っても趙高が宮廷権力を牛耳り、思う存分に振る舞っているので戻らないほうがよいと聞かされる。そこで章邯たちは項羽のところへ行って降参し楚の配下に入る。

「欣は邯に会って、『趙高が朝廷にあって政権をとっていますので、将軍が功を立てられても殺され、功をたてられなくても殺されましょう』と言った。この時、項羽が秦軍を急襲し、王離(おうり)を虜(とりこ)にしたので、邯らはついに兵を率いて諸侯に降った」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.174』ちくま学芸文庫 一九九五年)

ところで妙吉侍者(みょうきつじしゃ)が足利直義(ただよし)に語る秦の趙高の傍若無人ぶり。その中で「太平記」に大きく取り上げられているのはなぜか次の箇所。「鹿馬(しかうま)」論争である。

「わが威勢の程を知らんためにに、夏毛(なつげ)の鹿に鞍を置いて、『この馬に召されて御覧候へ』とて、二世皇帝にぞ奉りける。二世、これを見給ひて、『これ馬にあらず、鹿なり』と宣(のたま)ひければ、趙高、『さ候はば、宮中の大臣どもを召されて、鹿馬(しかうま)の間を御尋ね候へかし』とぞ申しける。二世、百司千官(はくしせんかん)、公卿大臣、悉(ことごと)く召し集めて、鹿馬(しかうま)の間(あいだ)を問ひ給ふに、人皆盲者(もうじゃ)にあらざれば、馬にあらずとは見けれども、趙高(ちょうこう)が威勢に恐れて、『馬なり』と申さぬはなかりけり」(「太平記4・第二十七巻・六・P.277~278」岩波文庫 二〇一五年)

「史記・始皇本紀」に出てくる。

「八月己亥(きがい)の日、趙高は叛乱しようとしたが、群臣の反対を恐れ、まず試してみようと、鹿を連れて来て二世に献じ、『これは馬でございます』と言った。二世が笑って、『丞相もまちがうものか、鹿を馬と言った』と言い、左右の近臣に問うと、ある者は黙っており、ある者は、『馬に相違ありません』と言って趙高におもねり、またある者は、『鹿でございます』と言った。高はひそかに鹿と言った連中を罪におとしいれて処刑した。こののち群臣はみな高を畏れた」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.174』ちくま学芸文庫 一九九五年)

そんなアイデアを思いつくタイプだったらしい。さらに趙高は始皇帝の遺書改竄・偽造の事実を知っている二世皇帝を殺さなければならない。家来に命じて次のような偽の大規模軍事演出を行わせ、まず二世皇帝を孤立させる。

「趙高は衛兵に贋(にせ)の勅命を出し、全員に白装束(白は喪服の色)をつけさせ、武器を持って〔望夷の〕離宮にむかって進軍させ、自分は離宮の中にはいって、二世皇帝に告げた、『山東の盗賊ども(叛乱軍を指す)の兵が大挙してやってまいりました!』二世皇帝は高楼に上ってそれを目にし、恐れおののいた。趙高は、すぐさま、ここぞと二世皇帝を脅迫(きょうはく)して、自殺させた」(「李斯列伝・第二十七」『史記列伝2・P.197』岩波文庫 一九七五年)

どのように自殺させたのか。脅迫材料は何だったか。趙高の婿に閻楽(えんがく)という者がいた。趙高は閻楽を使って二世皇帝に言わせる。阿房宮造営のために国家が傾いているということが脅迫材料。「史記・始皇本紀」にある。

「閻楽は進み出て二世を責め、『足下は驕慢放恣(きょうまんほうし)、人を殺して無道だ。だから天下の者がみなそむくのである。自分で身を処置するがよい』と言うと、二世は、『丞相(趙高)に会えないか』と言った。楽が、『できない』と言うと、二世は、『せめて一郡の地ででももらい、王になれないか』と言ったが、許さなかった。『一郡がだめなら万戸侯にでも』と乞うたが、許されなかった。二世がさらに、『妻子ともども平民となり、諸公子のようにしてもらえないか』と言うと楽は、『わたしは丞相の命を受け、天下のためにあなたを殺しに来たのである。何と言われようと取り次ぐことはできん』と言い、部下の兵をさしまねいたので、二世は自殺した」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.176』ちくま学芸文庫 一九九五年)

妙吉侍者(みょうきつじしゃ)の語りもふたたび「史記」掲載記事に戻る。「李斯列伝」からの引用。

「それから趙高は皇帝の玉璽(ぎょくじ=皇帝の地位の象徴)を奪って自分の体におびた。しかし百官はだれもかれに服従しなかった。かれは、〔皇帝即位の儀式をあげるため〕昇殿しようとしたが、そのたびに宮殿が崩れそうになり、それが三度くりかえされた。趙高は自分でも、天が許さず、臣下たちも認めないことを覚って、ようやく始皇帝の孫(子嬰<しえい>)をよびよせて玉璽を渡した。子嬰は即位したが、趙高が気がかりで、病気だと偽(いつわ)って政治にもかかわらず、一方で、宦官の韓談(かんだん)やその子とともに趙高殺害を計画した。趙高が拝謁(はいえつ)に来て、病気のお見舞いをしたい、と願ったおりをとらえ、子嬰はかれを奥へ呼び入れ、韓談に刺し殺させ、そのあと、趙高の三族を皆殺しにした」(「李斯列伝・第二十七」『史記列伝2・P.197~198』岩波文庫 一九七五年)

さらに趙高が殺害された後に立った子嬰も殺される。

「子嬰が位についてから三か月のち、沛公(はいこう=のちの漢の高祖劉邦<りゅうほう>)の軍が武関を突破して、秦の都咸陽に侵入した。秦の群臣はことごとく秦にそむき、沛公に抵抗しなかった。子嬰は妻と子をともない、みずから首に紐もかけ、軹道(しどう=咸陽の東北にあった宿場)の近くで沛公に降伏した。沛公はかれの身柄を係官に預けておいた。のち項王(こうおう=項羽)が到着すると、あらためて子嬰を斬り殺した。かくのごとくにして秦は結局天下を失ったのであった」(「李斯列伝・第二十七」『史記列伝2・P.198』岩波文庫 一九七五年)

妙吉侍者(みょうきつじしゃ)の語りは「太平記」の中の語りでもターニング・ポイントの一つである。足利直義が禅宗に関心を向け、政治から身を引くかもしれないと思われていたその頃。公家政権と武家政権との二頭政治ではなく、武家だけでも二つに分裂させておき、さらなる混乱への導火線として登場してくるからだ。

「神陵(しんりょう)三月(さんげつ)の火」(「太平記4・第二十七巻・六・P.279」岩波文庫 二〇一五年)

そう「太平記」は何度か述べる。「史記・項羽本紀」から。

「数日すると、項羽は兵を率いて西行し、咸陽を屠り、秦の降王嬰を殺し、秦の宮室を焼いた。火は三ヶ月にわたって消えず、財宝婦女を収めて東へ帰った」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.214』ちくま学芸文庫 一九九五年)

咸陽宮の豪壮さを物語る一文だが、燃え尽きることはけっして終わりではなくむしろさらなる戦乱の始まりとなるのが「太平記」の特徴の一つである。

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