兵庫生田(いくた)付近の戦いで足利勢と新田勢が衝突。とはいえ楠正成討死の衝撃は大きく新田勢はいったん京へ落ちていく。その時新田義貞が着ていた鎧(よろい)にこうある。
「薄金(うすがね)と云ふ累代(るいだい)の甲(よろい)」(「太平記3・第十六巻・十一・P.86」岩波文庫 二〇一五年)
源氏秘蔵の鎧八種の一つ。「保元物語」に載っている。
「月数(つきかず)・日数(ひかず)・元太(げんた)ガウブギヌ・薄金(うすがね)・膝丸(ひざまる)・八竜(はちりう)・オモダカ・タテナシト申(まうす)八両(りやう)ノ鎧(よろひ)」(新日本古典文学体系「保元物語・上・新院、為義ヲ召サルル事」『保元物語/平治物語/承久記・P.24』岩波書店 一九九二年)
一方、六条河原に晒された正成の首。残された妻と子の正行(まさつら)が駆けつけたがその首はまさしく本物。正行はショックが大き過ぎたのか自害しようとしたところ母が気づいて引き留めた。そしてこういう。
「栴檀(せんだん)は二葉(ふたば)より香(こうば)しきと云へり」(「太平記3・第十六巻・十四・P.104」岩波文庫 二〇一五年)
父・正成の遺言を思い返せと。短絡的に自害するなと言っていたはず。物の道理がわかる子なら若い頃から教えの意味も承知しその才能も早くから開花するに違いないと。「平家物語」からの引用。
「『栴檀(センダン)は二葉(フタバ)よりかうばし』とこそ見えたれ」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第一・殿下乗合・P.42」岩波書店 一九九一年)
それはそれとして、比叡山の横川で謎の童(わらわ)が登場する場面。突然物狂いの状態に陥って語る言葉の中にこうある。
「和光の埃(ちり)に交はる」(「太平記3・第十七巻・四・P.132」岩波文庫 二〇一五年)
「老子」の言葉。
「和其光、同其塵
其の光(こう)を和(やわ)らげ、其の塵(じん)を同じくす」(「老子・上篇・第四章・P.14」中公文庫 一九七三年)
一般的には「和光同塵」として広く知られており「太平記」でもその意味で用いられている模様である。しかし、光(こう)を天帝と見、塵(じん)を世俗一般の人々と見た場合、両者がまったく同じ位置で交わるということはあり得ないと考えられる。この見方はおそらく決着のつかない二つの見方だろう。そもそも老子の思想には神秘主義的側面がまったくないでもないため、古代中国に古くから伝わる神の世界と人間の世界とは離れているという考えが残っていたと考えられるからである。「楚辞・離騒」にこうある。
「溘吾遊此春宮兮 折瓊枝以繼佩
(書き下し)溘(たちま)ち吾(われ) 此(こ)の春宮(しゅんきゅう)に遊(あそ)び 瓊枝(けいし)を折(お)りて以(も)って佩(はい)に継(つな)ぐ
(現代語訳)心を変えて、わたしは春の神が住まう宮殿を訪れ そこに生える瓊樹(けいじゅ)の枝を折って、腰の佩玉(はいぎょく)につないだ」(「楚辞・離騒 第一・P.68」岩波文庫 二〇二一年)
ここで注目したいのは「瓊枝(けいし)」という神話的樹木。神々の宮殿と人間世界とを繋ぐ巨大な樹木があると述べられている点。崑崙山の西にあるとされ、高さ「万仭(じん)」らしいが「仭(じん)」そのものの長さに諸説あってはっきりしないため「千仭の谷」という場合などに用いられる。
次は高師久(こうのもろひさ)が負傷し生捕になるシーン。
「治承(じしょう)の古(いにし)へ、平家十万余騎の兵、木曾の夜討(ようち)に懸け立てられて、倶利伽羅谷(くりからだに)に埋(うず)もれけんも、これには過ぎじと覚えたり」(「太平記3・第十七巻・五・P.136」岩波文庫 二〇一五年)
「平家物語」でも有名な「倶利伽羅(くりから)落」の条。
「さるほどに、源平両方(りやうぼう)陣をあはす。陣のあはひわづかに三町(さんぢやう)ばかりによせあはせたり。源氏もすすまず、平家もすすまず。勢兵(せひびやう)十五騎、楯の面(おもて)にすすませて、十五騎がうは矢の鏑(かぶら)を平家の陣へぞ射入(いれ)たる。平家、又はかり事とも知らず、十五騎を出(いだ)いて、十五の鏑を射返す。源氏卅騎を出いて射さすれば、平家卅騎を出いて卅の鏑を射かへす。五十騎を出(いだ)せば五十騎を出しあはせ、百騎を出せば百騎を出しあはせ、両方百騎づつ陣の面(おもて)にすすんだり。互に勝負をせんとはやりけれ共(ども)、源氏の方(かた)よりせいして勝負をせさせず。源氏は、か様(よう)にして日を暮(く)らし、平家の大勢(おほぜい)を倶利伽羅(くりからが)谷へ追落(おと)さうどたばかりけるを、すこしもさとらずして、ともにあひしらひ、日を暮らすことはかなけれ。次第にくらうなりければ、北・南よりまはッつる搦手(からめて)の勢一万余騎、倶利伽羅(くりから)の堂(だう)の辺にまはりあひ、えびらのほうだて打(うち)たたき、時をどッとぞつくりける。平家うしろをかへり見ければ、白旗雲のごとくさしあげたり。『此(この)山は四方巌石(がんぜき)であんなれば、搦手よもまはらじと思(おもひ)つるに、こはいかに』とてさわぎあへり。去(さる)程に、木曽殿、大手(おほて)より時の声をぞあはせ給ふ。松長(まつなが)の柳原(やなぎはら)・ぐみの木林(きンばやし)に一万余騎ひかへたりける勢も、今井四郎が六千余騎で日(ひの)宮林(みやばやし)にありけるも、同(おなじ)く時をぞつくりける。前後四万騎(しまんぎ)がをめく声、山も川もただ一度にくづるるとこそ聞えけれ。案のごとく、平家、次第にくらうはなる。前後より敵は攻め来(きた)る。『きたなしや、かへせ、かへせ』といふやからおほかりけれ共(ども)、大勢の傾(かたむき)たちぬるは、左右(さう)なうとッてかへす事かたければ、倶利伽羅が谷へ、われ先にとぞ落(おと)しける。まッ先にすすむだる者が見えねば、此(この)谷の底に道のあるにこそとて、親落(おと)せば子も落(おと)し、兄落(おと)せば弟もつづく。主落(おと)せば家子(いへのこ)・郎党落(おと)しけり。馬には人、ひとには馬、落かさなり落かさなり、さばかり深き谷一つを、平家の勢七万余騎でぞうめたりける。巌泉(がんせん)血を流し、死骸(しがい)丘(をか)をなせり。されば其谷のほとりには、矢の穴、刀の疵(きず)残って今にありとぞ承はる。平家の方には、むねとたのまれたりける上総大夫(かづさのたいふの)判官忠綱(ただつな)・飛騨大夫(ひだたいふ)判官景高(かげたか)・河内(かはちの)判官秀国(ひでくに)も、此谷にうづもれて失(う)せにけり。備中国住人瀬尾(せのをの)太郎兼康(かねやす)といふ聞ゆる大力(だいぢから)も、そこにて加賀国住人蔵光(くらみつの)次郎成澄(なりずみ)が手にかかっていけどりにせらる。越前国火打(ひうち)が城にてかへり忠したりける平泉寺(へいせんじ)の長吏斎明威儀師(ちょうりさいめいいぎし)もとらはれぬ。木曽殿、『あまりにくきに、其(その)法師をばまづきれ』とて、きられにけり。平氏の大将維盛・道盛、けう(希有)の命生(いき)て、加賀の国へ引退く。七万余騎がなかより、わづかに二千騎ぞのがれたりける」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第七・倶利伽羅落・P.17~19」岩波書店 一九九三年)
生捕になった高師久。新田義貞はいう。
「仏敵神敵(ぶってきしんてき)の最(さい)たれば、重衡(しげひら)の例に任(まか)すべし」(「太平記3・第十七巻・五・P.137」岩波文庫 二〇一五年)
重衡(しげひら)は平重衡(しげひら)のこと。木津川べりで斬首された。「平家物語」ではまず焼き討ちされた恨みがあるため、平重衡を東大寺・興福寺の周囲を引き回したのち、地面に生き埋めにして鋸(のこぎり)でぎこぎこと斬首すべしとの声が上がった。けれども寺院内でそれをやるのはどうかと長老らがためらっため、重衡の身柄はふたたび武士に引き渡された。
「南都の大衆うけとッて僉議(せんぎ)す。『抑(ソモソモ)此(この)重衡は、大犯(ダイボン)の悪人たるうへ、三千五刑(ケイ)のうちにももれ、修因感果(シユインカンクワ)の道理極上(ごくじやう)せり。仏敵(ブツテキ)、法敵の逆臣(ぎやくしん)なれば、東大寺・興福寺の大垣をめぐらして、のこぎりにてやきるべき、堀頸(ほりくび)にやすべき』と僉議す」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十一・重衡被斬・P.335~336」岩波書店 一九九三年)
その中に木工右馬允知時(むくうまノじようともとき)という武士がいた。木津川まで重衡を連れてきた時、重衡の身内の者がやって来たのでただ単に斬首するのはあんまりだろうと考え、すぐ近くにあった阿弥陀仏を見つけてきて、その前で重衡に祈りの言葉を述べる機会を設けてやり、それから首を刎ねることにした。当時すでに阿弥陀仏はどんな重罪人でも済度する仏として知られていた。
「『三宝の境界(キヤウガイ)は、慈悲(ジヒ)を心として、済度(サイド)の良縁(リヤウエン)まちまち也。<唯縁(ユイエン)楽意、逆即是順(ギヤクソクゼジユン)>、此(こ)の文肝(モンキモ)に銘(メイ)ず。一念(ネン)弥陀仏、即滅無量罪(ソクメツムリヤウザイ)、願(ネガハ)くは、逆縁(ギヤクエン)をもッて順縁(ジュユンエン)とし、只今の最後の念仏によッて、九品託生(くぼんタクしやう)をとぐべし』とて、高声(かうしやう)に十念をとなへつつ、頸をのべてそきられける。日来(ひごろ)の悪行はさる事なれ共、いまのありさまを見たてまつるに、数(す)千人の大衆も、守護の武士も、みな涙をぞ流(なが)しける。その頸をば般若寺(ハンにヤじ)、大鳥井(おほどりゐ)の前に釘(くぎ)つけにこそかけたりけれ」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十一・重衡被斬・P.337」岩波書店 一九九三年)
さらに何度目かの引用。
「致命(ちめい)の忠義を尽くさざらん」(「太平記3・第十七巻・八・P.144」岩波文庫 二〇一五年)
命をかけて王城を守護しなければならないという。延暦寺が持ち出した。「論語」から。
「子張曰、士見危到命、見得思義、祭思敬、喪思哀、其可已矣
(書き下し)子張(しちょう)曰(い)わく、士、危うきを見ては命(いのち)を致(いた)し、得(う)るを見ては、義を思い、祭(まつり)には敬を思い、喪(も)に哀(あい)を思わば、それ可(か)ならんのみ。
(現代語訳)子張がいった。『君につかえる者は、危機にあたっては生命をささげ、利益を前にしては取るべき筋合いかどうかを考え、祭礼には神への敬虔を専一と考え、葬儀には死者への哀(かな)しみをたいせつと考える。それでまずまずといえる』」(「論語・第十巻・第十九・子張篇・一・P.536」中公文庫 一九七三年)
次に延暦寺が興福寺に宛てて足利兄弟討伐の同盟を呼びかけた文章。
「天功(てんこう)を貪(むさぼ)つて己れが力と為す、咎犯(きゅうはん)が恥づる所なり」(「太平記3・第十七巻・八・P.146」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・晋世家」の引用。寺院発行の文書なので文面は難解な言葉が並んではいるが、要するに尊氏一人の手柄になってしまうのが許し難いようだ。
「重耳は壁を河中に投じて、子犯(咎犯)と誓った。そのとき、この船の中に従っていた介子推(かいしすい)が笑って言った。『実際は天帝が公子の運をひらかれたのに、子犯はそれを自分の手柄として、君に報酬を求めている。何と恥しらずだろう。わしは彼と同列におるのがいやだ』。そしてみずから身を隠してしまった」(「晋世家・第九」『史記3・世家・上・P.197』ちくま学芸文庫 一九九五年)
延暦寺が出した文書に興福寺は乗ってくる。両者ともにはなはだ漢語が多く、まさしく「檄文」というにふさわしい形式・内容。
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「薄金(うすがね)と云ふ累代(るいだい)の甲(よろい)」(「太平記3・第十六巻・十一・P.86」岩波文庫 二〇一五年)
源氏秘蔵の鎧八種の一つ。「保元物語」に載っている。
「月数(つきかず)・日数(ひかず)・元太(げんた)ガウブギヌ・薄金(うすがね)・膝丸(ひざまる)・八竜(はちりう)・オモダカ・タテナシト申(まうす)八両(りやう)ノ鎧(よろひ)」(新日本古典文学体系「保元物語・上・新院、為義ヲ召サルル事」『保元物語/平治物語/承久記・P.24』岩波書店 一九九二年)
一方、六条河原に晒された正成の首。残された妻と子の正行(まさつら)が駆けつけたがその首はまさしく本物。正行はショックが大き過ぎたのか自害しようとしたところ母が気づいて引き留めた。そしてこういう。
「栴檀(せんだん)は二葉(ふたば)より香(こうば)しきと云へり」(「太平記3・第十六巻・十四・P.104」岩波文庫 二〇一五年)
父・正成の遺言を思い返せと。短絡的に自害するなと言っていたはず。物の道理がわかる子なら若い頃から教えの意味も承知しその才能も早くから開花するに違いないと。「平家物語」からの引用。
「『栴檀(センダン)は二葉(フタバ)よりかうばし』とこそ見えたれ」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第一・殿下乗合・P.42」岩波書店 一九九一年)
それはそれとして、比叡山の横川で謎の童(わらわ)が登場する場面。突然物狂いの状態に陥って語る言葉の中にこうある。
「和光の埃(ちり)に交はる」(「太平記3・第十七巻・四・P.132」岩波文庫 二〇一五年)
「老子」の言葉。
「和其光、同其塵
其の光(こう)を和(やわ)らげ、其の塵(じん)を同じくす」(「老子・上篇・第四章・P.14」中公文庫 一九七三年)
一般的には「和光同塵」として広く知られており「太平記」でもその意味で用いられている模様である。しかし、光(こう)を天帝と見、塵(じん)を世俗一般の人々と見た場合、両者がまったく同じ位置で交わるということはあり得ないと考えられる。この見方はおそらく決着のつかない二つの見方だろう。そもそも老子の思想には神秘主義的側面がまったくないでもないため、古代中国に古くから伝わる神の世界と人間の世界とは離れているという考えが残っていたと考えられるからである。「楚辞・離騒」にこうある。
「溘吾遊此春宮兮 折瓊枝以繼佩
(書き下し)溘(たちま)ち吾(われ) 此(こ)の春宮(しゅんきゅう)に遊(あそ)び 瓊枝(けいし)を折(お)りて以(も)って佩(はい)に継(つな)ぐ
(現代語訳)心を変えて、わたしは春の神が住まう宮殿を訪れ そこに生える瓊樹(けいじゅ)の枝を折って、腰の佩玉(はいぎょく)につないだ」(「楚辞・離騒 第一・P.68」岩波文庫 二〇二一年)
ここで注目したいのは「瓊枝(けいし)」という神話的樹木。神々の宮殿と人間世界とを繋ぐ巨大な樹木があると述べられている点。崑崙山の西にあるとされ、高さ「万仭(じん)」らしいが「仭(じん)」そのものの長さに諸説あってはっきりしないため「千仭の谷」という場合などに用いられる。
次は高師久(こうのもろひさ)が負傷し生捕になるシーン。
「治承(じしょう)の古(いにし)へ、平家十万余騎の兵、木曾の夜討(ようち)に懸け立てられて、倶利伽羅谷(くりからだに)に埋(うず)もれけんも、これには過ぎじと覚えたり」(「太平記3・第十七巻・五・P.136」岩波文庫 二〇一五年)
「平家物語」でも有名な「倶利伽羅(くりから)落」の条。
「さるほどに、源平両方(りやうぼう)陣をあはす。陣のあはひわづかに三町(さんぢやう)ばかりによせあはせたり。源氏もすすまず、平家もすすまず。勢兵(せひびやう)十五騎、楯の面(おもて)にすすませて、十五騎がうは矢の鏑(かぶら)を平家の陣へぞ射入(いれ)たる。平家、又はかり事とも知らず、十五騎を出(いだ)いて、十五の鏑を射返す。源氏卅騎を出いて射さすれば、平家卅騎を出いて卅の鏑を射かへす。五十騎を出(いだ)せば五十騎を出しあはせ、百騎を出せば百騎を出しあはせ、両方百騎づつ陣の面(おもて)にすすんだり。互に勝負をせんとはやりけれ共(ども)、源氏の方(かた)よりせいして勝負をせさせず。源氏は、か様(よう)にして日を暮(く)らし、平家の大勢(おほぜい)を倶利伽羅(くりからが)谷へ追落(おと)さうどたばかりけるを、すこしもさとらずして、ともにあひしらひ、日を暮らすことはかなけれ。次第にくらうなりければ、北・南よりまはッつる搦手(からめて)の勢一万余騎、倶利伽羅(くりから)の堂(だう)の辺にまはりあひ、えびらのほうだて打(うち)たたき、時をどッとぞつくりける。平家うしろをかへり見ければ、白旗雲のごとくさしあげたり。『此(この)山は四方巌石(がんぜき)であんなれば、搦手よもまはらじと思(おもひ)つるに、こはいかに』とてさわぎあへり。去(さる)程に、木曽殿、大手(おほて)より時の声をぞあはせ給ふ。松長(まつなが)の柳原(やなぎはら)・ぐみの木林(きンばやし)に一万余騎ひかへたりける勢も、今井四郎が六千余騎で日(ひの)宮林(みやばやし)にありけるも、同(おなじ)く時をぞつくりける。前後四万騎(しまんぎ)がをめく声、山も川もただ一度にくづるるとこそ聞えけれ。案のごとく、平家、次第にくらうはなる。前後より敵は攻め来(きた)る。『きたなしや、かへせ、かへせ』といふやからおほかりけれ共(ども)、大勢の傾(かたむき)たちぬるは、左右(さう)なうとッてかへす事かたければ、倶利伽羅が谷へ、われ先にとぞ落(おと)しける。まッ先にすすむだる者が見えねば、此(この)谷の底に道のあるにこそとて、親落(おと)せば子も落(おと)し、兄落(おと)せば弟もつづく。主落(おと)せば家子(いへのこ)・郎党落(おと)しけり。馬には人、ひとには馬、落かさなり落かさなり、さばかり深き谷一つを、平家の勢七万余騎でぞうめたりける。巌泉(がんせん)血を流し、死骸(しがい)丘(をか)をなせり。されば其谷のほとりには、矢の穴、刀の疵(きず)残って今にありとぞ承はる。平家の方には、むねとたのまれたりける上総大夫(かづさのたいふの)判官忠綱(ただつな)・飛騨大夫(ひだたいふ)判官景高(かげたか)・河内(かはちの)判官秀国(ひでくに)も、此谷にうづもれて失(う)せにけり。備中国住人瀬尾(せのをの)太郎兼康(かねやす)といふ聞ゆる大力(だいぢから)も、そこにて加賀国住人蔵光(くらみつの)次郎成澄(なりずみ)が手にかかっていけどりにせらる。越前国火打(ひうち)が城にてかへり忠したりける平泉寺(へいせんじ)の長吏斎明威儀師(ちょうりさいめいいぎし)もとらはれぬ。木曽殿、『あまりにくきに、其(その)法師をばまづきれ』とて、きられにけり。平氏の大将維盛・道盛、けう(希有)の命生(いき)て、加賀の国へ引退く。七万余騎がなかより、わづかに二千騎ぞのがれたりける」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第七・倶利伽羅落・P.17~19」岩波書店 一九九三年)
生捕になった高師久。新田義貞はいう。
「仏敵神敵(ぶってきしんてき)の最(さい)たれば、重衡(しげひら)の例に任(まか)すべし」(「太平記3・第十七巻・五・P.137」岩波文庫 二〇一五年)
重衡(しげひら)は平重衡(しげひら)のこと。木津川べりで斬首された。「平家物語」ではまず焼き討ちされた恨みがあるため、平重衡を東大寺・興福寺の周囲を引き回したのち、地面に生き埋めにして鋸(のこぎり)でぎこぎこと斬首すべしとの声が上がった。けれども寺院内でそれをやるのはどうかと長老らがためらっため、重衡の身柄はふたたび武士に引き渡された。
「南都の大衆うけとッて僉議(せんぎ)す。『抑(ソモソモ)此(この)重衡は、大犯(ダイボン)の悪人たるうへ、三千五刑(ケイ)のうちにももれ、修因感果(シユインカンクワ)の道理極上(ごくじやう)せり。仏敵(ブツテキ)、法敵の逆臣(ぎやくしん)なれば、東大寺・興福寺の大垣をめぐらして、のこぎりにてやきるべき、堀頸(ほりくび)にやすべき』と僉議す」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十一・重衡被斬・P.335~336」岩波書店 一九九三年)
その中に木工右馬允知時(むくうまノじようともとき)という武士がいた。木津川まで重衡を連れてきた時、重衡の身内の者がやって来たのでただ単に斬首するのはあんまりだろうと考え、すぐ近くにあった阿弥陀仏を見つけてきて、その前で重衡に祈りの言葉を述べる機会を設けてやり、それから首を刎ねることにした。当時すでに阿弥陀仏はどんな重罪人でも済度する仏として知られていた。
「『三宝の境界(キヤウガイ)は、慈悲(ジヒ)を心として、済度(サイド)の良縁(リヤウエン)まちまち也。<唯縁(ユイエン)楽意、逆即是順(ギヤクソクゼジユン)>、此(こ)の文肝(モンキモ)に銘(メイ)ず。一念(ネン)弥陀仏、即滅無量罪(ソクメツムリヤウザイ)、願(ネガハ)くは、逆縁(ギヤクエン)をもッて順縁(ジュユンエン)とし、只今の最後の念仏によッて、九品託生(くぼんタクしやう)をとぐべし』とて、高声(かうしやう)に十念をとなへつつ、頸をのべてそきられける。日来(ひごろ)の悪行はさる事なれ共、いまのありさまを見たてまつるに、数(す)千人の大衆も、守護の武士も、みな涙をぞ流(なが)しける。その頸をば般若寺(ハンにヤじ)、大鳥井(おほどりゐ)の前に釘(くぎ)つけにこそかけたりけれ」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十一・重衡被斬・P.337」岩波書店 一九九三年)
さらに何度目かの引用。
「致命(ちめい)の忠義を尽くさざらん」(「太平記3・第十七巻・八・P.144」岩波文庫 二〇一五年)
命をかけて王城を守護しなければならないという。延暦寺が持ち出した。「論語」から。
「子張曰、士見危到命、見得思義、祭思敬、喪思哀、其可已矣
(書き下し)子張(しちょう)曰(い)わく、士、危うきを見ては命(いのち)を致(いた)し、得(う)るを見ては、義を思い、祭(まつり)には敬を思い、喪(も)に哀(あい)を思わば、それ可(か)ならんのみ。
(現代語訳)子張がいった。『君につかえる者は、危機にあたっては生命をささげ、利益を前にしては取るべき筋合いかどうかを考え、祭礼には神への敬虔を専一と考え、葬儀には死者への哀(かな)しみをたいせつと考える。それでまずまずといえる』」(「論語・第十巻・第十九・子張篇・一・P.536」中公文庫 一九七三年)
次に延暦寺が興福寺に宛てて足利兄弟討伐の同盟を呼びかけた文章。
「天功(てんこう)を貪(むさぼ)つて己れが力と為す、咎犯(きゅうはん)が恥づる所なり」(「太平記3・第十七巻・八・P.146」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・晋世家」の引用。寺院発行の文書なので文面は難解な言葉が並んではいるが、要するに尊氏一人の手柄になってしまうのが許し難いようだ。
「重耳は壁を河中に投じて、子犯(咎犯)と誓った。そのとき、この船の中に従っていた介子推(かいしすい)が笑って言った。『実際は天帝が公子の運をひらかれたのに、子犯はそれを自分の手柄として、君に報酬を求めている。何と恥しらずだろう。わしは彼と同列におるのがいやだ』。そしてみずから身を隠してしまった」(「晋世家・第九」『史記3・世家・上・P.197』ちくま学芸文庫 一九九五年)
延暦寺が出した文書に興福寺は乗ってくる。両者ともにはなはだ漢語が多く、まさしく「檄文」というにふさわしい形式・内容。
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