新田方から延暦寺へ送られた同盟への書状。続いてこうある。
「牖里(ゆうり)の囚(とら)はれに遭(あ)ひ」(「太平記3・第二十巻・四・P.355」岩波文庫 二〇一五年)
殷の紂王(ちゅうおう)が周の文王(西伯)を囚(とら)えて獄入りさせた事件を引き合いに出している。「史記・周本紀」からの引用。
「伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)は孤竹国(神農の子孫が建てた国で、今の河北・東北部地方か)にあったが、西伯がよく老人をいたわると聞き、そのもとにいって帰服しようとし、太顚(たいてん)・閎夭(こうよう)・散宜生(さんぎせい)・鬻子(いくし)・辛甲大夫(しんこうたいふ)の徒も、みないって帰服した。崇(しゅう)候虎(こ)は西伯を殷(いん)の紂(ちゅう)王に讒言(ざんげん)して言うよう、『西伯は善を積み徳をかさね、諸侯はみな彼に心を向けています。これでは、そのうち帝にそむくことになりましょう』と。紂王は、そこで西伯を羑里(ゆうり)にとらえた」(「周本紀・第四」『史記1・本紀・P.63~64』ちくま学芸文庫 一九九五年)
檄文の中に「囚(とら)はれに遭(あ)ひ」という文章がある。何のことかというと越前金ヶ崎城落城とともに自害した一宮(いちのみや)尊良親王のことを指しており、兵糧攻めに合って包囲された事情を「囚(とら)はれ」と形容して用いている。一方、後醍醐帝はふたたび吉野へ入った。この間に速やかに同盟し一挙に足利方を急襲すべしという内容。文面を起草した児島高徳はこう書いている。
「炭を呑み、刃(やいば)を含んで、径(ただ)ちに敵に近づくことを計(はか)らんと欲する処(ところ)」(「太平記3・第二十巻・四・P.356」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・刺客列伝」にある予譲(よじょう)のケース。わざわざ自分で自分の身体を炭で焼くなどして障害を起こさせ別人に変装。仇である趙襄子(ちょうじょうし)の目前まで迫ったが失敗、自分で自分を剣で刺し貫いて自害した。
「予譲は今度は体に漆(うるし)をぬって癩(らい)病者に身をやつし、炭を呑んで声を変え、姿かたちを他人には見わけがつかぬようにして、市場を歩いて物乞いをしてみたところ、妻も気がつかなかった。友人に出会ったら、その友人は気づいて、言った。『おまえは予譲じゃないか』。答えて、『いかにもそうだ』。友人は涙を流して言った、『おぬしほどの才能で、身を寄せて趙襄子に仕えるなら、趙襄子はきっとおぬしを近づけ目をかけるだろう。近づけ目をかけるとなれば、望み(仇を討つこと)をはたすのは、たやすいこととは思わないか。それにどうして体を傷つけ苦しめて、それで趙襄子に恨みをはらそうとするのだ。それこそむつかしいことではないか』。予譲は答えた、『いったん身を寄せて仕えておきながら、相手を殺そうとねらうのでは、二心(ふたごころ)をいだいて主君に仕えることになる。なるほどおれのやっているのはひどく苦しいことではあるさ。だがこうするのは、天下後世の臣下として二心をいだいて主君に仕える者どもに、恥ずることをおしえてやるためだ』。そして立ち去ってしまった。しばらくして趙襄子が外出することとなったのを知って、予譲はかれの通る道筋の橋の下にひそんだ。趙襄子が橋まで来たところ、その馬がさわいだ。趙襄子は言った、『これはきっと予譲だ』。人をやって取り調べさせると、はたして予譲である。そのときには趙襄子も予譲を非難して言った、『おぬしは前に范氏・中行氏に仕えたのではなかったか。智伯が両家を全滅させたが、しかしおぬしは仇を討ってやろうとはせず、逆に智伯に随身した。智伯もとっくに死んでいるんだぞ。それにおぬしはなぜ、いちずにあいつのために仇を討とうと、執念深くねらうのだ』。予譲は答えた、『わたくしは范氏・中行氏に仕えはしましたが、范氏・中行氏はどちらもわたくしを並(な)みの者としてお扱いになった。わたくしはだから並みの者としておこたえしました。智伯さまとなりますと、わたくしを国士(一国で傑出した人物)として待遇してくだされた。わたくしはだから国士としておこたえいたすのです』。趙襄子は深くため息をつき、涙をこぼして言った、『ああ、予君よ。そこもとの智伯につくす忠義の名文は充分にたった。そして予は〔前に〕そこもとを赦(ゆる)してやったゆえ、〔予の度量は〕これももう充分であろう。自分でやりたいようにやるがよい。予はこのうえ君を二度と許しはせぬぞ』。兵士に命じて予譲をとり囲ませた。予譲は言った、『<明主は人(臣下)の美を掩(おお)わず。而(しこ)うして忠臣は名に死するの義有り>と、聞きおよんでおります。前にあなたさまはわたくしを放免してくださり、天下にあなたさまのご英明をたたえぬ者はおりませぬ。今日のでき事、わたくしはもちろん死罪をおうけいたします。しかしお願いがございます、どうかあなたさまの御上衣をいただき、これをたたき切って、仇討ちの志を示すことができますならば、死んでも遺恨(いこん)には存じませぬ。とてもかなわぬ望みながら、あえて胸のうちをうちあけて申しあげます』。これを聞いて趙襄子は大いに義を感じ、臣下に上衣を持って行かせて予譲に与えた。予譲は剣をぬきはなち、三たび踊(おど)りかかって上衣に斬りつけ、言った、『わしは地下で智伯さまにご報告申しあげられるぞ!』。つづいて剣で身をつらぬき自殺した」(「刺客列伝・第二十六」『史記列伝2・P.137~139』岩波文庫 一九七五年)
さらに檄文は続き次の例が上げられる。
「范蠡(はんれい)黄池(こうち)に闘うて、呉の三万の旅(たむろ)を破り」(「太平記3・第二十巻・四・P.356」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・越王句践世家」に載るエピソード。
「呉王が北のほう諸侯を黄地(河南・封丘)で会同しようとし、呉国の精兵はみな王に従い、国内ではただ老幼婦女だけが、太子とともに留守をしていた。すると句践はまた范蠡に問うた。蠡が『もうよろしいでしょう』と言ったので、王は水戦に習熟した部隊二千人、よく教練された兵士四万人、親近の志士六千人、もろもろの軍吏千人を繰り出して呉を伐ち、呉軍を破って、ついに呉の太子を殺した。呉では危急を王に告げた。王は諸侯を黄地で会同しようとしている際だったので、天下に知られるのを恐れ、これを秘密にしていた。呉王は黄地の会盟を終えると、人をやり礼を厚うして、越に和睦(わぼく)を請うた」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.288』ちくま学芸文庫 一九九五年)
児島高徳はよほど范蠡が好きだったらしい。後醍醐帝の隠岐島流罪が決まりその道中の桜の木に次の詩を書いたのも「太平記」では児島だとされる。
「天匂践(こうせん)の冗(いたず)らにすること莫(な)かれ 時に范蠡(はんれい)無きに非(あら)ず」(「太平記1・第四巻・四・P.204」岩波文庫 二〇一四年)
次に延暦寺から新田義貞への返事。こちらもまたやる気満々で調子がいい。劉邦との戦闘で何度も繰り返し修羅場をくぐり抜けてきた項羽が最後に詠んだ詩を持ち出して意気揚々の様子である。
「項羽(こうう)山を抜く力、却(かえ)つて沛公(はいこう)が為に得(え)らる」(「太平記3・第二十巻・四・P.359」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・項羽本紀」から。
「力は山を抜き 気は世を蓋(お)うも 時に利あらず 騅(すい)逝(ゆ)かず 騅の逝かざるは 如何(いかん)すべき 虞(ぐ)や虞や なんじを如何(いかん)せん」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.231』ちくま学芸文庫 一九九五年)
さらに延暦寺側は治承四年(一一八〇年)に実際にあった事件を事例に出している。
「治承(じしょう)の季(すえ)に、高倉宮(たかくらのみや)聿(つい)に外都(がいと)の塵(ちり)に没し給ふ」(「太平記3・第二十巻・四・P.359~360」岩波文庫 二〇一五年)
高倉宮(たかくらのみや)は高倉宮以仁王(もちひとおう)のこと。「外都=平安京の外」で討死したのは延暦寺でなく三井寺を頼ったがためだと、のっけから決めつけて疑っていない文面。もっとも、延暦寺(山門)と三井寺(寺門)との確執は以前から根深く時の天皇も随分悩んでいた形跡がいろいろ伺われる。「平家物語」から有名な箇所を三つ上げておこう。
(1)「『賀茂河(カモがは)の水、双六(スゴロク)の賽(サイ)、山法師(ヤマボウシ)、是(これ)ぞわが心にかなはぬもの』と、白河院(しらかはのゐん)も仰(おほせ)なりけるとかや」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第一・願立・P.51~52」岩波書店 一九九一年)
(2)「法皇(ホウワウ)は三井寺(みゐでら)の公顕僧正(コウケンソウジヤウ)を御師範(ゴシハン)として、真言(シンゴン)の秘法(ヒホウ)を伝受(デンジユ)せさせましましけるが、大日経(だいにちキヤウ)・金剛頂経(コンガウチヤウキヤウ)・蘇悉地経(ソシツヂキヤウ)、此(この)三部(さんブ)の秘法(ヒホウ)をうけさせ給ひて、九月四日、三井寺にて御灌頂(ゴクワンヂヤウ)あるべしとぞ聞えける。山門の大衆(だいシユ)憤(イキドヲリ)申(まうし)、『昔より御灌頂(ゴクワンヂヤウ)御受戒(ヲンジユカイ)、みな当山(タウざん)にしてとげさせまします事先規(せんギ)也(なり)。就中(ナカンヅク)山王(サンワウ)の化導(ケダウ)は、授戒(ジユカイ)灌頂(クワンヂヤウ)のためなり。しかるを今三井寺にてとげさせましまさば、寺を一向(イツカウ)焼払(ヤキハラ)ふべし』とぞ申ける」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第二・山門滅亡堂衆合戦・P.119」岩波書店 一九九一年)
(3)「中宮やがて百日のうちに御懐妊(ごクワイニン)あッて、承保(セウホウ)元年十二月十六日、御産平安(ごサンヘイアン)、皇子誕生有けり。君なのめならず御感(ぎよカン)あッて、三井寺の頼豪阿闍梨(ライガウアジヤリ)を召(め)して、『汝(ナンジ)が所望の事はいかに』と仰下(おおせくだ)されければ、三井寺に戒壇建立(カイダンコンリウ)の事を奏(ソウ)す。主上、『これこそ存(ぞん)の外(ほか)の所望なれ。一階僧正(イツカイソウジヤウ)なンどをも申(まうす)べきかとこそおぼしめしつれ。凡(ヲヨソ)は皇子御誕生あッて、祚(ソ)をつがしめん事も、海内無為(カイダイブイ)を思ふため也。今汝が所望達(タツ)せば、山門いきどほッて、世上しづかなるべからず。両門(リヤウモン)合戦(カツセン)して、天台(テンダイ)の仏法ほろびなんず』とて、御ゆるされもなかりけり。頼豪(ライガウ)口(くち)をしい事也(なり)とて、三井寺に帰(かへ)ッて干死(ひジニ)にせんとす」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第三・頼豪・P.153~154」岩波書店 一九九一年)
そして治承四年(一一八〇年)の事件について。延暦寺ではなく三井寺を頼りにした高倉宮以仁王(もちひとおう)は延暦寺の僧兵の応援を得ることができず南都へ落ち延びようとしたが、京都と奈良の間に位置する今の京都府相楽郡山城町で六波羅勢から豪雨のような矢の嵐を浴びて落馬、斬首された。最後まで付き従っていた剛の武者ら六名も討死。
「飛騨守(ヒダノカミ)景家(カゲイエ)は、ふる兵物(つはもの)にてありければ、このまぎれに宮は南都へやさきだたせ給ふらんとて、いくさをばせず、其勢(そのせい)五百余騎、鞭(ムチ)あぶみをあはせて追(お)ッかけたてまつる。案(アン)のごとく宮は卅騎ばかりで落(おち)させ給ひけるを、光明山(クハウミヤウゼン)の鳥居(トリヰ)のまへにて追(お)ッつきたてまつり、雨(アメ)の降(ふ)るやうに射(い)まゐらせければ、いづれが矢とはおぼえねど、宮の左の御そば腹(ハラ)に矢一(ひと)すぢ立(た)ちければ、御馬より落させ給て、御頸(クビ)とられさせ給ひけり。これを見(み)て、御共に候ける鬼佐渡(ヲニサド)・荒土佐(あらドサ)・荒(あら)大夫・理智城房(リチジヤウバウ)の伊賀公・刑部俊秀(ギヤウブシユンシウ)・金光院(コンクハウイン)の六天狗(グ)、いつのために命(イノチ)をばをしむべきとて、をめきさけんで打死す」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第四・宮御最期・P.248」岩波書店 一九九一年)
延暦寺はこのような過去の事例を書面にしたため、比叡山を敵に回せばたとえ宮家の者でもどんな死に方をするかわかったものではないと、脅迫にも似た文章で新田方へ呼応表明している。
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「牖里(ゆうり)の囚(とら)はれに遭(あ)ひ」(「太平記3・第二十巻・四・P.355」岩波文庫 二〇一五年)
殷の紂王(ちゅうおう)が周の文王(西伯)を囚(とら)えて獄入りさせた事件を引き合いに出している。「史記・周本紀」からの引用。
「伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)は孤竹国(神農の子孫が建てた国で、今の河北・東北部地方か)にあったが、西伯がよく老人をいたわると聞き、そのもとにいって帰服しようとし、太顚(たいてん)・閎夭(こうよう)・散宜生(さんぎせい)・鬻子(いくし)・辛甲大夫(しんこうたいふ)の徒も、みないって帰服した。崇(しゅう)候虎(こ)は西伯を殷(いん)の紂(ちゅう)王に讒言(ざんげん)して言うよう、『西伯は善を積み徳をかさね、諸侯はみな彼に心を向けています。これでは、そのうち帝にそむくことになりましょう』と。紂王は、そこで西伯を羑里(ゆうり)にとらえた」(「周本紀・第四」『史記1・本紀・P.63~64』ちくま学芸文庫 一九九五年)
檄文の中に「囚(とら)はれに遭(あ)ひ」という文章がある。何のことかというと越前金ヶ崎城落城とともに自害した一宮(いちのみや)尊良親王のことを指しており、兵糧攻めに合って包囲された事情を「囚(とら)はれ」と形容して用いている。一方、後醍醐帝はふたたび吉野へ入った。この間に速やかに同盟し一挙に足利方を急襲すべしという内容。文面を起草した児島高徳はこう書いている。
「炭を呑み、刃(やいば)を含んで、径(ただ)ちに敵に近づくことを計(はか)らんと欲する処(ところ)」(「太平記3・第二十巻・四・P.356」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・刺客列伝」にある予譲(よじょう)のケース。わざわざ自分で自分の身体を炭で焼くなどして障害を起こさせ別人に変装。仇である趙襄子(ちょうじょうし)の目前まで迫ったが失敗、自分で自分を剣で刺し貫いて自害した。
「予譲は今度は体に漆(うるし)をぬって癩(らい)病者に身をやつし、炭を呑んで声を変え、姿かたちを他人には見わけがつかぬようにして、市場を歩いて物乞いをしてみたところ、妻も気がつかなかった。友人に出会ったら、その友人は気づいて、言った。『おまえは予譲じゃないか』。答えて、『いかにもそうだ』。友人は涙を流して言った、『おぬしほどの才能で、身を寄せて趙襄子に仕えるなら、趙襄子はきっとおぬしを近づけ目をかけるだろう。近づけ目をかけるとなれば、望み(仇を討つこと)をはたすのは、たやすいこととは思わないか。それにどうして体を傷つけ苦しめて、それで趙襄子に恨みをはらそうとするのだ。それこそむつかしいことではないか』。予譲は答えた、『いったん身を寄せて仕えておきながら、相手を殺そうとねらうのでは、二心(ふたごころ)をいだいて主君に仕えることになる。なるほどおれのやっているのはひどく苦しいことではあるさ。だがこうするのは、天下後世の臣下として二心をいだいて主君に仕える者どもに、恥ずることをおしえてやるためだ』。そして立ち去ってしまった。しばらくして趙襄子が外出することとなったのを知って、予譲はかれの通る道筋の橋の下にひそんだ。趙襄子が橋まで来たところ、その馬がさわいだ。趙襄子は言った、『これはきっと予譲だ』。人をやって取り調べさせると、はたして予譲である。そのときには趙襄子も予譲を非難して言った、『おぬしは前に范氏・中行氏に仕えたのではなかったか。智伯が両家を全滅させたが、しかしおぬしは仇を討ってやろうとはせず、逆に智伯に随身した。智伯もとっくに死んでいるんだぞ。それにおぬしはなぜ、いちずにあいつのために仇を討とうと、執念深くねらうのだ』。予譲は答えた、『わたくしは范氏・中行氏に仕えはしましたが、范氏・中行氏はどちらもわたくしを並(な)みの者としてお扱いになった。わたくしはだから並みの者としておこたえしました。智伯さまとなりますと、わたくしを国士(一国で傑出した人物)として待遇してくだされた。わたくしはだから国士としておこたえいたすのです』。趙襄子は深くため息をつき、涙をこぼして言った、『ああ、予君よ。そこもとの智伯につくす忠義の名文は充分にたった。そして予は〔前に〕そこもとを赦(ゆる)してやったゆえ、〔予の度量は〕これももう充分であろう。自分でやりたいようにやるがよい。予はこのうえ君を二度と許しはせぬぞ』。兵士に命じて予譲をとり囲ませた。予譲は言った、『<明主は人(臣下)の美を掩(おお)わず。而(しこ)うして忠臣は名に死するの義有り>と、聞きおよんでおります。前にあなたさまはわたくしを放免してくださり、天下にあなたさまのご英明をたたえぬ者はおりませぬ。今日のでき事、わたくしはもちろん死罪をおうけいたします。しかしお願いがございます、どうかあなたさまの御上衣をいただき、これをたたき切って、仇討ちの志を示すことができますならば、死んでも遺恨(いこん)には存じませぬ。とてもかなわぬ望みながら、あえて胸のうちをうちあけて申しあげます』。これを聞いて趙襄子は大いに義を感じ、臣下に上衣を持って行かせて予譲に与えた。予譲は剣をぬきはなち、三たび踊(おど)りかかって上衣に斬りつけ、言った、『わしは地下で智伯さまにご報告申しあげられるぞ!』。つづいて剣で身をつらぬき自殺した」(「刺客列伝・第二十六」『史記列伝2・P.137~139』岩波文庫 一九七五年)
さらに檄文は続き次の例が上げられる。
「范蠡(はんれい)黄池(こうち)に闘うて、呉の三万の旅(たむろ)を破り」(「太平記3・第二十巻・四・P.356」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・越王句践世家」に載るエピソード。
「呉王が北のほう諸侯を黄地(河南・封丘)で会同しようとし、呉国の精兵はみな王に従い、国内ではただ老幼婦女だけが、太子とともに留守をしていた。すると句践はまた范蠡に問うた。蠡が『もうよろしいでしょう』と言ったので、王は水戦に習熟した部隊二千人、よく教練された兵士四万人、親近の志士六千人、もろもろの軍吏千人を繰り出して呉を伐ち、呉軍を破って、ついに呉の太子を殺した。呉では危急を王に告げた。王は諸侯を黄地で会同しようとしている際だったので、天下に知られるのを恐れ、これを秘密にしていた。呉王は黄地の会盟を終えると、人をやり礼を厚うして、越に和睦(わぼく)を請うた」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.288』ちくま学芸文庫 一九九五年)
児島高徳はよほど范蠡が好きだったらしい。後醍醐帝の隠岐島流罪が決まりその道中の桜の木に次の詩を書いたのも「太平記」では児島だとされる。
「天匂践(こうせん)の冗(いたず)らにすること莫(な)かれ 時に范蠡(はんれい)無きに非(あら)ず」(「太平記1・第四巻・四・P.204」岩波文庫 二〇一四年)
次に延暦寺から新田義貞への返事。こちらもまたやる気満々で調子がいい。劉邦との戦闘で何度も繰り返し修羅場をくぐり抜けてきた項羽が最後に詠んだ詩を持ち出して意気揚々の様子である。
「項羽(こうう)山を抜く力、却(かえ)つて沛公(はいこう)が為に得(え)らる」(「太平記3・第二十巻・四・P.359」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・項羽本紀」から。
「力は山を抜き 気は世を蓋(お)うも 時に利あらず 騅(すい)逝(ゆ)かず 騅の逝かざるは 如何(いかん)すべき 虞(ぐ)や虞や なんじを如何(いかん)せん」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.231』ちくま学芸文庫 一九九五年)
さらに延暦寺側は治承四年(一一八〇年)に実際にあった事件を事例に出している。
「治承(じしょう)の季(すえ)に、高倉宮(たかくらのみや)聿(つい)に外都(がいと)の塵(ちり)に没し給ふ」(「太平記3・第二十巻・四・P.359~360」岩波文庫 二〇一五年)
高倉宮(たかくらのみや)は高倉宮以仁王(もちひとおう)のこと。「外都=平安京の外」で討死したのは延暦寺でなく三井寺を頼ったがためだと、のっけから決めつけて疑っていない文面。もっとも、延暦寺(山門)と三井寺(寺門)との確執は以前から根深く時の天皇も随分悩んでいた形跡がいろいろ伺われる。「平家物語」から有名な箇所を三つ上げておこう。
(1)「『賀茂河(カモがは)の水、双六(スゴロク)の賽(サイ)、山法師(ヤマボウシ)、是(これ)ぞわが心にかなはぬもの』と、白河院(しらかはのゐん)も仰(おほせ)なりけるとかや」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第一・願立・P.51~52」岩波書店 一九九一年)
(2)「法皇(ホウワウ)は三井寺(みゐでら)の公顕僧正(コウケンソウジヤウ)を御師範(ゴシハン)として、真言(シンゴン)の秘法(ヒホウ)を伝受(デンジユ)せさせましましけるが、大日経(だいにちキヤウ)・金剛頂経(コンガウチヤウキヤウ)・蘇悉地経(ソシツヂキヤウ)、此(この)三部(さんブ)の秘法(ヒホウ)をうけさせ給ひて、九月四日、三井寺にて御灌頂(ゴクワンヂヤウ)あるべしとぞ聞えける。山門の大衆(だいシユ)憤(イキドヲリ)申(まうし)、『昔より御灌頂(ゴクワンヂヤウ)御受戒(ヲンジユカイ)、みな当山(タウざん)にしてとげさせまします事先規(せんギ)也(なり)。就中(ナカンヅク)山王(サンワウ)の化導(ケダウ)は、授戒(ジユカイ)灌頂(クワンヂヤウ)のためなり。しかるを今三井寺にてとげさせましまさば、寺を一向(イツカウ)焼払(ヤキハラ)ふべし』とぞ申ける」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第二・山門滅亡堂衆合戦・P.119」岩波書店 一九九一年)
(3)「中宮やがて百日のうちに御懐妊(ごクワイニン)あッて、承保(セウホウ)元年十二月十六日、御産平安(ごサンヘイアン)、皇子誕生有けり。君なのめならず御感(ぎよカン)あッて、三井寺の頼豪阿闍梨(ライガウアジヤリ)を召(め)して、『汝(ナンジ)が所望の事はいかに』と仰下(おおせくだ)されければ、三井寺に戒壇建立(カイダンコンリウ)の事を奏(ソウ)す。主上、『これこそ存(ぞん)の外(ほか)の所望なれ。一階僧正(イツカイソウジヤウ)なンどをも申(まうす)べきかとこそおぼしめしつれ。凡(ヲヨソ)は皇子御誕生あッて、祚(ソ)をつがしめん事も、海内無為(カイダイブイ)を思ふため也。今汝が所望達(タツ)せば、山門いきどほッて、世上しづかなるべからず。両門(リヤウモン)合戦(カツセン)して、天台(テンダイ)の仏法ほろびなんず』とて、御ゆるされもなかりけり。頼豪(ライガウ)口(くち)をしい事也(なり)とて、三井寺に帰(かへ)ッて干死(ひジニ)にせんとす」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第三・頼豪・P.153~154」岩波書店 一九九一年)
そして治承四年(一一八〇年)の事件について。延暦寺ではなく三井寺を頼りにした高倉宮以仁王(もちひとおう)は延暦寺の僧兵の応援を得ることができず南都へ落ち延びようとしたが、京都と奈良の間に位置する今の京都府相楽郡山城町で六波羅勢から豪雨のような矢の嵐を浴びて落馬、斬首された。最後まで付き従っていた剛の武者ら六名も討死。
「飛騨守(ヒダノカミ)景家(カゲイエ)は、ふる兵物(つはもの)にてありければ、このまぎれに宮は南都へやさきだたせ給ふらんとて、いくさをばせず、其勢(そのせい)五百余騎、鞭(ムチ)あぶみをあはせて追(お)ッかけたてまつる。案(アン)のごとく宮は卅騎ばかりで落(おち)させ給ひけるを、光明山(クハウミヤウゼン)の鳥居(トリヰ)のまへにて追(お)ッつきたてまつり、雨(アメ)の降(ふ)るやうに射(い)まゐらせければ、いづれが矢とはおぼえねど、宮の左の御そば腹(ハラ)に矢一(ひと)すぢ立(た)ちければ、御馬より落させ給て、御頸(クビ)とられさせ給ひけり。これを見(み)て、御共に候ける鬼佐渡(ヲニサド)・荒土佐(あらドサ)・荒(あら)大夫・理智城房(リチジヤウバウ)の伊賀公・刑部俊秀(ギヤウブシユンシウ)・金光院(コンクハウイン)の六天狗(グ)、いつのために命(イノチ)をばをしむべきとて、をめきさけんで打死す」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第四・宮御最期・P.248」岩波書店 一九九一年)
延暦寺はこのような過去の事例を書面にしたため、比叡山を敵に回せばたとえ宮家の者でもどんな死に方をするかわかったものではないと、脅迫にも似た文章で新田方へ呼応表明している。
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