「太平記」では馬を褒める言葉の中に「項羽(こうう)が騅(すい)」とある。
「項羽(こうう)が騅(すい)にも劣らぬ俊足(しゅんそく)」(「太平記4・第二十三巻・三・P.44」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・項羽本紀」から。劉邦の大群に包囲された項羽が死の直前に詠んだ歌にも出てくる。
「俊馬があり、名を騅(すい)といい、いつも項王の愛乗するところであった」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.230』ちくま学芸文庫 一九九五年)
帝が幼少であった場合、論功行賞はどのようであるべきか。華々しい戦闘行動に目が行きがちになることが少なくない。後醍醐帝以来の臣下らはこう評する。
「幼君のために武を黷(けが)して、その辺功(へんこう)を立てざりし」(「太平記4・第二十三巻・三・P.46」岩波文庫 二〇一五年)
「論語」から引かれた言葉だが、なぜ孔子はそう言ったのか。わざわざ遠い辺土へ出かけて行って抜群の戦勝を上げたと報告する恥知らずな武将が跡を絶たなかったからである。
「君不聞開元宰相宋開府 不賞邊功防黷武
(書き下し)君(きみ)聞(き)かずや 開元(かいげん)の宰相(さいしょう)宋開府(そうかいふ)は 辺功(へんこう)を賞(しょう)せず 黷武(とくぶ)を防(ふせ)ぐと
(現代語訳)開元の宰相宋璟(そうけい)は、いたずらに武に逸(はや)らないようにと辺功を賞しなかったというではないか」(「新豊折臂翁」『白楽天詩選・上・P.147~151』岩波文庫 二〇一一年)
古代中国に限った話ではもちろんなく、日本ではすでに「平家物語」でそのようなケースが多くあったと文章は続く。なお「元暦」は誤りで正しくは「治承」。
「元暦(げんりゃく)の昔、権亮三位中位維盛(ごおのすけさんみのちゅうじょうこれもり)が、東国の討手(うって)に下(くだ)りて、鳥の羽音(はおと)に驚きて逃(に)げ上(のぼ)りたりしを、祖父清盛入道(きよもりにゅうどう)が計らひとして、一級(いっかい)を進ませしに異ならず」(「太平記4・第二十三巻・四・P.48」岩波文庫 二〇一五年)
平維盛(たいらのこれもり)を大将軍として源頼朝討伐に向かった富士川の合戦。一斉に羽ばたいて飛び立った水鳥の音にびっくり仰天して静岡から岐阜まで逃げ帰ったにもかかわらず、なぜか右近衛中将に昇進した話。維盛の祖父が清盛だったからと言われている。
「その夜の夜半ばかり、富士の沼(ヌマ)に、いくらもむれゐたりける水鳥どもが、なににかおどろきたりけん、ただ一どにばッと立(たち)ける羽音(はおと)の大風いかづちなンどの様に聞(きこ)えければ、平家の兵ども、『すはや源氏の大ぜいのよするは。斉藤(サイトウ)別当が申つる様に、定(サダメ)て搦(カラメ)手もまはるらん。とりこめられてはかなふまじ。ここをばひいて、尾張(ヲワリ)河、洲俣(スノマタ)をふせけや』とて、とる物もとりあへず、我(われ)さきにとぞ落ゆきける」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第五・富士川・P.308~309」岩波書店 一九九一年)
古くからの重鎮は白けていくばかりだ。四条隆資(たかすけ)はいう。
「過言(かげん)一度(ひとたび)口を出ださんは、駟馬(しば)追ふとも舌に及ばず」(「太平記4・第二十三巻・四・P.48」岩波文庫 二〇一五年)
武将として逸材ではあっても上司が未熟だとそういう事態が発生する。しかも人々の噂は四頭立ての馬車よりもなお早いと。「論語」からの引用。
「棘子成曰、君子質而已矣、何以文為矣、子貢曰、惜乎夫子之説君子也、駟不及舌、文猶質也、質猶文也、虎豹之鞣、猶犬羊之鞣也
(書き下し)棘子成(きょくしせい)曰(い)わく、君子は質のみ、何ぞ文を以て為さんや。子貢曰(い)わく、惜しいかな夫(そ)の子(し)の君子を説くや。駟(し)も舌に及ばず。文は猶(なお)質のごとく、質は猶文のごときならば、虎豹(こひょう)の鞣(かく)は猶犬羊の鞣のごときなり。
(現代語訳)棘子成がいった。『君子は実質をたいせつにすればよい。装飾なぞなんの必要があろうか』。子貢が、この話を聞いていった。『惜しいことをされた、あのおかたの君子についておっしゃったおことばは。ことばはいったん口から出すと、四頭だての馬車で追いかけても、その失言を取り消すことはできない。装飾があるのもないのも同じだ、装飾がないのもあるのも同じだというと、虎や豹の鞣(なめしがわ)も、犬や羊の鞣と同じだということになるではないか』」(「論語・第六巻・第十二・顔淵篇・八・P.333」中公文庫 一九七三年)
さらにこうある。
「途(みち)を聴き巷(みち)に説く風情(ふぜい)」(「太平記4・第二十三巻・四・P.48」岩波文庫 二〇一五年)
的確かつ辛辣な批評だが「論語」からの引用。
「子曰、道聴而塗説、徳之棄者也
(書き下し)子曰わく、道(みち)を聴きて塗(みち)に説くは、徳をこれ棄(す)つるなり。
(現代語訳)先生がいわれた。『道ばたで聞きかじってきたことを、道ばたで自説のようにすぐ演説する。これは道徳の放棄だ』」(「論語・第九巻・第十七・陽貨篇・十四・P.504」中公文庫 一九七三年)
なるほど「道徳の放棄」には違いない。とはいえ、「道徳とは何か」という問いと「自由」という言葉の内容との齟齬はどのように考えれば病に陥らずにいられるのだろうか。その種の問題はいつもある。
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「項羽(こうう)が騅(すい)にも劣らぬ俊足(しゅんそく)」(「太平記4・第二十三巻・三・P.44」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・項羽本紀」から。劉邦の大群に包囲された項羽が死の直前に詠んだ歌にも出てくる。
「俊馬があり、名を騅(すい)といい、いつも項王の愛乗するところであった」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.230』ちくま学芸文庫 一九九五年)
帝が幼少であった場合、論功行賞はどのようであるべきか。華々しい戦闘行動に目が行きがちになることが少なくない。後醍醐帝以来の臣下らはこう評する。
「幼君のために武を黷(けが)して、その辺功(へんこう)を立てざりし」(「太平記4・第二十三巻・三・P.46」岩波文庫 二〇一五年)
「論語」から引かれた言葉だが、なぜ孔子はそう言ったのか。わざわざ遠い辺土へ出かけて行って抜群の戦勝を上げたと報告する恥知らずな武将が跡を絶たなかったからである。
「君不聞開元宰相宋開府 不賞邊功防黷武
(書き下し)君(きみ)聞(き)かずや 開元(かいげん)の宰相(さいしょう)宋開府(そうかいふ)は 辺功(へんこう)を賞(しょう)せず 黷武(とくぶ)を防(ふせ)ぐと
(現代語訳)開元の宰相宋璟(そうけい)は、いたずらに武に逸(はや)らないようにと辺功を賞しなかったというではないか」(「新豊折臂翁」『白楽天詩選・上・P.147~151』岩波文庫 二〇一一年)
古代中国に限った話ではもちろんなく、日本ではすでに「平家物語」でそのようなケースが多くあったと文章は続く。なお「元暦」は誤りで正しくは「治承」。
「元暦(げんりゃく)の昔、権亮三位中位維盛(ごおのすけさんみのちゅうじょうこれもり)が、東国の討手(うって)に下(くだ)りて、鳥の羽音(はおと)に驚きて逃(に)げ上(のぼ)りたりしを、祖父清盛入道(きよもりにゅうどう)が計らひとして、一級(いっかい)を進ませしに異ならず」(「太平記4・第二十三巻・四・P.48」岩波文庫 二〇一五年)
平維盛(たいらのこれもり)を大将軍として源頼朝討伐に向かった富士川の合戦。一斉に羽ばたいて飛び立った水鳥の音にびっくり仰天して静岡から岐阜まで逃げ帰ったにもかかわらず、なぜか右近衛中将に昇進した話。維盛の祖父が清盛だったからと言われている。
「その夜の夜半ばかり、富士の沼(ヌマ)に、いくらもむれゐたりける水鳥どもが、なににかおどろきたりけん、ただ一どにばッと立(たち)ける羽音(はおと)の大風いかづちなンどの様に聞(きこ)えければ、平家の兵ども、『すはや源氏の大ぜいのよするは。斉藤(サイトウ)別当が申つる様に、定(サダメ)て搦(カラメ)手もまはるらん。とりこめられてはかなふまじ。ここをばひいて、尾張(ヲワリ)河、洲俣(スノマタ)をふせけや』とて、とる物もとりあへず、我(われ)さきにとぞ落ゆきける」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第五・富士川・P.308~309」岩波書店 一九九一年)
古くからの重鎮は白けていくばかりだ。四条隆資(たかすけ)はいう。
「過言(かげん)一度(ひとたび)口を出ださんは、駟馬(しば)追ふとも舌に及ばず」(「太平記4・第二十三巻・四・P.48」岩波文庫 二〇一五年)
武将として逸材ではあっても上司が未熟だとそういう事態が発生する。しかも人々の噂は四頭立ての馬車よりもなお早いと。「論語」からの引用。
「棘子成曰、君子質而已矣、何以文為矣、子貢曰、惜乎夫子之説君子也、駟不及舌、文猶質也、質猶文也、虎豹之鞣、猶犬羊之鞣也
(書き下し)棘子成(きょくしせい)曰(い)わく、君子は質のみ、何ぞ文を以て為さんや。子貢曰(い)わく、惜しいかな夫(そ)の子(し)の君子を説くや。駟(し)も舌に及ばず。文は猶(なお)質のごとく、質は猶文のごときならば、虎豹(こひょう)の鞣(かく)は猶犬羊の鞣のごときなり。
(現代語訳)棘子成がいった。『君子は実質をたいせつにすればよい。装飾なぞなんの必要があろうか』。子貢が、この話を聞いていった。『惜しいことをされた、あのおかたの君子についておっしゃったおことばは。ことばはいったん口から出すと、四頭だての馬車で追いかけても、その失言を取り消すことはできない。装飾があるのもないのも同じだ、装飾がないのもあるのも同じだというと、虎や豹の鞣(なめしがわ)も、犬や羊の鞣と同じだということになるではないか』」(「論語・第六巻・第十二・顔淵篇・八・P.333」中公文庫 一九七三年)
さらにこうある。
「途(みち)を聴き巷(みち)に説く風情(ふぜい)」(「太平記4・第二十三巻・四・P.48」岩波文庫 二〇一五年)
的確かつ辛辣な批評だが「論語」からの引用。
「子曰、道聴而塗説、徳之棄者也
(書き下し)子曰わく、道(みち)を聴きて塗(みち)に説くは、徳をこれ棄(す)つるなり。
(現代語訳)先生がいわれた。『道ばたで聞きかじってきたことを、道ばたで自説のようにすぐ演説する。これは道徳の放棄だ』」(「論語・第九巻・第十七・陽貨篇・十四・P.504」中公文庫 一九七三年)
なるほど「道徳の放棄」には違いない。とはいえ、「道徳とは何か」という問いと「自由」という言葉の内容との齟齬はどのように考えれば病に陥らずにいられるのだろうか。その種の問題はいつもある。
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