吉野の賀名生(あのう)に作られた仮宮の様子。次の比喩が用いられている。
「虞舜(ぐしゅん)、唐堯(とうぎょう)の古(いにし)へ、茅茨(ぼうし)斬(き)らず、柴椽(さいてん)削らざりし淳素(じゅんそ)の風」(「太平記4・第二十七巻・一・P.245」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・始皇本紀」にこうある。
「堯・舜の生活は、住居の椽(たるき)は山から伐り出した丸太のままで、屋根は茅(かや)ぶきの端(はし)を揃えず、食事は土製のリュウ(飯器)に飯を盛り、土の器で汁をすすった」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.172』ちくま学芸文庫 一九九五年)
後村上帝の母・阿野簾子(あのれんし)を始め、月卿雲客(げっけいうんかく)=上流公家・摂関家など、「柴(しば)葺(ぶ)きの庵(いおり)のあやしきに、軒(のき)漏(も)る雨を防きかね」るほど。
「暮山(ぼさん)の薪(たきぎ)を拾うては、雪を戴(いただ)くに骨寒く、幽谷(ゆうこく)の水を掬(むす)んでは、月に担(にな)ふに肩痩(や)せたり」(「太平記4・第二十七巻・一・P.246」岩波文庫 二〇一五年)
というふうに「和漢朗詠集」から引かれる。
「叩凍負来寒谷月 払霜拾尽暮山雲
(書き下し)凍(こほり)を叩(たた)いて負(お)ひ来(きた)る寒谷(かんこく)の月 霜を払(はら)て拾ひ尽す暮山(ぼさん)の雲」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・仏事・五九八・慶滋保胤・P.226」新潮社 一九八三年)
かつて西行は吉野の山奥に隠棲した。一方、勝利した足利方の武将高師直(こうのもろなお)は京都で護良親王の母・親子が住んでいた寝殿造りの殿舎を新装し、壮麗奇抜な庭へ改築する。
「師直、一条今出川(いちじょういまでがわ)に、故兵部卿親王(ひょうぶきょうのしんのう)の御母、宣旨三位殿(せんじのさんみどの)の栖(す)み荒(あ)らし給ひし古御所(ふるごしょ)を点じて、唐門(からもん)、棟門(むなもん)四方にあけ、釣殿(つりどの)、渡殿(わたどの)、泉殿(いずみどの)、棟梁(むなうつばり)高く造り並べて、奇麗壮観(きれいそうかん)を逞(たっくま)しくせり。泉水(せんずい)には、伊勢(いせ)、島(しま=志摩)、雑賀(さいが)の大石どもを集むれば、車輾(きし)りて軸(よこがみ)を摧(くだ)き、呉牛(ごぎゅう)喘(あえ)ぎて舌を垂(た)る。樹(うえき)には、月中(げっちゅう)の桂(かつら)、仙家(せんけ)の菊、吉野(よしの)の桜、尾上(おのえ)の松、露霜(つゆしも)染めし紅(くれない)の八入(やしお)の岡の下紅葉(したもみじ)、西行(さいぎょう)法師が古(いにし)へ、枯葉(かれは)の風を詠じ初(そ)めけん難波(なにわ)の蘆(あし)の一村(ひとむら)、在原中将(ありわらのちゅうじょう)の露(つゆ)分(わ)けし宇都(うつ)の山辺(うまべ)の蔦楓(つたかえで)、名所名所の風景を、さながら庭に集めたり」(「太平記4・第二十七巻・二・P.247」岩波文庫 二〇一五年)
西行が和歌に詠み込んだ次の言葉がそのとおり再現されている。
「津(つ)の国(くに)の難波(なにわ)の春は夢なれや蘆(あし)のかれ葉に風わたる也」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・巻第六・六二五・西行法師・P.187」岩波書店 一九九二年)
西行が生きていた頃と「太平記」成立期との間には約二百年の開きがある。ゆえになおさら落ち延びる宮方と京都入りした足利方とのコントラストは日本中世の歴史的複数性をありありと浮かび上がらせていると言えそうだ。もちろん作庭した「山水河原ノ者」とは誰かという問いとともにである。茶の湯にしても茶杓(ちゃしゃく)・茶筅(ちゃせん)を作り、茶釜(ちゃがま)を加工し、大小様々な石を伐り出し配置し、灯籠(とうろう)を組み立て、白砂を運び入れて模様を創作し、掛軸(かけじく)・棗(なつめ)・茶巾(ちゃきん)など道具類一切の製作にかかわり、折々の草木(そうもく)の手入れを怠らない。そもそも茶碗を焼いているのは誰なのか。花入はどこからやって来るのか。ちなみに一休や紹鷗を経てようやく次のような茶道具の魅力が発見されるとともに茶道具として認められるに至る。
「一 紹鷗信楽(しがらき)・宗易の信楽、いずれも能き水指也」(「山上宗二記・名物の水指、幷びに水翻(みずこぼし)」『日本の茶書1・P.173』東洋文庫 一九七一年)
「一 紹鷗備前物の面桶(めんつう)、万台屋(宗安)備前物甕(かめ)の蓋、宗易たこつぼ(蛸壺)、宗及備前の合子(ごうし)、みきたや棒の先。この五つ、何れも数寄道具也」(「山上宗二記・名物の水指、幷びに水翻(みずこぼし)」『日本の茶書1・P.175』東洋文庫 一九七一年)
「一 手燈籠 唐(唐物)、花籠(はなかご)」(「山上宗二記・佗花入」『日本の茶書1・P.233』東洋文庫 一九七一年)
「一 紹鷗備前筒(づつ)」(「山上宗二記・佗花入」『日本の茶書1・P.233』東洋文庫 一九七一年)
ところで、勝利した側は勝利した側の内部で怨み辛み妬み嫉みといったものを噴出させずにはおかない。それこそ世の常、常識というもの。とりわけ、高師直(もろなお)・師泰(もろやす)兄弟に対する上杉重能(うえすぎしげよし)・畠山直宗(はたけやまただむね)両人の嫉妬は政治的対立から殺戮抗争へ発展する。その経緯に合わせて逆に古代中国で無駄な争いが上手く回避された事例が引かれる。
「(昔、漢朝に)、卞和(べんか)と申しける賤(いや)しき者、楚山(そざん)に畑を打ちけるが、廻(まわ)り一尺に余る石の、磨(みが)かば玉(ぎょく)になるべきを求め得たり」(「太平記4・第二十七巻・四・P.254~255」岩波文庫 二〇一五年)
「韓非子」の中に「和氏の璧(へき)」のエピソードとして載る。また「今昔物語・巻第十・震旦国王愚斬玉造手語・第二十九」にあり、以前取り上げた。
「楚人和氏、得玉璞楚山中、奉而献之厲王、厲王使玉人相之、玉人曰、石也、王以和為誑、而刖其左足、及厲王薨、武王即位、和又奉其璞而献之武王、武王使玉人相之、又曰石也、王又以和為誑、而刖其右足、武王薨、文王即位、和乃抱其璞、而哭於楚山之下、三日三夜、泪尽而継之以血、王聞之、使人問其故、曰、天下之刖者多矣、子奚哭之悲也、和曰、吾非悲刖也、悲夫宝玉而題之以石、貞士而名之以誑、此吾所以悲也、王乃使玉人理其璞、而得宝焉、遂命曰和氏之璧。
(書き下し)楚人(そひと)の和氏(かし)、玉璞(ぎょくはく)を楚山(そざん)の中(うち)に得(え)、奉じてこれを厲王(れいおう)に献ず。厲王、玉人(ぎょくじん)をしてこれを相(そう)せしむ。玉人曰わく、石なりと。王、和を以て誑(あざむ)くと為して、其の左足を刖(あしき)る。厲王薨(こう)じ、武王位に即(つ)くに及び、和又其の璞(はく)を奉じてこれを武王に献ず。武王、玉人をしてこれを相せしむ。又曰わく、石なりと。王、又和を以て誑くと為して、其の右足を刖(あしき)る。武王薨じ、文王位に即く。和乃(すなわ)ち其の璞を抱きて楚山の下(ふもと)に哭(こく)す。三日三夜、泪(なみだ)尽きてこれに継(つ)ぐに血を以てす。王これを聞き、人をして其の故を問わしめて曰わく、天下の刖(あしき)らるる者は多し。子(し)、奚(なん)ぞ哭することの悲しきやと。和曰わく、吾れは刖(あしき)らるるを悲しむに非ざるなり。夫(か)の宝玉にしてこれに題するに石を以てし、貞士(ていし)にしてこれに名づくるに誑(あざむ)くを以てするを悲しむ。此れ吾れの悲しむ所以(ゆえん)なりと。王乃ち玉人をして其の璞を理(おさ)めし、而して宝を得たり。遂(つい)に命(なづ)けて和氏の璧(へき)と曰う。
(現代語訳)楚(そ)の国の和氏(かし)という者が楚山の中で璞玉(あらたま)を手に入れ、捧げもって厲王(れいおう)に献上した。厲王は玉磨きの職人にこれを鑑定させたところ、職人は『ただの石です』と言った。厲王は和氏が自分をだましたと考え、和氏を罰してその左足のすじを切った。厲王が死んで武王が即位してから、和氏はまたもやその璞玉(あらたま)を捧げもって武王に献上した。武王は玉磨きの職人にそれを鑑定させたが、また『ただの石です』と答えた。武王もまた和氏が自分をだましたと考え、和氏を罰してその右足のすじを切った。武王が死んで文王が即位すると、和氏はそこであの璞玉(あらたま)を胸に抱いて楚山のふもとで号泣(ごうきゅう)した。三日三晩も泣きつづけて涙は枯れはて、つづいて血の涙が出るほどであった。王はそれを耳にすると、人をつかわしてそのわけをたずねさせた、『世の中に、罪を犯して足斬りの刑にあうものは多い。おまえ、どうしてそんなに悲しんで号泣するのだ』。和氏は答えた、『わたくしは足斬りの刑にあったのを悲しんでいるのではありません。あの宝石がただの石だといわれ、正直者のわたくしが嘘(うそ)つきだといわれたことが残念です。それでこのように悲しんでいるのです』。王はそこで玉磨きの職人にその璞玉(あらたま)を磨かせたところ、はたしてりっぱな宝玉であった。こうしてそれは『和氏の璧玉(へきぎょく)』と名づけられることになった」(「韓非子1・和氏・第十三・一・P.245~247」岩波文庫 一九九四年)
さらに「和氏の璧(へき)」に関わる。だがすでに「卞和(べんか)」自身とは直接なんの関係もない話へ繋がっていく。
「照車(しょうしゃ)の玉(ぎょく)」(「太平記4・第二十七巻・四・P.257」岩波文庫 二〇一五年)
ここで「照車(しょうしゃ)」とあるのは誤り。というか、別物。「照車(しょうしゃ)の玉(ぎょく)」は次のとおり「史記・田敬仲完世家」に見える。
「わたしの国などは小国ですが、それでも直径一寸の珠で、車の前後それぞれ十二乗を照らすものが十個あります」(「田敬仲完世家・第十六」『史記4・世家・下・P.61』ちくま学芸文庫 一九九五年)
ふたたび「夜光(やこう)」へ戻される。ただ単なる書き損じか思い違いだったのだろう。
「夜光(やこう)の壁(へき)」(「太平記4・第二十七巻・四・P.257」岩波文庫 二〇一五年)
とすれば、「史記・魯仲連・鄒陽列伝」からの引用。
「わたくしは聞いております、『明月(めいげつ)の名だかき真珠、夜光の名玉も、くらやみに道ゆく人の前へ投げ出せば、剣のつかをおさえてにらみつけない人はない。なぜならだしぬけに前へ来るからだ。蟠(わだか)まった木の根は、ねじ曲りふしくれだっていても、万乗の君の車軸に用いられる。なぜなら左右のものが前もって説明してあるからだ』。ですからだしぬけに現れると、随候(ずいこう)の真珠、夜光の壁(たま)をさしだしても、怨みをむすび、よくは思われません。人がさきに話しておけば、枯れた木や朽ちた株でさえ、功をたてて忘れられぬのです。いったい天下の無官で困窮している士たちは、自分がいやしいため、たとい堯(ぎょう)・舜(しゅん)の道を身につけ、伊尹(いいん)・管仲(かんちゅう)の弁舌をたのみ、竜逢(りゅうほう)・比干(ひかん)のまごころをいだいて、今の世の君に忠をつくさんとしても、もとより木の根のごとき紹介者がありませんから、精神のありたけをつくし、忠と信をうちあけて、主君の政治をたすけようとしても、主君は剣の柄に手をかけにらみつけるばかりでしょう。それでは布衣無官のものは枯れ木や朽ち株の資質もありえないこととなります。そういうわけで、聖王は世俗をおさえ、陶鈞(とうきん)のごとき〔天の〕教化をほどこして、いやしき語にひきつけられず、もろもろの口にまどわされぬものであります」(「魯仲連・鄒陽列伝・第二十三」『史記列伝2・P.95~96』岩波文庫 一九七五年)
そしてしばらくはこのエピソードが「太平記」で再現された史実とのコントラストを彩る。
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「虞舜(ぐしゅん)、唐堯(とうぎょう)の古(いにし)へ、茅茨(ぼうし)斬(き)らず、柴椽(さいてん)削らざりし淳素(じゅんそ)の風」(「太平記4・第二十七巻・一・P.245」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・始皇本紀」にこうある。
「堯・舜の生活は、住居の椽(たるき)は山から伐り出した丸太のままで、屋根は茅(かや)ぶきの端(はし)を揃えず、食事は土製のリュウ(飯器)に飯を盛り、土の器で汁をすすった」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.172』ちくま学芸文庫 一九九五年)
後村上帝の母・阿野簾子(あのれんし)を始め、月卿雲客(げっけいうんかく)=上流公家・摂関家など、「柴(しば)葺(ぶ)きの庵(いおり)のあやしきに、軒(のき)漏(も)る雨を防きかね」るほど。
「暮山(ぼさん)の薪(たきぎ)を拾うては、雪を戴(いただ)くに骨寒く、幽谷(ゆうこく)の水を掬(むす)んでは、月に担(にな)ふに肩痩(や)せたり」(「太平記4・第二十七巻・一・P.246」岩波文庫 二〇一五年)
というふうに「和漢朗詠集」から引かれる。
「叩凍負来寒谷月 払霜拾尽暮山雲
(書き下し)凍(こほり)を叩(たた)いて負(お)ひ来(きた)る寒谷(かんこく)の月 霜を払(はら)て拾ひ尽す暮山(ぼさん)の雲」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・仏事・五九八・慶滋保胤・P.226」新潮社 一九八三年)
かつて西行は吉野の山奥に隠棲した。一方、勝利した足利方の武将高師直(こうのもろなお)は京都で護良親王の母・親子が住んでいた寝殿造りの殿舎を新装し、壮麗奇抜な庭へ改築する。
「師直、一条今出川(いちじょういまでがわ)に、故兵部卿親王(ひょうぶきょうのしんのう)の御母、宣旨三位殿(せんじのさんみどの)の栖(す)み荒(あ)らし給ひし古御所(ふるごしょ)を点じて、唐門(からもん)、棟門(むなもん)四方にあけ、釣殿(つりどの)、渡殿(わたどの)、泉殿(いずみどの)、棟梁(むなうつばり)高く造り並べて、奇麗壮観(きれいそうかん)を逞(たっくま)しくせり。泉水(せんずい)には、伊勢(いせ)、島(しま=志摩)、雑賀(さいが)の大石どもを集むれば、車輾(きし)りて軸(よこがみ)を摧(くだ)き、呉牛(ごぎゅう)喘(あえ)ぎて舌を垂(た)る。樹(うえき)には、月中(げっちゅう)の桂(かつら)、仙家(せんけ)の菊、吉野(よしの)の桜、尾上(おのえ)の松、露霜(つゆしも)染めし紅(くれない)の八入(やしお)の岡の下紅葉(したもみじ)、西行(さいぎょう)法師が古(いにし)へ、枯葉(かれは)の風を詠じ初(そ)めけん難波(なにわ)の蘆(あし)の一村(ひとむら)、在原中将(ありわらのちゅうじょう)の露(つゆ)分(わ)けし宇都(うつ)の山辺(うまべ)の蔦楓(つたかえで)、名所名所の風景を、さながら庭に集めたり」(「太平記4・第二十七巻・二・P.247」岩波文庫 二〇一五年)
西行が和歌に詠み込んだ次の言葉がそのとおり再現されている。
「津(つ)の国(くに)の難波(なにわ)の春は夢なれや蘆(あし)のかれ葉に風わたる也」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・巻第六・六二五・西行法師・P.187」岩波書店 一九九二年)
西行が生きていた頃と「太平記」成立期との間には約二百年の開きがある。ゆえになおさら落ち延びる宮方と京都入りした足利方とのコントラストは日本中世の歴史的複数性をありありと浮かび上がらせていると言えそうだ。もちろん作庭した「山水河原ノ者」とは誰かという問いとともにである。茶の湯にしても茶杓(ちゃしゃく)・茶筅(ちゃせん)を作り、茶釜(ちゃがま)を加工し、大小様々な石を伐り出し配置し、灯籠(とうろう)を組み立て、白砂を運び入れて模様を創作し、掛軸(かけじく)・棗(なつめ)・茶巾(ちゃきん)など道具類一切の製作にかかわり、折々の草木(そうもく)の手入れを怠らない。そもそも茶碗を焼いているのは誰なのか。花入はどこからやって来るのか。ちなみに一休や紹鷗を経てようやく次のような茶道具の魅力が発見されるとともに茶道具として認められるに至る。
「一 紹鷗信楽(しがらき)・宗易の信楽、いずれも能き水指也」(「山上宗二記・名物の水指、幷びに水翻(みずこぼし)」『日本の茶書1・P.173』東洋文庫 一九七一年)
「一 紹鷗備前物の面桶(めんつう)、万台屋(宗安)備前物甕(かめ)の蓋、宗易たこつぼ(蛸壺)、宗及備前の合子(ごうし)、みきたや棒の先。この五つ、何れも数寄道具也」(「山上宗二記・名物の水指、幷びに水翻(みずこぼし)」『日本の茶書1・P.175』東洋文庫 一九七一年)
「一 手燈籠 唐(唐物)、花籠(はなかご)」(「山上宗二記・佗花入」『日本の茶書1・P.233』東洋文庫 一九七一年)
「一 紹鷗備前筒(づつ)」(「山上宗二記・佗花入」『日本の茶書1・P.233』東洋文庫 一九七一年)
ところで、勝利した側は勝利した側の内部で怨み辛み妬み嫉みといったものを噴出させずにはおかない。それこそ世の常、常識というもの。とりわけ、高師直(もろなお)・師泰(もろやす)兄弟に対する上杉重能(うえすぎしげよし)・畠山直宗(はたけやまただむね)両人の嫉妬は政治的対立から殺戮抗争へ発展する。その経緯に合わせて逆に古代中国で無駄な争いが上手く回避された事例が引かれる。
「(昔、漢朝に)、卞和(べんか)と申しける賤(いや)しき者、楚山(そざん)に畑を打ちけるが、廻(まわ)り一尺に余る石の、磨(みが)かば玉(ぎょく)になるべきを求め得たり」(「太平記4・第二十七巻・四・P.254~255」岩波文庫 二〇一五年)
「韓非子」の中に「和氏の璧(へき)」のエピソードとして載る。また「今昔物語・巻第十・震旦国王愚斬玉造手語・第二十九」にあり、以前取り上げた。
「楚人和氏、得玉璞楚山中、奉而献之厲王、厲王使玉人相之、玉人曰、石也、王以和為誑、而刖其左足、及厲王薨、武王即位、和又奉其璞而献之武王、武王使玉人相之、又曰石也、王又以和為誑、而刖其右足、武王薨、文王即位、和乃抱其璞、而哭於楚山之下、三日三夜、泪尽而継之以血、王聞之、使人問其故、曰、天下之刖者多矣、子奚哭之悲也、和曰、吾非悲刖也、悲夫宝玉而題之以石、貞士而名之以誑、此吾所以悲也、王乃使玉人理其璞、而得宝焉、遂命曰和氏之璧。
(書き下し)楚人(そひと)の和氏(かし)、玉璞(ぎょくはく)を楚山(そざん)の中(うち)に得(え)、奉じてこれを厲王(れいおう)に献ず。厲王、玉人(ぎょくじん)をしてこれを相(そう)せしむ。玉人曰わく、石なりと。王、和を以て誑(あざむ)くと為して、其の左足を刖(あしき)る。厲王薨(こう)じ、武王位に即(つ)くに及び、和又其の璞(はく)を奉じてこれを武王に献ず。武王、玉人をしてこれを相せしむ。又曰わく、石なりと。王、又和を以て誑くと為して、其の右足を刖(あしき)る。武王薨じ、文王位に即く。和乃(すなわ)ち其の璞を抱きて楚山の下(ふもと)に哭(こく)す。三日三夜、泪(なみだ)尽きてこれに継(つ)ぐに血を以てす。王これを聞き、人をして其の故を問わしめて曰わく、天下の刖(あしき)らるる者は多し。子(し)、奚(なん)ぞ哭することの悲しきやと。和曰わく、吾れは刖(あしき)らるるを悲しむに非ざるなり。夫(か)の宝玉にしてこれに題するに石を以てし、貞士(ていし)にしてこれに名づくるに誑(あざむ)くを以てするを悲しむ。此れ吾れの悲しむ所以(ゆえん)なりと。王乃ち玉人をして其の璞を理(おさ)めし、而して宝を得たり。遂(つい)に命(なづ)けて和氏の璧(へき)と曰う。
(現代語訳)楚(そ)の国の和氏(かし)という者が楚山の中で璞玉(あらたま)を手に入れ、捧げもって厲王(れいおう)に献上した。厲王は玉磨きの職人にこれを鑑定させたところ、職人は『ただの石です』と言った。厲王は和氏が自分をだましたと考え、和氏を罰してその左足のすじを切った。厲王が死んで武王が即位してから、和氏はまたもやその璞玉(あらたま)を捧げもって武王に献上した。武王は玉磨きの職人にそれを鑑定させたが、また『ただの石です』と答えた。武王もまた和氏が自分をだましたと考え、和氏を罰してその右足のすじを切った。武王が死んで文王が即位すると、和氏はそこであの璞玉(あらたま)を胸に抱いて楚山のふもとで号泣(ごうきゅう)した。三日三晩も泣きつづけて涙は枯れはて、つづいて血の涙が出るほどであった。王はそれを耳にすると、人をつかわしてそのわけをたずねさせた、『世の中に、罪を犯して足斬りの刑にあうものは多い。おまえ、どうしてそんなに悲しんで号泣するのだ』。和氏は答えた、『わたくしは足斬りの刑にあったのを悲しんでいるのではありません。あの宝石がただの石だといわれ、正直者のわたくしが嘘(うそ)つきだといわれたことが残念です。それでこのように悲しんでいるのです』。王はそこで玉磨きの職人にその璞玉(あらたま)を磨かせたところ、はたしてりっぱな宝玉であった。こうしてそれは『和氏の璧玉(へきぎょく)』と名づけられることになった」(「韓非子1・和氏・第十三・一・P.245~247」岩波文庫 一九九四年)
さらに「和氏の璧(へき)」に関わる。だがすでに「卞和(べんか)」自身とは直接なんの関係もない話へ繋がっていく。
「照車(しょうしゃ)の玉(ぎょく)」(「太平記4・第二十七巻・四・P.257」岩波文庫 二〇一五年)
ここで「照車(しょうしゃ)」とあるのは誤り。というか、別物。「照車(しょうしゃ)の玉(ぎょく)」は次のとおり「史記・田敬仲完世家」に見える。
「わたしの国などは小国ですが、それでも直径一寸の珠で、車の前後それぞれ十二乗を照らすものが十個あります」(「田敬仲完世家・第十六」『史記4・世家・下・P.61』ちくま学芸文庫 一九九五年)
ふたたび「夜光(やこう)」へ戻される。ただ単なる書き損じか思い違いだったのだろう。
「夜光(やこう)の壁(へき)」(「太平記4・第二十七巻・四・P.257」岩波文庫 二〇一五年)
とすれば、「史記・魯仲連・鄒陽列伝」からの引用。
「わたくしは聞いております、『明月(めいげつ)の名だかき真珠、夜光の名玉も、くらやみに道ゆく人の前へ投げ出せば、剣のつかをおさえてにらみつけない人はない。なぜならだしぬけに前へ来るからだ。蟠(わだか)まった木の根は、ねじ曲りふしくれだっていても、万乗の君の車軸に用いられる。なぜなら左右のものが前もって説明してあるからだ』。ですからだしぬけに現れると、随候(ずいこう)の真珠、夜光の壁(たま)をさしだしても、怨みをむすび、よくは思われません。人がさきに話しておけば、枯れた木や朽ちた株でさえ、功をたてて忘れられぬのです。いったい天下の無官で困窮している士たちは、自分がいやしいため、たとい堯(ぎょう)・舜(しゅん)の道を身につけ、伊尹(いいん)・管仲(かんちゅう)の弁舌をたのみ、竜逢(りゅうほう)・比干(ひかん)のまごころをいだいて、今の世の君に忠をつくさんとしても、もとより木の根のごとき紹介者がありませんから、精神のありたけをつくし、忠と信をうちあけて、主君の政治をたすけようとしても、主君は剣の柄に手をかけにらみつけるばかりでしょう。それでは布衣無官のものは枯れ木や朽ち株の資質もありえないこととなります。そういうわけで、聖王は世俗をおさえ、陶鈞(とうきん)のごとき〔天の〕教化をほどこして、いやしき語にひきつけられず、もろもろの口にまどわされぬものであります」(「魯仲連・鄒陽列伝・第二十三」『史記列伝2・P.95~96』岩波文庫 一九七五年)
そしてしばらくはこのエピソードが「太平記」で再現された史実とのコントラストを彩る。
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