白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・引用と反復から剰余が生じる「太平記」

2021年09月27日 | 日記・エッセイ・コラム
引用される箇所はまた反復されることが大変多い。

「足利又太郎(あしかがまたたろう)が治承(じしょう)に宇治川(うじがわ)を渡り」(「太平記4・第二十八巻・三・P.332」岩波文庫 二〇一五年)

「平家物語」から。

「下野(しもつけ)国の住人(ぢうにん)足利(あしかがの)又太郎忠綱(ただつな)、すすみいでて申けるは、『淀(よど)・いもあらひ・河内路(かはちぢ)をば、天竺(てんぢく)・震旦(しんだん)の武士(ぶし)を召(め)して向(む)けられ候はんずるか。それも我等こそ向(むか)ひ候はんずれ。目にかけたるかたきを討(う)たずして、南都へいれまゐらせ候なば、吉野・十津川(とつかは)の勢ども馳集(はせあつまつ)て、いよいよ御大事でこそ候はんずらめ。武蔵と上野(かうづけ)のさかひに、利根(とね)河と申候大河候。秩父(ちちぶ)・足利(あしかが)なかをたがひ、常(つね)は合戦(かつせん)をし候しに、大手は長井渡(わたり)搦手(からめて)は故我(こが)・杉(すぎ)の渡(わたり)より寄(よ)せ候ひしに、上野国の住人新田(につたの)入道、足利(あしかが)にかたらはれて、杉の渡(わたり)より寄(よ)せんとて、まうけたる舟どもを、秩父(ちちぶ)が方よりみなわられて、申候しは、<ただいまここをわたさずは、ながき弓矢の疵(きず)なるべし。水におぼれて死(し)なば死(し)ね。いざわたさん>とて、馬筏(うまいかだ)をつくッてわたせばこそわたしけめ。坂東武者(ばんどうむしや)の習(ならひ)として、かたきを目にかけ、河をへだつるいくさに、淵瀬(つちせ)きらふ様やある。此河のふかさはやさ、利根(とね)河のいくほどのおとりまさりはよもあらじ。つづけや殿原(とのばら)』とて、まッさきにこそうち入れたれ」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第四・橋合戦・P.242~243」岩波書店 一九九一年)

さらに鼓崎城(つづみがさきのじょう)落城。この理由は或る意味有名。意図せず刺激してしまった熊の群れが山の斜面をどっと落ちてきた。熊の数だが何と二、三十頭もいる。敵も味方も熊も一斉に驚いて挙句の果てに落城する。こうある。

「探竿影草(たんかんようそう)に身を隠し」(「太平記4・第二十八巻・四・P.336」岩波文庫 二〇一五年)

周囲を刺激しないよう極めて慎重にこっそり兵士を配置させていた矢先の出来事。ちなみに「探竿影草(たんかんようぞう)」はそもそも禅語であり「臨済録」からの引用。

「師問僧、有時一喝、如金剛王寳剣。有時一喝、如踞地金毛獅子。有時一喝、如探竿影草。有時一喝、不作一喝用。汝作作麼生會。僧擬議。師便喝。

(書き下し)師、僧に問う、有る時の一喝は、金剛王宝剣(こんごうおうほうけん)の如く、有る時の一喝は、踞地金毛(こじきんもう)の獅子の如く、有る時の一喝は、探竿影草(たんかんようぞう)の如く、有る時の一喝は、一喝の用を作(な)さず。汝作麼生(そもさん)か会(え)す。僧擬議す。師便(ち)喝す。

(現代語訳)師が僧に問うた、『ある時の一喝は金剛王宝剣のような凄味があり、ある時の一喝は獲物をねらう獅子のような威力があり、ある時の一喝はおびき寄せるはたらきをし、ある時の一喝は一喝のはたらきさえしない。お前それが分かるか』と。僧はもたついた。師はすかさず一喝した」(「臨済録・勘弁・二一・P.171~172」岩波文庫 一九八九年)

この種の失敗は一瀉千里であって、話を聞いた人々の口から口へと瞬く間に伝わる。石見国(いわみのくに)の城は雪崩を打って三十二箇所が落城。熊にびっくりした様子は次の用語に置き換えられて伝わった。

「兵(へい)野に臥す則(とき)は、飛鴈(ひがん)行(つら)を乱る」(「太平記4・第二十八巻・四・P.338」岩波文庫 二〇一五年)

兵法書「孫子」からの引用。

「鳥の起(た)つ者は伏(ふく)なり。獣の駭(おどろ)く者は覆(ふう)なり。

(現代語訳)鳥が飛び立つのは、伏兵がいるのである。獣が驚いて走るのは、奇襲をかけてくるのである」(「孫子・第九・行軍篇・六・P.66」中公文庫 一九七四年)

しかし九州で足利直冬(ただふゆ)が蜂起したため、尊氏自ら西国討伐に出向くことになった。その隙に出家したはずの足利直義(ただよし)が錦小路の邸宅をこっそり抜け出し奈良方面へ向かう。そして吉野の後村上帝に宛てて南朝と同盟したいという主旨の書状を上げる。

「負荊(ふけい)の下(もと)にその科(とが)を許されば」(「太平記4・第二十八巻・八・P.346」岩波文庫 二〇一五年)

「刎頸(ふんけい)の交わり」のエピソードに出てくる。藺相如(りんしょうじょ)の活躍に嫉妬した廉頗(れんぱ)が自分を責めるため鞭を持参して謝罪の意を表する場面。「史記・廉頗・藺相如列伝」から。

「廉頗は『わしは趙の大将として、攻城夜戦に大功をたてた。しかるに藺相如は口先ばかりのはたらきで、わしの上の位におる。それに相如はもともといやしい出じゃ。わしははずかしい。あれの下には立っておれぬ』とて、言いふらした、『わしが相如の顔を見たら、恥辱をあたえるぞ』。相如はうわさを聞き、顔をあわせぬようにし、朝見の日も、いつも病気と言いたて、廉頗と席を争うことをのぞまなかった。そのうちに相如は外へ出たが、遠くから廉頗を見ると、車をひきめぐらし、すがたをかくした。そうなると相如の近侍たちは、いっしょにいさめた、『わたくしどもが親戚をはなれお側につかえておりますのは、殿さまのご高義をしとうたためでございます。殿さまは今は廉頗と同列でいらせられますのに、廉さまが悪口せられたとて、おそれて逃げかくれられまして、ことにお気づかいのようでございます。なみの者さえはずかしく思いますのに、まして大臣大将でございますものを。わたくしどもおろかでございますから、お暇をいただきとう存じます』。藺相如はかたく制止した、『諸君、廉将軍と秦王はどちらが上とおもうか』。『それはかないませぬ』。相如『あの秦王の威勢でさえ、それがしは宮廷のまんなかでしかりつけ、群臣に辱めを与えた。それがしは駄馬のごとくではあろうが、廉将軍ごときをおそれようか。ただ考えてみるに、強大なる秦が趙へ兵力を用いんとせぬわけは、われら両人があるため、それだけである。もし両虎ともに闘えば、どちらかは生きてはいぬ。わしがかようにしておるのは、国家の急をさきとし、私のあだをのちにするとてである』。それを聞いた廉頗は肌ぬぎとなって荊(いばら)のむちを背におい、客をかいぞえに、藺相如のやしきの門へ行って謝罪した、『性根(しょうね)のいやしいそれがしを、将軍がこれほどまでお心ひろく扱ってくださろうとは存じもかけずにおりました』。そのあげく、心おきなく歓談して、刎頸(ふんけい)の交わりをむすんだのであった」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.60~61』岩波文庫 一九七五年)

直義の書状は詮議にかけられた。宮方としてどう受け止めるべきか。戦況だけを見れば今のところ宮方・足利尊氏方・足利直冬方に三等分されている。そこで二条師基(にじょうもろもと)はこのさい直義を味方に引き込むのが良策だと主張。漢籍を例に上げる。

「章邯(しょうかん)楚(そ)に降つて、秦(しん)忽(たちま)ちに破れ、管仲(かんちゅう)罪を許されて、斉(せい)則ち治まりし事、尤(もっと)も今の世に指南たるべし」(「太平記4・第二十八巻・八・P.348」岩波文庫 二〇一五年)

(1)「章邯(しょうかん)楚(そ)に降つて、秦(しん)忽(たちま)ちに破れ」は「史記・項羽本紀」から。

「章邯は疑い迷うたが、ひそかに軍候の始成(しせい)を項羽のもとにやり、寝返りを約しようとしたが、盟約がまだできなかった。項羽は蒲(ほ)将軍に兵を率い、昼夜兼行で三戸(地名。漳水に沿うた津の名とも狭の名ともいう)を渡り、漳水の南に陣して秦と戦わせ、また秦軍を破った。ついで項羽は全軍を率いて秦軍を撃ち、汙水(うすい=もと漳水の支流であったが今はない)のほとりに陣して大いに破った。章邯は使いを出して項羽に会い、盟約しようとした。項羽は軍吏らを呼んで相談し、『軍糧が少ないから、盟約を聴き入れようと思う』と言うと、軍吏らはみな、『そのほうがよろしゅうございます』と言ったので、項羽は章邯と洹水(えんすい=河南・安南の北を流れる川)の南、殷墟(いんきょ=もとの殷の都のあったところ)の上で約束した。盟約が終わると章邯は項羽を見て涙を流し、趙高のことを話した」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.206』ちくま学芸文庫 一九九五年)

(2)「管仲(かんちゅう)罪を許されて、斉(せい)則ち治まりし」は「史記・斉太公世家」から。

「桓公は即位すると、直ちに出兵して魯を攻め、管仲を殺そうと考えていた。すると鮑叔牙(ほうしゅくが)が言った。『わたくしは幸いにもわが君に従うことができ、わが君はついに位にお即(つ)きになりました。しかし、わが君の尊さは、これ以上わたくしらによって増すことはできませぬ。わが君がただ斉一国を統治なさるなら、高傒とわたくしとだけで足りましょうが、もし天下の覇者になろうと思し召すなら、何としても管夷吾(かんいご=管仲、名は夷吾)を手に入れなくてはなりませぬ。夷吾のいる国は、国として重きをなします。彼を失ってはなりませぬ』。桓公はそのことばに従った。そこでいつわって管仲を呼びだし、ぞんぶんに処置するふうをよそおいながら、実は彼を登用しようとした。管仲にはそれがわかっていたので、自らゆくことを願ったのである。鮑叔牙が迎えに行って管仲を引き取った。堂阜(どうふ=斉の国都に近い地)に到着すると手足の桎梏(かせ)をはずし、身を清め祓(はろ)うて桓公に謁見した。桓公は礼を厚くして大夫に取り立て、国政にあずからせた。桓公は管仲を得てから、鮑叔・隰朋(しゅうほう)・高傒らとともに斉の国政を整え、五家の兵制(五家を軌、十軌を里、四里を連、十連を郷とする)を定め、物価調節の法や漁撈(ぎょろう)製塩の利を設けて貧乏人をにぎわし、賢能の士に禄を与えた。斉の人々はみな喜んだ。桓公の二年、郯(たん=国名。山東・歴城の東)を攻め滅ぼした。郯の君は莒(きょ)に出奔した。かつて桓公が逃げて郯を通過した際、郯は無礼だったので征伐したのである。桓公の五年、魯を伐って魯軍を敗北させた。魯の荘公は遂邑(すいゆう)を献じて、和睦(わぼく)を請うた。桓公はこれを許し、魯と柯(か=山東・陽穀の東北)で会盟することになった。魯がまさに誓おうとしたとき、魯の将軍曹カイが匕首(あいくち)を手にとり、桓公を壇上で脅迫して、『魯から奪った土地を還(かえ)せ』と言った。桓公がこれを承諾した。すると曹カイは匕首を捨て、北面して臣下の席についた。桓公は後悔して、魯に土地を還さず曹カイを殺そうとすると、管仲が言った。『脅迫されて承諾し、信義にそむいて殺すのは、かりそめの快事をぬすむにすぎません。そのうえ諸侯に信用をおとし、天下の支援を失うようになりましょうから、それはいけませぬ』。かくてついに曹カイが三戦三敗して失った土地を魯に還した。諸侯はこのことを聞き、みな斉を信用し、斉につこうとした。桓公の七年、諸侯は桓公に甄(けん=衛の地。山東・濮県)で会同した。こうして桓公は、はじめて覇者となった」(「斉太公世家・第二」『史記3・世家・上・P.38~40』ちくま学芸文庫 一九九五年)

というふうに、引用される箇所が前とは異なっている場合でも、なお内容の類似性ははなはだしいのである。

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