漢籍からの引用が多いのは最初からだが、「太平記」では後醍醐帝亡き後、とりわけ次の箇所は兵法に関する引用で埋め尽くされている。
「それ教へざる民を以て戦はしむ、これ、これを棄つ」(「太平記4・第二十三巻・五・P.49」岩波文庫 二〇一五年)
「論語」からの引用。
「子曰、以不教民戦、是謂棄之
(書き下し)子曰わく、教えざる民を以て戦わしむる、これこれを棄(す)つと謂(い)う。
(現代語訳)先生がいわれた。『教化のゆきとどいていない国民を用いて戦争させるのは、国民を捨てるというべきだ』」(「論語・第七巻・第十三・子路篇・三十・P.380~381」中公文庫 一九七三年)
続いて孫子に関するエピソードが語られる。
「君、もし臣をして敵国を伐たしめんとならば、先(ま)づ宮中にある所の美人を萃(あつ)めて、兵の前に立てて陣を張り、戈(ほこ)を持たしめて後(のち)、われその命(めい)を司(つかさど)らん。一日の中(うち)に三度(みたび)戦ひを教へて、士卒の命に随ふ事を得(え)ば、敵国を殞(ほろ)ばさん事、立ち所(どころ)に得つべし」(「太平記4・第二十三巻・五・P.49」岩波文庫 二〇一五年)
そうあるのは「史記・孫子・呉起列伝」からの引用。孫子が呉王闔閭(こうりょ)の見ている前で兵士の作り方を教えるため後宮の美女百八十人を集めたところ、孫子の号令を聞かずかえって笑いものにした呉王闔閭(こうりょ)寵愛の美女二人を斬首に処した有名なシーン。
「特別の許可を与え、宮中の美女を庭へ出させたが、その数は百八十人になった。孫子はこれを二つの隊に分け、王のとりわけ寵愛(ちょうあい)していた女二人をそれぞれ隊長の役目とし、女たちにみな戟(ほこ)を持たせた。かれは命令を発した、『おまえたち、じぶんの胸と左右の手と背中を知っているな』。『存じています』。孫子『前と言ったら、自分の胸を注目し、左と言ったら左手を、右と言ったら右手を注目し、後(うしろ)と言ったら、うしろをむけ』。『わかりました』。この取りきめを伝えおわってから、斧(おの)やまさかりの刑具をその場にならべ、軍律を言いわたしさらに五度くりかえした。そこで太鼓を打ち鳴らして右へむかせた。女たちはどっと笑った。孫子は『取りきめが明白を欠き、軍律の説明不十分であったとすれば、大将たるわしのとがである』と言い、もう一度軍律を言いわたし五度くりかえし、そして太鼓を打って左へむかせた。女たちはこんどもどっと笑った。孫子は『取りきめが明白を欠き、軍律の説明が不足であれば、大将たるもののとがである。もはや明白になっておるのに、法にしたがわぬのは、役目のものの罪である』と言い、やがて左右二隊の隊長の首を打たせようとした。呉王は台(うてな)にあがってながめていたが、気に入りの美女が切られようとするのを見て、びっくりし、いそいで使いをやって命令させた、『将軍が兵を用いる腕前はよくわかったぞ。予はこの二人がおらぬと、食事もうまく覚えぬのじゃ。どうか殺さぬよう致してくれ』。孫子は言った、『それがし、もはや命を受けて大将となりました上は、<将たるもの軍にあれば、君命も受けざる所あり>と申すものであります』。かくて隊長二人の首を取り、見せてまわり、次の位のものを隊長にした。それからまた太鼓を打たせた。こんどは女たちは左右前後を向き、立ち居ふるまい、すべて法にかない、声を立てるものもなかった」(「孫子・呉起列伝 第五」『史記列伝1・P.44~45』岩波文庫 一九七五年)
引き続いて兵法が語られる。「将(しょう)を立つる兵法(ひょうほう)の事」の条は文庫本で四頁分のほぼすべてが「六韜(りくとう)」にある「龍韜(りゅうとう)・立将篇」から丸ごと引かれた部分。難読箇所はないといっていい。ただ、次の箇所はまた別々のエピソードから引かれたもの。
「秦(しん)の将孟明視(もうめいし)、西乞術(せいきつじゅつ)、白乙丙(はくいつへい)が鄭国(ていこく)の軍(いくさ)に打ち負けて帰りたりしを、秦の穆公(ぼくこう)素服郊迎(そぶくこうげい)して、『われ百里奚(ひゃくりけい)、蹇叔(けんじゅく)が言(ことば)を用ゐざるを以て、三子を辱(はずか)しめたり。子(し)何の罪やある。その心を専(もっぱ)らにして、怠(おこた)ること勿(な)かれ』と云ひて、三人の官秩(かんちつ)を復せしにて候はずや」(「太平記4・第二十三巻・六・P.54」岩波文庫 二〇一五年)
(1)「孟明視(もうめいし)、西乞術(せいきつじゅつ)、白乙丙(はくいつへい)」を将として敗北したこと。
「繆公は、『おまえらは、わからないのだ。わしはもう決めている』と言い、ついに兵を出し、百里奚の子の孟明視(もうめいし)、蹇叔の子の西乞術(せいきつじゅつ)および白乙兵(はくおつへい)を将とした。出発に当たって、百里奚と蹇叔の二人は哭(な)いた。繆公が聞いて、『わしが出兵しようとすると、おまえらが哭いてわが軍を沮(はば)むのはどうしてか』と言った。二老が言った。『わたくしらは年が老い、還るころには死んで、もう会えないのじゃないかと哭けてくるのです』」(「秦本紀・第五」『史記1・本紀・P.113』ちくま学芸文庫 一九九五年)
(2)「孟明視(もうめいし)、西乞術(せいきつじゅつ)、白乙丙(はくいつへい)」を将として敗北した件について、秦の穆公(ぼくこう)は彼らの過ちではなく自分が百里奚(ひゃくりけい)・蹇叔(けんしゅく)の戦略に耳を傾けなかったことに責任があると認めたエピソード。
「晋の文公の夫人は秦(秦の繆<ぼく>公)の女(むすめ)であったので、とらえられた秦の三将のために命乞いをし、『繆公は三人を恨むこと骨髄に徹しています。どうか三人を秦に帰し、秦の君に思う存分に煮殺させてください』と言った。晋君は、これを許して三将を帰した。三将が秦に着くと、繆公は白い服(喪服)を着て郊外に出迎え、三人に哭いて言った。『わしは百里奚と蹇叔の忠言を聴かなかったので、三子を辱しめた。三子に何の罪があろう。おまえらは、こののち専心恥をすすぐようにつとめてくれ』。かくて三人をもとのままの官秩として、いよいよ厚遇した」(「秦本紀・第五」『史記1・本紀・P.114~115』ちくま学芸文庫 一九九五年)
次に脇屋義助(わきやよしすけ)の高野山参詣。吉野から伊予への下向に当たって。
「滝口入道(たきぐちにゅうどう)が住みたりし庵室(あんじつ)の跡」(「太平記4・第二十四巻・一・P.74」岩波文庫 二〇一五年)
斉藤時頼(さいとうときより)の出家とその古跡案内。「平家物語」から。
「横(よこ)笛は、その思ひのつもりにや、奈良の法花寺(ほつけじ)にありけるが、いくほどもなくて遂にはかなく成にけり。滝口入道、かやうの事を伝へ聞(き)き、弥(いよいよ)ふかくおこなひすましてゐたりければ、父も不孝(ふけう)をゆるしけり。したしき者共も、みなもちゐて高野の聖(ひじり)とぞ申ける」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十・横笛・P.227」岩波書店 一九九三年)
さらに西行がかつて庵を結んだ場所へも訪れる。
「西行法師(さいぎょうほうし)が結び置きし、柴の庵(いおり)の名残りとて立ち寄れば、払はぬ庭に花散りて、踏むに跡なき朝の雪」(「太平記4・第二十四巻・一・P.74」岩波文庫 二〇一五年)
西行「山家集」からの引用。吉野の山奥へ隠棲した西行。こんな荒れた草庵に人っ子一人住んでなどいないと周囲に言いふらせておいて、朝早く誰の足跡もない雪の朝の風情を楽しんだ。
「花の雪の庭につもるに跡つけじ門(かど)なき宿と言ひ散らさせて」(新潮日本古典集成「山家集・下・雑・一四五九・P.411」新潮社 一九八二年)
もし出家するとしたらこのような閑寂なところであればよいものだなと義助は思う。
「遁(のが)れぬべくは、かくてもあらまほしくぞ思はれける」(「太平記4・第二十四巻・一・P.74」岩波文庫 二〇一五年)
「平家物語」で平維盛(たいらのこれもり)が、もし出家するならこのような場所でありたいと願う台詞(せりふ)である。
「のがれぬべくはかくてもあらまほしうや思はれけむ」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十・維盛出家・P.231」岩波書店 一九九三年)
幽々閑寂の山中でさまざまな思いに浸っている余裕もなく義助は慌ただしく伊予へ向かう。
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「それ教へざる民を以て戦はしむ、これ、これを棄つ」(「太平記4・第二十三巻・五・P.49」岩波文庫 二〇一五年)
「論語」からの引用。
「子曰、以不教民戦、是謂棄之
(書き下し)子曰わく、教えざる民を以て戦わしむる、これこれを棄(す)つと謂(い)う。
(現代語訳)先生がいわれた。『教化のゆきとどいていない国民を用いて戦争させるのは、国民を捨てるというべきだ』」(「論語・第七巻・第十三・子路篇・三十・P.380~381」中公文庫 一九七三年)
続いて孫子に関するエピソードが語られる。
「君、もし臣をして敵国を伐たしめんとならば、先(ま)づ宮中にある所の美人を萃(あつ)めて、兵の前に立てて陣を張り、戈(ほこ)を持たしめて後(のち)、われその命(めい)を司(つかさど)らん。一日の中(うち)に三度(みたび)戦ひを教へて、士卒の命に随ふ事を得(え)ば、敵国を殞(ほろ)ばさん事、立ち所(どころ)に得つべし」(「太平記4・第二十三巻・五・P.49」岩波文庫 二〇一五年)
そうあるのは「史記・孫子・呉起列伝」からの引用。孫子が呉王闔閭(こうりょ)の見ている前で兵士の作り方を教えるため後宮の美女百八十人を集めたところ、孫子の号令を聞かずかえって笑いものにした呉王闔閭(こうりょ)寵愛の美女二人を斬首に処した有名なシーン。
「特別の許可を与え、宮中の美女を庭へ出させたが、その数は百八十人になった。孫子はこれを二つの隊に分け、王のとりわけ寵愛(ちょうあい)していた女二人をそれぞれ隊長の役目とし、女たちにみな戟(ほこ)を持たせた。かれは命令を発した、『おまえたち、じぶんの胸と左右の手と背中を知っているな』。『存じています』。孫子『前と言ったら、自分の胸を注目し、左と言ったら左手を、右と言ったら右手を注目し、後(うしろ)と言ったら、うしろをむけ』。『わかりました』。この取りきめを伝えおわってから、斧(おの)やまさかりの刑具をその場にならべ、軍律を言いわたしさらに五度くりかえした。そこで太鼓を打ち鳴らして右へむかせた。女たちはどっと笑った。孫子は『取りきめが明白を欠き、軍律の説明不十分であったとすれば、大将たるわしのとがである』と言い、もう一度軍律を言いわたし五度くりかえし、そして太鼓を打って左へむかせた。女たちはこんどもどっと笑った。孫子は『取りきめが明白を欠き、軍律の説明が不足であれば、大将たるもののとがである。もはや明白になっておるのに、法にしたがわぬのは、役目のものの罪である』と言い、やがて左右二隊の隊長の首を打たせようとした。呉王は台(うてな)にあがってながめていたが、気に入りの美女が切られようとするのを見て、びっくりし、いそいで使いをやって命令させた、『将軍が兵を用いる腕前はよくわかったぞ。予はこの二人がおらぬと、食事もうまく覚えぬのじゃ。どうか殺さぬよう致してくれ』。孫子は言った、『それがし、もはや命を受けて大将となりました上は、<将たるもの軍にあれば、君命も受けざる所あり>と申すものであります』。かくて隊長二人の首を取り、見せてまわり、次の位のものを隊長にした。それからまた太鼓を打たせた。こんどは女たちは左右前後を向き、立ち居ふるまい、すべて法にかない、声を立てるものもなかった」(「孫子・呉起列伝 第五」『史記列伝1・P.44~45』岩波文庫 一九七五年)
引き続いて兵法が語られる。「将(しょう)を立つる兵法(ひょうほう)の事」の条は文庫本で四頁分のほぼすべてが「六韜(りくとう)」にある「龍韜(りゅうとう)・立将篇」から丸ごと引かれた部分。難読箇所はないといっていい。ただ、次の箇所はまた別々のエピソードから引かれたもの。
「秦(しん)の将孟明視(もうめいし)、西乞術(せいきつじゅつ)、白乙丙(はくいつへい)が鄭国(ていこく)の軍(いくさ)に打ち負けて帰りたりしを、秦の穆公(ぼくこう)素服郊迎(そぶくこうげい)して、『われ百里奚(ひゃくりけい)、蹇叔(けんじゅく)が言(ことば)を用ゐざるを以て、三子を辱(はずか)しめたり。子(し)何の罪やある。その心を専(もっぱ)らにして、怠(おこた)ること勿(な)かれ』と云ひて、三人の官秩(かんちつ)を復せしにて候はずや」(「太平記4・第二十三巻・六・P.54」岩波文庫 二〇一五年)
(1)「孟明視(もうめいし)、西乞術(せいきつじゅつ)、白乙丙(はくいつへい)」を将として敗北したこと。
「繆公は、『おまえらは、わからないのだ。わしはもう決めている』と言い、ついに兵を出し、百里奚の子の孟明視(もうめいし)、蹇叔の子の西乞術(せいきつじゅつ)および白乙兵(はくおつへい)を将とした。出発に当たって、百里奚と蹇叔の二人は哭(な)いた。繆公が聞いて、『わしが出兵しようとすると、おまえらが哭いてわが軍を沮(はば)むのはどうしてか』と言った。二老が言った。『わたくしらは年が老い、還るころには死んで、もう会えないのじゃないかと哭けてくるのです』」(「秦本紀・第五」『史記1・本紀・P.113』ちくま学芸文庫 一九九五年)
(2)「孟明視(もうめいし)、西乞術(せいきつじゅつ)、白乙丙(はくいつへい)」を将として敗北した件について、秦の穆公(ぼくこう)は彼らの過ちではなく自分が百里奚(ひゃくりけい)・蹇叔(けんしゅく)の戦略に耳を傾けなかったことに責任があると認めたエピソード。
「晋の文公の夫人は秦(秦の繆<ぼく>公)の女(むすめ)であったので、とらえられた秦の三将のために命乞いをし、『繆公は三人を恨むこと骨髄に徹しています。どうか三人を秦に帰し、秦の君に思う存分に煮殺させてください』と言った。晋君は、これを許して三将を帰した。三将が秦に着くと、繆公は白い服(喪服)を着て郊外に出迎え、三人に哭いて言った。『わしは百里奚と蹇叔の忠言を聴かなかったので、三子を辱しめた。三子に何の罪があろう。おまえらは、こののち専心恥をすすぐようにつとめてくれ』。かくて三人をもとのままの官秩として、いよいよ厚遇した」(「秦本紀・第五」『史記1・本紀・P.114~115』ちくま学芸文庫 一九九五年)
次に脇屋義助(わきやよしすけ)の高野山参詣。吉野から伊予への下向に当たって。
「滝口入道(たきぐちにゅうどう)が住みたりし庵室(あんじつ)の跡」(「太平記4・第二十四巻・一・P.74」岩波文庫 二〇一五年)
斉藤時頼(さいとうときより)の出家とその古跡案内。「平家物語」から。
「横(よこ)笛は、その思ひのつもりにや、奈良の法花寺(ほつけじ)にありけるが、いくほどもなくて遂にはかなく成にけり。滝口入道、かやうの事を伝へ聞(き)き、弥(いよいよ)ふかくおこなひすましてゐたりければ、父も不孝(ふけう)をゆるしけり。したしき者共も、みなもちゐて高野の聖(ひじり)とぞ申ける」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十・横笛・P.227」岩波書店 一九九三年)
さらに西行がかつて庵を結んだ場所へも訪れる。
「西行法師(さいぎょうほうし)が結び置きし、柴の庵(いおり)の名残りとて立ち寄れば、払はぬ庭に花散りて、踏むに跡なき朝の雪」(「太平記4・第二十四巻・一・P.74」岩波文庫 二〇一五年)
西行「山家集」からの引用。吉野の山奥へ隠棲した西行。こんな荒れた草庵に人っ子一人住んでなどいないと周囲に言いふらせておいて、朝早く誰の足跡もない雪の朝の風情を楽しんだ。
「花の雪の庭につもるに跡つけじ門(かど)なき宿と言ひ散らさせて」(新潮日本古典集成「山家集・下・雑・一四五九・P.411」新潮社 一九八二年)
もし出家するとしたらこのような閑寂なところであればよいものだなと義助は思う。
「遁(のが)れぬべくは、かくてもあらまほしくぞ思はれける」(「太平記4・第二十四巻・一・P.74」岩波文庫 二〇一五年)
「平家物語」で平維盛(たいらのこれもり)が、もし出家するならこのような場所でありたいと願う台詞(せりふ)である。
「のがれぬべくはかくてもあらまほしうや思はれけむ」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十・維盛出家・P.231」岩波書店 一九九三年)
幽々閑寂の山中でさまざまな思いに浸っている余裕もなく義助は慌ただしく伊予へ向かう。
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