白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・始皇帝と蓬萊山

2021年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
高師直(もろなお)・師泰(もろやす)兄弟に対する讒言は上杉重能(うえすぎしげよし)と畠山直宗(はたけやまただむね)ばかりが率先して勧めたわけではない。その一人が、天竜寺開山の任務につき一躍有名となった夢窓疎石の同僚だった妙吉侍者(みょうきつじしゃ)。その頃から急に禅宗に関心を持ち始めた足利直義(ただよし)に様々な讒言の材料を教え込む。

秦国を始皇帝からたった三代で滅亡させたのは他国ではなく、秦政権内部で思うがままに権力を牛耳った趙高(ちょうこう)の責任だと述べようとする。その前に始皇帝が始めから持っていた神仙思想についての記述がある。そもそも始皇帝は廃仏派の思想家でもあり、生涯を通して不老不死の仙薬を求め探させていた。「太平記」にこうある。

「徐福(じょふく)、文成(ぶんせい)と申しける二人(ににん)の道士(どうし)来たつて、われ不死の薬を求むる術を知りたる由(よし)申しける。帝(みかど)、限りなく悦(よろこ)び給うて、先(まづ)かれに大官を授け、大禄を与へ給ふ。やがてかれが申す旨(むね)に任せて、年未だ十五に過ぎざる童男(どうなん)丱女(かんじょ)六千人を集め、龍頭鷁首(りゅうどうげきしゅ)の船に乗せて、蓬萊(ほうらい)の島をぞ求めける」(「太平記4・第二十七巻・六・P.274」岩波文庫 二〇一五年)

徐福(じょふく)は徐芾(じょふつ)とも書く。「史記・始皇本紀」からの引用。

「斉人の徐芾(じょふつ)らが上書して、『海中に三つの神山があり、蓬萊(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)と申して、僊人(せんにん)が住んでおります。斎戒(ものいみ)して童男童女を連れ、僊人を探したいと思います』と言った。そこで徐芾をやり、童男童女数千人を出して海上に僊人を求めさした」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.151』ちくま学芸文庫 一九九五年)

蓬萊(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があるのだが、それらは海中に聳え立っているという。そこで「太平記」はこう語る。

「海漫々(まんまん)として辺(ほと)りもなし。雲の浪、煙(けぶり)の波いと深く、風浩々(こうこう)として閑(しず)かならず」(「太平記4・第二十七巻・六・P.274」岩波文庫 二〇一五年)

下敷きになっているのは白居易「海漫漫」の前半部分。

「海漫漫 直下無底旁無邊 雲濤煙浪最深處 人傅中有三神山 山上多生不死藥 服之羽化爲天仙 秦皇漢武信此語 方士年年采藥去 蓬萊今古但聞名 煙水茫茫無覓處 海漫漫 風浩浩

(書き下し)海(うみ)漫漫(まんまん)たり 直下(ちょっか)に底(そこ)無(な)く 旁(かたわら)に辺(へん)無(な)し 雲濤煙浪(うんとうえんろう) 最(もっと)も深(ふか)き処(ところ) 人(ひと)は伝(つた)う 中(なか)に三神山(さんしんざん)有(あ)り 山上(さんじょう) 多(おお)く生(しょう)ず 不死(ふし)の薬(くすり) 之(これ)を服(ふく)せば羽化(うか)して天仙(てんせん)と為(な)ると 秦皇(しんこう)と漢武(かんぶ)は此(こ)の語(ご)を信(しん)じ 方士(ほうし) 年年(ねんねん) 薬(くすり)を采(と)り去(ゆ)く 蓬萊(ほうらい) 今古(きんこ) 但(た)だ名(な)を聞(き)くのみ 煙水茫茫(えんすいぼうぼう)として覓(もと)むる処(ところ)無(な)し 海(うみ)漫漫(まんまん)たり 風(かぜ)浩浩(こうこう)たり

(現代語訳)海は漫々。真下の深さは底知れず、まわりの広さは果てしがない。雲煙のごとく大波小波が湧き起こる、最奥の海。伝え聞くのはそこに三つの神山があるとの話。山の上には不死の薬草がたくさん生え、服用すれば羽化登仙できるという。秦の始皇帝も漢の武帝もその言を信じ、方士が毎年毎年仙薬を採りに行った。蓬萊は今も昔も名を聞くだけ。水煙が濛々と立ちこめ、どこにも探し当てられない。海は漫々。風吹き渡る」(「海漫漫」『白楽天詩選・上・P.122~124』岩波文庫 二〇一一年)

さらに「太平記」では次の箇所が単独で描かれる。

「天水(てんすい)茫々(ぼうぼう)として求むるに所なし」(「太平記4・第二十七巻・六・P.274」岩波文庫 二〇一五年)

白居易「海漫漫」前半部分ですでに引用された箇所。一度形式を整えた上でその一部をクローズアップさせている。まったくの書き写しというのではなくそれなりの工夫は見える。

「煙水茫茫無覓處

(書き下し)煙水茫茫(えんすいぼうぼう)として覓(もと)むる処(ところ)無(な)し

(現代語訳)水煙が濛々と立ちこめ、どこにも探し当てられない」(「海漫漫」『白楽天詩選・上・P.123~124』岩波文庫 二〇一一年)

また、こうある。

「『蓬萊を見ずは、否(いな)や帰らじ』と云ひし童男丱女は、徒(いたず)らに船の中(うち)にや老いぬらん」(「太平記4・第二十七巻・六・P.274」岩波文庫 二〇一五年)

それもまた「海漫漫」から。前半部の続き。

「不見蓬萊不敢歸 童男丱女舟中老

(書き下し)蓬萊(ほうらい)を見(み)ずんば敢(あ)えて帰(かえ)らず 童男丱女(どうなんかんじょ) 舟中(しゅうちゅう)に老(お)ゆ

(現代語訳)蓬萊が見えるまでは引き返せず、舟のなかで老いゆく童男童女」(「海漫漫」『白楽天詩選・上・P.123~124』岩波文庫 二〇一一年)

さらに。

「徐福、文成、その偽りの顕(あらわ)れて」(「太平記4・第二十七巻・六・P.274」岩波文庫 二〇一五年)

これもまた「海漫漫」から。ただ、徐福と文成との二人がだんだん高兄弟と重なって見えてくる。そういう語りの形式を取る。

「徐福文成多誑誕

(書き下し)徐福(じょふく) 文成(ぶんせい) 誑誕(きょうたん)なること多(おお)く

(現代語訳)徐福(じょふく)・文成(ぶんせい)は虚言にまみれ」(「海漫漫」『白楽天詩選・上・P.123~124』岩波文庫 二〇一一年)

次に「太平記」はいう。

「鮫大魚(こうたいぎょ)と云ふ魚(うお)」(「太平記4・第二十七巻・六・P.275」岩波文庫 二〇一五年)

大型の鮫(さめ)がいたのだろうか。あるいは鮫に似た他の大型の魚で警戒心が強く好戦的なものなのか。鮫といっても近代以前の中国や日本近海には今よりずっと多くの怪魚が出没していたらしい。いつまで経っても徐芾(じょふつ)らは不老不死の仙薬を見つけることができず、一方そのための費用負担ばかりが財政を圧迫するので遂に追い詰められる。

「方士の徐芾(じょふつ)らは、海上に神薬を求めて、数年になるが得られず、費えが多いだけだったので、罰せられるのを恐れ、いつわって『蓬萊(ほうらい)では神薬を得られるのですが、いつも大鮫(おおざめ)に苦しめられて、島に行くことができません。上手な射手をつけていただけば、現われたら連発の強弓で射ていただきとうぞんじます』と言った」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.164』ちくま学芸文庫 一九九五年)

始皇帝が死の直前に見たという夢のエピソードは有名。

「始皇帝(しこうてい)、その夜、龍神と自ら戦ふと夢を見給ひたりけるが、翌日(つぎのひ)より重き病(やまい)を請けて、五体暫(しばら)くも安き事なく、七日が間、苦痛逼迫(ひっぱく)して、つひに沙丘(さきゅう)の平台(へいだい)にして、即(すなわ)ち崩御(ほうぎょ)なりにけり」(「太平記4・第二十七巻・六・P.276」岩波文庫 二〇一五年)

「史記・始皇本紀」にこうある。

「始皇が海神と戦う夢を見たが、ちょうど人のような格好をしていた。夢占いの博士に問うと、『水神は目に見えません。大魚蛟竜(こうりゅう)の現われるのが、その兆候です。いま主上は祈禱祭祠に、謹んでおられるのに、なおこの悪神が現われました。これを除けば、善神を招くことができましょう』と言った。そこで海上に行く者に大魚を捕える道具を持たせ、大魚が出たら、始皇自ら連発の強弓で射ようと、琅邪から労山・成山まで行ったが、ついに現われなかった。之罘(しふ)に行くと大魚が出たので、一魚を射殺した。海岸に沿うて西行し、平原津(しん)に行くと病気になった」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.164』ちくま学芸文庫 一九九五年)

沙丘(さきゅう)の平台(へいだい)で死去。「史記・始皇本紀」にあるとおり。

「主上の病いは、いよいよひどくなった。すると始皇は公子の扶蘇(ふそ)に賜う璽書(じしょ)をつくって『棺を咸陽に迎えて葬式をせよ』と言った。詔書は封印がされ、中車府(ちゅうしゃふ=乗輿路車のことを司る官)の長官で符璽(ふじ)の事をおこなう趙高(ちょうこう)の所にあったが、まだ使者に渡されなかった。七月丙寅(へいいん)の日、始皇は沙丘(さきゅう)の平台(へいだい=河北・平郷の平台宮)で崩じた」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.164~165』ちくま学芸文庫 一九九五年)

しかし問題は、この時に始皇帝の遺言が書き換えられたことから生じる。言語は貨幣のように置き換えることができる。百円玉十個と千円札一枚とを両替することが可能なように。その前はどんな商品だったか、貨幣そのものが覆い隠してしまう。

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