北畠親房は項羽と劉邦とによる漢楚合戦について縷々反復しつつ述べていく。こうある。
「項王(こうおう)、自ら義なくして天の罰を招く事、その罪一つにあらず」(「太平記4・第二十八巻・九・P.368」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・高祖本紀」からの引用。
「項王は漢王と二人、単身で決戦しようと言った。漢王は項王の罪を責め、『わしは初めおまえと共に命(めい)を懐王に受けた時、懐王はさきに関を入って関中を定める者を王にしようと言ったのに、おまえは約束にそむいてわしを蜀漢(漢中)の王にした。これが罪悪の一つ。おまえは卿子冠軍(けいしかんぐん)を矯殺(きょうさつ=王命をいつわって殺す)し、自ら大将軍になった。これが罪悪の二つ。おまえは趙を援け、事が終わったなら還って懐王に報告すべきに、勝手に諸侯の兵を強制して函谷関に入った。これが罪悪の三。懐王は秦に入ったら暴掠(ぼうりゃく)するなと言ったのに、おまえは秦の宮室を焼き、始皇帝の冢(つか)を堀り財物を私した。これが罪悪の四。また秦の降王嬰(えい)を殺した。これが罪悪の五。いつわって秦の子弟二十万を新安(河南・新安)で穴埋めにし、その将を王とした。これが罪悪の六。おまえは自分の部下の諸将を上地の王とし、もとの主君をうつして臣下に叛逆を起こさせた。これが罪悪の七。おまえは義帝を逐い出して、自ら彭城を都とし、韓王の地を奪い、梁・楚の地をあわせて王となり、自ら広大な領地を取った。これが罪悪の八。おまえは人に命じてひそかに義帝を江南に殺させた。これが罪悪の九。また人臣として主君を殺し、降った者を殺し、政(まつりごと)をおこなって不公平、誓いを破って不信義なことは天下の容れない大逆無道。これが罪悪の十である。わしは義兵を率いて諸侯を従え、残賊を誅し、刑余の罪人におまえを撃たせているのであって、何を好んで自らおまえと決戦などしよう』と言った」(高祖本紀・第八」『史記1・本紀・P.263~264』ちくま学芸文庫 一九九五年)
次の箇所も何気なく語って聞かせている。
「漢、今天下の太平を有(たも)つて、諸侯皆付き随ふ。楚は、兵罷(つか)れて食尽(つ)くせり。これ天の楚を亡ぼさん時なり。その餓(う)ゑたるに因(よ)つて撃たずは、ただ虎を養うて、自ら患(うれ)へを遺(この)すものなるべし」(「太平記4・第二十八巻・九・P.373」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・項羽本紀」から。
「漢は天下の大半を保有し、諸侯もみな漢に味方していますのに、楚は兵がつかれ糧食が尽き果てています。これは天が楚を滅ぼそうとするのです。この飢えに乗じて天下を取るのが上策と思います。いま放置して撃たないのは、いわゆる虎を養って自ら禍根をのこすものでしょう」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.229』ちくま学芸文庫 一九九五年)
北畠親房が語り終えると同時に周囲の臣下らは足利直義と同盟しておくのが良策に違いないと衆議一決する。そこでこうある。
「故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る」(「太平記4・第二十八巻・九・P.379」岩波文庫 二〇一五年)
「論語」から。もっとも、「太平記」ではなるほど「故(ふる)きを温(たず)ね」とあるが、それは南北朝期から遥かのちの江戸時代になって定着した読みであり、そもそもは「故(ふる)きを温(あたた)め」と採るのが妥当だろうと思われる。
「子曰、温故而知新、可以師矣
(書き下し)子曰わく、故(ふる)きを温(あたた)めて新しきを知る、以て師と為すべし。
(現代語訳)先生がいわれた。『煮つめてとっておいたスープを、もう一度あたためて飲むように、伝統を、もう一度考えなおして新しい意味を知る、そんなことができる人にしてはじめて他人の師となることができるのだ』」(「論語・第一巻・第二・為政篇・十一・P.42」中公文庫 一九七三年)
直義との同盟に当たって吉野の宮方は次の言葉を引いている。
「乱を撥(おさ)めて、正に復する」(「太平記4・第二十八巻・九・P.379」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・高祖本紀」から。
「高祖の遺体を入棺すると、太子は群臣とともに太上皇の廟に行った。群臣はみな、『高祖は微賤から身を起こし、乱世を治めて正しきにかえし、天下を平定して漢の太祖となられたのである。その功労はもっとも高く、尊号をたてまつって高皇帝としよう』と言った。太子が号を継いで皇帝となった。これが恵帝である」(高祖本紀・第八」『史記1・本紀・P.278』ちくま学芸文庫 一九九五年)
とすれば、「虎を養うて、自ら患(うれ)へを遺(この)す」ことのないよう、武家のためではなくましてや民衆のためなどではまったくなく、何より公家第一のために武家が公家に奉じる世の中に「復す」べし、と読める。直義がその意味をどう受け取ったかまでは語られていないが、ともかく尊氏に対する恐怖心が尋常でない南朝の公家方は直義との同盟に応じた。
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「項王(こうおう)、自ら義なくして天の罰を招く事、その罪一つにあらず」(「太平記4・第二十八巻・九・P.368」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・高祖本紀」からの引用。
「項王は漢王と二人、単身で決戦しようと言った。漢王は項王の罪を責め、『わしは初めおまえと共に命(めい)を懐王に受けた時、懐王はさきに関を入って関中を定める者を王にしようと言ったのに、おまえは約束にそむいてわしを蜀漢(漢中)の王にした。これが罪悪の一つ。おまえは卿子冠軍(けいしかんぐん)を矯殺(きょうさつ=王命をいつわって殺す)し、自ら大将軍になった。これが罪悪の二つ。おまえは趙を援け、事が終わったなら還って懐王に報告すべきに、勝手に諸侯の兵を強制して函谷関に入った。これが罪悪の三。懐王は秦に入ったら暴掠(ぼうりゃく)するなと言ったのに、おまえは秦の宮室を焼き、始皇帝の冢(つか)を堀り財物を私した。これが罪悪の四。また秦の降王嬰(えい)を殺した。これが罪悪の五。いつわって秦の子弟二十万を新安(河南・新安)で穴埋めにし、その将を王とした。これが罪悪の六。おまえは自分の部下の諸将を上地の王とし、もとの主君をうつして臣下に叛逆を起こさせた。これが罪悪の七。おまえは義帝を逐い出して、自ら彭城を都とし、韓王の地を奪い、梁・楚の地をあわせて王となり、自ら広大な領地を取った。これが罪悪の八。おまえは人に命じてひそかに義帝を江南に殺させた。これが罪悪の九。また人臣として主君を殺し、降った者を殺し、政(まつりごと)をおこなって不公平、誓いを破って不信義なことは天下の容れない大逆無道。これが罪悪の十である。わしは義兵を率いて諸侯を従え、残賊を誅し、刑余の罪人におまえを撃たせているのであって、何を好んで自らおまえと決戦などしよう』と言った」(高祖本紀・第八」『史記1・本紀・P.263~264』ちくま学芸文庫 一九九五年)
次の箇所も何気なく語って聞かせている。
「漢、今天下の太平を有(たも)つて、諸侯皆付き随ふ。楚は、兵罷(つか)れて食尽(つ)くせり。これ天の楚を亡ぼさん時なり。その餓(う)ゑたるに因(よ)つて撃たずは、ただ虎を養うて、自ら患(うれ)へを遺(この)すものなるべし」(「太平記4・第二十八巻・九・P.373」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・項羽本紀」から。
「漢は天下の大半を保有し、諸侯もみな漢に味方していますのに、楚は兵がつかれ糧食が尽き果てています。これは天が楚を滅ぼそうとするのです。この飢えに乗じて天下を取るのが上策と思います。いま放置して撃たないのは、いわゆる虎を養って自ら禍根をのこすものでしょう」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.229』ちくま学芸文庫 一九九五年)
北畠親房が語り終えると同時に周囲の臣下らは足利直義と同盟しておくのが良策に違いないと衆議一決する。そこでこうある。
「故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る」(「太平記4・第二十八巻・九・P.379」岩波文庫 二〇一五年)
「論語」から。もっとも、「太平記」ではなるほど「故(ふる)きを温(たず)ね」とあるが、それは南北朝期から遥かのちの江戸時代になって定着した読みであり、そもそもは「故(ふる)きを温(あたた)め」と採るのが妥当だろうと思われる。
「子曰、温故而知新、可以師矣
(書き下し)子曰わく、故(ふる)きを温(あたた)めて新しきを知る、以て師と為すべし。
(現代語訳)先生がいわれた。『煮つめてとっておいたスープを、もう一度あたためて飲むように、伝統を、もう一度考えなおして新しい意味を知る、そんなことができる人にしてはじめて他人の師となることができるのだ』」(「論語・第一巻・第二・為政篇・十一・P.42」中公文庫 一九七三年)
直義との同盟に当たって吉野の宮方は次の言葉を引いている。
「乱を撥(おさ)めて、正に復する」(「太平記4・第二十八巻・九・P.379」岩波文庫 二〇一五年)
「史記・高祖本紀」から。
「高祖の遺体を入棺すると、太子は群臣とともに太上皇の廟に行った。群臣はみな、『高祖は微賤から身を起こし、乱世を治めて正しきにかえし、天下を平定して漢の太祖となられたのである。その功労はもっとも高く、尊号をたてまつって高皇帝としよう』と言った。太子が号を継いで皇帝となった。これが恵帝である」(高祖本紀・第八」『史記1・本紀・P.278』ちくま学芸文庫 一九九五年)
とすれば、「虎を養うて、自ら患(うれ)へを遺(この)す」ことのないよう、武家のためではなくましてや民衆のためなどではまったくなく、何より公家第一のために武家が公家に奉じる世の中に「復す」べし、と読める。直義がその意味をどう受け取ったかまでは語られていないが、ともかく尊氏に対する恐怖心が尋常でない南朝の公家方は直義との同盟に応じた。
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