一度身に付けた「習慣」にはどんな特徴が認められるだろう。例えば「ある種の行動から道徳性を切りはなす」習慣というものがある。シャルリュスの事例はこの傾向の最も極端なケースとして上げられる。ところがこの極端な傾向はその極端さにもかかわらず、シャルリュスのみならず「多くの職務において、ときには裁判官の、ときには政府高官の職務においても、いや、さらに多くのほかの職務においても生じる」。
「しかしシャルリュス氏の場合もジュピアンの場合も、ある種の行動から道徳性を切りはなす習慣が(もっともこの習慣は多くの職務において、ときには裁判官の、ときには政府高官の職務においても、いや、さらに多くのほかの職務においても生じるはずである)ずいぶん前から身についていたから、(もはや道徳的感情に意見を求めることはけっしてなく)その習慣は日に日に深刻化し、このプロメテウスはみずから合意のうえで、ついには純粋な物質たる岩に『力』ずくでわが身を縛りつけさせるに至ったのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.369」岩波文庫 二〇一八年)
それは自分が欲する行動から社会常識としての「道徳性」をきれいさっぱり切り離して顧みない態度である。というのも個人の欲望はいつでも社会的倫理を切り離すことができるとともに、その翌日には逆に切り離したはずの社会的倫理の側へ何食わぬ顔で舞い戻ってくることが可能になっている事情から不可避的に発生する。行動と社会的倫理とはもはや絶対的因果関係で繋がりあってはいない。むしろ両者はいつでも切断可能であり別のものへ接続可能である。近代はそれをわざとらしく演じ続けることができる社会だというだけではなく、演じている側が演じていることに無自覚でいられるような滑稽さと危険さとで充満している。