二〇二四年十二月五日(木)。
早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
飼い主さあ、この前ハッシュタグがどうしてこうしたって言ってたじゃん。
加速主義とアメリカ第一主義の話だったかな。
タマね、猫だからかも知れないんだけど加速主義がどんなのかなんて今でもちんぷんかんぷんなんだ。
わからなくたっていいよ。全然問題ない。
いいの?
うん。むしろ飼い主から見れば猫の気まぐれこそ新しい未来を世界へ向けて垣間見せてくれている気がするのさ。新自由主義の行き詰まりはほぼ決定的だし。
タマ時々思うんだ。猫は気まぐれで手に負えないって人もいれば逆にそれが可愛いって人もいるようなんだけど、タマみたいに一日の半分以上寝てばっかりでしかもいつどこで寝てるのか、夜中に起きた時は何をしてるかわかんない生き方でいいのかなって。
あはは、いいんだそれで。気にかけることなんてこれっぽっちもない。たとえば猫を飼ってる人ならよく知ってることだけど一緒に遊んでる時にさ、とてとてと洗面所へ入って行くのかと思っていたら突然階段をのぼり出したりするじゃん。予想不可能って言うとステレオタイプなんだけどもう少し専門的にいうと「偶然性の必然性」って言い方がある。
むむ、、、
メイヤスーって思想家がこんなふうに言い出した。
「私は存在それ自体の非存在を考えられないし、結果として、また同じく、否定的事実のみの偶然性を考えることもできないのだ。偶然性は(絶対的なものとして)思考可能であり、また、存在と非存在の二つの領野が存続しないことは思考不可能であるからして、存在しないこともありうるしかじかの存在者と、存在することもありうるしかじかの非存在者がつねにどちらもあることが必要なのだと言わねばならない。ゆえに解決は次のように言える。《無ではなく何かが存在することは必然的である、なぜなら、他のものでない何かが存在することは必然的に偶然的だからである》。存在者の偶然性の必然性は、偶然的存在者の必然的存在を強制するのである」(カンタン・メイヤスー「有限性の後で・P.128~129」人文書院 二〇一六年)
ますますさっぱりだよ。
専門的には思弁的実在論って言うのさ。でも大事なのはね、マーク・フィッシャーがいろいろ論じ始めたのはブログからなんだけどメイヤスーの思弁的実在論もまたブログを書き込むことから始めたってことさ。資本主義はどこかに誰か絶対的権力者がいるようなシステムじゃなくてあくまでもネットワークであってね、それを独占的に構築した資本に対するオルタナティヴを停滞させることなく常に運動状態へ活性化させ揺さぶりをかけ続けるに際して、資本がわざわざ構築してくれたネットワークの内部でやってみるのが最も手っ取り早いとも言える。
そういうもんですか。
今のところはね。
どのカンタンさんかわかんないんだけどカンタン・メイヤスーで思い出した。たぶん初代タマさんが生きてた頃に買った本でしょ?新型コロナ流行前に。
そうだけど。どうかした?
カンタンて言うわりには全然簡単じゃないやって飼い主の妻がぼやいてるのタマ聞いた。ここ数日ちょこちょこ始めてる年末大掃除の途中に。
そういう駄洒落は覚えなくていいよ。やるとしたらいわゆるオヤジギャグを超えるものを捻り出してこなきゃ。ただ単なるオヤジギャグ批判なら誰にでもできるけど、じゃあ「てめえがやれよ〜」って言い返されたらどうする。
黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ジャブー。いわゆるブリストル・サウンド。といってもジャブーの音楽自体が色々変化してきたことからもわかるようにその要素はエレクトロニカ、エクスペリメンタル、オルタナティヴ・ヒップホップ、レゲエ、ダブなど解像度を上げていくときりがなく分解されうる。そういう聴き方よりも今作は今作のポップでいいのではと思える。
今日はもうひとつ。ティルザ。ひたすら安全牌ばかり取ってきた日本の歌謡界がとうとう追い抜かれる日はもうそこまで迫ってきている予感がする。実際に一日分追い抜かれたと気づいて慌てて挽回することにしたとしよう。でも他国のアーティストもみんな一日分やるわけで一度開いた距離がさらに開くことはあっても近づくことはない。