作品「勝手にしやがれ」についてゴダールはいう。
「ついで私は、『密告者は密告し、保守主義者は保守し、愛人たちは愛しあう。しかもそれは、どんな意図によるものでもない』という原則を立てました」(ゴダール「ゴダール映画史<全>/P.41」ちくま学芸文庫 二〇一二年)
「密告者は密告する。泥棒は泥棒する。殺人者は殺人する。愛する者たちは愛しあう」
蓮實重彦はこう述べる。
「ゴダールは解決すべき問題を持たない。だが、だからといって、彼が問題と無縁の存在でないことは明らかだろう。ゴダールのまわりには、無数の問題がいくつもめまぐるしく生きかっており、『勝手にしやがれ』から『カルメンという名の女』まで、またおそらくは新作の『こんにちは、マリア』から撮影中の『ゴダールの探偵』もそうに違いなかろうが、そうした問題を多彩に組み合わせたものが彼の折りおりの作品をかたちづくっている。でも、ゴダールにまといつく諸々の問題とは、どういうものであるのか。それは、疑問文におさまることのないごく単純な命題からなっている。『女は女である』という題名さながらに、ほとんど同語反復に近いごく単純な断定こそがゴダール的な問題なのである」(蓮實重彦「ゴダール革命・P.26~27」ちくま学芸文庫 二〇二三年)
同語反復。ヘーゲルはそのような状態を「無限判断」と述べている。
「分裂の言葉こそは、教養の世界全体を完全に語っており、その全体が真に現存する精神である。自分の卑劣〔投げ出されている状態〕を投げかえす反抗をもっているこの自己意識は、そのまま、絶対的分裂における絶対的自己相当性であり、純粋自己意識の、自分自身との純粋な媒介である。それは、全く同一の人格を主語とし、また述語としている、同一判断の相当性である。しかしこの同一判断は、同時に無限判断である。というのも、この人格は端的に分裂しており、主語と述語は、全く《無関係な形で存在するもの》であるから、相互には何の関係もなく、必然的な統一もなく、そのうえ、その各々が固有の人格であるという、威力をもっているからである」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.106~107」平凡社ライブラリー 一九九七年)
「主語と述語は、全く《無関係な形で存在するもの》であるから、相互には何の関係もなく、必然的な統一もなく、そのうえ、その各々が固有の人格である」
とすればゴダールはヘーゲル的なのだろうか。おそらく違うと石川義正は次のように述べる。
「『ジャン=リュック・ゴダールは解決すべき問題を持たない』。にもかかわらず『ゴダールのまわりには、無数の問題がいくつもめまぐるしく行きかって』いる。『では、ゴダールにまといつく諸々の問題とは、どういうものであるのか』。それが『精神現象学』による無限判断にほかならない。
では、ゴダールはヘーゲル的であるといえるのか。おそらく、そうではない。おそらく、と留保をつけるのは、とりわけ『映画史(Hidtoie(s))du cine ma)』においてそうであるという見方もありうるからだ。浅田彰が『そこに、<歴史の終焉>をめぐるメランコリックなヘーゲル的形而上学を[ーーー]見るのは、あまりにやさしい』と述べているように、ナポレオン戦争と『精神現象学』の関係をソ連と『映画史』に投影することもたしかに可能だろう。だがゴダールの生涯は映画(シネマ)という『絶対知』に到達せんとする映画(フィルム)の遍歴の記録ではまったくない。ゴダールにおける無限判断はーーーディドロにおける聴覚と視覚の図(フィギュア)と地(グラウンド)のように反転する関係にも似てーーー弁証法による『否定の否定』としては機能しない。ヘーゲルの『精神』と異なり、ゴダールにおける映画(シネマ)は《全体》を構成しない。あるいは全体を『真無限』と言い換えてもよい。悪無限がーーー直線がそうであるようにーーー対象との区別を自己の《外部》に際限なく継起するのに対して、真無限ではーーー円環がそうであるようにーーー対象との区別を自己の《内部》に包括してその限界が乗り越えられる。否定の否定は後者の真無限概念を意味しているが、個別の映画(フィルム)総体が映画(シネマ)と一致することはない。むしろ映画(シネマ)とは悪無限であり、『すべてのありうる』映画(フィルム)の《可能性》の総体なのだ」(石川義正「ゴダール/革命の中絶」『ユリイカ臨時増刊ジャン=リュック・ゴダール・P.476~477』青土社 二〇二三年)
石川義正はディドロのいう「パントマイム」に言及しヘーゲル「精神現象学」ではパントマイムの身体性が排除されていると指摘している。
「主権者だって?しかし、それにはもだ文句をつける余地はないかね。小さな足、小さなえりくび、小さな鼻がはんべって、それらが彼に少しばかりパントマイムをやらせることもあるとは思わないかね。誰でも他人を必要とする者は貧者だよ。だから、そいつはポーズをとるもんだ。国王もその愛妾の前や神の前ではポーズをとり、パントマイムのステップを踏むんだ。大臣も、自分の国王の前では、廷臣やおべっか使いや召使や乞食と同じ歩き方をするよ。野心家の群れは、大臣の前では、たがいに負けず劣らずのみっともないやり方で、君のようなポーズをとって踊る。胸飾りをつけ長いマントを着た高貴な修道院長も、少なくとも一週に一度は、宗禄台帳の保管者の前でポーズをとる。実際、君のいわゆる乞食のパントマイムなるものは、地球の大円舞だよ」(ディドロ「ラモーの甥・P.152」岩波文庫 一九四〇年)
ゴダール自身は「肉体」について次のように語っている。
「アイディア〔あるいは『観念』〕というのは私にとってーーー私はきわめて多くのアイディアをもっています。それに私が思うに、ほかの人たちもやはり、多くのアイディアをもっているはずです。でもほかの人たちは、そのことをはっきりとは示そうとしません。私がごくわずかの人たちとごくわずかの関係しかもつことができなのではそのためですーーーアイディアというのは肉体の一部分で、どれもみな現実的なものです。ひとが自分のアイディアにしたがって手を動かすときーーー労働者がフォードの車体のボルトを締めようとするときであれ、自分が愛している女の肩を愛撫しようとするときであれ、あるいはまた、小切手を手にとろうとするときであれ、それらのアイディアはどれもみな、運動に属しているのです。私にはよく、自分の肉体をむしろ、自分の外部にあるものとみなそうとすることがあります。そしてその場合、私の外部にあるもののすべてが私の肉体となり、世界はむしろ、私の外皮、私の境界となります。また肉体は、それ自体としては、私の内側にあることも外側にあることもできます。あるいはまた、同時に内側と外側にあることもできます。ところが、人々がわれわれの頭のなかに、自分の肉体と呼ばれるものは自分の内側にあるものであり、自分の外側にあるものは自分の肉体には属さないという考え方をつめこんだのです。でも実際は、自分の外側にあるものも自分の肉体に属していて、だから、自分の外側にあるものはどれも、自分の肉体との関係でしか動かすことができません。それでも人々はこう言ってよければ、自分の内側にあるものを、自分の外側にあるものよりもずっと自分に属していると考えているのですーーーうまく言えませんが、でもそうなのです。アイディアというのは、なんなら知的なものとみなすことも大いに可能ですが、でも私には、アイディアというのは、なんなら知的なものとみなすことも大いに可能ですが、でも私には、アイディアというものと、そのほかの、人々がアイディアとは呼ばないものとの間に違いがあるとは思えません。アイディアという概念には反対概念がないのです。だから、アイディアはいたるところに入りこむのです。アイディアというのは物質的なものじゃありません。それでも、肉体がアイディアのひとつの契機(モーメント)であるのと同様に、アイディアは肉体のひとつの契機なのです」(ゴダール「ゴダール映画史<全>/P.107~108」ちくま学芸文庫 二〇一二年)
ヘーゲル的に見える単純な弁証法とは違っているのである。