白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ414

2024年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年十二月十七日(火)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食の前は必ず飼い主のふくらはぎを頭で「ごん」してから自分の食事にとりかかるタマ。

 

タマさん、いつものそれは「いただきます」なのかな。

 

ご飯の時はね。でも「ごん」にはもっといろんな意味があるよ。一番多いのは遊んでほしい時だけど。

 

みたいだね。ちなみに「いただきます」はするけど「ごちそうさま」は何でないの?食べた後いつも一度は廊下へ出てくよタマ。廊下は冷えるってのに。で、すぐ戻ってくる。

 

タマ自身もよくわかんないんだ。テリトリーが気になるのかな。それにしては中途半端だよね我ながら。人間語でいう手持ち無沙汰ってやつだよ多分。

 

洗い物を済ませると二階へ付いてくるようになった。

 

そうなんだ。飼い主がここんとこずっとテクノ聴かせながら遊んでくれる時間帯だから。飼い主の部屋、いろいろ置いてある。古いCDの帯とか。どうしてこれまで隠してたのさあ。

 

隠してなんていないよ。相変わらず人聞きが悪いな。ところでタマの言ってる帯ってこれかい?今やどこにも売ってないCDの帯。束にして保管してる。なかには売れ続けてるのもあるよ、デクスター・ゴードンとかマル・ウォルドロンとか。ちなみにマル・ウォルドロンのこのCDに入ってる二曲目のタイトルは「キャット・ウォーク」って言うんだ。聴いてみるかい?

 

うん。

 

どうだい?

 

ブルースじゃん。

 

いや、ジャズなんだ。

 

ブルースじゃん。

 

いやいやジャズなのさ。

 

怪しいなあ、どう聴いてもブルースの響きだとおもうけど~。

 

どっちかっていうと泥くさいピアノだから。そんでこれ、マル・ウォルドロンのソロ・アルバムなんだけどソロより他のプレイヤーのアルバムで脇役に徹してるアルバムのほうが味がいいって評価もあるわけ。実際のところ一曲目に有名な「レフト・アローン」が入ってて日本で人気のジャッキー・マクリーンがアルト吹いてる。いっときはそれで売れたってこともあったし。脇役やらせるととっても上手いアーティストのひとりなのは確かでね、でもソロやると延々ブルースになっちゃってそのまんまブルージーに終わってしまう癖みたいなのはあるよね。

 

そんなもんですか。

 

で、「ごん」の意味はどうなったのかな。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ウール&ザ・パンツ。年末年始の大掃除は師走にまとめてじゃなく一年間通して少しずつやっていくスタイルなので十二月に入ったからといってさほど慌てる必要はない。なので多少なりともいつも世の中とずれているわけだが、そうすることでこんな音楽にもゆっくり耳を傾けて体を休める機会が持てるという利点がある。


Blog21・日本的圧力としての「後ろに控えている母の姿」

2024年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム

鈴木涼美のいう「後ろに控えている母の姿」。社会と言ってもいいだろうし日本的圧力と言っても構わないようにおもえる。

 

「どんなに子どもが夢中になる場所、たとえばディズニーランドでパレードを見ている最中であっても、目の前のくまのプーさんやらシンデレラやらよりも、後ろに控えている母の姿が消えていないか常に気にしていた。そういう私の様子は天真爛漫に楽しんでほしいと願う母を酷く苛立たせたようで、ちゃんと目の前で起きている楽しいことを目撃しなさいと何度か叱られた。叱られれば叱られるほど、やはり母に置き去りにされて、広い都会で迷子になるような気がして目の前の映画やパレードや紙芝居や人形劇には集中できないのだった」(鈴木涼美「不浄流しの少し前(10)」『群像・1・P.444』講談社 二〇二五年)

 

もしそれを「優等生の悲劇」と言ってしまうと説明としてはわかりやすくなるかもしれないが、言葉というものの常として幾つかの事情を言い落とす(あるいは覆い隠す)ことになるに違いない。だから小説は言い落とされたこと(あるいは覆い隠されたこと)を丁寧に掬い上げてまた別の時間や空間を設定しつつ語り直すという多層的にぐねぐね込み入った粘り強く忍耐力のいる作業になるのだろう。

 

社会は子どもの存在を含むが社会と子どもとの関係はいつも著しく不均衡だ。そして社会の側から子どもは一方的に与えられる。何が与えられるかどうかは無数のパターンが考えられようけれども子どもはそれに応答しなければならない、もしくはほとんどの場合応答しなければならない錯覚のなかに常に陥っている。そのような感覚は先人たちに育てられているという事情から身に沁み込むのだろうと思われる。とはいえ、先人たちに育てられたからといって必ずしも先人たちの希望通りに応答しなければ許されないということはひとつもない。

 

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫 一九四〇年)

 

ニーチェのいう「《債権者》と《債務者》との間の契約関係」ならビジネスライクに割り切れると考える人々は多いのだが個人的にはそう思わない。ビジネスライクと言ってみたところでそのビジネスのなかに罪悪感が残ることを説明することはできない。

 

母子関係と「《債権者》と《債務者》との間の契約関係」とを同一視できないことはもはや自明だろうとおもえる。むしろ日本的風土が「債権者」として立ち塞がる社会では「債務者」として規定された子どもは手も足も出ないし出すことひとつ許されない。そんな時代が長く続いた。

 

男子ではどうか。自分の場合いつ頃からそうするようになったのか記憶にないのだが、例えば誕生日にケーキを買って貰って家族で祝うという行事は止めてほしいと早くから言っていた。小学生の頃すでに誕生日パーティ禁止を主張していた。兄弟や従姉妹らが自分たちの誕生日を楽しみにし素直に「お祝い」を受け止めるのには何も抵抗を感じないのだが自分についてだけは得体の知れない違和感を覚えるのやめてほしいとかなり頑固だった。親や親戚からも誕生日の「お祝い」が子どもたる自分に向けて否応なく到来するのを阻止するためにあらかじめ何かと理由を上げつらっていた。

 

けれども教育課程まで拒否できるわけはなく、だから教育過程は辛抱するとして、少なくともその他の行事で「債権者」になることからは過敏過ぎると思われるくらい忌避していた。母は戦時中の生まれということもあってか洋菓子やケーキがとても好きだった。それゆえか子どもが誕生日だというのにわざわざケーキを忌避する気持ちがさっぱりわからないようだった。しかし子どものほうにはれっきとした理由があったのである。長男がそういう理屈でずんずん生きていくことに決まるとなぜだか兄弟や従姉妹らはさほど神妙な態度で誕生日を迎える必要を失ってしまいごく単純な年中行事のパーティのようにわいわいお祝いしていた。

 

しかし出来うる限り親から見た「債務者」の立場に立たないよう心がけてきたとはいえ母の終末期医療で在宅介護を引き受けたのは「債務者」の義務としてお返しの気持ちから引き受けたわけでは全然ない。むしろ誕生日パーティやら何やら色々と設定されている社会的「お約束」から逸脱することを許してくれたからこそ母の終末期医療を在宅でやることにさしたる抵抗を感じなかったというか当たり前のように思って引き受けていた感じがするのである。

 

母と娘との間柄になるとそう単純に行かない。高学歴であろうとなかろうと殺気さえ帯びるケースはざらにあり、そんな場合は大抵地理的な距離を置くことでさしあたり葛藤を棚上げしておく方法が多く採用されているように見える。またよく言われるステレオタイプに時間が解決するというものがあるが、時間的な解決というものは逆にあまり期待できないように思う。時間は悪質であれ良質であれいずれにせよ「利子のようなもの」を膨らませることが往々にしてあるからかも知れない。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1008

2024年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「t1a1」

好みのゴロゴログルルル音が徐々に変化しながら繰り返される。最後までテンポは同じ。慣れもあり安定感を感じるからなのかまではわからないものの突然ひょいとパソコン机の端に飛び乗っておっちんしながら部屋の様子を伺う風情。何か探しているように見えもするのでぬいぐるみを本棚部屋のほうへ投げ入れてみたところふっとそちらへ飛んで追いかけていく。遊んでほしいのかもと思い今度は飼い主の部屋の逆の端のギターアンプの置いてあるほうへぬいぐるみを放り投げてやるとささっと走ってぬいぐるみを追いかけ肉球でタッチ。いつもならそこで次にぬいぐるみを投げるまで待機しているのが常だが再びパソコン机の上へひょいと飛び乗りおっちんしながら周囲の様子を伺う。この行為は始めてで意味がよくわからない。とりあえず再度ぬいぐるみを本棚部屋のほうへ投げてやると机の上からそちらへ飛んで駆けていく。13:00分くらいから曲が単調になる。少し走った後ということもあるのかその付近から飽きてきた様子で横にねそべってくつろぐ。